※写真は、青蔵直流聯網工程 (青海・チベット電力ネットワーク直結プロジェクト)
最後は、1951年のチベット解放から今日までの、チベットの経済、社会インフラの発展を、統計資料で見ていきたいと思います。
中国政府の政治的な思惑から、国庫からのばら撒き支援の傾向は多少見られるものの、青蔵鉄道や、青海~チベット間の送電網建設といった巨大プロジェクトの推進によるインフラ整備、チベットの人々の生活改善の為の各種の支援政策、また民族産業振興、観光開発などによる雇用創出など、総合的に見ると、現政権のチベット政策は成功していると思います。
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■[1]
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・停滞不前 ting2zhi4 bu4qian2 停滞して前進しない
・凋零 diao1ling2 草木が枯れる。花がしぼむ。(そこから転じて)落ちぶれる。
・聊生 liao2sheng1 生活のよりどころとする。生計をたてる。(→否定に用いる場合が多い)[用例]民不~(民衆が生活の手立てを失う)。無所~(安心して暮らせるところがない)。
・跨越性発展 kua4yue4 xing4 fa1zhan3 様々な歴史条件によって遅れていた人や組織、地域が、先進的なものが通常歩む発展段階を超越し、常識を覆すような発展行為を実現すること。
□ 平和解放前、チベット経済は長期間停滞して前進せず、様々な産業が衰退し、民衆は生活の手立てを失っていた。平和解放後、チベットは常識を覆すような発展の路線を歩んだ。チベットの経済、社会の発展を推進する為、中央政府はチベットの経済、社会の発展の現実に基づき、多くの特別な優遇政策を制定したが、それは金融、財政・税務、投資、インフラ建設、産業発展、農牧業と農牧地域、環境保護、教育、衛生、科学技術、文化、スポーツ等の各方面に及び、更に財務力、物質面、人材面で大いに支援と援助を行った。中央の財政はチベットから金を一銭たりとも持ち出さず、却ってチベットに対する財政上の移転支払いを絶えず強化し、1952-2010年の中央のチベットに対する財政補てんは3000億元に達し、年平均22.4%増加した。この60年、中央のチベットに対する直接投資は1600億元を上回り、異なる時期に43項目、62項目、117項目、188項目など多くのチベットの長期的発展と人民生活に関わる重大なプロジェクトを相次いで手配し、道路、鉄道、空港、通信、エネルギーなどの一連の重点インフラを相次いで建設し、チベットのインフラと人民の生産活動の条件を最大限改善した。統計によれば、1994-2010年、面対面でチベットを支援した省や直轄市、中央の国家機関及び中央の国営企業は、6回に分け、全部でチベットの経済、社会建設のプロジェクト4393項目を支援し、総投資額は133億元、全部で4742名の優秀な幹部を選抜してチベット支援に派遣した。
■[2]
□ 中央政府の強力な支えと全国各地の支援の下、チベット経済は歴史的な目覚ましい発展を実現した。統計によれば、1959-2010年、チベット社会の固定資産投資累計は2751億元に達し、年平均の増加幅は15%以上であった。そのうち1994-2010年の、全社会固定資産投資累計は2643億元で、年平均増加幅は20%以上に達している。1951年、チベット地区のGDPは1.29億元に過ぎず、2010年に507.46億元に達し、比較可能価格により計算すると111.8倍、年平均成長は8.3%であった。その中で、1994年以来、チベット地区のGDPは連続18年二桁成長を続け、年平均成長は12%に達した。第11次五カ年計画の期間(2006年-2010年)、チベット地区のGDPは前後して300億元、400億元、500億元の三大ステップを乗り越えた。2010年のチベット自治区の1人当たりGDPは17,319元、地方財政一般予算収入は36.65億元に達し、連続8年20%以上の成長を維持した。
■[3]
・門 men2 [量詞]学科や技術を数える。通常、“三門学科”(3科目)というような使い方をする。
・青祼 qing1ke1 ハダカムギ。
□ 近代工業はゼロから出発し、現在では既にエネルギー、軽工業、紡織、採鉱、建材、化学工業、製薬、食品加工、民族手工業、チベット医薬等、20以上のカテゴリーを含む、チベットの特色に富んだ近代工業大系が立ち上げられた。工業総生産額は1956年の0.014億元から2010年には75.61億元に増加し、年平均14.1%成長した。特色の優れた産業は絶えず大きく発展し、甲瑪銅多金属鉱床が正式に生産を開始し香港での上場に成功し、ラサ青祼ビール、5100鉱泉水(ミネラルウォーター)、甘露蔵薬等の一連の特色ある商品が国内外の市場に投入された。旅行業は大幅な成長を維持しており、2010年に受け入れた旅行客は685.14万人回で、旅行業収入は71.4億元に達し、正に重要な世界の旅行目的地として発展しつつある。
■[4]
・管道 guan3dao4 パイプ・ライン。
・行政村 xing2zheng4 cun1 政府が行政管理の都合上、郷(県の下の行政単位)の下の村を管理するのに、隣接するいくつかの小村を合わせて管轄する区域を“行政村”という。
・墨脱公路:墨脱は中国で唯一、自動車道路の通じていない県であったが、2010年12月に墨脱公路の開通で解消された。波密、墨脱の両県を結び、全長117キロ。途中、嘎隆拉雪山を貫く3315メートルの嘎隆拉隧道がある。
・畜駄 chu4 tuo2 家畜が(荷物を)背負う。
・駅站 yi4zhan4 宿場。宿駅。
□ エネルギー、交通等のインフラ産業も盛んに興っている。平和解放の前は、チベットには125キロワットの、少数の上層の貴族のみが使える小型発電所1基があっただけだが、現在では水力発電を主力にし、地熱、風力、太陽エネルギー等、多様なエネルギーが相互に補完する振興のエネルギー大系が形成されている。2010年、チベットの発電装置の総容量は97.4万キロワットに達し、電力使用の人口カバー率は82%以上に達した。青海・チベット電力ネットワーク直結プロジェクトの建設が始まり、チベットの電力ネットワークの孤立運用の歴史は間もなく終了する。平和解放前のチベットには一本の自動車道路も無かったが、今では自動車道路、鉄道、パイプラインを中心とする総合交通運輸大系が初歩的に構築され、チベットの全ての郷・鎮と80%以上の行政上の村に自動車道路が通じ、自動車走行可能距離は5.82万キロに達した。墨脱公路と嘎隆拉隧道が開通し、全国唯一の自動車道路の通じていない県の歴史が間もなく終了する。青海・チベット鉄道が開通し、チベットに鉄道の無い歴史は終了した。ラサ貢嘎空港の誘導灯プロジェクトは運用を開始し、林芝米林空港、阿里昆莎空港、日喀則和平空港が開港し、チベットの夜間の航空機運行が無く、航空路線の支線が一本しかない歴史が終了した。現在、チベットでは、ラサ貢嘎空港を幹線とし、昌都邦達、林芝米林、阿里昆莎、日喀則和平を支線とする飛行場の分布が初歩的に形成され、22の国際・国内の航空路線が開通した。旧チベットの通信は人が背負い家畜が背負う、宿駅式の伝達であったが、今日、チベットも情報化時代に足を踏み出し、光ケーブル、人工衛星、ネットワークを基幹とした現代通信ネットワーク大系が構築され、基本的に郷と郷の間はブロードバンドが通じ、村と村の間は電話が通じている。
■[5]
□ 旧チベットの農牧業は基本的に天気任せの生活で、天気任せの牧畜をしていたが、今では農牧業の近代化レベルは大幅に向上した。チベットの一次産業の成長は、1959年の1.28億元から2010年は68.13億元に増加し、年平均4.8%の成長であった。穀物生産は1959年の18.29万トンから2010年は92万トンに増加した。穀物の1畝(ムー。1/15ヘクタール)当たりの生産量は1959年の91キロから2008年は357.4キロに向上した。年末の家畜の飼育頭数(※)は1959年の956万頭から2010年には2321万頭に増加した。
