中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

沈宏非のグルメエッセイ: 有一腿、金華ハム

2010年10月17日 | 中国グルメ(美食)
 今回は、微妙なニュアンスがとても訳しにくい文章でした。この作品のテーマは“腿”ですが、これを単純に「足」と訳しては、作者の意図が伝わりません。日本語と中国語のニュアンスの違いがあり、中国語で“腿”というのは、足の付け根のところから足くびまでの間を指し、“脚”は足くびから下の部分を言います。このことを念頭に、この作品を読んでください。表題の《有一腿》は「一本の足」と訳せますが、実は中華料理のメインディッシュにもなり得る特別な一本のモモ肉、金華ハムのことを言っています。

                             有一腿

 広東人の雑食性を形容することばがある。「翼のあるものは、飛行機以外、四足のものは、テーブル以外、広東人は何でも食べる。」

 たとえ飛行機を食べることができたとしても、広東人はおそらくあまり食べたくないだろうと思う。なぜなら、飛行機という二本の翼を生やした物体は、いつも時間に遅れるからで、食べようと思ったら、たいへん辛抱強くなければならないからである。それに比べ、脚のテーブルにとっての重要性は、明らかに翼の飛行機に対するそれより高い。中国の堅木家具の典型として、明朝式の家具にもし“圓腿側足(円柱型の脚が四隅に付いていて、貫材(梁)の無いシンプルなデザイン)、方腿直足(方形の脚がまっすぐ伸びていて貫材(梁)のあるデザイン)か、三彎腿(脚が腰の所がくびれて細くなり、下の方がまた広がっている)、鼓腿彭牙”(家具の腰のくびれた部分から下の脚、貫材の突出したデザインのこと)といった一連の美脚の要素が欠けていたなら、安定が悪いことなど些細なことで、「そのやさしさの中に力強さを含んだ」品位や容姿は必ずや大きく割り引いて見ざるを得ない。

 私たちが肉食に対して行う審美判断はある程度まで明朝式家具と同様、飛禽であれ走獣であれ、腿、つまりモモ肉はたいてい最も美味しい部分である。

 腿(モモ)肉の美味しさは、主に常に運動状態を保っていることにより、食べてみると味が良く、肉質のきめが細かい食感がし、肉の多寡や厚みの厚い薄いは二の次である。正にいわゆる「枢(くるる)は虫に食われない」(“戸枢不蠹”hu4shu1bu4du4)、「流水は腐らない」、「川の流れに揉まれる石には苔は生えない」のように、美しい太ももとその美味しさは筋肉の運動による。

 直立歩行を始めてから、太もも(“腿”)は人体に於いても常に運動しているもので、両手が進化したからといって、決して閑にはならなかった。たとえ静坐した状態でも、多くの人の両膝は、思わず知らず(“情不自禁”)震えることがある。膝を揺すぶるのは見苦しい座り方なので、民間には“女抖賎,男抖窮”(女が膝を揺するは見苦しい、男が膝を揺するは貧乏たらしい)という言い方がある。アメリカの精神医学会の医学研究報告によれば、いつも両膝を揺すぶる人は、潜在的に「注意力の集中できない過動症候群」である可能性がある。研究で明らかになったのは、我慢できずに両膝を揺さぶる男女について言えば、両膝を揺さぶることで、気持ちが良くなる。座っている状態でも寝ている状態でも、自分の両膝が動いている状態を保ちさえすれば、全身が心からの快楽と爽快さを感じることができる。

  “女抖賎,男抖窮”には別段科学的な根拠は無いが、家畜は両腿を正常な運動の他、人間と同じように必要な時もそうでない時も揺すぶっており、食べてみれば爽快の上にも爽快で、このことはオスもメスも同じである。広東人の好きな焼鵞腿(鵞鳥のローストの腿の部分)を例にすれば、事情を知った人は必ず左の腿を選んで食べる。なぜか。左腿は鵞鳥の利き足、且つ軸足であるので、肉質も殊のほか清々しく滑らかだからである。

