中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

《紅楼夢》の中の節句行事(1)

2011年08月28日 | 紅楼夢

 

紅楼夢第53回寧国府過年祭宗廟

 

 春節、端午節、中秋節という中国の伝統的な節句は、人々の生活に深く根ざしたもので、今日でも季節の節目としてこれらの節句を過ごしますし、様々な伝統行事が行われています。
清代の小説《紅楼夢》の中では、旧時代の上流階級の人々が、これらの節句をどのように過ごしていたかが書かれています。
この《紅楼夢》の中で描かれた伝統節句というテーマで、中国中央電視台の人気番組、《百家講壇》の中で周嶺という方がお話をされています。この《紅楼夢中的節日》の文章版が、《百度文庫》に収められていました。今回から数回に分け、この内容について、見ていきたいと思います。
周嶺(1950~)は、中国科技財富雑誌社社長、南海石油控股有限公司董事局主席という実業家として活躍していると共に、《紅楼夢》研究、いわゆる紅学の学者でもあります。

■[1]
《红楼梦》中描写的节日有许多,如端午,元宵,中秋等,都是中国的传统节日。然而其中曹雪芹给予重中之重的描写的仍是春节。而我本次研究的正是这传承文化。
首先,先来看看春节。
根据周汝昌先生《红楼纪历》,红楼梦前八十回的故事,发生在十五年的时间段里。其中第十三年,占的篇幅最多,从十八回后半到五十三回,前后跨了三十五回,差不多将近八十回的一半。
十八回的后半讲的是贾元春省亲,五十三回就说到,又到一年的年尾了。既然写的是十五年当中的故事,一定是过了十五个年。十五个年,大部分都是略写的,详细写过年,写得最多的是五十三回到五十四回,也就是第十三年的年尾,到十四年的年初。
五十三回,一开始就讲,王夫人和凤姐在忙年事。接着,就是贾珍看着丫头,仆妇,小厮,抬供桌,洗供器,开祠堂,打扫房屋,准备祖宗的遗真影像,准备过年了。
过去过年,和今天过年的说法,略有不同。在中国,过年这个庆祝活动,已经有四千多年的历史了。但是,称做春节,大概只有近百年的事。过去也有春节这个说法,但这个春节指的是立春,不是大年初一,不是这一段节庆的时间。

・周汝昌 1918年4月14日——2012年5月31日。紅楼夢研究の第一人者だった。
・省親 xǐngqīn 帰省する。里帰りする。
・鳳姐 fèngjiě 王熙鳳のこと。賈璉の妻。

[和訳]《紅楼夢》中で描写された節句はたいへん多く、端午、元宵、中秋などは、皆中国の伝統の節句である。しかしその中で曹雪芹がとりわけ重視して描いたのはやはり春節である。そして私が今回研究したのも正にこうした伝統的に継承された文化である。
 先ず、春節を見てみよう。
 周汝昌先生の《紅楼紀歴》によれば、《紅楼夢》の前半80回の物語は、15年の時間の間に起こったことである。そのうち13年目が、割かれた紙面が最も多く、18回後半から53回まで、前後35回を跨り、80回のほぼ半分近くを占める。
 18回の後半で述べているのは、賈元春の里帰りで、53回まで来て、また一年の終わりの話になるのである。15年の間の出来事を書いている以上、15年が経ったのは間違いない。15年の間、大部分が簡略に書かれていて、年越しのことが詳しく書かれているのは、最も多く書かれているのは53回から54回までで、つまり13年目の年末から14年目の年初について書かれている。
 53回は、最初から、王夫人と熙鳳が年越しの準備をする話である。続いて、賈珍が若い女中、年かさの女中、小僧に会い、供物台を運び、お供えの器を洗い、祠堂を開けて、お堂の掃除をし、祖先の遺影を準備し、年越しの準備をした。
昔の年越しは、今日の年越しのやり方とは、いささか異なる。中国では、年越しという節句の行事には、4千年余りの歴史がある。しかし、それを春節と称するのは、おおよそここ百年の事に過ぎない。過去にも春節という言い方はあったが、それは立春のことを言い、農歴の1月1日ではなく、この日を中心とする祝日のことではない。

■[2]
过年,过春节,第一件要做的事情,就是忙年。过去中国是一个农耕国家,是一个农耕社会。到了冬天,进入农闲,曹操有诗说:孟冬十月,锥不入地,流澌浮漂。意思就是说,这个时候地也冻了,水也冻了,所有的农具都收起来了,农活都干完了,劳累了一年,收成也上来了,猎物也收到家里来了,因此,大部分时间,大家都在忙于庆祝和休息,久而久之,就形成了一个非常特殊的民间习俗。就是选择一段时间,大举庆祝一下,要庆祝,就要准备庆祝活动所需要的东西,发展到后来,就变成了“忙年”。
忙年,要忙很多天,基本上入了腊月,忙年就开始了。所以,红楼梦里,进入腊月以后开始忙年,正是反映了这样一个久远的风俗。
农历腊月里,最重大的节日之一,就是十二月初八,这一天,在古代被称为“腊日”,俗称“腊八节”。而这一点在第十九回有着记录,其所记配方:各色米豆加五种菜果(红枣、栗子、花生、菱角、香芋)。而香芋则另比“香玉”,代指林黛玉。由贾宝玉的一个故事引出。这一点记载和我们现在的腊八粥存在差别。所以从这之中也可发现在当时同样有吃腊八粥过节的习俗。那么过完腊八之后就要开始忙年了,俗话说“二十三糖瓜粘,二十四扫房子”其中的“糖瓜粘”就是祭灶。
出这两项主要活动以外还有采买年货等活动,而在红楼梦中还有两项曹雪芹着重进行了描写。一种是恩赏银子。他们家是世袭的官,因为祖上有功,所以有银子可领。于是在五十三回中就有了贾蓉去领银子的一段。即以下一部分:

・孟冬 mèngdōng 旧暦10月。“孟”は季節の最初の月のことを言った。
・澌 sī 尽きる
・浮漂 fúpiāo 浮かび漂う。

[和訳] 年越し、つまり春節を過ごすのに、第一にやらないといけないことは、年越しの行事である。嘗て中国は農耕国家であり、農耕社会であった。冬になると、農閑期になり、曹操の詩に言う:「旧暦の10月は、寒さで錐も地面に突き刺さらず、川の流れは尽きて、氷が浮かび漂う。」その意味は、この季節には、地面も凍り、水も凍ってしまうということ。全ての農具を片づけ、農業の仕事は全てやり終え、一年間がんばったので、収穫も上げることができ、猟で得た獲物も家に持ち帰った。したがって、大部分の時間を、皆が収穫のお祝いと休息に使った。長い年月のうちに、特別な民間の風習が形成された。つまり、ある一定の時期を選んで、大勢でお祝いをした。お祝いをするには、お祝いに必要な物を準備しなければならなくなり、それが発展して、後に“忙年”、つまり年越しの準備となった。
“忙年”とは、何日も忙しくしなければならず、基本的に12月に入ると、年越しの準備が始まった。したがって、《紅楼夢》では、旧暦の12月に入ると年越しの準備が始まり、正にこのような古くからの風俗が反映されているのである。
農歴の12月で、最も重要な祝日の一つは、12月8日であり、この日のことを、昔は“臘日”と言い、俗に“臘八節”と言った。この点については第19回に記載があり、“臘八粥”の材料を記してある:様々な米や豆に五種類の木の実(干しナツメ、栗、ピーナツ、菱の実、サトイモ)を加えた。“香芋”(サトイモ)は“香玉”と音が同じで、林黛玉のことを指す。賈宝玉が話したお話から引用されている。この記載は現在の臘八粥とは違いがあるが、この話の中から、当時も同様に臘八粥を食べて節句を祝う風習があったことが分かる。“臘八”が過ぎると年越しの準備が始まり、俗に「23日には糖瓜(麦芽糖で作った瓜型の飴)を竈に貼り付け、24日には部屋を掃除する」と言う。このうち、“糖瓜粘”(糖瓜を竈に貼る)とは、竈の神様をお祭りすることである。
これら二つの主要な行事以外に年越し用の品物を買う仕事があり、《紅楼夢》では更に二つの事を曹雪芹が重点的に描いている。一つは恩賞の銀子である。彼らの家は世襲の官吏であり、祖先に功績があったため、銀子を受け取ることができた。第53回に、賈蓉が銀子を受け取りに行く場面がある。それは、次の一節である:

