中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

中国の政治体制

2012年03月03日 | 中国生活

  今日3月3日より、全国政治協商会議が開催されます。また、続いて3月5日よりは、全国人民代表大会が開催されます。この二つを合わせて“両会”と言いますが、これから10日間、北京には全国から国会議員さんが集まり、年1回の政治の季節を迎えます。
  それに合わせ、今日は、中国の政治体制について、確認していきたいと思います。

  添付の図をご覧ください。

◆中国の政治体制 (筆者作成)

 ( ↑ クリックして、拡大してご覧ください)
 
  中国の政治体制の全体を1枚にまとめてみました。

  中国の政治は、共産党が一党独裁する体制となっています。2011年時点で、共産党員は全国に8000万人います。何れも厳格な審査を経て入党が認められるので、8000万人というのは大変な数字です。 この共産党の組織の中央が、「中共中央」と呼ばれるところで、中国共産党中央政治局に、任期5年の政治局常務委員が、現在は9名おられます。9名の名前は図に示した通りで、この順番が序列になっています。夜7時の中央電視台のニュースは、必ずこの序列順で主な内政、外交行事の様子が紹介されます。 これら9名の方は、今年で任期が満了し、今年10月の党大会で改選されます。

  共産党トップの総書記である胡錦涛さんは、既に2期10年勤めているので、今回で引退となります。胡錦涛さんは、国の顔である国家主席、及び軍のトップである、中央軍事委員会主席を兼ねています。
  2番目の呉邦国さんは、立法府である、人民代表大会の委員長、いわば国会議長です。
  内閣に当たる国務院総理、温家宝さんは序列3位です。
  4番目の賈慶林さんは全国政治協商会議の主席。全国政治協商会議については、後で説明します。
  6番目の習近平さんが、胡錦涛さんの後の次期共産党トップといわれています。現在は、中央軍事委員会の副主席、国家副主席、また共産党の幹部養成学校である中央党学校校長です。
  7番目の李克強さんは、温家宝さんの後の国務院総理に就任するのではないかと言われています。現在も、国務院副総理の一人です。
  9番目の周永健さんは、司法を管轄する中央政法委員会の書記です。

  そして、この共産党の下に、三権を司る、全国人民代表大会(立法)、国務院(行政)、最高人民法院(最高裁判所に相当=司法)、及び軍隊である人民解放軍が置かれています。

  人民解放軍は、その生い立ちから、1927年の第1次国共合作の失敗後、南昌蜂起等の武装蜂起をきっかけに編成された中国工農革命軍を母胎に、共産党の軍隊として設立されましたので、党の直轄です。日本の防衛白書では、兵力は160万となっていますが、非戦闘要員もいますので、2009年末現在で230万人を抱えています。尚、これには武装警察(60万人)を含みません。

  軍の中枢の中央軍事委員会の主席は胡錦涛ですが、副主席は3人で、習近平以外の2人は制服組で、郭伯雄 、徐才厚。お二人とも共産党中央政治局委員なので、党大会の時は壇上に座っているメンバーの一員として、TVカメラを通じて見ることができます。

  さて、全国人民代表大会は一院制の立法府です。全体会議は年1回、3月に開催されます。任期は5年。現体制は第11期で、今年が最終年度。来年3月に新体制となります。議員は香港、マカオの代表も含め、各地区の代表で構成され、約3000名です。常設機関として、全人代常務委員会があり、概ね2カ月に1度委員会が開催され、法律方案の審議が行われます。

  この全国人民代表大会、略称、全人代の権限は大きく、国家主席の任命、国務院総理、副総理、国務委員、省庁に相当する各部の部長(大臣)の任命、最高人民法院(最高裁)院長の任命、最高人民検察院院長の任命を行います。

  全人代とは別に、全国政治協商会議があります。こちらは、共産党員だけでなく、民主党派と呼ばれる共産党以外の政党の代表、及び無党派人士の代表の参加する議会ですが、立法権はありません。しかし、広く人民の声を反映し、重要な案件については、全人代に審議要請をすることができることになっています。

  民主党派は全部で8つあり、主に台湾との関係の問題について提案を行う、主に台湾出身の人たち、或いは教育界や医師、科学者などの学識経験者の団体であり、また活動は共産党の指導を受けることになっていますので、どちらかというと、各種の議題について、より専門的な視野から意見具申をする、という位置付けになっています。

  国務院は内閣で、この傘下に各省庁(中国では“部”といいます)、中央銀行である中国人民銀行、そして税関総署が置かれています。

  最後に、国家主席ですが、これは以前はどちらかというと名誉職であったのですが、昨今は外交の顔として、位置付けが重要になってきています。英語表記は、Presidentです。