※年末にはその年に食肉として出荷するものは処分されるので、年末の時点で家畜舎の中で飼育されている家畜頭数が翌年の飼育頭数となる。
■[6]
・碘塩 dian3yan2 ヨード添加塩。中国でも、沿海地区ではワカメなど海藻を食べてヨウ素を補給するが、チベットのような内陸部では、ヨウ素を添加した食塩を料理に使って補給するのが一般的。
・可支配収入 ke3 zhi1pei4 shou1ru4 可処分所得。A Disposable Income
□ 平和解放以前、チベットの90%以上の住民は自分の住居が無く、身につける衣服も不十分で、十分な食事もとれない生活であった。この60年、チベットの各民族の人々の生活条件は絶えず改善され、生活レベルは絶えず向上してきた。1951年、チベットの都市部住民の一人当たり平均居住面積は3平米以下であった。2010年末、チベットの都市部住民の一人当たり平均居住面積は34.72平米に達した。2006年から、チベットでは安定居住プロジェクトを突破口とする社会主義新農村建設が開始され、相前後して27.48万戸、140.21万人の農牧民が安全で快適な新居に居住し、一人当たりの居住面積は24平米に増加し、地域全体で全ての住居条件の悪い農牧民が新しい住宅に安心して住めるという目標を実現した。同時に、チベット全体で農牧地区の水、電気、道路、通信、ガス、TV受信、郵便と環境美化の総合建設が推進され、農牧地区の様子は歴史的な変化を遂げた。現在、郷鎮レベルで郵便が通じている比率、同・自動車道路が通じている比率、行政上の村で自動車道路が通じている比率は、それぞれ85.7%、99.7%、81.2%に達し、累計で153.2万人の農牧民の飲用水の安全の問題が解決され、農牧地区のヨード添加塩の普及率は91.2%に達した。2010年、チベットの農牧民の一人当たり平均純収入は4138.7元に達し、8年連続で2ケタの成長を維持し、都市部住民の可処分所得は14,980元に達した。人々の生活が豊かになるにつれ、消費構造は多様化を始め、冷蔵庫、カラーTV、パソコン、洗濯機、オートバイ、携帯電話などの消費財が普通の大衆の家に入ってきた。チベットの農村家庭百戸当たりのカラーTVの所有は73.45台、携帯電話52.64台、自家用車3.98台であり、ラサ市では住民家庭百戸当たりパソコン63台、携帯電話182台、自家用車32台である。放送、テレビ、通信、インターネット等の現代の情報伝達手段は、全国或いは世界と同時に発展し、既に人民大衆の日常生活の中に入ってきている。
■[7]
・西蔵班 xi1zang4 ban1 中国内地の学校が、チベット族への高等教育支援の為、チベット族向けに開設したクラス。
・中職班 zhong1zhi2 ban1 “中職”とは「中等職業教育」の意味で、高校生段階で専門の職業訓練を行う、日本の高専のような位置付けの学校。教育年数は、3年、4年何れも存在する。ここでいう“中職班”とは、チベット族向けの高等教育普及支援のため、内地の学校が専門にチベット族向けの職業教育のクラスを設けること。
・毛入学率 mao2 ru4xue2 lv4 ある学年のある教育課程の在校生数の、相当する学齢人口の総数に対する比率。実際の受験者総数を分母にしていないので、あくまで教育機会を表す指標である。
□ 旧チベットには現代的な意味での学校は一校も無く、寺院が教育を独占し、ごく少数の僧官学校があるだけで、大多数の生徒は貴族の子弟で、多くの農奴や奴隷は教育を受ける権利を剥奪され、適齢の児童の進学率は2%に満たず、青年・壮年の文盲率は95%に達し、現代科学技術の普及は尚更皆無であった。1951年から2010年まで、国が累計で投入したチベットの教育経費は407.3億元で、チベットの教育事業の発展を力強く推進した。現在、チベットには幼児教育、小学教育、中学教育、職業教育、高等教育(注:大学など)、成人教育、特殊教育等を包含した、地方の特色と民族の特徴を備えた現代教育体系が構築されている。2010年、チベットには普通高等教育学校(注:日本の大学や短大に相当)が6校、各級の中学が122校、小学校が872校有り、在学生は50万人以上に達する。中国内地のチベット族クラスの在校生は2万人余り、内地の12の省、直轄市で42の学校が中等職業教育クラスを開設した。現在、チベットの就学適齢児童の入学率、初中(注:日本の中学に相当)入学率、高中(注:日本の高校に相当)入学率、高等教育(注:大学等)の概略入学率はそれぞれ99.2%、98.2%、60.1%、22.4%に達した。青年壮年の文盲率は1.2%に低下し、満15歳以上の人口の1人当たり平均の教育受講年限は7.3年に達した。国は農牧民の子女と都市部の貧困家庭の子女の食事、住居、学習費用を全額援助する支援政策を実施し、これには就学前、小学校、中学・高校段階が包含され、現在、これらの支援経費の年間補助標準は2000元に達している。科学技術事業はゼロから出発し、迅速に発展した。2010年、チベットには各種の独立した科学研究所が34か所、民営の科学研究機構が9か所、農牧技術の普及機構が140あり、各種の専門技術者は52,107人で、国家及び自治区の重点科学技術プロジェクトを3,253完成させた。経済発展の中で科学技術の比重は明らかに高まり、うち科学技術の経済成長への貢献率は33%に達し、農牧業成長に対する貢献率は40%に達した。
■[8]
・人均預期寿命 ren2 jun1 yu4qi1 shou4ming4 正式には“人口平均預期寿命”。平均寿命のこと。Life Expectancy
・第六次全国人口普査: 第6回国勢調査。2010年11月に行われ、2011年4月に結果が発表された。
□ 医療衛生事業は絶えず健全に発展してきた。平和解放以前は、チベットには3か所の設備が貧弱で、規模のたいへん小さい官営のチベット医の病院とわずかな私営の診療所しかなく、医療に従事する人員は百人に満たなかった。2010年末現在、チベットの各級各種の医療衛生機構は1,352、病床数8,838、衛生技術者9,983人である。政府支出を中心として、各個人が口座を持ち、大病への備えと医療救助を結合させた農牧地区医療制度が全面的に構築され、ラサを中心に、都市部、農村部にあまねく分布する医療衛生網が構築され、どの郷にも病院があり、どの村にも診療室があるという情況が実現した。人民の健康レベルは明らかに向上した。妊婦の死亡率は1959年の10万人中5000人から、同174.78人に下降し、乳幼児の死亡率は平和解放以前の1000人中430人から、同20.69人に下降した。平均寿命は35.5歳から67歳に向上した。第6回国勢調査によれば、チベットの人口は平和解放以前の100万人から300.22万人に増加、うちチベット族が271.64万人で、90.48%を占める。
■[9]
□ 養老、医療、失業、労働災害、出産の五大保険を主体とする、都市住民をカバーする社会保障体系が構築された。2009年11月に「新型農村社会養老保険」(“新農保”と略称)事業が展開されて以来、2010年末までに、73の県(市、区)が全て“新農保”の試験実施範囲に織り込まれ、累計で満60歳以上の農牧地区住民に基礎養老金7631.55万元が支給され、企業の定年退職者は1人当たりの養老保険からの支払いが毎月2439元に達し、全国平均レベルを上回った。都市住民の医療保険政策の範囲内の入院費用は保険支払い比率が75.1%に達した。2010年の年度医療費の最高の保険支払い額は13万元に達し、チベットの都市部住民の1人当たり可処分所得14,980元の8.7倍である。社会保険加入総数は166.23万人に達し、各社会保険待遇項目は17.32億元が実行された。都市就業者総数は52.71万人に達し、都市部の登録失業率は3.81%である。
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1959年、反乱後、ダライラマと共にインドに逃れるチベット貴族
