中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

莫言: 講故事的人 (物語を語る人)[5]

2012年12月17日 | 中国ニュース

  莫言のスウェーデン・アカデミーでのノーベル文学賞受賞記念講演、今回が最終回です。長い間、おつきいいただき、ありがとうございました。今回も、原文は以下にリンクを貼っておきます。

http://culture.people.com.cn/n/2012/1208/c87423-19831536-5.html

  莫言のスピーチを読んでいて、彼の少年時代からの人生体験や、故郷の山東省の農村の風土、また人民公社時代から改革開放に至る中国近現代史というものが、彼の文学の作風に強く影響していることが分かりました。そしてまた、彼が紹介した小説を、一度読んでみようか、という興味を引き起こすことができました。
  ただ、今回の最後の部分では、最後の小学生時代に学校から「苦難の展示」を見に行った時のこと以降の話は、いかにも付けたしのようで、その前のところまでで打ち切ったほうがよかったような気がします。

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  最後にもう一編、《生死の疲労》のことを話させてください。この本の題名は仏教の経典から取ったのですが、聞いているところでは、この題名を翻訳するのに、各国の翻訳家が頭を悩ませているそうです。私は仏教の経典を別に深く研究した訳ではないので、仏教に対する理解はたいへん浅いものですが、ここでそれを題名としたのは、私は、仏教の多くの基本思想とは、真の宇宙の意識であり、人間社会の多くの紛争は、仏教家の眼から見れば、全く意義の無いものであると感じたからです。このように、ある種の高い目線から人の世を見下ろせば、明らかにたいへん悲しむべきものです。もちろん、私はこの本を布教書にしようとしているのではなく、私が書いているのはやはり人間の運命と人間の感情であり、人間の極限と人間の寛容であり、また人間が幸福を追求し、自分の信念を堅持するための努力と犠牲です。小説の中で、あの己が身ひとつで時代の潮流と抗う「青い顔」は、私の心の中では一人の本当の英雄です。この人物の原型は、私たちの隣の村の一人の農民で、私が子供の時、いつも彼が一台のぎいぎい音を立てる木製の荷車を押して、私の家の前の道を通るのを見ました。荷車を曳いているのは一頭のびっこのロバで、そのロバを引いているのは、彼の纏足をした奥さんでした。この奇妙な取り合わせは、当時の農業集団化の社会の中では、明らかに風変わりで、時代遅れのものでした。私たち子供の目にも、彼らは歴史の潮流に逆行して動く道化に見え、彼らが町を行く時には、私たちは義憤に満ちて彼らに石を投げたりしました。それから何年も経って、私が執筆している時に、この人物、この場面が、ふと私の頭の中に浮かんだのです。私はいつか彼のために本を一冊書くことになるだろう、遅かれ早かれ彼の物語を世の中の人々にお話しようと思っていたのですが、そのまま2005年になって、私があるお寺で、「六道輪廻」の壁画を見た時に、この物語を描く正しい方法が分かったのです。

  私がノーベル文学賞の受賞が決まってから、多少の論争が起こりました。最初、私は皆の論争の対象が私であると思っていたのですが、次第に、この論争がされている対象が、私とは少しも関係の無い人物であるように感じました。私は一人の劇を鑑賞している人物のように、人々の演技を見ていました。私は、あの賞を受賞した人の体が花で埋まって、石ころを投げつけられ、泥水をかけられているのを見ました。私は彼が打ちのめされやしないかと心配しましたが、彼は微笑みながら花と石ころの中から這い出してきて、体についた泥水をきれいに拭き取ると、平然と一方に立ち、人々に向かってこう言いました。一人の作家として、最も良い話し方は、文章にすることです。私が言わないといけない話は、全て私の作品の中に書きました。口をついて出た言葉は、風の間に間に散って無くなりますが、ペンで書いたものは永遠に磨滅しません。私は皆さん方に辛抱強く私の本を読んでほしいと思います。もちろん、私は皆さん方に私の本を読めと強制する資格はありませんが。

  よしんば皆さん方が私の本を読んでも、皆さん方が私に対する見方を変えてくれるとは期待していません。世界中捜しても、全ての読者に好かれる作家などいません。今日のような時代ではなおさらそうです。