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2011年中国都市部の人口が農村人口を超えたことについて

2012年02月25日 | 中国生活



( ↑ 図はクリックして拡大表示してご覧ください)
 [図1] 都市、農村人口推移
 ※中国国家統計局のデータより筆者作成。以下同じ。


 [図2] 産業別GDP金額推移


 [図3] 都市、農村所得推移


 [図4]産業別GDP成長率推移

  2011年、中国の人口は初めて都市部が農村部を超えました。これは、中華人民共和国建国以来初めてですし、おそらくそれ以前の時代も含め、初めてのことではないかと思います。

  中国国家統計局のデータを見ると、1949年~2011年の都市部、農村部の人口が都市部(城鎮)、農村部(郷村)に区分され、中華人民共和国建国の1949年からの推移が示されています。それを折れ線グラフにしたのが[図1]です。中国政府の政策面での主な出来事を、グラフの上に追記してみました。

  建国時の人口5億4千万中、都市部は約6千万で、わずか11%。その後、都市部の人口は大躍進期に伸びて1億を突破しますが、農村部はそれより大きな伸びを示し、特に文革期に大幅に増え、7億を超え、8億に迫るまでになります。やがて毛沢東時代が終わり、党の第11期3中全会で改革開放、近代化建設に舵を切った1978~79年当時、中国の人口は9億8千万、うち都市部人口は1億8千万、19%でした。

  80年代初頭、人民公社が解体され、農業は家族単位の請負制となり、この時期、特に豊かな農家では、世帯収入が1万元を超え、「万元戸」としてもてはやされました。80年代前半、農業は家族単位の小規模農業ではありましたが、大いに積極性が発揮され、[図4]の産業別のGDP推移を見ると、この時期、農業を中心とする1次産業も10%を超える成長をしていたことが分かります。

  けれども、工業が経済特区を設置し、外資を呼び込んで、着実に成長率、生産金額ともに拡大させていったのに対し、農業は頭打ちになります。これが1990年代前半から2000年頃にかけてです。農業生産が停滞した理由は二つ:1番目は、中国政府が税制を中央・地方の分税制としますが、地方政府が税収を確保するため、農民へ各種名目での課税を強化したこと。2番目に、農作物の買取り価格が低迷し、農民の収入が増えなくなったこと。収入は増えない、課税は強化される、となれば、農民の生産意欲は低下してしまいます。

   [図2]は産業別のGDP金額の推移を示したものですが、1995年から2002年頃まで、2次産業、3次産業の大きな伸びとは対照的に、1次産業はほとんど金額の伸びが見られないことが分かります。

   [図3]は、都市と農村それぞれの収入の伸びの推移を見たものですが、農村の平均現金収入(年収)は2000元あたりで停滞してしまっています。

  この時期、「民工潮」と呼ばれる、農村から大量の出稼ぎ労働者が都市に働きに出る情況が発生します。

  そして、建国後初めて、農村人口は減少に転じます。ちょうど、江沢民体制で、「三農問題」が大きな政治課題として提起された頃です。

  事態に新たな変化が生じるのは、胡錦涛・温家宝体制となった後の2004年です。この年、政府が三農問題に対し、積極的に財政支援をする方針が打ち出されました。

  農民への税制の優遇(減税)、農作物の買取り価格の引き上げ、換金作物栽培の奨励や優良品種の開発、農業生産の大規模化、企業化を進めた結果、農業生産は再び拡大に転じ、農業収入も増加します。

  けれども、農村人口の減少は止まらず、減少を続けました。このことは、農業の物理的な生産能力から、元々の農村人口を養うことはできず、余剰人口を都市部の建築投資や工業生産需要で吸収してきたことを意味します。そうして迎えた2011年、この年の統計で、都市部6億9千万、農村6億6千万でその差はわずかですが、都市部人口がはじめて農村人口を越えたのです。

  ただ、[図2]のGDP金額で見ると、実は農業を中心とする1次産業の2011年の生産高は、GDP全体のわずか10%を占めるに過ぎません。ということは、未だ、農村部には多くの余剰労働力を抱えている、ということになります。

  ここで注目すべきは、現在2億5千万いる、農民工の存在です。この中には、数年で農村に戻る人もいるでしょうが、そのまま都市で定住する人の割合がかなりのものとなると思われます。

  政府もそれを支援すべく、義務教育や医療保険を、農民工に対してもその居住する都市で享受できるようにすること、就職時の戸籍による差別をなくす、という方針が打ち出されました。また近い将来は、一部の地域で試験実施されているように、農村戸籍、都市戸籍による居所の縛りつけも廃止され、戸籍の移動も徐々に緩和されるのではないかと思います。