■[3]
一时贾珍进来吃饭,贾蓉之妻回避了。贾珍因问尤氏:“咱们春祭的恩赏可领了不曾?”尤氏道:“今儿我打发蓉儿关去了。”贾珍道:“咱们家虽不等这几两银子使,多少是皇上天恩。早关了来,给那边老太太见过,置了祖宗的供,上领皇上的恩,下则是托祖宗的福。咱们那怕用一万银子供祖宗,到底不如这个又体面,又是沾恩锡福的。除咱们这样一二家之外,那些世袭穷官儿家,若不仗着这银子,拿什么上供过年?真正皇恩浩大,想的周到。”尤氏道:“正是这话。”二人正说着,只见人回:“哥儿来了”。贾珍便命叫他进来。只见贾蓉捧了一个小黄布口袋进来。贾珍道:“怎么去了这一日。”贾蓉陪笑回说:“今儿不在礼部关领,又分在光禄寺库上,因又到了光禄寺才领了下来。光禄寺的官儿们都说问父亲好,多日不见,都着实想念。”贾珍笑道:“他们那里是想我。这又到了年下了,不是想我的东西,就是想我的戏酒了。”一面说,一面瞧那黄布口袋,上有印就是“皇恩永锡”四个大字,那一边又有礼部祠祭司的印记,又写着一行小字,道是“宁国公贾演荣国公贾源恩赐永远春祭赏共二分,净折银若干两,某年月日龙禁尉候补侍卫贾蓉当堂领讫,值年寺丞某人”,下面一个朱笔花押。贾珍吃过饭,盥漱毕,换了靴帽,命贾蓉捧着银子跟了来,回过贾母王夫人,又至这边回过贾赦邢夫人,方回家去,取出银子,命将口袋向宗祠大炉内焚了。

[和訳] ある時、賈珍が入って来て食事をしたが、賈蓉の妻は席をはずした。賈珍はそれで妻の尤氏に尋ねた:「私たちは正月の恩賞はもらえるのだろうか?」尤氏は言った:「今日、私は蓉ちゃんに受け取りに行ってもらいました。」賈珍は言った:「我が家はこの幾ばくかの銀子を当てにするまでもないが、どれだけ今上陛下の御恩を受けたかということだ。早々に受け取って来て、あちらのご隠居様にお目にかかり、ご先祖様にお供えをすれば、上には帝の御恩を賜り、下にはご先祖様に感謝申し上げたことになる。私たちがよしんば一万の銀子をご先祖にお供えしたとしても、結局これほど体面が保て、御恩を被り幸福を賜ったことにはならない。けれども私たちのような数軒の家を除いて、ああいう世襲の貧乏役人の家では、この銀子を当てにしないと、どうやって年越しをすることができるだろう。本当に帝の御恩は大きく、よくお心遣いがなされたことよ。」尤氏は言った:「本当にその通りで。」二人がこう話をしていると、「お坊ちゃまがお戻りになりました。」と取り次ぎの者が言った。賈珍はそれでこちらに来るよう言いつけた。賈蓉は黄色い布の袋を捧げ持って入って来た。賈珍は言った:「今日はどのような案配であったか?」賈蓉は作り笑いをして言った:「今日は礼部ではお配りにならず、光禄寺の庫裏でお配りになるというので、また光禄寺に行ってようやく受け取ることができました。光禄寺のお役人方は皆、父上によろしく、しばらくお会いしていないので、本当にお会いしたいとのことでした。」賈珍は笑って言った:「あの者達がどうして私のことを思うものか。年末になったので、私から贈り物を期待しているか、さもなければ酒を飲ませてほしいのさ。」そう言いながら、その黄色い布袋を見ると、その上には“皇恩永錫”(帝の恩を永遠に賜う)の四文字が印刷され、その一方の端には礼部祠祭司の印があり、また小さな文字でこう書かれていた:「寧国公・賈演、栄国公・賈源には、永遠に春祭に全部で二分、銀に換算して若干両を恩賜し、某年月日に龍禁尉候補侍衛、賈蓉が代理で受け取った。本年当番の寺丞、某人」その下に朱筆で花押がなされていた。賈珍は食事を済ませ、口を漱ぐと、靴と帽子を着替え、賈蓉に命じて銀子を捧げ持ってついて来させ、ご隠居様と王夫人のところへ行き、更に賈赦と邢夫人のところへ行き、それから家へ帰ると、銀子を取り出し、布袋を宗祠(祖廟)の竈で燃やすよう命じた。

■[4]
第二项,田庄交租。这一段在之后的乌尽孝交租中有一段描写,并且这租还很多,一大长串的礼品单看的让人眼花。而其中二者的对话可以看出一点曹雪芹的隐笔就是有雹灾,涝灾,让佃户都很贫困了,但是还要送上这么一大堆东西,两千五百两银子,外加给这些哥儿姐儿的活物,那么这个年佃户是怎样过的?大家可想而知。而这也是他想要表达的“朱门酒肉臭,路有冻死骨”的思想。从中也可以看出这些达官显贵和一般的贫苦小民比较起来,悬殊是如此之大。
那么贾府这样的家庭又是如何过这个年的呢?至次日,更比往日忙,都不必细说。已到了腊月二十九日了,各色齐备,两府中都换了门神,联对,挂牌,新油了桃符,焕然一新。中国人历来就有过除夕祭祖的习俗,一来为了纪念祖先,二来则是祈求祖宗保佑子孙平安等等,那么对于贾府这样的大户达官显贵人家,又是如何祭祖的呢?那么贾府的祭祖地方在哪呢?宁国府从大门、仪门、大厅、暖阁、内厅、内三门、内仪门并内塞门,直到正堂,一路正门大开,两边阶下一色朱红大高照,点的两条金龙一般。

・田庄 tiánzhuāng 昔、官僚や地主が農村で所有していた畑や庄園。小作人に耕作させて、地租を取る。
・佃戸 diànhù 小作人
・朱門 zhūmén 朱塗りの門。金持ちの家。
・桃符 táofú 昔、新年に表門の左右二枚の扉の真ん中に掲げた桃の木の板で、上にはそれぞれ、神荼shēnshū、郁塁yùlǜという名の神様が描かれていた。

桃符

・煥然一新 huànrányīxīn 面目を一新する。“煥然”はめざましいさま。
・暖閣 nuǎngé 昔の屋敷で暖房の効率を良くするため、広い部屋の中を仕切って作った部屋。