  私は何も話したくないのですが、今日のような場合は話をしなければなりません。それで、簡単にあと幾つかお話をします。

  私は物語の語り部なので、やはり皆さんに物語をお話します。1960年代、私が小学三年生の時、学校から苦難の展示会を見に行きました。私たちは先生の引率で、声を出して大声で泣きました。先生に私のパフォーマンスを見せるため、私はもったいなくて顔についた涙を拭くことができませんでした。私は、何人かの同級生がこっそり唾を顔に付けて涙を流したふりをしているのを見ました。私はまた一群の本当に泣いたりウソ泣きをしている同級生の中で、一人の同級生は、顔に一滴の涙も付けず、口からも一言も発せず、手で顔を覆うこともしませんでした。彼は大きく眼を見開いて私たちを見て、眼からは驚きと困惑の表情が浮かべていました。その後、私は先生にこの生徒の行為を報告しました。それで、学校はこの生徒を警告処分にしました。それから何年も経ってから、私が自分が先生に密告したことを悔いて告白すると、先生はこう言いました。あの日、先生にこのことを言いに来た生徒は十数名いたと。この生徒は数十年前にもう亡くなったのですが、彼のことを思い出す度に、私は心から申し訳なく思います。この事件によって私が悟った道理は、多くの人が泣いている時、泣かない人がいることを許さなければならない。泣くことがパフォーマンスになっている時は、なおさら泣かない人を許さなければならないということです。

  もう一つお話をします。三十年余り前、私はまだ軍隊で働いていました。ある日の晩、私が事務所で本を読んでいると、年配の長官が扉を開けて入って来ました。私を面と向かった位置で見ると、こう独り言を言いました。「ああ、誰もいないのか。」私はそれで、すぐに立ち上がって、大声で言いました。「どうして私は人ではないのですか。」その長官は私にたてつかれて顔を耳まで真っ赤にし、気まずそうに出て行きました。このことがあって、私はしばらく得意満々で、自分が勇気ある闘士であると思っていました。けれども何年かして、私はこのことで深く心がとがめるようになりました。もうひとつ、最後のお話をさせてください。これは何年も前、私の祖父が私に話して聞かせた話です。八名の外地へ出稼ぎに行った左官が、暴風雨を避けるため、荒れ果てた寺の中に非難しました。外では雷鳴が次々と鳴り響き、火の玉がいくつも寺の門の外を行ったり来たり転がり、空中では更にぎいぎいと龍が叫び声を上げているようでした。八名は皆あまりの恐ろしさに肝をつぶし、顔から血の気が引いていました。一人が言いました。「私たち八人の中に、一人天に背いて悪事を働いた者がいるにちがいない。悪事を働いた者は、自分で寺を出て、罰を受けるべきだ。そうすれば、良い人間は巻き添えにならずに済む。」当然、誰も出て行こうとはしません。また一人がこう提案しました。誰も出て行きたくないのであれば、皆、自分の麦藁帽子を外へ放り投げてみよう。誰の麦藁帽子が風に吹かれて寺の門を出たかで、誰が悪事をしたかが分かる。それでその男に出て行って罰を受けてもらおう。」それで皆は自分の麦藁帽子を寺の門の外へほうり投げたところ、七人の麦藁帽子は風で寺の中に戻されましたが、一人の麦藁帽子だけ、風に巻かれて外に出て行きました。皆はこの男に罰を受けるよう促しましたが、もちろんこの男は出て行きたがりません。皆は彼を担ぎ上げ寺の門から放り出しました。物語の結末は、おそらく皆さんが想像された通りです。その男が寺の門を放り出されるやいなや、その荒れ果てた寺は、轟音をあげて崩れ落ちました。

  私は一人の物語の語り部です。物語を語ることで、ノーベル文学賞を受賞しました。私が賞を受賞した後、たくさんのすばらしい物語が起こりました。これらの物語により、私は真理と正義は存在するのだと堅く信じるに至りました。

  今後の年月でも、私は引続いて物語を語っていきます。

  ありがとう、皆さん。

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莫言: 講故事的人 (物語を語る人)[4]

2012年12月16日 | 中国ニュース

  莫言のスウェーデンアカデミーでの講演、第4回目です。原文は、以下にリンクを貼っておきます。

http://culture.people.com.cn/n/2012/1208/c87423-19831536-4.html

  自らの生い立ちから、自分の作品と、延々と自分のことを述べてきたため、さすがに聴衆の気持を気にしてあやまっておられますが、それはともかく、現実の社会の問題そのものを述べると小説ではなくルポルタージュになってしまう。小説は人間を描くべきだ、という指摘は、おもしろいと思います。