  以上のデータから、結局「三農問題」の解決は、都市化を進め、農村の余剰労働力を都市で吸収し、農業はできるだけ集約し、換金しやすい作物の大規模生産に移行させる、という所に見出しているのではないでしょうか。そしてその第一段階の結果が、都市人口と農村人口の逆転ではなかったかと思います。

  現在、産業界では、販路拡大のターゲットを3線、4線市場(地方の中小都市)に拡大してきています。それはそうです。従来、13億人口中、1億、2億を相手に考えていたマーケティングが、2011年の数字では、7億の都市住民がターゲットになるのですから。その意味では、ビジネス面でもたいへん大きな成長のポテンシャルが見いだせるのではないかと思います。


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中国国鉄の在来線特急、急行の改善と25型客車について(2)

2011年10月24日 | 中国生活

 (25型青蔵高原型客車)

【6】 25K型客車

 25K型客車は中国国鉄が第一次の大掛かりな速度向上をした時に運行を開始した特急列車用の車輛である。25K型客車は、1996年に各車輛メーカーが鉄道部の要求に基づき設計製造した快速客車であった。それというのも、当時存在した25B型客車と25G型客車は既に1997年の第一次の速度向上の要求に対応できなかったからである。25K型客車は、25Z型準高速客車の基礎の上に発展しできたものである。構造速度は140Km/h、空気ばねの吊り下げ技術とディスクブレーキによる制動の技術の応用が押し広められた。1997年に生産を開始し、生産メーカーは長春軌道客車、唐山軌道客車、四方機車車輛廠、南京浦鎮車輛廠である。25K型客車は206KP/CW-2B/CW-1B型台車を使用し、試験走行では確実に160Km/hの基準を達成できたが、この数種類の台車の設計に欠陥があり、そのため後に問題が頻発し、後に鉄道部は全ての206KPをSW-160に交換するよう要求した。25K型客車は実際の運用では依然最高速度は140Km/hである。25K型は長年に亘る生産の中で台車と車体に何度も改良が加えられ、例えば、後期には引き続き密閉式プラグイン・ドア、内開き式窓、密封式風防窓等が改良、使用された。後期のものはCW-200型、SW-220K型台車が取りつけられた。25K型客車は当初1997年に京滬線(北京~上海)の直通特急に運用された。2003年に新型の25T型客車の製造が始まると、25K型は同年年末に製造を停止した。25K型客車の塗装は、大多数が青色と白色に赤いラインが一本入っている。

 ( ↑ クリックしてください。大きな写真が見られます)
 25K型客車


 25K空調発電車

【7】 25T型客車

 25T型客車は、中国国鉄が第5次の大幅な速度向上の運行を開始するための特急列車用の客車である。“T”とは中国語の“提速”ti2su4の発音表記の頭文字で、中国国鉄の第5次の大規模な速度向上計画のために設計された。25K型客車の後継機種で、長年の25型客車の設計、製造過程の技術と実際の運用での経験が吸収され、同時に新技術が採用された。1999年に青島四方-ボンバルディア・パワー鉄路運輸設備有限公司(BSP)が鉄道部の速度向上型鉄道客車の注文を獲得し、開発を行った。2002年に開発が完成し、量産に入ったが、2004年になってようやく25T型の型番が決まった。それ以前は、引き続き25K型を称していた。AM96型、CW‐200K型、或いはSW-220K型台車を採用し、構造速度は時速160キロ、最高運行速度は160Km/hである。車輛は、BSP、長春軌道客車、唐山軌道客車、南京浦鎮車輛廠等のメーカーが製造した。2002年末に第1次量産車が上海鉄路局に配属された。25T型客車は後に機関車から客車に給電するよう改められ、空調発電車は廃止され、密閉式プラグイン・ドア、蛇腹式の連結幌、真空集便器が改良、使用された。25T型客車は、一般型と青蔵高原型に分かれる。青蔵高原型25T型客車は主に青蔵高原での運行のために設計され、航空機の気密技術と酸素供給装置などが採用されている。一般型25T型客車の青と白の車体塗装は従来と異なっており、青蔵高原型25T型客車は深緑色の車体に二本の黄色のラインが引かれている。