《17条協議》により、チベットの平和解放は実現するものの、結局、ダライラマ14世はチベット独立を目指し、反乱を起こし、チベットを追われることになります。
しかし、これはある意味、毛沢東の作戦勝ちかもしれません。1951年の人民解放軍進駐で外堀を埋めておき、チベット政府の取り込みでは、アペイ・アワンジンメイを手懐かせ、ダライラマが辛抱し切れなくなって反乱を起こすと、それを制圧してダライラマとそれを支持する一派をインドに追放し、その後は一気にチベットの中国化を進めたのですから。このあたり、毛沢東のすごさと言えるかもしれません。
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( ↓ クリックしてください。中国語原文が表示されます。)
・幇辧 bang1ban4 補佐。代理。
□ 1951年9月から1952年6月まで、18の軍団を主力とする各方面のチベット進駐部隊が相前後してラサに到着し、太昭、江孜、日喀則、山南隆子宗、亜東、察隅、改則等の国防の重点地区に進駐し、チベット進駐の任務を完成させ、チベットの4000キロ余りの国境線上が長年無防備であった歴史を終結させた。
1952年9月6日、中央人民政府駐チベット代表外事代理事務所が設立され、中央人民政府外交部の指導の下、チベット地区の一切の渉外事務を具体的に行った。1954年4月29日、中国・インド双方は北京で《中国チベット地区とインド間の通商と交通に関する協定》を締結、同時に互いに口上書を取り交わし、インドが継承した、イギリスがチベットを侵略した時に残された特権を取り消した。1955年中国とネパールは正式に外交関係を結び、更に1956年に《中華人民共和国とネパール王国の友好関係の保持、及び中国チベット地方とネパールの間の通商と交通に関する協定》を締結し、ネパールのチベットでの特権を取り消し、中国・ネパールの関係は新たな基礎の上に強固となり、発展した。ここに至り、中央人民政府が統一してチベット地区を処理した一切の渉外事項は完全に実現した。
■[2]
・精打細算 jing1da3 xi4suan4 (人や物を使う場合)綿密に計画する。
・囤積居奇 tun2ji1 ju1qi2 値上がりを見込んで買い占める。投機する。“囤積”は買いだめすること。“居奇”は値上がりを待つために、物を売り惜しみすること。
・挑撥 tiao3bo1 仲違いするよう、双方をけしかける。そそのかす。
・図謀 tu2mou2 たくらむ。悪巧みをする。・靠攏 kao4long3 近寄る。接近する。
□ 中央政府は「チベットに進駐しても、この地方のものは食べない」及び「綿密に計画し、生産し自給自足する」等の指示を出し、「軍需を保障し、併せて民間利用にも配慮する」、「一括調達し、支払いを切り詰める」等の一連の財政・経済政策を出した。人民解放軍はラサ進駐後、先ず羊毛の輸出貿易から着手し、軍需と民用の問題を解決した。中央政府は400億元(旧貨幣)を拠出し、インド市場への輸出より高い価格で、チベットの売れずに在庫になっていた羊毛を買取り、チベット上層の反動集団が値上がりを見込んで買い占めをし、争いが起こるようけしかけ、チベットと中国の関係を破壊しようとするたくらみや、上層部がここから獲得する多額の利益に打撃を与え、中央政府が的確にチベット族人民の利益を守っており、経済面で帝国主義勢力に対する依頼や連携が次第に減少し、中央政府に積極的に接近していることが肌で感じられるようにした。
■[3]
・行轅 xing2yuan2 = 行営 xing2ying2 最高統帥者の野戦司令部。或いは、高級官吏の臨時の居所、執務場所を指す。
・会晤 hui4wu4 首脳の会見、会談。
・聯袂 lian2mei4 手を携えて。いっしょに(行く)。
・観礼 guan1li3 招かれて式典に参列する。
□ 中央人民政府の促しにより、1952年4月、バンチェンアルダニ10世と彼の執務場所と関係人員は青海からラサに戻り、バンチェンラマとダライラマの友好会見が実現した。チベット工作委員会は絶えず活動を行い、ダライラマとバンチェンラマ相互の間に歴史的に残っていた問題と現実の問題を解決した。1953年、ダライラマ14世とバンチェンラマ10世は全国仏教協会名誉会長に選出され、功徳林活佛は副会長に選出された。1956年9月、中国仏教協会チベット分会が成立した。1954年9月、ダライラマ14世、バンチェンラマ10世は手を携えて北京に行き、中華人民共和国第1期全国人民代表大会第1次会議に参加し、チベット各民族人民が国家の大事に平等に参与、管理する権利を実現した。これと同時に、考察団、或いは参列団を組織し、中国内地を見学、訪問し、1952年から1957年までの間に13回、延べ1000人余りが中国内地を見学、訪問し、そのメンバーは絶えず拡大し、その中にはラサからチベット各地に至る上層の僧籍、及び一般の官吏、チベット仏教寺院のラマ(高僧)、青年、婦人を含み、チベットと中国内地の連携と各民族の団結を強めることとなった。
(1954年第1期全人代で投票するダライラマ(右)、バンチェンラマ(右から2番目)
■[4]
・中世紀 zhong1shi4ji4 中世。・賦税 fu4shui4 租税。
・烏拉差役 wu1la1 chai1yi4 租税、賦役(労役)、地租などの総称。“烏拉”とは、無償労役の意味。その内容は様々であったという。
・掙扎 zheng1zha2 なんとかしようと必死になる。懸命にもがく。
・蓄意 xu4yi4 以前からそのつもりでいる。下心がある。たくらむ。(よくない意味で使う)
□ 民主改革前の旧チベットは、欧州の中世よりも更に遅れた、暗黒の政治と宗教が結びついた、封建農奴性社会であった。人口の5%の役人、貴族、寺院の上層の僧侶という三大領主及びその代理人が全ての耕地、牧場、森林、山や川と大部分の家畜を支配し、人口の95%の農奴と奴隷は生産の資産と人身の自由を持っていなかった。幅広い農奴や奴隷が重い租税、労役や高利貸しの搾取を受けただけでなく、稀に見る残酷な政治圧迫や刑罰を受け、生死の境でもがき苦しんでいた。チベットの社会制度の改革はチベットの社会発展の必然の要求であり、チベット人民の根本的な願望であった。チベットの特殊な情況を考慮し、《17条協議》はこう規定した。「チベットの現行の政治制度に対し、中央は変更は行わない。」「チベットの改革事項それぞれについて、中央は強制はしない。チベット地方政府は自主的に改革を進めるべきであり、人民が改革を要求した時、チベットの指導者と協議するという方法でこれを解決しなければならない。」平和解放後、中央人民政府はチベットの社会制度改革に対し十分に慎重な態度と、極力寛容な政策を取り、チベット地方の上層の統治集団が自主的に改革を進めるのを我慢強く待ち、また説得し、且つ充分な時間を与えた。けれども、チベットの反動的な上層部は農奴主階級の既得利益と特権を維持する為、根本的に改革に反対し、永遠に封建農奴制を保持しようとし、このため、わざと《17条協議》に違反し、一連の祖国分裂活動を画策し、遂には1959年に全面的な武装反乱を発動した。
■[5]
・依附 yi1fu4 従属する。付き従う。
・克 ke4 チベット地方で用いる容積単位、或いは土地面積の単位。青稞(qing1ke1 ハダカムギ)1克は約25斤で、1克の種子が播ける土地を“一克地”という。1克は約1市畝shi4mu3(通常は“畝”といい、1ヘクタールの1/15)。
・牲畜存欄頭数 sheng1chu4 cun2lan2 tou2shu4 家畜の飼育頭数。“存欄”とは、統計用語で、家畜が小屋の中で飼育されていること。