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  作家の創作過程には、それぞれ特徴がありますが、私が書いた本一冊一冊の構想、インスピレーションが触発された点も同じではありません。ある小説、例えば《透明なニンジン》は夢で見たことが基になっています。ある小説、例えば《天国のニンニクの芽の歌》は現実の生活の中で起こった事件を発端にしています。けれども、夢で見たことを基にするにせよ、現実を発端にするにせよ、最後は個人の体験と結合してはじめて、鮮明な個性を持ち、無数の活き活きとした、細かいディーテルまで刻まれた典型的な人物の、言葉が豊富で多彩で、構造に創意工夫が凝らされ、個性的な文学作品に変わるのです。特に申し上げておきたいのは、《天国のニンニクの芽の歌》の中で、私は本物の講談師を登場させ、本の中で重要な役柄を演じてもらいました。私はたいへん申し訳ない気持ちで、この講談師の実名を使わせてもらいました。もちろん、彼の本の中での全ての行為はフィクションです。私の書いたものの中では、このようなことがしばしば起こります。書きはじめの時には、私は彼らの実名を使うことで、一種の親近感を得ようと思うのですが、作品の完成後に、彼らのために名前を変えてあげようと思っても、もうそれは不可能だと感じるのです。ですから私の小説の中の人物と同名の人が父を捜し出し、不満を漏らすということがありましたが、父は私の代わりに彼らに謝ってくれました。けれども、同時に彼らにそれを真に受けないようアドバイスしてくれました。父はこう言いました。「彼は《赤いコウリャン》で、最初にこう言いました。「おれの親父のあのヤクザ者」。でも私は気にしません。あなた方は何を気にするのですか。」

   私は《天国のニンニクの芽の歌》のような社会の現実にごく近い小説を書く時に、直面する最大の問題は、実は社会の暗黒現象を批判する勇気があるかどうかではなく、ここで燃焼させた激情や怒りのために、政治が文学を押し倒してしまい、この小説がある社会の事件のルポルタージュになってしまうことです。小説家も社会の中の一員なので、当然自分の立場や観点があるのですが、小説家がものを書く時には、必ず人間の立場に立って、全ての人を、人として描かなければなりません。

  このようにしてはじめて、文学は事件を発端としても事件を超越することができ、政治に関心があっても政治を超えることができるのです。おそらく私が長い年月苦しい生活を送ってきたので、私は人の性に対して深い理解をすることができます。私は、本当の勇気とは何かが分かりますし、本当の憐憫とは何かも分かります。私は、どの人の心にも、是非、善悪をはっきりと決められない朦朧とした部分があり、この部分こそ、正に文学家がその才能を展開すべき広大なフィールドなのです。この矛盾に満ちた朦朧とした部分を、正確に、活き活きと描きさえすれば、必然的に政治を超越し、優秀な文学的な素地を備えることができるのです。

  だらだらと休みなく自分のことを述べた作品は、読む者をうんざりさせますが、私の人生は私の作品と密接に関連しており、作品を述べずして、話のしようがないと感じています。だから、その旨お許しいただきたいと思います。私の初期の作品では、私は現代の講談師として、文章の背後に隠れています。けれども、《白檀の刑》という小説からは、私は遂に舞台の背後から舞台の前に飛び出しました。もし初期の作品は自分で独り言を言って、読者を無視していると言うなら、この本からは、私は自分が広場に立って、たくさんの聴衆を前に、様々な脚色をしながらお話をしているように感じています。これは世界の小説の伝統であり、わけても中国の小説の伝統であります。私は嘗て積極的に西洋の現代小説から学び、また嘗ては様々な叙事のスタイルを弄んだことがありますが、遂には伝統に回帰したのです。

  もちろん、今回の回帰は永遠不変の回帰ではありません。《白檀の刑》の後の小説では、中国の古典小説の伝統を継承し、また西洋の小説技法も借りた、混合の文体です。小説の領域のいわゆる新たな創造とは、基本的にはこうした混合の産物なのです。本国の文学の伝統と海外の小説の混合だけでなく、小説とその他の芸術ジャンルとの混合でもあり、ちょうど《白檀の刑》であれば、民間の演劇との混合であり、私の初期の幾つかの小説であれば、美術や音楽から、とりわけ雑技(曲芸や軽業)の中から栄養分を吸収しているのと同様です。


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莫言: 講故事的人 (物語を語る人)[3]

2012年12月15日 | 中国ニュース

  莫言のスウェーデンアカデミーでの講演、「講故事的人」の3回目。例によって、原文は下のリンクからご覧ください。
http://culture.people.com.cn/n/2012/1208/c87423-19831536-3.html

  過去2回は、莫言の少年時代からの生い立ち、また彼の人生に大きな影響を与えた亡き母の思い出が語られていましたが、この後は、彼の代表作の背景が語られています。今回の冒頭では、前回触れた、ウィリアム・フォークナー、ガルシア・マルケスから受けつつ、そこからどうやって自分の文学スタイルを構築していったかが述べられています。