[和訳] (年越しの行事で)二番目にやらなければならないのは、田畑からの地租の徴収である。この部分は、この後、烏尽孝が地租を納めるところで一連の描写があるが、しかもこの地租はたいへん重く、長大な贈り物のリストには、見る者は目を回す。その中の二人の対話から、曹雪芹は暗に雹の被害や、水害で、小作人はたいへん困窮していることを描いていることが分かる。その上にたくさんの贈り物や、2500両の銀子をしなければならず、更に息子や娘を人身御供として差し出し、小作人達はどうやって暮らしていけばよいのだろうか。誰でも想像がつく。そしてこのことも、曹雪芹が表現しようと思った、「金持ちの家には、酒や肉が腐るほど有るのに、道には凍えて死んだ人の屍が転がっている」という思想である。ここからも、官吏となり富を得た人と一般の貧しい庶民を比べると、その格差はかくも大きいことが見て取れる。
それでは、賈府のような家庭ではどのように年越しをしたのだろうか。翌日になると、それ以前より更に忙しくなることは、細かく言うまでもない。12月の29日になると、各種の正月用品の準備が整い、寧国府、栄国府の両家では、門神、対聯、看板を交換し、桃符を新しく描き直し、面目を一新した。中国人は伝統的に大晦日を過ごす時に祖先をお祭りする風習があり、一つには祖先を記念する為で、二つ目には祖先に子孫の平安を乞い願う為であり、それでは賈府のような大きな家で、役人になり富貴を極めた家では、どのように祖先をお祭りするのだろうか。賈府が祖先をお祭りする場所はどこにあるのか。寧国府は大門から儀門(大門の内側の儀礼門)、大庁(大広間)、暖閣、内庁(奥の間)、三の門、内儀門、更に目隠しの門があって、母屋に通じていて、ずっと正門を開くと、両側の階(きざはし)の下は一面に朱色に輝き、二匹の金の龍を描いたかのようである。

■[5]
除夕一大早贾母就带了一堆诰命夫人大清早的去皇宫朝贺,在皇宫辞岁之后,贾母就回到宗祠。诸子弟有未随入朝者,皆在宁府门前排班伺侯,然后引入宗祠。宁府西边另一个院子,黑油栅栏内五间大门,上悬一块匾,写着是“贾氏宗祠”四个字,旁书“衍圣公孔继宗书”。两旁有一副长联,写道是:
肝脑涂地,兆姓赖保育之恩,
功名贯天,百代仰蒸尝之盛。
亦衍圣公所书。进入院中,白石甬路,两边皆是苍松翠柏。月台上设着青绿古铜鼎彝等器。抱厦前上面悬一九龙金匾,写道是:
“星辉辅弼”。
乃先皇御笔。两边一副对联,写道是:
勋业有光昭日月,功名无间及儿孙。
亦是御笔。五间正殿前悬一闹龙填青匾,写道是:“慎终追远”。旁边一副对联,写道是:
已后儿孙承福德,至今黎庶念荣宁。

・抱厦 bàoxià 本殿の前に一段突き出したようにやや小ぶりの部屋、屋根を作る建築様式で、宋代には“亀頭屋”と呼ばれたが、清代には“抱厦”と呼ばれた。

抱厦

・誥命夫人 gàomìng fūrén 皇帝から位を授けられた女性。
・大清早 dàqīngzǎo 早朝から。朝っぱらから。
・肝脳塗地 gānnǎo túdì [成語]命を投げ出す。命を犠牲にする。
・兆姓 zhàoxìng 万民。一般民衆。
・勲業 xūnyè 功業。功績の顕著な事業。
・光昭日月 guāngzhāo rìyuè 日の光があまねく衆生(生きとし生ける者)を照らす。《易経》にあることば。
・無間 wújiàn 途切れがない。
・黎庶 líshù (=黎民)民衆、庶民。

 

[和訳] 大晦日の朝一番に、ご隠居様は位を授けられたご夫人方を何人も引き連れ、早朝から宮廷へ朝賀に行き、宮廷で歳末のご挨拶をしてから、ご隠居様は宗廟に戻って来た。親族の子弟でいっしょに宮廷に行かなかった者は、皆寧国府の大門の前に並んで控え、ご隠居様の後に宗廟に導き入れられた。寧国府の西側にもう一つ塀で囲った一角があり、黒いペンキで塗られた柵の内側には間口五間の大門があり、上には扁額が掲げられ、「賈氏宗祠」の4文字が書かれ、その傍らに「衍聖公・孔継宗書」と書かれていた。両側には一副の長い対聯があり、それにはこう書かれていた:
自分の命を投げ出しても、万民の為、子供達が無事育てられるという恩恵にあずかれるようにしよう。
功名は天下に鳴り響き、代々祭祀の煙は盛んで絶えることがない。
これも衍聖公の書であり、敷地の中に入ると、白い石を敷き詰めた通路があり、両側は青々とした松とコノテガシワの並木である。本殿前の舞台には青緑色の古い銅の鼎や彝などの器が置かれていた。本殿の一段前に突き出た屋根の下には九匹の龍の描かれた金色の扁額が掛っており、こう書かれていた:
「(賈家は)綺羅星のように輝き、(皇室の為に)補佐をする」
これは先代の帝のお筆によるものである。両側には一副の対聯があり、こう書かれていた:
功績は日の光が全てを照らすように明らかで、功名は絶えることなく子孫にまで及ぶ。
これもまた帝のお筆である。五間の広さのある本殿の前には猛り狂った龍を描いた青い扁額が掛り、こう書かれていた:「人生について謹んで考え、先賢が残してくれたものを追求する。」両側には一副の対聯があり、こう書かれていた:既に後世の子孫は幸福や恩恵を受け継ぐ。今日に至るまで、民衆の為、その栄寧を願う。

■[6]
俱是御笔。里边香烛辉煌,锦幛绣幕,虽列着神主,却看不真切。只见贾府人分昭穆排班立定:贾敬主祭,贾赦陪祭,贾珍献爵,贾琏贾琮献帛,宝玉捧香,贾菖贾菱展拜毯,守焚池。青衣乐奏,三献爵,拜兴毕,焚帛奠酒,礼毕,乐止,退出。众人围随着贾母至正堂上,影前锦幔高挂,彩屏张护,香烛辉煌。上面正居中悬着宁荣二祖遗像,皆是披蟒腰玉;两边还有几轴列祖遗影。贾荇贾芷等从内仪门挨次列站,直到正堂廊下。槛外方是贾敬贾赦,槛内是各女眷。众家人小厮皆在仪门之外。每一道菜至,传至仪门,贾荇贾芷等便接了,按次传至阶上贾敬手中。贾蓉系长房长孙,独他随女眷在槛内。每贾敬捧菜至,传于贾蓉,贾蓉便传于他妻子,又传于凤姐尤氏诸人,直传至供桌前,方传于王夫人。王夫人传于贾母,贾母方捧放在桌上。邢夫人在供桌之西,东向立,同贾母供放。直至将菜饭汤点酒茶传完,贾蓉方退出下阶,归入贾芹阶位之首。凡从文旁之名者,贾敬为首,下则从玉者,贾珍为首,再下从草头者,贾蓉为首,左昭右穆,男东女西,俟贾母拈香下拜,众人方一齐跪下,将五间大厅,三间抱厦,内外廊檐,阶上阶下两丹墀内,花团锦簇,塞的无一隙空地。鸦雀无闻,只听铿锵叮当,金铃玉珮微微摇曳之声,并起跪靴履飒沓之响。一时礼毕,贾敬贾赦等便忙退出,至荣府专候与贾母行礼。

・神主 shénzhǔ 位牌
・昭穆 zhāomù 宗教の制度やしきたりに則り、廟宇や墓所での世代や長幼の順によって並ぶ序列。
・焚池 fénchí 祭祀で線香やお供えを燃や燃やす器。