□ 国家の統一とチベット人民の根本的な利益を維持する為、中央人民政府は断固とした措置を採り、チベット人民といっしょに断固として反乱を終息させ、チベット地方政府を解散し、且つチベットで封建農奴制度を徹底的に破壊する民主改革運動を行った。民主改革は「政教一致」制度を廃止し、政教分離を実現した。生産資源の封建領主所有制を廃止し、農牧民個人所有制を確立した。「三大領主」による人身従属を廃止し、農奴や奴隷は人身の自由を獲得した。民主改革はチベット社会の進歩と人権発展史上、エポックメイキングな重大な変革であり、チベットの百万の農奴と奴隷を政治、経済、社会生活といった多くの面で解放し立ちあがらせ、チベットの社会生産力の発展を効果的に促し、チベットの現代化発展の為の道筋を切り開いた。統計によれば、民主改革中、農奴と奴隷が分け与えられた土地は280万“克”余り(15克が1ヘクタールに相当)で、1960年にチベット民主改革が完了した時、チベットの食糧生産量は1959年比で12.6%増加、民主改革前の1958年と比べ17.7%増加した。家畜飼育頭数は1960年、1959年比で9.9%増加した。
■[6]
・当家作主 dang1jia1 zuo4zhu3 主人公となる。“当家”は一家の主となる、家事の切り盛りをする、という意味。
□ チベットの民主改革の過程は同時に民主的な政権を打ち立てる過程でもあった。1959年3月にチベットで反乱が発生後、国務院は命令を発し、チベットのガシヤ地方政府を解散し、チベット自治区準備委員会がチベット地方政府の職権を行使することに決定した。その後、相次いで昌都地区人民解放委員会とバンチェン堪布会議庁委員会を廃止し、いくつかの異なる性質の政権が並存する局面は終了し、統一の人民民主政権が打ち立てられた。1961年、チベット各地で普通選挙の実施が開始され、昔の農奴、奴隷が初めて主人公となる民主的権利を獲得し、選挙でチベットの各クラスの権力機関と政権が生み出され、多くの解放された農奴と奴隷が各クラスの指導的職務を担当した。1965年9月、チベット自治区の第1期人民代表大会第1回会議がラサで開幕し、チベット自治区及びその人民政府の成立が宣言された。その後、チベットは農牧業の社会主義改造を経て、社会主義の発展路線へ足を踏み出した。チベット自治区の成立と社会主義制度の実施は、制度上で各民族の平等、団結、相互支援、共存共栄政策がチベットで実現することを保障し、チベットの各民族人民が平等に国家事務管理に参与し、自主的に当地区当民族の事務を管理する権利を保障し、チベットが国家の特殊な支援と資金的援助の下、当地区の特徴に基づき全国と共同で発展、進歩するため、制度的な保証を提供した。
■[7]
□ 1980年と1984年、中央は相前後して第1次と第2次のチベット工作座談会を開催し、チベットを経済建設を中心とし、閉鎖式経済から開放指揮経済に転換し、供給型経済から経営的経済に転換させる指導方針を確定した。中央政府は「土地は世帯に帰して使用させ、自主的に経営し、長期間変更しない」、「家畜は私有で、個人で飼育し、自主的に経営し、長期間変更しない」等の一連のチベット経済発展に有利な特別な優遇政策を制定し、チベットの経済体制改革と対外開放を推進し、更に1984年からは、国が投資し、全国9つの省(直轄市)がチベットの43項目のプロジェクト等の一連の項目の建設を支援した。改革開放政策の実施と国の支援は、チベット経済を強大にし繁栄させ、チベット産業の全体レベルと経済活動の商品化レベルを向上させ、チベット経済と社会の発展を新たなステップに踏み出させた。
■[8]
・流亡 liu2wang2 災害や政治上の理由に迫られ、故郷を逃れること。亡命する。
・自絶于 zi4jue2 yu2 自ら進んで関係を断つ。(後に必ず“于”を伴う)
・死心塌地 si3xin1 ta1di4 [成語]決心したらどんなことがあっても変えようとしない。悔い改めようとしない。
・対口支援 dui4kou3 zhi1yuan2 経済の発達した、或いは力の強い一方が、経済力の弱い、或いは力の無い一方に面対面で援助を行う政策的な支援形態で、主に災害支援、経済支援、医療支援、教育支援に分類される。現在は、主に中央政府が主導し、地方政府が主体的に対象地域の個々の市や地区に面対面で支援活動を行うという形態が取られている。
・格局 ge2ju2 組み立て。構成。構え。
□ ダライラマ集団は国外に逃亡してからも、終始「チベット独立」の主張と国家を分裂させる活動を放棄せず、アメリカのCIAの支援で、インドで「チベット独立国」の成立を宣言し、インド、ネパールで反乱武装基地を打ち立て、長期間中国国境に対し武装襲撃と攪乱を実施した。1964年、国務院第151次会議で《ダライラマの職務の取り消しに関する決定》が通過し、次のように指摘した。「ダライラマは1959年に国に背き反革命武装反乱を発動し、国外に逃亡して以降、亡命偽政府を組織し、偽憲法を公布し、インドの反動勢力が我が国に侵略することを支持し、更に国外に逃亡した残党を積極的に組織、訓練し、反乱、武装し、祖国の国境を騒がせた。これら一切のことは次の事を証明している:彼はとっくに祖国や人民との関係を自ら断ち、決して悔い改めようとせず、帝国主義、外国反動勢力の手先となった反逆分子であると。」チベットの改革開放実施後、ダライラマ集団は内部に入り込んだ破壊活動を強化し、1980年代末にラサで騒乱を組織し企てた。中央政府は効果的な措置を取り、直ぐに騒乱を終息させ、また1989年にはチベット工作を指導する10条の意見書を提出し、思想の統一、安定の促進に重要な機能をし、新時代のチベット工作の転換点となった。1994年、中央政府は第3次チベット工作座談会を開催し、経済建設を中心とし、経済発展と情勢の安定の二つの重要事項をきっちり把握し、チベット経済の発展の加速を確保し、社会全体の全面的な進歩と治安の長期的安定を確保し、人民の生活レベルの継続的発展を確保するという新時代のチベットの活動指導方針を確定し、中央がチベットに関心を寄せ、全国がチベットを支援するという重大な方策を出し、一連のチベットの発展を加速する特別な優遇政策と措置を決定し、国家が直接チベットの建設項目に投資し、中央が財政補助を実施し、全国の省や市が面対面で支援を行うという、全方位からチベットの現代化建設を支援するという構成が形成された。2001年、中央は第4次チベット工作座談会を開催し、より有効な措置を採り、より一層チベットへの支援への重点を強化し、全面的にチベットの発展を推進し、チベットの安定を促すことを決定した。1994年以来、中央政府は相前後して60の国家機関、全国18の省、直轄市と17社の中央企業を手配し、人事、財務、技術、管理等の面から面対面でチベットを支援し、面対面のチベット支援の範囲はチベットの全ての地域の市と73の県(市、区)をカバーした。とりわけ1994年に確定した62項目のチベット支援プロジェクトと2001年に確定した117項目のチベット支援プロジェクトの全面完成により、チベットの生産活動条件は極めて大きく改善し、チベットの経済、社会発展に強力な原動力を注入した。これと同時に、ダライラマ集団の妨害や破壊活動を排除し、バンチェンラマ10世が転世する霊童の捜査、認定を円満に完了し、堅賛諾布がバンチェンアルダニ11世を継承するのを承認し、ダライラマ分裂集団との闘争を断固として展開し、チベットの情勢の安定を維持した。
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心配されていたことが起こってしまいました。温州での中国高速鉄道の追突事故。23日の深夜から、マスコミでは様々なニュースが流されてきましたが、25日、《人民日報》が総括的に次のような記事を載せました。
人民日報人民時評:高速時代尤須系好“安全带”
(高速時代はなおさら「安全ベルト」をしっかり締めなければならない )
張鉄
2011年07月25日 来源:人民網-《人民日報》
ここで言っているのは、現代社会が科学技術が発達し、利便性を追求すればするほど、一方では仕組みが複雑になり、快適・便利は生命の危険のリスクと隣り合わせになっている、というのです。
ここで“海恩法則”hai3en1 fa3ze2 を取り上げています。