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  私はこの二人の巨匠の後ろを二年間ついて行きましたが、そしてできるだけ早く彼らから離れないといけないと気がつきました。私はある文章の中でこう書きました。彼らは二基の灼熱に燃えたボイラーであり、私は氷の塊である。彼らとあまりに近い距離にいると、彼らに熱せられて蒸発してしまう。私が体得したところでは、一人の作家が別のある作家から影響を受けるのは、根本的には影響を受ける者と影響させる者とが、心の奥底でよく似たところがあることに拠ります。正にいわゆる「心に霊犀あり、一点通ず」(以心伝心で相手の心が分かる)です。ですから、たとえ彼らの本をあまり読んだことがなくても、何ページか読めば、彼らが何をしたかを理解でき、彼らがどのようにしたか理解でき、すぐさま私は何をすべきか、どのようにすべきかを理解することができます。私がすべきことは実はたいへん簡単で、自分のやり方で、自分の物語を語ることです。私のやり方というのは、私がよく知っている市場の講談師のやり方で、私の祖父母、村の老人たちに物語を語るやり方です。率直に言って、話をする時には、私は誰が聴衆になるか考えたことはありません。ひょっとすると、私の聴衆は私の母のような人かもしれず、ひょっとすると聴衆は私自身かもしれません。私自身の物語は、最初は私自身の体験です。たとえば《枯河》の中でこっぴどくぶたれる子供、《透明な赤いニンジン》の中で、最初から終わりまで一言も発しない子供がそうです。

  私は確かに嘗てある失敗をして、父親にひどくぶたれました。私はまた橋梁工事の現場で、鍛冶屋の親方のためにふいごを吹いたこともあります。もちろん、個人の経験は、それがどんなに珍しくても、それをそのまま何も変えずに小説に書き記すことはできません。小説はフィクションでなければならず、想像がなければなりません。多くの友人は《透明なニンジン》が私の最も良い小説だと言ってくれ、私はそれに反論しませんが、同意もしません。けれども私は《透明なニンジン》は私の作品の中で最も象徴的で、最も意味深長なものであると思います。あの全身真っ黒で、超人的な苦しみを我慢する能力を持ち、超人的な感受性を持つ子供は、私の全作品の霊魂(精神)です。その後の小説で私はたくさんの人物を書きましたが、彼ほど私の精神に近い人物は一人もいません。また次のようにも言えます。一人の作家が描き出す何人かの人物には、必ず一人リーダーがいると。この寡黙な子供こそがリーダーで、彼は一言も発しませんが、力強く様々な人物を導き、高密県東北郷という舞台で、思う存分演技をしています。自分の物語はしょせん限りがあり、自分の物語を話し終わると、他の人の物語を話さないといけません。そして、私の肉親たちの物語、村人たちの物語、更に老人たちの口から聞いたことのある祖先の人たちの物語と、集合命令を聞いた兵隊たちのように、私の記憶の奥底から湧き出てきました。彼らは期待に眼を輝かせて私を見、私が彼らのことを書くのを待っています。私の祖父、祖母、父、母、兄、姉、叔母、叔父、妻、娘と、皆私の作品に出ましたし、またたくさんの高密県東北郷の同郷の人たちも、私の小説に登場しました。もちろん、私は彼らを文学的に加工し、彼ら自身より誇張して、文学作品中の人物にしています。

  私の最新の小説《蛙》では、私の叔母のイメージが出てきます。私がノーベル賞を受賞したので、たくさんの記者が叔母の家を取材し、最初は叔母も我慢して記者の質問に答えていたのですが、間もなくその煩雑さに我慢できなくなり、町に住む叔母の息子の家に逃げ込んで、そこに隠れてしまいました。叔母は確かに私が書いた《蛙》のモデルですが、小説の中の叔母は、現実の叔母とは天と地の差があります。小説の中の叔母は横暴で勝手気ままに振舞い、まるで女盗賊のようですが、現実の叔母は優しく朗らかで、絵に描いたような良妻賢母です。現実の叔母は晩年、生活が幸せで満ち足りていますが、小説の中の叔母は、心に大きな苦しみを持ち、そのため不眠症を患い、黒い長衣を纏って、幽霊のように暗闇の中をふらふらと歩き回っています。私は叔母の寛容に感謝しています。私が小説の中で叔母をそんなふうに描いても怒らないのですから。私も叔母の聡明さに十分敬意を払い、叔母も小説の中の人物と現実の人物の複雑な関係を正確に理解してくれました。母が亡くなった時、私の悲しみは甚だしく、それを一冊の本にして母に奉げることにしました。それが《豊乳肥臀》です。前もって考えがありましたし、気持ちが充実していたので、わずか83日間で、50万字に及ぶ小説の初稿を書き上げました。