 25T型客車


 25T青蔵高原型客車

【8】 25DT型客車

 25DT型客車は、“動車組”、つまり新幹線用の高速電車列車用のトレーラーとして作られ、“DT”の意味は、“動車組拖車”dong4che1zu3 tuo1che1のことである。25DT型客車は、中国国鉄が1990年末から2000年初頭にかけて製造した試験的な高速列車用の客車の型式である。25DT型客車は中国国鉄の各種の試験的な電車列車のトレーラーとして用いられたので、25DT型には標準的な車型は無い。そのうち一部は、国産第一世代の時速200Km/hクラスの高速鉄道用客車である。長春客車廠、唐山機車車輛廠、南京浦鎮車輛廠、青島四方機車車輛廠はそれぞれ各種の様式の25DT型車を製造し、外観はそれぞれ異なり、技術指標もそれぞれ異なっていた。25DT型車は高速客車の空気動力学の要求を満足させるため、車体の高さは一般の25Tよりも低かった。車体の下部にはカバーがあり、ボディーマウントの設計がなされた。25DT型車は基本車型の他、二階建て客車の設計、製造も行われた。中国国鉄が運行する一連の試験的な高速電車列車には、25DT型の電動車、トレーラーが採用された。“中華之星”、“長白山”の25DT型車は最新式で、外観はICE1/2のトレーラーに似ている。“藍箭”(Blue Arrow)、“中原之星”の25DT型車の外観は比較的統一されている。“先鋒”の25DT型車は伝統的な25型の外観に似ている。その他、国産の高速電車列車、“北亜”、“曙光”、“金輪”などの列車のトレーラーの車体には25DT型と表記されている。

 25DT型客車

 尚、25DT型は、一部欧州からの技術導入もした、各車両メーカーが意欲的に開発した高速対応客車であったが、その後、新幹線型の和諧号タイプが大量に製造、配備され、25DTは廃止はされていないものの、営業運転にはついていないようです。

 今後、在来線の特急、急行の体質改善には、25T型の標準タイプが増備されていくものと思います。


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中国国鉄の在来線特急、急行の改善と25型客車について (1)

2011年10月23日 | 中国生活

 温州での新幹線列車の追突事故の後、あまり良いニュースの無かった中国の鉄道ですが、久々に在来線の特急、急行のサービス改善計画を伝えるニュースがありました。

 10月18日付の《新京報》によると:
 「中国鉄道部は、在来線の旅客需要に対応する為、年内に客車500輛を新造、11,924輛のAC380V電源のエアコン付客車、及び2,230輛の地域管理局間を直通する列車に使用する緑色の客車の更新修理を行い、まだ修理が予定されていない553輛についても、鉄道部より検査・修繕費用を捻出し、来年1月の春節の多客期までに修理を完了させる。
 来年上半期には、旅客流動量調査の結果を基に、隣接する幹線の条件、車輛の引き渡し時期により、ハルピン~大連、北京~石家庄~武漢の列車ダイヤの見直しを行う。二年以内に管理局間を直通する急行、及び一つの管理局内で運行される急行列車の全てをエアコン付き車輛に置き換えることを目指す。特急、急行の何れにも使用されている列車は徐々に25T型に置き換える。条件の合う区間では夕方に出発し朝到着する特急列車を増発、輸送能力に余裕があり、旅客流動の大きい区間で列車の増発を行う。」

 ここで、特急、急行用車輛の“25T型車底”への置き換え、と書かれています。“車底”というのは、俗に、鉄道車輛の車体のことを言います。また、“緑皮車”と言っていますが、これも中国語独特の表現で、在来線一般車の緑色に黄色のラインの客車のことです。ちなみに、急行用のオレンジ色と白に塗り分けられた客車は“紅皮車”と言います。

 “25T”というのは、25T型客車のことで、在来線の特急などに使用されている客車ですが、この元となった25型車輛の開発は、高鉄時代に入る前の、中国国鉄のスピードアップ取組みの歴史であり、なかなか興味深いものがあります。今回は、25型客車の歩みについて、ご紹介したいと思います。
 25型客車は非常にバリエーションがあり、2回に分けて紹介します。

        -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

 25型客車は、中国国鉄の第三代の主力客車である。25型は中国国鉄用の車長25.5mの客車である。25型は多くのシリーズに分かれる。1990年代から次第に22型に代わり、幹線の長距離列車と各大都市間の特急列車に用いられ、中国鉄道の客車の主力となった。

【概況】

 25型客車は当初、1964~1966年に車長25.5mの新型客車として開発された、「25.5m軽量高速列車用車輛」で、1966~1969年に製造され、車体材質は軽量合金、KZ2型台車、ディスクブレーキ、中空車軸、空気ばね等の技術が採用され、構造速度は160Km/hであった。列車にはエアコン、集中給電が採用された。この車輛は広深鉄路(広州~深セン)等で使用されたが、当時は台車の技術が未成熟で、使用中、多くのトラブルが発生した。