“海恩法則”とは、「ハインリッヒの法則」Heinrich's lawのこと。労働災害における経験則で、1つの重大事故の背後には、多くの軽微な事故や異常が存在することを言います。「ヒヤリ・ハット」などと言います。
■[1]
( ↓ クリックしてください。中国語原文を表示します)
□ 「ハインリッヒの法則」によれば、一回の重大事故の背後には、数十回、場合によっては百回以上の軽微な事故や未遂事故が起こっている。運行系統は別でも、高速鉄道に出現した多くの「ちょっとした問題」は、鉄道に存在する様々な問題を既に暴露していた。もしそれを十分重視していたら、或いは事故の発生は避けられたかもしれない。事故後、国務院副総理の張徳江は現場に到着するや最初に「必ず事故原因を調査して明確にし、社会に説明しなければならない」と強調し、政府中央の断固たる態度を表明した。事故の中から教訓を汲み取り、原因を究明し、厳格に責任追及し、欠点を繕い、補償をきっちりしてはじめて、事故の死傷者に責任をとり、公共安全の責任を負ったことになるのだ。
鳴り物入りで開通した京滬高鉄の初期の列車故障のことなどを言っているのでしょうが、早期開業、定時運行に拘り、トラブルの原因究明、安全優先の思想が欠けていたのかもしれません。
高速鉄道というのは、其れ全体が大きなシステムであり、車輛や信号施設など、ハードを細切れで買い揃えても、様々な環境や状況に対応した安全・快適なシステムは完成しません。約5年という短期間で、世界に冠たる高速鉄道網を作り上げた中国にとって、この安全への配慮が、実は大きな盲点であったということになります。ここは是非中国も一度足元を見つめ直し、安全装置だけでなく、運行形態も含め、総合的な対処をしてほしいものです。
ところで、落雷のため緊急停止していた、杭州からのD3115列車に、後ろから追突した北京発のD301列車の運転手が、列車を止めるため、最後の瞬間まで最善を尽くし、犠牲になったことが取り上げられています。
D301次列車司机潘一恒危険時刻緊急制動英勇犠牲
2011年07月24日 来源:人民網
D301列車の運転手、潘一恒は1973年生まれといいますから38歳、1993年に広州鉄路機械学校卒業後、“福州机務段”というと、「福州機関区」とでも訳すのでしょうか、に配属され、機関車に乗務、2008年5月、温州~福州線に電車列車の営業が始まる際に電車運転手の試験を受け、2009年6月に運転手の資格を取得していました。
■[2]
□ 武装警察が既に著しく変形した運転室から潘一恒を救出した時、彼は既に犠牲となり、胸にはブレーキレバーが突き抜けていた。最も危険な時に、彼は自分が逃げることなど全く考えず、断固として緊急の列車停止措置を取り、後方の旅客の多くが生き残る機会を与えられた。
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毛沢東(中央)と会食するアペイ・アワンジンメイ(右)。左はバンチェンラマ10世か?
最近、中国のマスコミの報道は随分表現が穏やかになりましたが、久々に“帝国主義侵略勢力”、“親帝分裂分子”といった表現を目にしました。特に前回では、文章が後に行けば行くほど、口調が厳しくなり、中国のチベット政策の厳しい一面を目の当たりにしました。中華民国時代の軍閥が跋扈する国内情勢に於いては、チベットは“西蔵政府”という表現で良いところを、敢えて“西蔵地方政府”というところに、中国の立場が如実に表れていると思います。
さて、今回ご紹介する部分は、チベットの平和解放に関する《17条協議》の交渉についてですが、ここで、チベット側首席代表で出てくる、アペイ・アワンジンメイは懐かしい名前です。1959年から1993年までの長きに亘り、全人代常務委員会副委員長を務め、1993~2009年、全国政協副主席を務められていて、よく耳にした名前です。2009年12月、100才の長寿を全うされて逝去されました。
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■[1]
( ↓ クリックしてください。中国語原文が表示されます)
・観望 guan1wang4 傍観する。成り行きをみる。
・伺机 si4ji1 機会を待つ。“伺机”は単独では使えず、必ず後ろに他の動詞を伴う。
・留守 liu2shou3 皇帝が都を離れる時、大臣に命じて都を守らせること。日本語の「留守」とは異なり、日常生活では使わない。
・(口偏に“葛”)厦 ga2xia4 チベット語で役所のこと。“ga2”は命令。“厦”は建物。
・和談 he2tan2 和平交渉。和議。
・従速 cong2su4 速やかに
・啓程 qi3cheng2 旅行に出発する。
・感召 gan3zhao4 感化する。
・随即 sui2ji2 すぐさま。直ちに。
□ 1951年1月2日、ダライラマ14世はチベットの亜東に移り、一方では中国の情勢を観察し、一方ではイギリス、アメリカ、インド、ネパール等に支援を求め、国外へ逃亡する機会を窺ったが、何れの国も表立って「チベット独立」を支持しなかった。チベット地方政府もそれに対応し、留守居役の「ラサ政府」と臨時の「亜東政府」の二つに分けられた。その後、チベット地方政府の「官僚会議」は正式に代表を北京に派遣し、中央人民政府と和平交渉を行うことに決定した。ダライラマは、中央人民政府に宛てた平和交渉を望む書簡の中で、こう語った。「私がまだ幼く権力を掌握する以前は、チベット族と漢族の間の関係はしばしば破壊に遭ったが、最近アペイと随員を速やかに出発し北京に向かわせると通知した。時間に間に合わす為、私たちはアペイと二人の助手を、インド経由で北京に向かわせる。」中央人民政府の民族平等政策とチベットの平和解放の方針に感化され、チベット地方政府は中央人民政府との和平交渉の全権代表団を派遣し、アペイ・アワンジンメイを首席代表とし、カイモ・スオアンワントゥイ、トゥダンタンダ、トゥドゥンリエメン、サンポゥ・ドゥンゾンドゥンジュを代表とした。代表団は二手に分かれて出発し、1951年4月27日に北京に集結し、中央人民政府の歓迎を受けた。直ちに、中央人民政府は交渉代表団を組織し、李維漢を首席全権代表とし、張経武、張国華、孫志遠を全権代表とした。友好協議を経て、中央人民政府とチベット地方政府は1951年5月23日に北京で《チベットの平和解放の方法に関する協議》(《17カ条協議》)を締結した。
■[2]
・貧瘠 pin2ji2 土地がやせている。
□ 中央人民政府のチベットの平和解放問題に関する「十大政策」が交渉の基礎であった。「十大政策」の主な内容は:英米帝国主義侵略勢力をチベットから駆逐する。チベットの民族区域の自治を実行する。チベットの現行の各種政治制度は原状を維持し概ね変更しない。宗教の信仰の自由を保障する。チベット経済と文化・教育を発展させる。チベットの様々な改革事項はチベット人民及びチベットの指導者が協議する形で解決する。人民解放軍がチベットに進駐する、等であった。交渉の初期には、チベット地方政府代表は、「十大政策」の中の「人民解放軍の進駐」は受け入れられないと強調した。当時、中央人民政府代表は決してチベット地方政府代表に無理強いすることはせず、二日間の休会を提案し、代表団の北京見学を手配し、同時に粘り強く説得し、チベットが中国の不可分の一部分であることを認める以上、人民解放軍のチベット進駐を拒む理由は無いと表明した。同時に、チベット代表が提起した、チベットの経済が遅れており、資源が乏しく、人民解放軍の兵站供給がたいへん困難であるという問題を充分考慮し、中央政府は、「チベットに進駐しても、土地の物は食べず、一切の経費は中央が負担する」ことの保証を行った。双方は最終的に、チベット地方政府が人民解放軍がチベットに進駐し、国防を強化することに積極的に協力することを協議の上確定した。
■[3]
・挑唆 tiao3suo1 そそのかす。
・圓寂 yuan2ji4 仏教用語。円寂(えんじゃく)。僧、尼が亡くなること。
・坐床 zuo4chuang2 活佛によるチベット仏教で最も重要な宗教儀式のこと。