  《豊乳肥臀》で、私はなんらはばかるところなく私の母の実際の体験に関した素材を使いましたが、本の中の母の感情の推移は、フィクションか、もしくは高密県東北郷の多くのお母さん方の体験から取材しました。この本の扉に、私は「天国の母の霊に捧ぐ」と書きましたが、この本は実際には世の中の全ての母親に奉げるもので、それは私のきちがいじみた野心で、つまり小さな「高密県東北郷」を中国、或いは世界の縮図のように描きたいと望んでいたかのようなのです。


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莫言: 講故事的人 (物語を語る人)[2]

2012年12月14日 | 中国ニュース

  前回に続き、莫言のスウェーデンアカデミーの講演、2回目です。

  原文は、例によって、次のリンクからご覧ください。
http://culture.people.com.cn/n/2012/1208/c87423-19831536-2.html

  前回のお話で莫言の原点が、農村での、1950年代終わりの大躍進の後の自然災害期の飢え、そして今はもう亡くなっていますが、母親の強い影響力によることが分かりました。
  第2回の今回は、貧しさゆえ小学校を中退し、牛や羊の放牧をして一家の生計を助けていかなければならなかった少年時代、軍隊に入り、折しも70年代後半からの改革開放政策により、大学に行き、作家としての一歩を踏み出すという幸運に恵まれた青年時代と話が進んでいきます。

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  ことわざに、「山河を改造するのは容易いが、本性を入れ換えるのは難しい」と言います。私は父母からどんなに懇ろに教え導かれようと、話をするのが好きな天性は、改まりませんでした。このことは私の名前、「莫言」(言う莫れ)を、ちょうど自分に対する皮肉のようにしています。私は小学校を卒業前にやめてしまいました。というのは、幼い頃は体が弱く、重い仕事ができず、荒地の草むらに行って牛や羊の放牧をするしかなかったからです。私は牛や羊を連れて小学校の門の前を通る時、以前の同級生達が学校の中でわいわいがやがややっているのを見ると、心の中が悲しさと寂しさで一杯になりました。人間というものは、たとえ子供であっても、集団を離れるとどれほど苦痛か、深く会得しました。荒れ地に着くと、私は牛や羊を放ってやり、彼らに自由に草を食べさせました。青い空は海のようで、草地は果てしなく広がり、周囲には人影が無く、人の声はせず、ただ鳥が空の上で鳴いているだけでした。私は孤独で、寂しく、心の中はからっぽでした。時には、私は草地の上に横になり、上空を物憂げに漂っている白雲を見つめ、頭の中ではたくさんの訳のわからない幻想が浮かんできました。私たちの故郷にはたくさんの、キツネが美女に化ける話が伝わっていました。私はキツネが美女に化けて、私といっしょに牛を放牧する幻想を思い描きましたが、遂に実現しませんでした。けれども一度、真っ赤なキツネが私の目の前の草むらから跳び出してきた時には、私はびっくりして、しばらく地面にしゃがみこんでいました。キツネが走り去り跡形も無くなっても、私はまだそこでぶるぶる震えていました。ある時は、私は牛の傍に佇んで、コバルト色の牛の眼と、牛の眼の中に映った自分の姿を見つめていました。ある時は、私は鳥の鳴き声を真似して上空の鳥と対話しようと試み、またある時は、一本の木に対し私の気持ちを訴えました。けれども鳥は私を相手にしてくれず、木も私を相手にしてくれませんでした。それから何年も経って、私は小説家になると、当時のたくさんの幻想は、皆私に小説に書かれました。多くの人が、私の想像力が豊かだとほめてくれ、何人かの文学愛好者は、私に想像力を養う秘訣を教えてほしいと言いましたが、これには私は苦笑するしかありませんでした。ちょうど、中国の先哲、老子が言ったように、「福は禍の伏する所、禍は福の倚る所」であり、私は幼くして学校をやめ、飢えと孤独、読むべき本の無い苦しみを経験しましたが、私はこのために先輩作家の沈従文のように、早くから社会や人生という大著を読み始めました。前に述べた、市場に行って講談師の講談を聞いた話は、この大著の中の1ページに過ぎません。