焚池

・挨次 āicì 順を追って。順次。
・長房長孫 chángfáng chángsūn 正妻、或いは第一夫人が生んだ最初の男の子、すなわち“長子”、そしてこの“長子”とその正妻、或いは第一夫人が生んだ最初の男の子、すなわち「嫡孫」のことを“長房長孫”という。
・左昭右穆 zuǒzhāo yòumù 昔、室内の座席の順位は東向きを最上席、次いで南向き、北向き、西向きとした。よって始祖は部屋では東向き、二世、四世、六世は始祖の左側、すなわち南を向き、これを“昭”と言った。三世、五世、七世は始祖の右側で、北を向いたので“穆”と言った。
・俟 sì 待つ。
・拈 niān 指先でつまむ。
・廊檐 lángyán ひさし(の下)
・丹墀 dānchí 宮殿の前の朱塗りの階(きざはし)。
・花団錦簇 huātuán jǐncù [成語]色とりどりに着飾った華やかな一団。
・鴉雀無聞 yāquè wúwén カラスや雀の鳴き声も聞こえない。たいへん静かなことの形容。
・鏗鏘 kēngqiāng 楽器のリズミカルな音。音楽のような音や声。
・叮当 dīngdang [擬声語]金属や磁器がぶつかり合う、ちりんちりんという音。
・玉珮 yùpèi 玉の装身具
・揺曳 yáoyè ゆらゆら揺れる
・颯沓 sàtà 多くの人の足音の形容。


[和訳] 何れも帝のお筆である。お堂の中は蝋燭が赤々と輝き、錦の掛け物や刺繍をした幕が掛り、位牌が並んでいるのだが、はっきりとは見えない。ただ賈府の人々がしきたりに則り並んで立っているのが見えただけである。賈敬が祭祀を主催し、賈赦はそれに付き従い、賈珍は爵を献じ、賈璉、賈琮は帛を献じ、香を捧げ、賈菖、賈菱は礼拝用の絨毯を広げ、焚池の番をした。青衣の人々が音楽を奏で、爵を三献し、拝礼が済むと、帛を燃やし酒をお供えし、礼拝が終わると、音楽は止まり、退出した。人々はご隠居様の周りに付き従い本殿へ登った。遺影の前には錦の幕が高く掲げられ、色とりどりの屏風で保護され、蝋燭の炎が赤々と輝いていた。正面には寧国府、栄国府それぞれの始祖の遺影が掛けられ、それらは皆金のウワバミの刺繍のある礼服を着、腰には玉を帯びていた。両側には更に何軸かの祖先の遺影が掛けられていた。賈荇、賈芷らは内儀門から順番に並んで立ち、その列は本殿のひさしの下まで続いた。敷居の外側には賈敬、賈赦、敷居の内側にはそれぞれの女性の親族が控えた。一家の召使たちは皆、儀門の外にいた。お供えの料理が到着する毎に、儀門まで運ばれ、賈荇、賈芷らが受け取ると、順番に手渡しで階(きざはし)の上の賈敬の所まで送られた。賈蓉は「嫡孫」であるので、彼だけが女達といっしょに本殿の敷居の内側に居た。賈敬が料理を捧げ持って来る度に、賈蓉に手渡され、賈蓉は妻に手渡し、それは又、煕鳳、尤氏などの手を経て、お供えのテーブルの前まで運ばれ、ようやく王夫人の手に渡った。王夫人はご隠居様にお渡しし、ご隠居様は料理を捧げ持つとテーブルの上に並べた。邢夫人はお供えのテーブルの西に、東を向いて立ち、ご隠居様といっしょにお供えの料理を並べた。料理、ご飯、スープ、お菓子、酒、茶を渡し終わると、賈蓉は退出して階(きざはし)を降り、賈芹を階位の首位とする列の中に戻った。凡そ名前の偏に「文」(“攵”)の付く者は、賈敬を首位とし、その次は名前に「王」の付く者で、賈珍を首位とし、その次は「草」冠の者で、賈蓉を首位とし、長幼の順、男女に分かれ、ご隠居様が香をつまんで拝礼されるのを待って、皆が一斉に跪くと、広さ五間の広間、三間の前殿、ひさしの内外、朱色で塗られた階の上も下も、色とりどりの着飾った人々が、あたりを埋め尽くして、少しの隙間も無かった。鳥のさえずりも聞こえず、ただ金属がぶつかり合うチリンチリンという音、金属の鈴や玉の装身具がかすかに揺れる音や、礼拝で立ち上がったり跪いたりする時の靴の足音が聞こえるだけだった。礼拝が終わると、賈敬、賈赦らは急いで退出し、栄国府へ行くと、ご隠居様のお戻りを待って挨拶をした。

(次回に続きます)












李克強、香港大学創立百周年式典でのスピーチ

2011年08月23日 | 中国ニュース

 今年は4月に北京の清華大学が百周年を迎えましたが、それに続き、香港大学も百周年を迎えました。香港大学の百周年式典に、北京政府から李克強副総理が出席されましたが、式典には香港の政財界の重鎮が顔を揃え、長江実業創業者の李嘉誠も式典会場の最前列に座られている様子がテレビに映し出されていました。
 香港大学の校訓(教育の理念)が出てきます。“明格物”(徳行を明らかにし、物事を極める)。朱子学の教えですが、イギリスの植民地であった香港に作られた西洋式の大学で、教育の理念の根源は中国伝統の儒教というところがおもしろいと思いました。そういえば、清華大学の校訓も、“自強不息、厚載物”(自ら強い意志を絶えず持ち続け、高い徳のある人物として、大きな包容力を持つ)と、ほぼ同じ内容です。奇しくも、同じ百年前、方や義和団事件の賠償金でアメリカが北京に建てたミッション系の清華大学、方やイギリスの植民地、香港に建てられた香港大学が、創立時にほぼ同じ校訓を持っていたというのは、場所が違っても、中国人の血がそうさせたのでしょうか?

■[1]
 ( ↓ クリックしてください。中国語原文が見られます。)

■[2]

■[3]

■[4]


・積淀ji1dian4 蓄積し、沈殿する。主に文化、知識、経験などが「積み重ねられる」という意味で用いられる。
・薪火xin1huo3 たいまつ。聖火。“薪火傳逓”で聖火がリレーされるように、学問の焔が代々受け継がれてきたことを言う。

・十年樹木,百年樹人 shi2nian2 shu4mu4, bai3nian2 shu4ren2
 [成語]木を育てるには十年、人を育てるには百年。人材を育成するのは容易でない喩え。

 【出典】《管子・権修 第三》:“一年之計,莫如樹谷;十年之計,莫如樹木;終身之計,莫如樹人。一樹一獲者,谷也;一樹十獲者,木也;一樹百獲者,人也。”
 春秋時代・斉の丞相、管仲(紀元前723年頃、或いは紀元前716年~紀元前645年)のことば。
 「一年の計画を行うことは、穀物を植えるようなものに過ぎない。十年の計画を行うことは、樹木を育てるようなものに過ぎない。一生をかけた計画を行うことは、人材を育成するようなものである。植えて一年で収穫があるのが穀物であり、植えて十年で伐採できるのが樹木であり、育成して百年でようやく収穫できるのが人材である。」

・桃李遍天下 tao2li3 bian4 tian1xia4 [成語]教え子が国中至る所にいる。[類似語]桃李満天下。“桃李”は桃の木とスモモの木のことだが、比喩として、教え子、弟子の意味で使われる。
・品学兼優 pin3xue2 jian1 you1 [成語]品行も学力も共に優れている。
・豊碩 feng1shuo4 果実が多くて大きい。実り多い。(比喩として用いることが多い)[用例]取得~的成果。
・恪守 ke4shou3 謹んで守る。“恪”は“恭敬、謹慎”の意味。

・明格物 ming2de2 ge2wu4 香港大学の校訓で、清華大学の校訓“厚徳載物”と意味はほぼ同じ。儒学者の言葉で、学生に徳を積み学業を修めることを諭したもの。“明格物”の言葉の出典は《礼記・大学》:“大学之道,在明明,在親民,在止于至善。”“大学”とは、“博大的学問”(幅広い学問)のこと。“明”とは、“彰顕行,先完善内在智的修養,然后推己及人”(徳行を明らかにするとは、先ず自らの内面の徳と智の修養をきっちり行い、そうしてから相手の身になって考える)。「大学の道は、明徳を明らかにし、民と親しみ、善行を尽くすことを以て止む。」