・確鑿 que4zao2 きわめて確かである。確実である。[用例]~的事実(動かぬ事実)。証据zheng4ju4~(証拠が確かである)。
・観礼 guan1li3 (招かれて)式典に参列する。
□ ダライラマとバンチェンガルダ二の間の団結の問題は、交渉で解決しなければならない重要な問題であった。帝国主義侵略勢力にそそのかされ、バンチェンラマ9世は1920年代初頭にダライラマ13世と不和になり、チベットから内地に追い出され、1937年12月にチベットに戻る途中、青海玉樹で亡くなった。1949年8月10日、国民政府の承認により、バンチェンラマ10世が青海ダール寺で“坐床”の儀式により位を継承した。チベット地方政府代表団は交渉の初期には、バンチェンラマ10世の合法的な地位を全く承認していなかた。中央人民政府交渉代表団はチベット地方政府交渉代表団に、元国民党政府が、バンチェンラマ10世がバンチェンラマ9世が霊童に転生したことの認定を承認した全ての公式文書、及びダライラマ側の代表が参加したバンチェンラマ10世がダール寺で“坐床”の儀式で継位した時の写真を示した。きわめて確かな証拠を前にして、チベット地方政府交渉代表団は遂にはバンチェンラマ10世の合法性を承認した。交渉時期はちょうど「5月1日」のメーデーに当たっていて、中央人民政府はチベット地方政府交渉代表団とバンチェンラマ10世を天安門の城楼での共同の式典参列に招待した。アペイ・アワンジンメイとバンチェンラマ10世は友好裏に面会し、また毛沢東の接見を受けた。
■[4]
・採納 cai3na4 意見や要求を受け入れる。聞き入れる。
・譯倉 yi4cang1 秘書処の意味で、その位置付けは葛(口偏)厦ga2xia4 より低いが、ダライか摂政の直接の指導を受けた。ダライラマの印鑑は譯倉が管理し、葛(口偏)厦の公文書は、譯倉で捺印され、初めて発行された。譯倉は仲譯zhong4yi4(秘書長)4名で構成され、全てが僧官で、身分は四品以上の“堪窮”が担当した。
・切身 qie4shen1 身をもって。自ら。身にしみる。
□ 大部分の条文の協議は、チベット内部の関係と内部事情の処理に関わることであった。これらの問題で、中央人民政府全権代表は、中央人民政府の民族政策とチベット地区の実際の状況に基づき、自主的に一連の提案を提出した。チベット地方政府交渉代表団も若干の提案を行った。中央人民政府は正しい所は要求を聞き入れ、総合的に検討し、不合理な所は辛抱強く説明した。チベット地方政府代表のトゥダンダンダァは、自分自身の経験に基づき、こう語った。「私は秘書処から派遣された僧官で、交渉の過程で、宗教の信仰、寺院の収入等に関し提出した提案が比較的多かったが、中央は何れも聞き入れてくれた。」交渉が始まってすぐに、中国語、チベット語2種類の協議書を作り始め、2種類の言語の文の修正は、毎回同時に行い、且つチベット地方政府交渉代表団の同意を得た。交渉終了後、中国語、チベット語の協議書が同時に作られ、調印後、いっしょに公布された。
■[5]
□ チベット地方政府全体の交渉代表は全権代表となり、正式交渉に入る前に、協議の上、以下のような作業原則を取り決めた:「判断できる問題は直ちに決定し、解決できない事は、亜東に報告する」。指示を仰ぐのが間に合わない時は、「全権代表が先に決定し、後でダライラマに報告することができる」。チベット地方政府交渉代表団がダライラマと政府当局に指示を仰ぐチャンネルは終始滞りなく確認が進み、全ての問題の指示も、チベット側内部で協議、確定した。交渉開始から間もなく、人民解放軍のチベット進駐問題で、チベット地方政府交渉代表は、カイモ・スォアンワンドゥイとトゥダンダンダァが持って来た暗号発生器を通じて亜東のダライラマと政府当局に電報を送り、交渉中のその他の問題は何れも大したことはなく、人民解放軍のチベット進駐と国境地帯守備を承認しなければ、交渉はおそらく決裂するだろうと説明した。その間、チベット側はバンチェンラマとの関係の問題で、「亜東政府」と二度連絡をした。20日余りの交渉で、双方の代表は若干の問題では論争と意見の不一致があったが、終始友好的で真摯に、話し合いの雰囲気の中で交渉が進み、最終的にチベットの兵若い方の全ての問題に就き協議が成立した。協議書調印式で、双方の代表は協議書上に署名し、更に個人の印章を捺印し、丁重さを示した。
■[6]
・順理成章 shun4li4 cheng2zhang1 [成語]筋が通れば自ずと良い文章ができる。物事が道理にかなっていること。
□ 協議内容の執行貫徹を保証する為、中央人民政府とチベット地方政府は交渉中に二つの協議書付属書に調印した。うち一つは《人民解放軍のチベット進駐に関する若干の事項の規定》である。人民解放軍のチベット進駐問題で、チベット地方政府全権代表は交渉の中でチベット進駐部隊の具体人数、進駐軍の部署及び兵站等、人民解放軍のチベット進駐に関わる具体的な問題を提出した。これらの問題は軍事機密に属するので、公表が必要な協議書の中に書くことができず、この付属書に調印する必要ができたのである。二つ目は、《チベット地方政府がチベット平和解放を責任をもって執行する方法の協議に関する声明》である。協議に対し、ダライラマが承認を与え、ラサに戻るなら、チベットの平和解放はすんなり完了するだろう。もしダライラマが何らかの事情で暫時ラサに戻らない場合、チベット地方政府交渉代表団はこう提案した。中央人民政府は、ダライラマが協議内容執行の第一年目内は、何らかの必要により自ら居住地を選択することを認めてほしい。もしこの期間内に職務を返上する時は、その他のポストや職権の変更は認めないと。これに対し、中央人民政府は同意したが、この内容を協議書に書くと、様々な論議を引き起こす可能性があった。双方は起こるかもしれない状況について事前に予防的な規定を作成し、かかる付属書に調印した。この二つの付属書は、協議実施細則と協議で論議が尽くされていない事項の補充事項である。
■[7]
・堪布 kan1bu4 元々、チベット仏教で戒律を授ける者の称号で、漢族の仏教寺院の“方丈”に相当する。その後、仏教経典に深く通じたラマのことや、寺院や僧侶が経典を学ぶ学校の主催者のことも、“堪布”と呼ぶようになった。
・甲本 jia3ben3 チベットでの軍人の官位の音訳。百夫長(部下百人を従える、下級の軍官)。
・呈文 cheng2wen2 上申書。申告書。
・裨益 bi4yi4 益がある。役に立つ。
・無以倫比 wu2yi3 lun2bi3 匹敵するものが無い。
・葛(口偏)倫 ga2lun2 ガロン。旧チベット地方政府の高級官僚。
□ アペイ・アワンジンメイが北京からラサに戻ると、チベット地方政府は9月26日から29日まで、全ての僧籍と非僧籍の官吏、三大寺院の“堪布”、チベット軍の“甲本”以上の軍官等、300人余りによる「官僚会議」を開催、ダライラマへの上申書が決裁された。「調印された《17条の協議書》は、ダライラマの偉大な業績、チベットの仏法、政治、経済の諸方面について、大いに役に立つこと、他に比類無く、当然内容を守って執行しなければならない。」10月24日、ダライラマは毛沢東に電報を打ち、協議内容を支持すると述べた。その電報の全文は次の通り:「今年チベット地方政府はガロン・アペイ等5人の全権代表を特に派遣し、1951年4月末北京に到着、中央人民政府指定の全権代表と和平交渉を行った。双方代表は友好の基礎の下1951年5月23日チベットの平和解放の方法に関する協議に調印した。チベット地方政府とチベット族の僧侶、一般人民は一致してその内容を守り、毛主席及び中央人民政府の指導下、積極的に人民解放軍チベット進駐部隊が国防を強化することを支援し、帝国主義勢力をチベットから駆逐し、祖国の領土、主権の統一を保護することを、謹んで申し上げる。」10月26日、毛沢東主席はダライラマに返電し、彼のチベット平和解放協議実行の努力に感謝した。