  学校をやめてから、私は大人たちの中に混じり、「耳学問」の長い人生を開始しました。私の故郷は嘗て一人の物語を語る偉大な天才、蒲松齢を輩出しました。私たちの村の多くの人は、私も含め、彼の後裔です。私は集団農場の畑の中で、生産隊の牛小屋や馬小屋で、祖父や祖母の熱いオンドルの上で、時にはゆらゆら揺れながら進む牛の曳く荷車の上で、たくさんの妖怪変化の物語、歴史上の奇談、言い伝えなどを聞きました。これらの物語は、故郷の自然環境、家族や歴史と密接に結びつき、私にとって強烈な現実感を生じさせました。

   私はいつの日かこうしたものが私の創作の素材になるなどとは夢にも思っていませんでした。私は当時は物語好きの子供に過ぎず、人々の話すのを夢見心地で聞いていました。当時、私は絶対的な有神論者で、私は万物には魂が宿ると信じていて、大木を見ると厳かに手を合わせました。私は一羽の鳥でも願えばいつでも人になると信じていて、見知らぬ人に出会うと、ひょっとすると動物が化けたのではないかと疑いました。毎晩、私が生産隊の労働点数記録事務所から家に帰る時、寄るべない恐怖が私を包み込み、肝っ玉を太くするため、私は走りながら大きな声で歌いました。当時私は変声期で、声はしゃがれていて、声の調子は聞くに堪えず、私の歌声は、村人たちの悩みの種でした。

  私は故郷で二十一年間暮らしましたが、その間家から最も遠くへ行ったのは、汽車に乗って青島に行った時で、危うく木材工場の巨大な木材の間で道に迷うところでした。母が青島でどんな景色を見たか聞いた時に、私はがっかりして母に言いました。何も見なかったよ。ただ積上げられた材木を見ただけだと。しかし、その時の青島行きで、私に故郷を離れ外の世界を見たいという強烈な願望が生じました。

  1976年2月、私は招集に応じて軍隊に入るため、背中には母が結婚の時の首飾りを売って買ってくれた四冊の《中国通史簡編》を背負い、高密県東北郷という、愛憎半ばする場所を出て、我が人生の重要な時期を開始しました。私が認めざるを得ないのは、もしも何年にも亘る中国社会の大きな発展と進歩が無かったら、もしも改革開放が無かったら、私がこのように作家になることなどあり得なかったということです。

  軍営での無味乾燥の生活の中で、私は1980年代の思想解放と文学ブームを迎えました。私は耳で物語を聞き、口で物語を語る子供から、ペンを執って物語を著述することを試み始めました。最初の道のりは決して平坦ではなく、私は当時は二十年余りの農村生活の経験が文学の豊かな鉱脈であることなど別に意識していませんでしたし、当時は文学とは良い人の良い行いを書くこと、すなわち英雄や模範を書くことだと思っていました。ですから、いくつか作品を発表しましたが、その文学価値は低いものでした。

  1984年秋、私は解放軍芸術学院文学系に入学しました。恩師で著名な作家、徐懐中の指導の下、《秋水》、《枯河》、《透明なニンジン》、《赤いコウリャン》等の短編小説を書きました。《秋水》という小説の中で、はじめて「高密県東北郷」という文字が出てきます。これより、あちこち流浪していた農民が自分の土地を得たように、私という文学の放浪者は、遂に身の落ち着け所、心の拠り所を得ました。私の文学フィールドである「高密県東北郷」を作り出す過程で、アメリカのウィリアム・フォークナー、コロンビアのガルシア・マルケスは、重要なヒントを与えてくれました。私は彼らの作品をまじめに読んだわけではありませんが、彼らが切り開いた勇敢な精神は私を励まし、一人の作家は必ず自分のフィールドを持たないといけないということを理解させてくれました。人間は日常生活では謙虚で譲歩しなければなりませんが、文学の創作では、大威張りで、独断専行しなければならないのです。


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莫言: 講故事的人 (物語を語る人)[1]

2012年12月13日 | 中国ニュース

  今回は、中国の作家、莫言氏が、ノーベル文学賞を受賞し、スウェーデンアカデミーで講演された時の講演内容の日本語訳をご紹介します。
  大陸中国から初のノーベル文学賞受賞ということで、授賞式での服装をどうされるかが話題となりましたが、結局、授賞式は燕尾服を着用され、それに先立つ、今回ご紹介するスウェーデンアカデミーでの講演会では、中山服を着られました。

  講演の題名は「講故事的人」、英語ではStory Teller、物語を語る人で、物語の語り部たる小説家になるまでの生い立ちを述べられていて、なかんかおもしろい話になっていると思います。
  ただ、例えばお母さんのお墓の上を鉄道が通ることになったので、移転のために墓を掘り返すエピソードは、魯迅の《故郷》の中のエピソードにそっくりですし、市場で講談を聞いてきて、そのお話を周りの人に臨場感を出して語るエピソードは、映画の《中国の小さなお針子》の中のエピソードによく似ているのは、偶然でしょうか?