 “古之欲明明于天下者,先治其国;欲治其国者,先斉其家;欲斉其家者,先修其身;欲修其身者,先正其心;欲正其心者,先誠其意;欲誠其意者,先致其知;致知在格物。”(古(いにしえ)の天下に明徳を明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治める。その国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉す(きちんと管理する)。其の家を斉せんと欲する者は、其の身を修める。其の身を修めんと する者は、先ず其の心を正す。其の心を正さんと欲する者は、先ず其の意に誠す(誠意を尽くす)。其の意を誠せんと欲する者は、先ず其の知を致す(知識をできるだけ増やす)。知を致すは物を格する(物事を探究し極める)に在り。)  

 宋の朱熹の解釈によれば、“致知”とは、“尽量拡闊知識領域”(できるだけ知識の領域の幅を拡げる);“格物”は“択優探究事物原理”(物事の原理の優れたものを採り、探究し極める)。深入探索,学識自然会豊富起来,個人修養的基礎鞏固了,就可以身体力行,修己善,体現斉家、治国、平天下的理想。(深く探索すれば、学識は自然に豊かになり、個人の修養の基礎は堅固になり、そうすると体に力がみなぎり、自身を修めることもうまくいき、家を治め、国を治め、天下を平らぐという理想が実現できる。)

・兼容并蓄 jian1rong2 bing4 xu4 多くの事柄を認め、蓄える。[類似]兼容并包。
・凝練 ning2lian4 文章などが簡潔で練れている。洗練されている。
・躋身 ji1shen1 あるレベル、領域に登る、身を置く。
・千千万万 qian1qian1 wan4wan4 [成語]幾千幾万の。無数の。
・殷殷 yin1yin1 懇ろに。くれぐれも。
・寄語 ji4yu3 ことづける。伝言する。

□       李克強、香港大学百周年記念式典に出席、英語でスピーチを行う
             2011年8月18日 出典:中国新聞網 張朔

 中新網香港8月18日電 中国国務院副総理、李克強は18日、香港大学百周年記念式典に主席した。

 午前9時半、会場全体が熱烈な拍手に包まれる中、李克強は香港特別行政区行政長官の曾蔭権(ドナルド・ツァン)、香港大学学長の徐立之等に案内され、儀典隊に次いで香港大学の陸佑堂に入った。李克強は座長席に向かいながら、列席の人々に手を振り、挨拶をした。高らかに国歌が奏でられ、香港大学百周年創立記念式典が開始された。

 式典でスピーチを行うに当たり、李克強はこう語った:百年の香港大学には、文化が蓄積され、学問の焔が代々送り伝えられている。これを見て、私は2000年余り前の中国の先哲の名言を思い出した:木を育てるには十年、人材を育てるには百年かかると。このことばは教育の法則を表している。私は中央政府を代表し、香港大学の百周年の記念日に対し、熱烈にお祝いを申し上げる。香港大学の教員と学生の皆さん、国の内外の卒業生の皆さんにお祝いを申し上げる。

 「百年の歴史のある香港大学は、その出身者が世界中にいる。」李克強は語った:一世紀に亘る困難に満ちた歴史の中で、香港大学は13万人余りの卒業生を生み出し、多くの胸に大志を抱き、品格、学問共に優秀で、科学に献身し、社会に服務する優秀な人材を輩出した。彼らは香港の繁栄と祖国の振興に重要な貢献をし、人類の文明を進化させる事業の為に積極的な役割を果たしてきた。一代の偉人、孫中山先生は香港大学の学長であったが、彼の精神は永遠に、私たちが中華民族の偉大な復興の為、弛まず奮闘するよう鼓舞している。

 「百年の歴史のある香港大学は、学術の成果が豊富である。」李克強は語った:香港大学は人材を育成するとともに、絶えず学術研究の新たな領域を開拓し、多くの成果が国家の、及び国際的な報奨を獲得し、医学等の領域の研究は世界の先端レベルに達している。

 「百年の歴史のある香港大学は、学校運営の特色が鮮明である。」李克強は語った:香港大学は「徳を明らかにし、物事を極める」との校訓を謹んで守り、中国と西洋を融合させた強みを発揮し、多くの事柄を認め蓄え、幅広く意見を採り入れ多くを成長させ、個人の素質を重視し、終身学習を提唱し、国際化教育を実践するなど、人材育成の理念とモデルを追求し、独自の学校運営の風格を形作った。

 「今日の香港大学は、既に世界の一流大学のトップクラスに位置している。これは香港の栄誉であり、我が国の誇りである。」

 李克強は続けてこう指摘した:人材は最も大切な資源である。新たな型の人材を育成することが教育事業に対し出された新たな要求である。新たな情勢の下、香港の繁栄と祖国の建設には、幾千幾万の、最新の知識や技能を把握し、国際情勢や地域情勢を熟知し、国際的なルールに通じた人材が必要であり、中国内地と香港の教育面の交流を強化しなければならない。来年より、中央政府は専用の予算を設け、毎年1000名の香港大学の学生と教員が内地で学習、考察し、研究活動を行うことを支援する。政府は香港のその他の大学と内地の大学の協力を支援し、内地と香港の教育、科学技術事業の共同発展を促進させる。

 香港大学には現在、2万2千名余りの学生がいる。会場の全ての若い学生達に対し、懇ろに激励した:皆さん方が香港を足場に、高い志を持ち、勉学に励み、自分の使命を汚すことなく、香港の繁栄、発展のため、自らの英知を捧げ、祖国の過去、現在、未来に関心を持ち、それらを理解し、中華民族の偉大な復興の歴史的な歩みの中で自分自身の人生の抱負を実現し、世界文明の優秀な成果で自分自身を豊かにし、積極的に国際交流と協力に参与することを希望すると。「私は、香港の青年が必ずや志を持ち、為すところがあり、責任感を持ち、大いに希望を持っていると信じている。」

 香港大学には現在3400名余りの教職員がいる。世界各地から来た教育者を前に、李克強は真摯にこうことづけた。後世の人々の成功は往々にして前任者の肩に寄りかかったものである。香港大学は一群の優秀な教師集団を集めており、国際的なバックグラウンドを持つだけでなく、中国本土の情況も理解している。「私は、先生方が引き続き、道を伝え、学問を授け、惑いを解くという栄光ある使命を履行され、学問を教え人を育てるという崇高な活動の中で、よりすばらしい成果を上げられるものと信じている。」

 このスピーチの最後に、北京大学で教育を受けたバックグランドと、経済学博士の学位を有する李克強は、徐立之学長が香港大学百年記念式典前夜の挨拶の中の言葉、「香港大学は中国と世界の為にある」を引用し、英語で次のように語った。

 そしてたった今、徐学長は、香港大学は「中国と世界の為に作られた」大学であると再び強調された。私は徐学長の視点に呼応し、事実、香港大学は香港の為に人材を引き付け、ここで学んだ人々は香港の繁栄を促したことを申し上げる。香港大学は中国の為のものである。香港大学は中国のキーとなる高等教育機関であり、中国の発展と、中国の世界との融合に於いて、益々重要な役割を担っている。そして香港大学はまた世界の為にあり、先進的な人類の知性の中で世界の学術界の欠くことのできない存在となった。香港大学が光栄にもその最初の百年をお祝いするに当たり、私はこの大学の次の百年はもっと良いものになるであろうと確信している。