 1978~1985年に制定された鉄道科学技術計画の中で、車長25.5mの客車を開発することになり、中梁無し、平面側壁構造、材質は耐腐蝕鋼板、209型台車を採用し、構造速度160Km/h、発電車による集中給電で、1980年に運用投入された。1986年、鉄道部は25.5mの新型のエアコン付客車の開発要求を下達し、ユニット空調式の集中給電空調客車を採用した。206型台車を使用し、構造速度140Km/h、京広線(北京~広州)列車に使用されたが、この時の車輛は要求に合わず、成功しなかった。その後、1987年より海外からの借款と海外の技術を利用し、集中給電空調客車の製造が開始された。1990年代より、鉄道客車の更新、性能向上の要求に基づき、一連の車長25.5mの25型客車が相次いで開発、製造され、営業運転に投入された。

 25型客車は、車体長25.5m、幅3.105m、車高4.433m、最小通過曲線半径145mである。25型客車の構造上の特徴は:車体は全溶接構造、シャーシ、側壁、妻板、屋根で構成される。車体は高強度、耐腐蝕の軽量合金鋼で作られている。車体の構造は、中梁(シャーシの真ん中を貫通する梁)無し、圧筋(側壁の強度を強める補強材)無しの、薄板による筒型全体で荷重を受ける構造で、そのうち、シャーシ、側壁と屋根は密閉筒型構造を形成し、荷重負荷の特徴は、車体全体で荷重を受ける構造であることで、シャーシは中梁無しの構造を採用した。各系列の車輛(25B型を除く)は屋根にユニット式のエアコンを設置し、集中給電である。ユニット式のアルミサッシ窓が取り付けられ、低摩耗、低騒音の風除け、ゴム製の連結幌、密閉式の風防ガラスが採用された。構造速度が高く、快適性、安全性に優れている。定員は21型、22型客車より増加し、定員乗車時の車輛自重は低減した。

 25型客車は初期の試作車の他、主要な型式には25A型、25B型、25C型、25DT型(国産第一世代の200Km/h高速客車を含む)、25G型、25Z型、25K型、25T型がある。25型客車には硬座車(普通車。中国語発音の“ying4zuo4”から“YZ”で表記。以下の表記方法も同様)、軟座車(グリーン車。RZ(ruan3zuo4))、硬臥車(普通寝台。YW(ying4qo4))、軟臥車(1等寝台。RW(ruan3wo4))、食堂車(CA(can1che1))、空調用発電車(KD(kong1tiao2 gong1dian4))、荷物車(XL(xing2li3))などの種類がある。

 25型客車には、基本車型以外に二階建て客車が作られ、車体長は25.5mで変わらず、幅3.105m、車高4.75mで、車体底面から軌道面までの高さが0.25mである。空気ばね台車、ディスクブレーキが採用された。二階建て客車の客室は上層、下層に分かれ、両端は単層で、乗務員室、トイレ、補助室は単層の車端部に設けられている。上下層と両端部の間には階段が設置されている。硬座車の場合、定員は186席で、25型硬座車より58席多く、軟座車の場合は110席、25型軟座車より30席多い。この他、中長距離用二階建て寝台車も開発された。二階建て25型空調客車は1989年から、上海~南京間で営業運転に投入された。

 ( ↑ クリックしてください。大きな写真が見られます)

【1】 25A型客車

 25A型客車は、国際入札で一時的に生産した、集中給電空調客車である。鉄道部は、衡広鉄路(湖南省衡陽~広州。京広鉄路の南側)複線化建設の円借款の残金を利用し、国際入札で168輛の25.5m長の集中給電空調客車を購入することとした。その後、長春客車廠(現長春軌道客車股份有限公司)、唐山機車車輛廠、南京浦鎮車輛廠が連合で応札し、受注した。3社は国際入札契約の技術条件の規定に基づき、イギリスと協力し試作を行い、1989~1990年の間に168輛の客車を製造したので、これらは「168客車」とも呼ばれている。25A型客車の車体は耐腐蝕鋼板を採用し、中梁が無く、圧筋による補強の無い、薄板の筒型荷重受け構造であった。車体にはユニット式空調が取りつけられ、車輛編成は発電車による集中給電であった。206型/209型(改良型)台車が採用された。構造速度は毎時140キロ、最大許容速度は120Km/hであった。これは平らな直線で800mで緊急制動ができることという要求を満足させるためであった。これらの客車は試験的な性格を持ち、輸入の高級材料と設備が用いられ、製造コストが高かった。車輛技術は1980年代の国際レベルに達していた。1990年から25A型客車は北京鉄路局、鄭州鉄路局に配置され、営業運転された。25A型客車の塗装は、オレンジ色に白色で、後の25G型客車に似ている。