  ともかくも、内容をご覧ください。長い講演内容なので、何回かに分けてご紹介します。
   尚、中国語原文は、次のところからご覧ください。

http://culture.people.com.cn/n/2012/1208/c87423-19831536.html


  尊敬する、スウェーデンアカデミーの会員の皆さん:

  TVやネットを通じ、皆さん方は遥か遠く離れた高密県東北郷のことを、既に多少なりともご理解いただいているかもしれません。皆さん方は、私の90歳になる父親の写真を見たかもしれませんし、私の兄、姉、私の妻と娘、私の1歳4カ月になる孫娘の写真を見たかもしれません。けれども、私が今最も懐かしく思っている、私の母親に、皆さん方は永遠に会うことはできません。私がノーベル賞を受賞し、多くの人が私の栄光を共に分かち合いましたが、私の母はそうすることができません。

  私の母は1922年に生まれ、1994年に亡くなりました。母の遺骨は、村の東側の桃畑の中に埋葬しました。去年、鉄道がそこを通るというので、私たちは母の墓を村から遠く離れたところに移さざるを得ませんでした。墓を掘り起こしてみると、柩は既に朽ち果て、母の遺骨は、既に土と混じり合っていました。私たちは遺骨のしるしとして幾らかの土を掘り出し、新しい墓の中に移しました。そしてその時から、私は、私の母が大地の一部になったと感じました。私が大地の上で話すことは、つまり母に対して話をすることなのです。

  私は母の一番下の子供でした。私が憶えている中で最初の出来事は、家中でたった一つの魔法瓶を持って、人民公社の食堂にお湯を入れに行ったことです。飢えて力が出ず、うっかり魔法瓶を割ってしまいました。私はたいへんびっくりして、草むらの中に逃げ込み、その日一日、そこから出ることができませんでした。夕方になって、私は母が私の幼名を呼んでいるのが聞こえました。私は草むらから抜け出し、怒ってひっぱたかれるものと思っていたのですが、母は私を叩きも怒りもせず、ただ私の頭を撫で、口の中で長いため息を出しただけでした。私の記憶の中で、最もつらかった事件は、母について集団で麦の穂を拾いに行った時で、麦畑の番人が来たので、麦の穂を拾いに来た人は次々逃げて行きましたが、母は纏足の足で、速く走れないので、捕まえられ、その長身の番人から頬を叩かれました。母はよろけて地面に倒れました。番人は私たちが拾った麦の穂を取上げると、口笛を吹きながら意気揚々と去って行きました。母は口元から血を流し、地面にしゃがみこみ、顔には絶望的な表情を浮かべていました。私はそれを一生忘れることができません。それから何年も経ってから、あの麦畑の番人をしていた男が、白髪交じりの老人となって、村の市場で出会いました。私は飛び掛って行ってあの時の仇を取ろうと思いましたが、母は私を引きとめ、静かに言いました。「息子や、あの時の私を叩いた男は、この老人とは別人だよ。」

  私が最も印象深く覚えている事件は、ある年の中秋節のお昼のことで、我が家では珍しく餃子を作ったのですが、ひとり分、お碗一杯しかありませんでした。ちょうど餃子を食べようとしていた時、一人の乞食の老人が我が家の玄関にやって来ました。私はお碗に半分の乾し芋を両手で奉げ持ち、乞食のところに行ったところ、乞食はぷんぷん怒ってこう言いました。「私は年寄りだよ。おまえたちは餃子を食べているのに、私には乾し芋を食べさすなんて、おまえたちの心はどうなっているんだ。」私は前後の見境もなく腹を立て、言いました。「私たちは一年のうちでもそう何回も餃子が食べられる訳ではないし、ひとりに小さなお碗に一杯しかなく、腹半分も食べられないんですよ。あなたに乾し芋をあげるだけでも悪くないですよ。要るなら持って行きなさい。要らないなら、出て行ってください。」母は私をたしなめると、自分のお碗に半分入った餃子を両手でかかえて持って行き、老人のお碗の中に入れてやりました。

  私が最も後悔したことは、母と白菜を売りに行った時のことで、思わず知らず一人の白菜を買いに来た老人に一毛多く代金を取ってしまいました。お金の勘定が済むと、私は学校へ行きました。授業が終わって家に帰ると、めったに涙など流さない母が、満面に涙を浮かべていました。母は決して私を叱りませんでしたが、そっとこう言いました。「息子よ。あなたは母の面子をつぶしてくれたね。」