 「皆さんご一緒に香港大学、香港、そして祖国を祝福しましょう。」李克強がこう言うと、会場全体から熱烈な拍手が湧きあがった。

にほんブログ村 外国語ブログ 中国語へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


中国共産党今秋17期6中全会開催と今後の政治日程について

2011年08月19日 | 中国ニュース

 中国共産党の党大会は、共産党政権の今後の政策の指針を決める重要行事ですが、今年10月、党大会が開催されることが決まったとの報道が、7月22日にありました。現在の胡錦涛政権も、来年5年の任期を迎え、いよいよ新体制作りへの準備が始まりました。
 この機会に、中国の政治体制がどうなっているか、おさらいし、今後の政治日程を整理してみましょう。

 ( ↓ クリックしてください。中国語原文が表示されます)


・部署 bu4shu3 日本語の“部署”とは、意味が違うので要注意。手を打つ。手配する。配置する。の意味。
・未雨綢繆 we4yu3 chou2mou2 [成語]雨が降らないうちに窓や戸を修繕する。転ばぬ先の杖。“綢繆”は固く縛りつけるという意味。

□    胡錦涛が中国共産党中央政治局会議を主催、17期6中全会の召集を決定
                2011年7月22日 出典:新華網

               中国共産党中央政治局が会議を召集
  17期6中全会を召集、現在の経済情勢と経済政策を討議、検討することを決定
          中国共産党中央委員会総書記胡錦涛が会議を主催

 新華網北京7月22日電 中国共産党中央政治局は22日に会議を召集、今年10月に北京で中国共産党第17次中央委員会第6次全体会議を召集することを決定した。主要議事日程は:中国共産党中央政治局が中央委員会に活動報告を行い、文化体制改革の研究を深化させ、社会主義文化の大発展、大繁栄の問題を推進する。会議では更に現在の経済情勢と経済活動を検討する。中国共産党中央委員会総書記の胡錦涛が会議を主催する。

 会議では次のように認識した:今年になって、各地区や各部門は中央の政策決定に基づき行動し、科学的発展をメインテーマに、経済発展モデルの転換の加速を主要路線とし、積極的な財政政策と穏健な貨幣政策を実施し、物価安定、枠組みの調整、民生の保護、調和の促進に力を入れ、経済は安定と高成長を維持し、農業生産は良好で、物価コントロールは全般的に有効で、市場への供給は良く確保され、社会からの需要は基本的に安定し、構造改革を積極的に推進し、重点改革を引き続き深化させ、社会保障体系をより一層健全化し、人民の生活レベルを引き続き向上させた。これは党中央、国務院の正確な指導、科学的な政策決定の結果であり、全国の上層、下層が地道に活動し、共に努力をした結果である。

 会議ではこう指摘した:現在、我が国の経済発展情勢は全体として良好であるが、同時に発展の中に不均衡、不協調、継続不能といった矛盾が依然として突出しており、国際環境と国内経済運営にも若干の新たな情勢、問題、矛盾が出現している。私たちは勝ち取った成果を正確に認識し、経済活動をうまくやるという信念を堅持しなければならないだけでなく、冷静な頭脳を維持し、危機意識を強め、冷静に観察し、雨が降る前に先に手を打ち、様々な困難や潜在的なリスクに対する準備をしっかり行い、経済・社会の発展の好ましい情勢をしっかりとしたものにしなければならない。

 会議ではこう強調した:党の17次大会と17期第3次、第4次、第5次中央委員会全体会議の精神、小平理論、「3つの代表」の重要思想を指針とし、科学発展観を深く貫徹、実行し、経済発展モデルの転換を加速し、マクロ・コントロールを引き続き強化、改善し、積極的な財政政策と穏当な貨幣政策を実施し、物価の全体レベルの安定化に力を入れ、構造改革と省エネ・排出削減を加速し、民生の保障と改善に力を入れ、経済の安定、高成長と社会の調和、安定を促し、「12次五カ年計画」期間中の経済、社会の発展の為に良好なスタートを実現した。

     -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

 今秋の中国共産党17期6中全会で、現執行部での総仕上げとなる方針決定がなされますが、次に注目されるのは、新指導部の人事です。新執行部の人事に関する仕組みを以下にまとめました。

 ( ↓ クリックすると、大きな表が表示されます)


 中国共産党は、別表のように5年ごとに全国代表大会を開催し、中央委員会の執行部を決めることになっています。現在の執行部は第17期ですが、これは1921年7月に上海で、コミンテルンの指導で第1次全国代表大会を開催し、陳独秀をトップの中央局書記に選出しました。それ以来、第17代目の執行部ということになります。5年に1度の全国代表大会の間は、執行部を中心とする中央委員会が、おおむね年1回に全体会議を開催しながら、国の行政の指針を決めています。この中央委員会のトップは、以前は主席と言っていましたが、第12次の全国代表大会で選出された胡耀邦以来、“総書記”と呼ばれています。総書記は他の社会主義国(旧ソ連など)では第一書記などと呼ばれることもあります。英語では“General Secretary”と訳されます。
 この表は、毛沢東が華国鋒を後継者に指名し死去、その後、江青をはじめとする四人組を打倒し、現在に繋がる改革開放路線を明確に打ち出した、11期3中全会(1978年)以来の歴代の首脳の変遷です。これを見ると、全国代表大会には“次”を用い、それによって選出された中央委員会は“届”を用いていることが分かります。現在の17期の胡錦涛体制は、来年2012年10月で5年の任期が終了し、総書記は2期までという内規があることから、胡錦涛は来年10月を以て総書記を引退することになります。次の18期体制で、習近平が総書記に就任することになっています。

■ 共産党と軍の関係



 尚、中国で無視できない重要な勢力である軍隊は、共産党の配下にあるため、その軍隊のトップ、中央軍事委員会主席は、共産党中央委員会により指名されます。概ね、その代の総書記が兼務しますが、軍隊の統率は新任の総書記が一朝にはできない為か、すぐには軍事委主席にはなれず、しばらく時間を経過してから、前任から軍事委主席のポストを委譲される傾向にあります。現在の胡錦涛も、1期目は江澤民が軍事委主席でした。歴代の総書記と軍事委主席の関係は別表の通りです。これでみると、習近平は2010年秋に軍事委副主席に就任したばかりですので、軍事委については、もう1期、胡錦涛が主席を務めるのではないでしょうか。

■ 共産党と議会、内閣の関係



 中国の政治体制は、民主制を取っているという建前上、立法府、行政府は共産党とは別の独立した組織になっています。中国の立法府は1院制で、全国人民代表大会、略して全人代と呼ばれます。全人代総会の開催は年1回、毎年3月ですが、それだけでは法令の制定が間に合わない為、全人代閉会中、全人代常務委員会が常設機構として、法令の審議、制定をします。その他に、共産党と、共産党以外の政党による中国人民政治協商会議というものがありますが、これはあくまで全人代の動向を監視し、アドバイスや批判を行う機関です。そして、実際に行政を行うのが、内閣に当たる国務院で、国務院総理は、全人代により選出、任命されます。

■ 中華人民共和国主席(国家主席)

 もう一つ、1982年に憲法が改正され、中華人民共和国主席(国家主席)が復活しました。「復活」というのは、中華人民共和国建国当初は、1949~1954年:毛沢東、1954~1966年:劉少奇が国家主席でしたが、その後、文革による政治混乱のため、このポストは消滅してしまいました。1982年の復活後も、しばらくは、どちらかというと名誉職的な位置付けでしたが、1993年の第8期全人代で江澤民が国家主席への就任後、法律の公布、国務院総理や国務委員の任命権、対外的な国事活動、外国との条約締結などの権限を持つ国家主席は、いわば大統領のような位置付けとなり、中国政府の顔として、重要度が増してきました。英語では“President”です。以前、毛沢東時代は、“Chairman”と訳されていたそうですが、これは時代の違いです。