                             抗金名腿
            抗金運動(北方の金に対抗し、失われた領土を奪回する)の
            中で生まれた豚の腿肉を使った名品

 腿肉について言えば、食用の家畜の中で、豚の腿が最も見栄えが悪い。しかし、美味しさを言えば、豚の腿が第一で、恐らくそれ以外の腿が割って入ることはないだろう。

 豚の腿肉はハム(“火腿”)を作る唯一の原材料である。中国の二大ハムと言えば、雲南の“宣威火腿”と浙江の“金華火腿”である。その中でも後者が数多のハムの中で最も代表性を備えている。金華ハムが営業戦略上で成功の要素をまとめると、次のようになる:一、当地の豚の優良品種“金華二頭烏”を用いたこと。この豚は、尻が黒く、その他の部分は白で、後ろ足がとりわけ豊満で逞しく、赤身が多く脂身が少なく、足首が細く爪が白く、皮が薄く肉が柔らかく、ハムを作るのに最も適している。二、ハムの発明は、宋代、北方の金と戦った事跡と関係があると言われている。伝えられているところによれば、南宋の名臣、宗澤は金兵に対抗するため、旧都、開封の守備を命じられた。ある時、生まれつき倹約家の宗澤は食事の後、残ったひと固まりの豚の腿肉を塩漬けにした。その時、開封への路は遠く、またちょうど厳冬の時期であったので、豚の腿肉は風で乾燥すると、腐敗することがなく、その滋味は却って際立った。宗澤は浙江義烏の人で、彼と彼の部下はこの豚の腿肉を食べてから何度も金兵を破ったので、義烏の同郷の人々はこのことを聞いて皆うれしさに奮い立った。ハム(“火腿”)の製法はそれで大いに発揚され、ひと度盛んになるや、その隆盛は今日まで続いている。

 義烏のハムはずっと“金華火腿”、“金腿”の名を冠して遥か後世まで売られてきたのは、“抗金運動”と無関係ではない。その一は、ハム作りの盛んな東陽、義烏、金華等の地は、昔は金華府と総称されたこと。その他、金華はこれらの地区の商品の集散地であったこと。嘗て、義烏の人は自家製のハムを金華に運んで売り、自分ではハムの表面の削り取られたカビの生えた部分しか食べることができなかったと言われている。

 莱陽(山東省)の梨や徳州(山東省)の“扒鶏”(とろ火で煮込んだ鶏)の類を含め、中国にはこの類の産地にまつわる勘違いが多い。更に、“金腿”はたいへん響きの良い名前なので、馬鹿正直に“義腿”と言うより聞こえが良い。“火腿”ということばの来歴にはいくつかの説がある。その一、《東陽県志》によれば、「“燻蹄”(つまり豚足の燻製)は、俗に“火腿”と言い、実際は煙で燻し、火で焼いたものではない。塩漬けし、日に晒し、燻製にするのを決められた製法通り作ったものは、その土地の日常品より勝る。塩漬けに使う塩は台州の塩でなければならず、燻製の煙は松を燻した煙でなければならず、そうすれば香りは鮮烈で美味しい。作る時期が時節に叶い、決められた製法が守られたので、年月を経て益々美味しくなった。」その二、ある金華ハムをテーマにしたTVドラマで、一組の男女が豚肉を塩漬けにしてベーコンを作る作業場で逢引をした時、不注意で大火事を引き起こしたが、その結果、ベーコンがハムになってしまった。その三、その肉の色の美しさが、白居易の《憶江南》の一節、“日出江花紅勝火”(朝の太陽に照らされた川岸の花の赤色の鮮やかさは、燃える火の赤色にも勝る)に比類し得ることから、“火腿”という名が付いた。

                             風騒入骨
                      あだっぽさが骨の髄まで沁み通る

 金華ハムに関しては、今日に至るも未だ実証されたことのない、民間の伝説がある。百本の金華ハムを漬け込む度に、その中に必ず犬の腿肉を一本、混ぜておかねばならないのだそうだ。一本の犬の腿肉を百本の豚の腿肉に混ぜるのは、この犬の役割は人の代わりに犬の腿が「牧羊犬」の役割をするのではなく、目的は塩漬けの過程で豚の腿に味を付ける為である。

  犬の腿肉はそんなに風味があるのか。どうしてたった一本で百本の相手に対することができるのか。このことを知る者は恐らく多くないだろう。鄭板橋は犬の肉を好み、とりわけ犬の腿肉を熱愛しただけでなく、いつも“恨不得一条狗能長出八条腿”(一匹の犬に足が八本生えていないのがもどかしい)と言っては溜息をついたと言われている。

 金華ハムは美味しいけれども、料理の上ではいつも、どうでもよい高級調味料の役割で登場し、中国全国の様々な料理の中にも、金華ハムをメインにした料理はどこにでもある(“比比皆是”)。それと同時に、多くの人は、それを口に入れると、硬くて噛み切れないとか、辛すぎる、長く保存されたので、がまんできない「腐ったような味がする(“哈喇味”)」と言って嫌がる。ところが実際は、上手に作った金華ハムは肉質が柔らかいだけでなく、私が食べてみて、その本当の味を味わおうと思ったら、それだけを蒸すのが最上の方法で、切り身と米をいっしょに蒸すと、油分が米に吸い尽くされ、芳香は更に素晴らしくなって尽きることがない。これを調味料として使うのも、風味が調和し、また良い。しかしこのようにすると、金華ハムが蒸しあがった後に呈するあの焔のようなしっとりした赤色と、脂肪のようなぎらぎらした白色という艶めかしい光景を大いに損なってしまう。