【2】 25B型客車

 25B型客車は一般のアップグレード、旧型の置き換え用車輛である。1991年、168輛の25A型の試作と運用が成功して後、鉄道部は再び、「アップグレード、旧型の置き換え用の25.5mの空調付き、及び空調無しの客車」生産の要求を提出した。長春客車工廠は25A型客車の基礎の上に、エアコン無しの25B型客車とエアコン付きの25G型客車の開発を同時に行った。25B型客車の設計の技術要件は25A/G型と全く同じであるが、25B型の硬座車、硬臥車、軟座車はエアコン無しとし、軟臥車、食堂車にのみエアコンを取り付け、その電力源は車体の下にディーゼル発電機を取り付け、25A/G型のような発電車からの集中給電方式は採らなかった。25B型は車体全体に耐腐蝕鋼板を用い、中梁無し、圧筋無しの筒型全体荷重受け構造で、アルミサッシの上半分が開く窓、折戸が採用された。209T/206G型台車が採用され、構造速度は毎時140キロ、最大許容速度は120Km/hで、これは平らな直線で800mで緊急制動ができることという要求を満足させるためである。製造メーカーは、長春軌道客車、唐山軌道客車、青島四方機車車輛廠、南京浦鎮車輛廠である。1993年に最初の25B型客車が投入され、運用を開始した。25B型客車の塗装は通常は緑色の車体に黄色の帯である。


【3】 25C型客車

 25C型客車は、鉄道部が1990年代半ばに韓国の協力で設計された、広深鉄路(広州~深セン)用の高速客車で、同時にステンレス車体の製造技術を導入した。1994年に契約が結ばれ、客車は長春軌道客車と韓進重工業の協力で生産され、1994年から1995年までに30輛製造され、韓進重工業はステンレス車体の設計を担当し、長春軌道客車は200Km/h級のCW-2A型とCW-1A型高速台車の提供を担当、設計最高運行速度は時速200キロ、中国で初めて鉄道車輛にドラム型の車体構造を使用し、当時中国唯一の200Km/h級の高速客車車体であった。自動センサー制御ドア、気密式風防窓を採用、発電車には全車故障自動検出監視システムを備えていた。しかし、実際の運行の中で、台車の運行追随性とフレームの強度不足が発見され、運行時の最大運行速度は160Km/hに制限され、後に更に25C型の車体の速度表記は140Km/hとされた。25C型客車は1998年に広州鉄路集団に配属され、広深鉄路線で営業運転に入った。25C型は製造コストが高すぎる為、それ以降は製造されていない。


【4】 25G型客車

 25G型客車は1991年に168輛の25A型新型空調客車の試作と運用に成功後、鉄道部が再び生産要求を出し、長春客車廠が25A型の基礎の上に開発した。25G型客車の設計技術条件は25A型と同一で、同様に屋根上に集中式ユニット・クーラーを設置し、空調発電車から集中的に給電する。25G型は、品質と性能が保証されるとい前提の下、25A型客車の部品を国産化し、製造コストを引き下げた。209T/206G/206P型台車を採用した。構造速度は毎時140キロ、最大許容速度は120Km/hで、これは平らな直線で800mで緊急制動ができることという要求を満足させるためである。25G型客車は1992年から生産が始まり、製造メーカーは、長春軌道客車、唐山軌道客車、青島四方機車車輛廠、南京浦鎮車輛廠である。25G型客車は、最初、1992年に京滬線(北京~上海)の直通特急列車として運用が開始された。1994年から、25G型客車が大規模生産が開始され、次々と元のエアコン無しの車輛と置き換えられていった。長年生産される中で、台車と車体は何度も改良が加えられ、例えば、ディスクブレーキと電子式の滑り止め装置の付いた209P型台車、機関車からの給電システムに変更、密閉式プラグイン・ドア、内側を開け閉めできる窓、密封式の風防窓などが採用されてきた。25Gの塗装はオレンジ色と白を主体とし、このため「赤い客車」と呼ばれている。


【5】25Z型客車 25Z型客車は、当初広深鉄路のため開発された客車で、主に中短距離の都市近郊特急列車に用いられる。25Z型準高速客車の“Z”は準高速を表す(中国語で“zhun3 gao1su4”)。206KP/206WP/CW-2/209HS型の台車を採用している。構造速度は160Km/hで、最高試験速度は183Km/hに達した。青島四方機車車輛廠、長春客車廠、南京浦鎮車輛廠で開発、製造され、1993年から1996年まで、2回製造された。25Z型客車は型式の統一がなされなかったので、前後2度と各鉄路局向けの25Z型客車とで、それぞれ異なる。25Z型客車は、1回目は1993~1994年に製造され、広深準高速鉄路線で使用された。2回目は1996年に製造され、北京鉄路局、上海鉄路局、広深鉄路股份有限公司に配属された。25Z型客車の各車種には、ユニット式空調装置、自動電気湯沸かし器、琺瑯製の洗面台、電子情報表示装置、有線及び無線電話システム等が完備していた。25Z型客車は設計上の欠陥があり、高速運行時の安定性と台車の抗蛇行能力に問題があったので、後に25Z型の車体の表記速度は140Km/hに改められた。25Z準高速客車は中国鉄道の初代の高速客車であった。広く使われることはなかったが、この開発は、後に大量に作られた25K型客車のために経験を蓄積することとなった。