 国家主席と国務院総理は、全人代が選出、任命し、任期は5年で、再選は2期までと憲法で定められています。したがって、現在の胡錦涛、温家宝は何れも第11期全人代の任期が終わる2013年3月で退任することになります。したがって、来年秋に習近平が共産党の総書記に就任しても、実際に中国の顔である国家主席になるのは、2013年の3月からになります。また、全人代の呉邦国委員長も2期務めていますので、次の第12期全人代では、新しい委員長に交代するものと思われます。言いかえると、中国の政権が文字通り新体制に移行するのは、2013年の春からになります。 
 新しい国家主席は習近平、国務院総理は李克強が有力と言われていますが、他の国務委員も多くは65歳以上と高齢な為、退任されるものと思います。そうすると上記2人の他、どのようなメンバーが中央政治局入りするか、たいへん注目されます。

にほんブログ村 外国語ブログ 中国語へ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ


“家和万事興”: 李克強が香港の一般家庭を視察

2011年08月17日 | 中国生活

 国務院副総理の李克強は8月16~18日香港を訪問、メインの目的は“両地経貿金融合作論壇”(中国・香港経済金融協力フォーラム)への出席と香港大学開校百周年記念行事への出席ですが、それに先立ち、16日午後、香港の一般庶民、それも公営住宅に住む家庭を訪問しました。

■[1]
 ( ↓ クリックしてください。中国語原文が表示されます)


・拉家常 la1 jia1chang2 [口語]世間話をする。雑談をする。
・社工 she4gong1 英語のSocial Workerを訳したもので、社会福祉従事者の意味。ここでは、“医院社工”なので、介護士のことだろう。
・融融 rong2rong2 打ち解けて楽しい。暖かいさま。
・安居楽業 an1ju1 le4ye4 [成語]落ち着いて生活し、愉快に働く。安穏に暮らす。

□           李克強は香港の公営団地を視察、市民と親しく交流

 人民網香港8月16日電(記者:張毅、李海元、尹世昌)16日午後、国務院副総理、李克強は香港特別行政区行政長官、曾蔭権(ドナルド・ツァン)等の案内で、高齢者地区センター、養老院、住民の家庭を訪問、親しく香港市民と交流し、香港住居委員会展示センターを見学、香港の公共住宅の計画と建設状況を理解し、香港の商工業、業界団体の代表と座談会を行い、彼らの中国・香港の経済協力についての提案を聞いた。

 「皆さん方のお宅におじゃまできて、たいへんうれしく思います。」九龍・観塘、平田村の退職労働者、楊修挙の家の玄関に足を踏み入れ、李克強は彼ら一家に心の籠った挨拶をした。香港の市民生活を理解するため、李克強は特に要望して訪問した。「お宅は何人家族ですか?」「家賃は高くないですか?」「住宅の付帯施設の使い勝手は悪くないですか?」…… 李克強は彼ら一家三世帯と客間で席を共にし、愉快そうに雑談をした。楊修挙は李克強に孫達が心を込めて作った二つの手製の作品を贈った。家族は更に普通話でこう言った。「香港がよくなりますように、中国がよくなりますように、皆が幸せになれますように!」一家の生活が快適で、子供たちが良好な教育を受けているのを見て、李克強は安堵した。「お家は広くはないが、全てが合理的に配置され、きちんとしていて、温かみがありますね。」李克強は言った:「経済発展と皆の努力で、生活は徐々に改善し、生活は益々良くなります。」

 楊家を後にし、李克強は次に九龍藍田の麗港城を訪問した。郭桂明は渠務局(Drainage Service Department。香港政府の下水や排水処理を担当する部署)の公務員で、妻は病院の介護士で、李克強が到着したのを知ると、夫婦と11歳の娘はたいへん喜んだ。李克強はこの家の主人の仕事と生活面の状況について、細かく尋ねた。郭桂明はこう言った:公務員の仕事はたいへんだが、達成感があると。李克強は言った:香港の公務員の皆さんは優秀で、本業の職場では勤勉で職務を重んじ、たいへん尊敬できると。彼ら一家が楽しく打ち解け合い、安穏に暮らしているのを見て、李克強はこう言った:「皆さん方は幸福で仲睦まじい家庭で、うれしく思います。中国のことわざで「家庭が円満であれば、万事がうまくいく」と言います。皆さん方が引き続き老いを敬い幼きを愛し、長所を発揮し、より良い生活を作られることを希望します。」郭桂明の娘は、中国の歴史が一番好きで、北京へ行ってみたいと言った。李克強はやさしく「どうぞ首都・北京にいらしてください」と言った。彼女は更に来訪者のためにピアノを演奏し、客間は拍手と笑い声であふれた。出発の前に、李克強と郭桂明の一家全員は記念撮影をした。

 ここで、李克強は、“家和万事興”ということわざを引用しています。

【家和万事興】 jia1 he2 wan4shi4 xing1

 ことわざ。“一家和睦,万事就能興旺”「家庭が円満であれば、万事がうまくいく」の意味。
 この語句は、既に清末には使われていたようで、《百度百科》によれば、清末の呉沃堯の小説《二十年目睹之怪現状》を例に挙げている。しかし、このことばの原型は、やや視点が異なるが、《論語》の“礼之用,和為貴”であると思われる。

《論語・学而第一》 有子曰:“礼之用,和為貴。先王之道,斯為美。小大由之,有所不行。知和而和,不以礼節之,亦不可行也。”

(有子が言った:礼儀が用いられる時には、調和を以て貴しとする。古代の君主の国を治める方法で、尊ぶべきは、この点である。けれども、大事であれ小事であれ、ただ調和によってのみ事を行うのでは、うまくいかない場合がある。なぜなら、調和の為に調和し、礼儀によって節度を加えた調和でなければ、うまくいかないのである。)

 李克強がここで“家和万事興”と言ったのは、しかしそんな深い意味ではなく、「狭いながらも、楽しい我が家」くらいの意味だと思います。香港とはいささか異なりますが、中国内の“保障性住宅”建設推進と並べ併せ、香港の公共住宅政策を見ているのだと思われます。

 最初の観塘は、昔の啓徳空港の近くの、比較的低所得の人々が居住する地域で、退職工員の一家で息子夫婦、その子供の3世帯が狭い公団住宅に同居しているという、かなり下層の人々です。次の麗港城は、昔のKCR線の近くの、電車の車窓から見える公団の分譲マンションで、客間にピアノがある、中レベルの家庭でしょう。

 こうした庶民の家庭を実地に見た後、香港の公共住宅についての説明を受けています。

■[2]


・専程 zhuan1cheng2 わざわざ出かけていく。
・滙報 hui4bao4 資料や情報をまとめて、上司、或いは大衆に向け、報告する。

□ 香港の住宅市場は、主に完全に市場化した民間の家屋と、政府が提供する賃貸の公営住宅と政府が一部の資金を補助する分譲住宅等から成る。李克強は次に香港住宅委員会展示センターを見学した。香港特別行政区政府の運輸・住宅局局長、鄭汝樺の説明によれば、香港の公営住宅と分譲住宅制度は長年運用され、次第に健全化し、現在香港では74.7万戸の公営住宅と39.1万戸の分譲住宅があり、居住人口はそれぞれ総人口の30%、18%を占める。李克強は展示を見学しながら、紹介を聞き、随時に質問をし、香港の公営住宅、分譲住宅の建設、運営、資金保障等の状況について、細かく理解をした。李克強は言った:公営住宅の建設では、香港は多くの経験を積んでいる。現在、我々は大規模に低所得者向け住宅の建設を展開しているが、中国本土と香港はより一層交流を強める必要があると。

 この説明で、私たちにも香港の住宅制度の概略が理解できます。民間デベロッパーの分譲住宅がべらぼうに高い香港では、狭い公団住宅に親と同居という人たちが多いのでしょう。