  私が十いくつかの歳に、母は重い肺病を患い、飢えと痛みと疲労で、我が家は困難な状態に陥り、光明や希望を見出すことができませんでした。私は強い不吉感に襲われ、母がいつ何時自殺を図るのではないかと心配しました。毎日仕事から帰ってきて、門を入るや、私は大声で母を呼び、返事を聞いてはじめて、石が地面にきちんと落ちたかのように安心しましたが、すぐに母の返事が聞こえないと、恐れおののき、脇棟や粉挽き小屋に駆けて行き、探しました。ある時、私は全ての部屋を探しましたが母の姿を見つけることができませんでした。私は中庭にしゃがみこんで大声で泣きました。その時、母が背中に柴を一束背負って外から帰って来ました。母は私がめそめそしていたのが不満でしたが、私も母に私が心配していたとは言えませんでした。母は私の気持ちを察して、こう言いました。「息子よ、安心おし。私は生きていても楽しいことなんて何も無いが、閻魔様がお呼びにならない限り、逝ったりしないから。」私は生まれつき、顔が醜く、村では多くの人が面と向かって私を嘲笑し、学校では数人の気性の荒い同級生に、時にはそのため殴られることさえありました。私が家に帰って泣きじゃくっていると、母は私にこう言いました。「息子よ、おまえは醜くなんかないよ。鼻も眼もちゃんと付いているし、両手両足もちゃんとしている。どこが醜いの?それに、おまえの心がきれいで、良い行いをたくさんしさえすれば、よしんば醜くても、きれいになれるのよ。」後に私が町で暮らすようになって、何人かの教養のある人が相変わらず陰で、時には面と向かって私の容姿をけなすことがありましたが、私は母の言葉を思い出し、心穏やかに彼らに謝りました。

  私の母は字が読めませんでしたが、学問のある人をたいへん尊敬していました。我が家は貧しく、次の食事に事欠くこともしばしばでしたが、私が母に本や文房具を買ってほしいと言うと、母はいつもその希望をかなえてくれました。母は働き者で、怠け者の子供を嫌いました。けれども、私が勉強していて仕事に遅れた時は、私を叱ったことはありませんでした。一時期、村の市場に講談師がやって来ました。私はこっそりそれを聞きに行き、母が私に割り当てた仕事を忘れてしまいました。このため、母は私を叱りました。夜、母が行灯の前で家族のために綿入れの服を急いで作っていた時、私は我慢できずに、昼間講談師のところから聞いてきた話を母に話して聞かせました。最初、母は嫌な顔をしました。というのも、母の心の中では、講談師は口先がうまいだけで、全うな仕事をしていない人間で、そんな男の口から、何も役に立つ話など聞けないと考えていたからです。けれども、私がその話をもう一度話して聞かせると、次第に母の心を惹きつけました。それ以後、市の立つ日には、母は私に仕事を割り当てず、私が市場に講談を聞きに行くのを黙認してくれるようになりました。母の恩情に報いるため、また母に私の記憶力をひけらかすため、私は昼間聞いた話を、臨場感を出して母に聞かせました。

  間もなく、私はただ講談師が話した物語をそのまま話して聞かせるだけでは満足できなくなり、話の過程で、絶えず味付けを加えるようになりました。私は母の興味を惹くように、自分で筋をこしらえたり、時には話の結末を変えることさえありました。私の話の聴衆は、母だけでなく、姉、おば、祖母も聴衆になりました。母は私の話を聞き終わると、時には心配で気が気でない様子で、私に対して言っているかのようで、また自問自答しているかのように、こう言いました。「息子や、おまえは大きくなって、どんな人間になるんだろうね。まさか口先を弄んで飯を食うんじゃないだろうね。」私は母の心配が理解できました。なぜなら、村の中では、おしゃべりな子供というのは、人に嫌がられ、時には自分自身、更には家族に面倒をもたらすからです。私が小説《牛》の中で描いた、おしゃべりで村人に嫌がられる子供は、私の幼少時代のイメージです。母はいつも私におしゃべりは控えるように諭しました。母は私が寡黙で、おとなしくておおらかな子供になるよう望みました。けれども私の体には極めて強い話をする能力と、極めて大きな話をする欲望が表れていて、このことは疑いなく極めて危険であったのですが、一方、私が物語を語る能力は、また母に喜びをもたらしていて、このことは母を深い矛盾の中に陥れたのです。

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