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今年は、チベット解放60周年ということで、7月17日に習近平副主席を代表とする代表団がチベット・ラサに入り、記念式典が開催されました。一方、ダライラマ14世はワシントンでオバマ大統領と会見、中国政府の動きに牽制をかけました。
チベットの動きというのは、こうした時々表面化するダライラマと中国政府の軋轢や、青蔵鉄道に代表される中国のチベット開発の動きなどは耳にするものの、チベットの歴史については、あまりよく知られていないのが実態ではないでしょうか。
7月11日に国務院新聞弁公室より、《西蔵和平解放60年》白書が発表されました。この冒頭で、中国側公式見解としてのチベットの歴史が記されています。今回は、このチベットの歴史について、取り上げたいと思います。
白書、White Paperというのは、元々イギリス政府が外交報告書の表紙に白紙を用いたことからこの名があるようですが、現在は一般に政府の公式の調査報告書のことを言います。中国語では、“白皮書”bai2pi2 shu1と言います。
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■[1]
( ↓ クリックしてください。中国語原文が表示されます。)
・戍辺 shu4 bian1 国境を守る
・多封衆建 duo1feng1 zhong4jian4 明朝のチベット政策の説明で使われ、チベット僧を“国師”などの名称で分封し、チベットをチベット族による封建統治を実施したことをいう。
・貢市 gong4shi4 外国や異民族の商人を政府使節に同行させ、指定する場所で交易をさせること。
・覊縻 ji1mi2 つなぎとめる。籠絡する。
・金瓶掣籤 jin1ping2 che4qian1“掣籤”はくじを引くこと。“金瓶”は“金奔巴瓶”ともいい、高さ34cm、口径12cm、腹部の直径21.3cm、重さ2.8Kgの黄金でできた壷で、中に5本の同じ大きさのクジ引き用の象牙の棒が入れられた。チベット仏教では活佛の後継者は童子に生まれ変わる(“転世霊童”という)とされ、その童子が本当に活佛の生まれ変わりかどうかを見分ける方法として、清の乾隆帝の時に制度として定められた。
・革除ge2chu2 罷免する。
□ 13世紀、元朝は釈教総制院と宣政院を設立し、チベットの軍政事務を直接管理し、正式にチベットを元朝の行政管轄下に入れた。その後、元朝はチベットの管轄を次第に規範化、制度化した。その中には、チベットの行政機構の直接の掌握、チベットの地方官吏の任命権、駐屯軍の国境守備、数度に亘るチベットの人口・戸籍調査が含まれた。明は元の制度を踏襲し、チベット僧による分封や、貢市の実施による籠絡を行った。清朝はチベットの管理を強化した。清朝皇帝は1653年、1713年にそれぞれダライラマ5世、バンチェンラマ5世を冊封し、これより正式にダライラマ、バンチェンアルダニの封号と、彼らのチベットの政治、宗教的地位が確定した。1727年、清朝は駐蔵大臣を設置し、清朝を代表しチベット地方行政の監督を行った。1751年、清朝は正式にダライラマ7世にチベットの行政を管轄させ、郡王掌政制度を廃止し、4人のガルンから成るチベットの地方政府を設立した。1793年、清朝はグルカ人勢力の侵入を除き、有名な《欽定蔵内善後章呈29条》を公布し、清朝のチベット統治の種々の制度を完成させ、ダライラマ等の活佛の転生は“金瓶”を使ってのクジ引きを経て認定され、朝廷に報告して承認を得るものとした。清朝はその後、5人のダライラマのうち3人を「金瓶でのクジ引き」により認定し、2人は清朝皇帝が金瓶によるクジ引きは不用と認めた。清朝皇帝は更に1706年、ダライラマ6世・ツァンヤンガチェの称号を罷免し、1904年と1910年には前後2回、ダライラマ13世・ラトダンガチェの称号を罷免した。
■[2]
・頻仍 pin2reng2 たえず。続けざまに。しばしば。(よくない事について用いることが多い)[用例]外患~(外患がしばしば起こる)。
□ 1911年、辛亥革命の勃発で清朝が倒され、中華民国が建国された。1912年3月11日、中華民国最初の憲法である《中華民国臨時約法》で、中央政府のチベットでの主権が明確に定められ、「チベットは中華民国の領土の一部である」と宣言され、「漢族、満州族、蒙古族、回族、チベット族から成る、五族共和の実行」が提起された。7月17日、中華民国政府は蒙蔵委員会を設立し、チベットに対する行政管轄を行使した。1940年、国民政府はラサに蒙蔵委員会駐チベット事務所を設立、中央政府のチベット地区の常設の政府機関とした。歴史上の事実からみて、中華民国期は軍閥の内戦で、内乱が頻発していたが、中央政府は大変困難な条件下でもチベットの主権を維持した。ダライラマ14世・ダンゾンガチェは当時の国民政府から「金瓶でのクジ引き」による活佛位の継承の免除を許可した。国際的にチベットの独立を承認した国家、政府は一つも無い。
■[3]
・淪 lun2 沈む。成り下がる。(悪い状況に)陥る。[用例]~為殖民地(植民地に成り下がる)。
・掀起 xian1qi3 巻き起こる。
・瓜分 gua1fen1 土地や領土を瓜を切るように分割する。
・染指 ran3zhi3 してはならないことに手を染める。手を出す。
・簒改 cuan4gai3 改竄(かいざん)する。
・西姆拉 xi1mu3la1 Simla(シムラ)。インド北部、ヒマーチャル・プラデーシュ州の州都で、インド有数の避暑地。イギリス統治下のインドで、夏の首都として夏季に首都機能が当時の首都、コルコタから移転してきたという。
・唆使 suo1shi3 (悪事を働くように相手を)そそのかす。
・奉命 feng4ming4 命令を受ける。命令を守る。
・照会 zhao4hui4 (外交用語)覚書を提出する。口上書を手渡す。
・破産 po4chan3 (比喩的に用いて)失敗する。破綻(はたん)をきたす。
□ 1840年にイギリスがアヘン戦争を起こしてから、中国は次第に半植民地半封建社会に成り下がってしまった。19世紀末、帝国主義勢力の間で中国分割の狂気の嵐が巻き起こり、イギリスの侵略者達は機会に乗じてチベットに手を出した。イギリス軍は1888年、1903年の前後2回、武装してチベットに侵入したが、チベットの軍・民の抵抗に遭い、失敗した。武装侵略によってはチベットを植民地に変えるという目的を達することができないことから、帝国主義勢力はチベットに親帝国主義の分裂勢力の育成を始め、チベットを中国から分裂させる活動を画策し、「チベット独立」を煽動した。1907年8月31日、イギリスとロシアは《チベット協定》を締結し、初めて国際的な文献の中で中国のチベット地方での主権を「宗主権」と改竄した。1913年、イギリスはシムラ会議を画策し、チベット代表をそそのかし、初めて「チベット独立」のスローガンを唱えさせたが、すぐさま中国政府代表の拒絶に遭った。イギリス代表はその後いわゆる「折衷」案を出し、中国のチベット地方の主権を「宗主権」に改竄し、チベットを「自治」の名目で中国政府の管轄から離脱させようと企てたが、中国政府と人民の断固とした反対に遭った。1914年7月、中国政府代表は命令を守って《シムラ条約》への署名を拒否し、いかなる同様の条約や文書も一切承認しないとの声明を発表し、同時にイギリス政府に口上書を手渡し、ここにシムラ会議は遂に失敗に帰した。1942年、チベット地方政府はイギリス代表の支援の下、突如「外交局」の成立を宣言し、公然と「チベット独立」活動を行ったが、全国の人民、国民政府の反対に遭い、当初の意図を変更せざるを得なかった。
■[4]
・厳正交渉 yan2zheng4 jiao1she4 (外交用語)厳重に抗議する。→よく使われる言葉です。オバマ大統領がホワイトハウスでダライラマと会見したことに対しても、中国政府は“厳正交渉”しました。
・混迹 hun4ji4 まぎれこむ。
・駆 qu1gan3 追い払う。