 さて、以上で香港の一般庶民の生活の視察が終わり、次は商工業、業界団体の代表との座談会です。ここで、“茶叙”cha2xu4という聞き慣れない言葉が出てきます。百度で検索してみましたが、《百度百科》にはこの言葉はありませんでした。しかし、‘警方“周末茶叙”聴民声’などという見出しがあるので、「茶話会」、公式会議ではなく、お茶を飲みながら意見交換する場、という意味で使われているようです。

■[3]


□ その日の午後、李克強は宿泊ホテルで、香港商工業及び業界団体の代表と茶話会を行った。香港総商会、香港英国商会、香港中華総商会、香港業界団体及び上級管理職協会、香港中国商会等の団体の代表が、中国・香港の経済協力等の問題について、次々と発言した。李克強は彼らの意見や提案を真剣に聞き、メモをとった。李克強は言った:商工業や業界団体の皆さんは香港の発展の中で掛替えの無い役割を果たし、皆さん方が代表を務める団体は商工業や業界団体の関係者を固く団結させ、積極的に架け橋を架け、誠心誠意サービスを提供する、香港社会の重要なグループである。在席の大部分の方はサービス業関係の団体の代表だが、中国本土はより一層香港のサービス業に市場を開放し、香港・本土両方のサービス業の協力発展のレベルを向上させる。皆さん方は必ずやこのチャンスを活かし、中国本土といっしょにより大きな発展を実現されるものと信じている。


にほんブログ村 外国語ブログ 中国語へ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ


習近平の扎什倫布寺視察とチベット仏教

2011年08月09日 | 中国生活

 習近平がチベット解放60周年の祝賀行事開催の為、中央政府の代表団の団長としてチベットに乗りこみました。期間中、習近平はネパールとの国境近く、ヒマラヤの最高峰、珠穆朗瑪峰(チョモランマ峰)の麓の地である日喀則ri4ka1ze2地区を訪問、この地のシンボルである扎什倫布寺zha1shi2lun2bu4 si4を訪れました。この記事で、チベット仏教の風習や関連する用語が出てきます。チベットを知る、という意味から、取り上げたいと思います。尚、日喀則のチベットの中での位置関係は、前回の「チベットの地理について」をご覧ください。

■[1]
( ↓ クリックしてください。中国語原文が表示されます。)


・看望 kan4wang4 訪問する。見舞う。
・慰問 wei4wen4 慰問する。見舞う。(通常、“慰問”は病気、怪我、その他不幸な目に遭った人を慰め、いたわること)
・格魯派 ge2lu3 pai4 “格魯”はチベット語で“善律”、つまり戒律を正しく守って行うこと。この宗派は戒律を厳しく守ることを重んじることからこの名がある。格魯派の僧は黄色の僧帽をかぶることから、“黄教”とも呼ばれる。創始者は宗喀巴zong1ka1ba1(1357-1419)で、彼は元々ga2(口偏に葛)当派の僧であったので、新ga2当派とも呼ばれる。
・全国第一批重点文物保護単位:“全国重点文物保護単位”は、中国政府が建物など移動不可能な文化財に対して指定する最高の保護区分。日本の国宝に相当。その“第一批”、つまり第一次の指定は1961年3月、180か所に対して行われた。
・経筒 jing1tong3経筒(仏教大詞典)、また“如法経筒”ともいう。本来は仏教経典を入れる容器で、木をくり抜いて筒型や八角形をしていて、金泥や銀泥で花紋が描かれたもの。後に、仏教経典をいつも持ち歩いて、仏教に帰依することが象徴化し、筒型の装飾品として、それを回すことで、経典を読むのと同じ効果があることとされるようになり、棒の先に筒型の装飾品を付けたものや、寺院の入口に筒型の装飾品を置くようになった。


(経筒)

・経幡 jing1fan1 仏教経典の図案の描かれた旗のこと。“風馬旗”と呼ばれる街中や樹木や家の門など、様々な場所につり下げられる、方形や三角形などの、布に仏教の経典にまつわる図案を印刷した小旗のことも“経幡”というが、ここでは僧が手に持っているので、もう少しちゃんとした幟(のぼり)のことだろう。


(経幡)

・哈達 ha3da2 チベット族が仏に備えたり、尊敬のしるしとして人に贈る、赤、白、黄、藍色などの帯状の絹布。
(注:最初の写真で、習近平が手にしている白い布が“哈達”)

□            習近平が扎什倫布寺を視察

 人民網チベット・日喀則7月22日電(記者・李章軍)中国共産党中央政治局常務委員、国家副主席、中央軍事委員会副主席、中央代表団団長・習近平は、22日中央代表団の一部のメンバーを連れて扎什倫布寺を視察、宗教界の人々を訪問、慰問した。

 チベットの日喀則地区に位置する扎什倫布寺は1477年に創建され、チベット伝統仏教格魯派の六大寺院の一つで、全国第1期重点文物保護単位(日本の国宝に相当)である。

 今日、扎什倫布寺の僧は角笛を吹き鳴らし、手には吉祥を象徴する経筒を持ち、経幡を持った隊列が両側に並び、純白の哈達を献上し、習近平の来訪に対し、歓迎の意を表した。

■[2]


・十世班禅霊塔 shi2shi4 ban1chan2 ling2ta3 1989年に亡くなったバンチェンラマ10世(1938-1989)の遺体は扎什倫布寺に納められ、遺体を納めるために、高さ35mの霊塔が扎什倫布寺内に建てられ、1993年に竣工した。

(写真は十世班禅霊塔)

・賀幛 he4zhang4 お祝いに贈る掛け物。10尺(3.3メートル)前後の緞子で作り、其の上に金文字でお祝いの言葉を刺繍する。

(僧侶が掲げ持っているのが、“賀幛”)

・駐錫地 zhu4xi1 di4 僧侶が住む所の意味。“駐錫”とは、僧侶が外出する時、“錫杖”xi1zhang4(しゃくじょう)、つまり上端に錫でできた輪の飾りが付いた杖を持つことから、「錫杖を留める所」ということである。
・秉承 bing3cheng2 他人の意図、指示を受けて、その通りにすること。
・典範 dian3fan4 模範。手本。
・扎西徳勒 zha1xi1de2le4 チベット語で“歓迎”、“祝福吉祥”、“吉祥如意”の意味。

□ 習近平はバンチェンラマ10世の霊塔に哈达を供えた。霊塔のお堂の中で、習近平は扎什倫布寺に対し胡錦涛総書記が自ら書いた「チベット平和解放60周年祝賀」のお祝いの掛け物と《中華大蔵経(チベット語版)》を贈り、また僧侶に対してお布施をした。

 習近平は参観時に語った:扎什倫布寺は歴代のバンチェン大師の住まわれた所で、悠久の歴史とすばらしい伝統を持っている。長年、扎什倫布寺はバンチェンラマ10世大師の意志を受け、愛国愛教、護国利民の模範となったと。習近平は、幅広い宗教界の人々がチベット伝統の仏教の愛国主義のすばらしい伝統を発揚させ、引き続き自分自身の修行に励み、積極的に社会責任を担い、自ら進んで祖国統一と民族団結を維持し、チベットと中国全体がいっしょに全面的に小康社会を実現するという目標の実現の為、積極的に貢献することを希望した。

 チベット自治区政治協商会議副主席で、扎什倫布寺民主管理委員会主任のサロン・ピンラは中央代表団の慰問に心からの感謝を表し、代表団に返礼に記念品を贈った。

 習近平が扎什倫布寺を離れる時、日喀則の群衆は争うように集まってきて見送り、道路の両側の人の群れは哈達を振り、次々に中央代表団に挨拶をした。習近平は嬉しそうに群衆の中に歩み寄ると、皆と心のこもった握手をし、チベット語で“扎西徳勒”と互いに挨拶を交わした。

 中央代表団副団長・パバラ・ガラランジェと中央代表団の一部のメンバーがいっしょに参観した。

にほんブログ村 外国語ブログ 中国語へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