(次回に続きます)

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“分”硬貨の行方

2011年09月15日 | 中国生活

  そういえば、最近、中国へ行って両替をしても、“分”硬貨をもらわなくなりました。1分は1元の1/100。以前から、分の単位のアルミ硬貨は、もらってもほとんど使うことがなく、たまにまとめて角の単位の補充に使うくらいでしたが、今ではもっと肩身が狭くなって、受け取りすら拒否されるようになったようです。
 この話、平易な文章で書かれています。是非中国語で読んでみてください。市場を歩いていて、店でのやり取りが聞こえてくるような、そんな親しみが感じられます。

■[1]
 ( ↓ クリックしてください。中国語原文が表示されます)



・尲尬 gan1ga4 ばつが悪い。気まずい。 このことばは比較的良く使われます。例えば:“偏偏跟昨晩吵架chao3jia4的人坐在一起,未免有些~”(あいにく昨夜口論した人と同席したので、ちょっと気まずい思いをした)というような使い方をします。ここでは、“分”貨幣の立場を、このことばを使ってうまく表現しています。

□      気まずい“分”貨幣は次第に消え去ろうとしているのか?
              人民網記者 曾高飛
       2011年9月8日 人民網-「物の見方チャンネル」より

 現在、市場で流通している“分”貨幣は、一分、二分、五分の三種類である。分貨幣は、嘗ては人々の経済的生活の中で重要な役割を演じてきた。しかし経済発展と物価の上昇に伴い、分貨幣の貨幣価値は急激に低下し、現在はたとえ一本の針の価格でも、“角”を用いてようやく釣り合うのである。
 こうした情況は、分貨幣を気まずい位置に押しやった。実際の生活の中で、分貨幣は自ら進んで消え去ろうとしている。分貨幣が実際の生活の中で次第に消え去ろうとしている事実を調査するため、記者はそれぞれいくつかの場所に行ってその事実を証明した。

■[2]


□ 新聞スタンドは分硬貨の受け取りを拒んだ

 記者は朝陽区紅廟路交差点の北側の新聞スタンドで一部8角(=0.8元。約10円)の《参考消息》を買い、店主に5角硬貨一枚、1角硬貨二枚、5分硬貨二枚を渡した。
 スタンドの主人は20歳代の若い男で、彼は金を受け取り、それを見ると、スタンドを離れて行こうとした記者を呼び止め、「うちでは硬貨を受け取らないよ」と言って、彼は二枚の5分硬貨を記者に返した。
 「小銭が無いんですよ」私は財布を開くと、それをひっくり返し、その男に見せた。「それじゃあ100元でおつりをもらえますか。」
 「わかりました、今度新聞を買いに来た時に1角返してくれたらいいですよ。」
 男は二枚の5分硬貨を私に返してよこした。彼はたとえ1角もらえなくても、その二枚の5分硬貨を受け取らなかった。

■[3]


 ・嗓門 sang3men2 声

□ 市場の店主:今でもまだ分硬貨を使っている人間がいるのかしら?

  朝陽区定福庄西街市場。
 記者は一把2元5角のほうれん草を買った。店の主人に2元3角の紙幣と2分硬貨十枚を渡した。
 店の主人は40歳過ぎの中年の婦人であった。彼女の声はやさしく、また大きかった。
「他に小銭は無いの?換えてちょうだい。」
彼女は分硬貨を記者に返した。
「他に小銭が無いんです。分硬貨ではだめですか?」
私は更に財布を取り出して、ひっくり返して見せた。
「今誰がまだ分硬貨を使うというの。面倒くさい。その50元を出しなさい。おつりをあげますから。」
 広渠門市場で、記者は食品売り場で15元3角のおかずを買って、記者は100元を出した。店主は、端数は要らない、とはっきり言い、15元しか受け取らなかった。この店の主人は30過ぎの若い夫婦で、笑って記者の言った:「普通の端数は、まけてあげられるものはまけてあげます。硬貨を受け取るのも面倒くさい。お客さんに硬貨のおつりをあげても喜んでもらえないから。」
 多くの食品を売る人からみて、1角2角は、まけられるならできるだけお客にまけてあげれば、気持が通じて、また買いに来てもらえる。分硬貨のことは言うまでもない。市場ではほとんど「姿を消して」しまった。