□ 1947年、イギリスが背後で画策し、チベットから代表を出し、「パン・アジア会議」への参加を招聘し、会場にアジア地図と万国旗を掲げ、チベットを一つの独立国家のように扱ったが、中国代表の厳重な抗議により、会議主催者はそれを改めざるを得なかった。1949年7月8日、チベット地方政府は「共産党がチベットにまぎれこむのを防止する」ことを口実に、国民政府駐チベット事務所の人員及びそれに関係する人員をチベットから追い出すよう命じ、「漢族追放事件」を引き起こした。1949年11月、チベット地方政府はいわゆる「親善使節団」をアメリカ、イギリス、インド、ネパール等の国に派遣することを決定し、「チベット独立」への政治支援と軍事援助を求め、国家分裂の活動を強化した。1949年末、アメリカ人のラウル・トーマスは「ラジオ評議員」の名義で、チベットで「ワシントンがチベットにできるだけの援助を与える」ことができるかを探り、アメリカの雑誌紙上で「アメリカはチベットが独立し自由になることを承認する用意のある」国であると宣言した。1950年上半期、アメリカの銃、弾薬一式がカルカッタ(現コルコタ)経由でチベットに持ち込まれ、中国人民解放軍のチベット進駐に対抗するために用いられた。
■[5]
・緊鑼密鼓 jin3luo2 mi4gu3 [成語]銅鑼や太鼓をしきりに鳴らす。鳴り物入りで。(けなす意味を含むことが多い)
・義師 yi4shi1 正義のために起こした軍隊。義勇軍。
・傾訴 qing1su4 腹を割って話す。思いのたけをぶちまける。
□ 帝国主義勢力とチベット地方政府上層の反動勢力が鳴り物入りで「チベット」独立活動を画策していたのに対し、1949年9月2日、中国共産党は新華社に《外国の侵略者が中国の領土――チベットを併吞するのは決して許さない》という表題の社説を発表する権限を授けた。この社説で、列強がこの百年にチベットを侵略した過程のあらましを述べた後、次のように指摘した:「チベットは中国の領土で、如何なる外国の侵略も決して許さない。チベット人民は中国人民の分かつことのできない一部であり、如何なる外国の分割も許さない。これは中国人民、中国共産党、中国人民解放軍の断固変わることのない方針である。」社説が発表されると、チベット各界は次々とそれに共鳴し、この方針を擁護し、解放軍の早期のチベット進駐を望んだ。1949年10月1日、バンチェンラマ10世は中央政府に電報を発し、「速やかに義勇軍を派遣し、チベットを解放し、帝国主義勢力を駆逐する」よう求めた。11月23日、毛沢東、朱徳はバンチェンラマ10世に返電し、「中央人民政府と中国人民解放軍は必ずやチベット人民のその望みに応えることができるだろう」と応えた。12月2日、元チベット摂政のラチェン5世活佛の近習、ラチェン・イシチュチェンが青海省西寧に赴き、人民解放軍に帝国主義者がチベット内部の団結を破壊する罪行を行っていると訴え、速やかにチベットを解放するよう要求した。1950年初め、チベット族の遊牧民、青年、婦人と民主人士の代表百名余りが解放されたばかりの蘭州で集会を開き、チベットの解放を要求した。西康省甘孜白利寺のゴーダ5世活佛、康北玉隆地区の首領、シャガダオダン、康南の巨商、バンダドゥジが派遣した代表が北京に赴き、中央人民政府の毛沢東主席を表敬し、チベット族同胞が切に解放を願っているとの思いを切々と訴えた。
■[6]
□ 国際情勢の複雑な変化とチベット地方の厳しい局面に対応し、チベット人民の早期解放を求める思いに応える為、1949年12月、毛沢東主席はソ連を訪問し、途中、満州里で中国共産党中央に手紙を出し、「チベット進軍は早期に行うべきで、遅れてはならない」との戦略決定を行った。
■[7]
・醞醸 yun4niang4 下準備する。根回しをする。
・西康省:中華民国が設置した省で、中華人民共和国成立後、1950年に西康省蔵族自治区に改名、1955年に廃止された。現在の四川省西部の甘孜蔵族自治州、涼山彜族自治州、攀枝花市、雅安市から、チベット東部の昌都地区、林芝地区にわたる地域。
・借鑑 jie4jian4 手本とする
□ チベット解放を準備し検討する過程で、チベットは特殊な民族地区であることを考慮し、人民解放軍が順調に進駐でき、チベット人民の利益になり、民族の団結の強化に有利になるよう、中国共産党は平和解放の方式を打ち立てた。1949年3月、毛沢東主席は人民解放戦争がやがて全面的勝利となる情勢に基づき、こう指摘した。これから解放を待つ地域は「北京方式」で平和解放の可能性が増えるであろうと。その後、湖南、寧夏、及びチベットに隣接する新疆、雲南、西康等の省が相次いで平和裏に解放され、チベットの平和解放の手本となった。1950年1月20日、チベット地方政府がいわゆる「親善使節」を派遣したことに対し、毛沢東主席は中央人民政府外交部スポークスマンに授権し、次のような談話を発表した:チベット人民が求めているのは中央人民政府の統一の指導下で適度の地域自治を行うことであり、「もしラサ当局がこの原則の下に代表を北京に派遣しチベットの平和解放の問題を話し合うのであれば、このような代表は自ずと受け入れられるだろう。」
■[8]
・勧合 quan4he2 仲裁する。
・啓程 qi3cheng2 旅行に出発する
・征程 zheng1cheng2 長い旅路。道のり。
□ チベットの平和解放実現の為、中央人民政府は多くの政治工作を行った。1950年に、西南局と西北局は前後4回、代表もしくは代表団をチベットに派遣して仲裁を行い、ダライラマ14世、チベット地方政府の代表と中央人民政府とでチベットの平和解放実現の方法を探った。2月1日、西北局が派遣したチベット族幹部、張競成は、青海省人民政府副主席の廖漢生のダライラマ14世と摂政、ダザ・アワンソンラオ宛ての書信を携え、チベットへ赴き連絡を取った。3月末、中国共産党中央の承認と西南局の差配により、チベットの政治・宗教界に良好な関係を持つ漢族の高僧、志清法師が成都から出発してチベットに赴いた。7月には、ダール寺の当才活佛を団長とする青海寺院赴蔵勧和団が西寧から出発した。青海省人民政府副主席で、著明なチベット族学者のシラオガチェはダライラマとチベット族同胞に向けラジオ演説を行い、チベット地方政府が「速やかに全権代表を北京に派遣し平和協議を進める」よう呼びかけた。7月10日、西康省甘孜白利寺の五世格達活佛一行10人が白利寺を出発、チベット仲裁の道へ足を踏み出した。しかしながら、これら一連の仲裁と会話促進の活動は、帝国主義侵略勢力とチベット親帝国主義分裂分子の度重なる妨害を受け、仲裁メンバーは追い出されたり軟禁されたりし、ある代表団はばらばらにされ、ゴーダ活佛は昌都で毒殺された。
■[9]
・慫慂 song3yong3 (あることをするように)そそのかす。たきつける。煽動する。
・把持 ba3chi2 (貶義語)地位や権利を独占する。一手に握る。
・陳兵 chen2bing1 兵を配置する。
□ これと同時に、チベット地方政府は帝国主義侵略勢力の煽動とチベット上層の親帝国主義分裂勢力の専横の下、チベット軍を極力拡充し、その主力の7つの代本(師団に相当)が金沙江西岸に沿って昌都を中心とする周辺地区に兵を布陣し、人民解放軍がチベットを解放するのを阻止しようとした。昌都は西南からチベットにはいるのに必ず通らなければならない土地である。1950年8月23日、毛沢東は、昌都を占領することは「チベットの政治変化をもたらし、来年ラサに進軍するのに有利であり」、「チベット代表団を促し北京で折衝し、平和解決を求めることができる可能性がある」と表明した。10月6日から、人民解放軍のチベット進駐部隊は南北二つの路線からそれぞれ金沙江を渡り、昌都解放の作戦任務を遂行した。10月19日、昌都は解放された。そうした状況下で、昌都地区の第1次人民代表会議が開催され、選挙により昌都地区人民解放委員会が誕生し、昌都地区僧侶・一般人民チベット平和解放促進委員会が成立した。昌都戦役は平和折衝の扉を開き、チベット平和解放促進の為、必要条件を生み出した。
(以下次回)
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