■[4]


・熟視無睹 shu2shi4 wu2du3 よく見ていながら無視する。
・起 qi3 [量詞]ひと群れ。ひと組(の人)。
・鶏肋 ji1lei4 ニワトリの肋骨。大して役に立たないが、捨てるには惜しいものの喩えに使われる。
・派用場 pai4 yong4chang3 使い道を決める。(否定形で、使い道がない、の意味)

□ 十里堡華堂商場(イトーヨーカ堂):分のおつりを出しても、要らないという客がいる

 多くの商店、とりわけやや高級な商品の価格には、分の単位は含まれていない。
 サービス・娯楽業では、尚更料金に分の単位は見られない。
 イトーヨーカ堂、カールフール、ウォルマート、天客隆といったスーパーやショッピングセンターには、少数の依然“分”硬貨の流通を認めている民間のチャンネルがある。けれども、これらの場所でも、分硬貨は気まずい境遇にある。朝陽区十里堡華堂のレジ係の王さんの紹介によれば、お客に分のおつりを出しても、何人かは面倒くさがり、受け取ろうとしないという。
 記者はイトーヨーカドーの現場で30分立ち止まっていたが、観察したところ、7人の客がレジ係が出した分硬貨を見て見ぬふりをし、おつりの紙幣と額面の大きい硬貨だけ受け取り、財布に入れ、その場を離れた。けれども4組のお客は分硬貨を受け取り、傍に置かれた善意の募金箱の中に入れた。
 記者は分硬貨を受け取ろうとしなかった蔡さんという名のお客をつかまえて、どうして分硬貨を受け取りたくないのか尋ねた。
 蔡さんはこう言った:「分硬貨は今では「鶏の肋骨」のようになって、持っていても、使う所がほとんどありませんから。」

■[5]


・熙熙攘攘 xi1xi1 rang3rang3 [成語]人の往来が盛んでにぎやかなさま。
・躺 tang3 (人や動物が)横になる。寝そべる。(物が)倒れている。
・不認帳 bu4 ren4zhang4 [比喩]言ったことや、したことを認めない。

□ 大学構内: 分硬貨が落ちていても、誰も拾わない

 記者は北京第二外国語学院に居た。大学構内は人の行き来が盛んで、たいへんにぎやかであった。
 構内にスーパーマーケットがあり、レジ係はいつも学生に分のおつりを渡している。スーパーの周辺で、たまたま分硬貨が地面に落ちていたが、誰も拾おうとしなかった。記者はスーパーの横で1時間あまり立ち止まっていると、一人の若者がスーパーから出てきて、わざとか、無意識か分からないが、二枚の1分硬貨が、彼が財布の中に小銭を入れる時に、すべって、地面に落ちた。けれども若者は立ち止まらず、まっすぐ前に行ってしまい、振り返ろうとしなかった。
 私は彼を呼んで言った:「そこの学生さん、お金を落としましたよ。」
 若者はそれでも立ち止まらなかった。私は二枚の分硬貨を拾い上げると、彼を追いかけて行って、彼に行った:「お金を落としましたよ。」
 若者は立ち止まり、私の手のひらに横たわっている二枚の分硬貨を見ると、顔にちょっとばつの悪い表情を浮かべた。けれども彼はそれでも私の手から二枚の分硬貨を受け取らず、頑なに認めようとしなかった。「私のじゃありません。」彼はそう言いながら、私をひと目見ると、背を向けて行ってしまった。

■[6]
 

・名存実亡 ming2cun2 shi2wang2 [成語]名ばかりで実質が無い。有名無実である。
・黙契 mo4qi4 暗黙の了解。以心伝心。
・資深 zi1shen1 “老資格”lao3 zi1ge2の意味で、古参の。先輩の。

□ 「名ばかりで実が無い」、次第に遠い存在になろうとしている“分”硬貨

  “分”が消えようとしているのは、既に経済、或いは社会現象となっている。“分”の単位まで必要な取引でも、売方はおつりを渡さない、買方は受け取らない、というのが売買双方の暗黙の了解事になっている。
 あるベテランの金融界の人物が記者に語ったところでは、“分”の使用価値が見つけられないことは、“分”が正に消えようとしている根拠であり、多くの民衆の生活の中で、実際、分硬貨は名ばかりとなり、分硬貨が経済に与えるマイナスの作用が、そのプラスの作用を越えようとしている。彼が言うには、「分硬貨の製造コストと社会での管理コストは、分硬貨自身の価値を既に上回っている」そうだ。

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