 本当のことを言うと、金華ハムのあの赤色は、確かに特別な赤色である。色彩の名称には、California Red(“加州紅”)、China Blue(“中国藍”)、Himalaya White(“喜馬拉雅白”)の他に、肉感迫る、あだっぽさの骨の髄まで沁み通った赤、名付けて“金華火腿紅”を加える必要があると思う。

 世の中の“美腿”、素晴らしい腿肉は、中国の“金腿”と“雲腿”、つまり金華火腿と雲南火腿以外に、数の多いのは英語でhamと呼ばれるもので、イギリスやアメリカが最も製造が盛んである。アメリカのハムは、文字の上では名実ともに“美腿”(美国火腿)であるが、梁実秋先生の見方によれば、「この“美腿”は決して美味しくない訳ではないが、別の物である……金華火腿と同日に語ることはできない。」つまり、それは中国でも様々なメーカーが作っている「ハム・ソーセージ」に似た物である。それ以外で、地球上で金華火腿と同日に語ることのできる“美腿”は、おそらくスペインとイタリアの二つの産地だけだろう。

                             外国火腿

 スペインやイタリアのハムは生で食べる。その滋味は、金華ハムとは異なる。その中の一つの食べ方――メロンのハム巻き、すなわち一片の薄きこと紙の如きハムで一切れのメロンを覆うか巻くかするのは、スペインやイタリアのハムの世界中で行われている代表的な食べ方である。ピンク色の半透明のハム、黄金色のメロンの果肉と淡い緑のメロンの皮――メロンのハム巻きがもたらすのは、先ず視覚上の衝撃である。その、甘さの中に生臭い塩辛さの滋味を帯びるのは、更に奇異な感じがする。金華ハムを入れた冬瓜(トウガン)のスープを飲みなれた者から言わしてもらうと、この味覚はすぐには受け入れ難い。

 スペイン人とイタリア人は食べ物の上で多少なりとも皆「ハムへの熱愛癖」を持っている。例えば、スペインのハム店には店名を“Museo del Jamón”、「ハム博物館」というのがあるし、マリョーカの名監督、アラゴネスが日本のあるサッカークラブから年棒200万ドルでの招聘のオファーを断った理由は、「日本にはスペインのハムが無い」ことであった。ビガス・ルナの1992年の作品《ハモン・ハモン》では、更にスペイン人のハムへの思いが演繹されてその極致に到達している。映画の男性主人公はハム工場の運搬係のラウルである。ハムの貯蔵室にいるこの小男は、心の中では闘牛士になることを夢見ている。彼の恋しているのは、ある男性下着工場の縫製工のシルビアである。しかし、シルビアはひたすら、マザコンの工場の若旦那、ホセと結婚したいと思っていた。ホセの母親はシルビアと我が子を結婚させたくなかったので、シルビアがラウルを好きになるようにさせるよう仕向けた。この過程で、シルビアは自分のことを好きでないと思っていたのは、ラウル自身であった。この愛憎劇が勃発し、ラウルとの間で武器を手に決闘が行われた。ホセの武器は、太くて大きい、ハムの骨であった。ラウルは手に一本丸々のハムを持ち武器にした。この映画は1992年に第49回ヴェネチア映画祭の銀獅賞を獲得した。この時、金獅賞を獲得したのが、張藝謀の《秋菊打官司》であった。

 ハムの話となり、スペインとイタリアの話になると、ついでにサッカーのことを取り上げざるを得ない。私は、この二つの国から、足の速い、敵の防御を突破する能力を備えたフォワードが生み出されるのは、「ハム文化」と無関係では無いかもしれないと思う。言い換えると、サッカーは本質的につまるところ脚(足首)、或いは腿(股からくるぶしまで)を使った運動である。この問題の理解の違いが、ある程度までその地域のハム文化が発達しているか否かを決定する。東方のハム大国として、中国サッカーが依然としてアジアの壁を越えられないなら、江東の父老に対し恥ずかしいというのは二の次で、我が国火腿文化の奥深い伝統に申し訳なく思う。これは実に道義上許されないことだ。

                            花拳綉腿
                          見かけ倒しの腿

 豚の腿以外にも、美味しい“美腿”はたくさんある。しかし、火腿と比べれば、見かけ倒しであるに過ぎない。

 中国人は皆、鶏の腿は美味いと言い、嘗ては「魚の頭は骨ばかりで身が無く、鶏、家鴨は腿や胸を食べるのが良く」、「鶏を食べるなら腿を食べ、家に住むなら南向きでないといけない」と、富貴な生活を形容した。実際は、鶏の腿は、肉は多いが、味や食感は鶏の手羽や胸肉に遠く及ばない。“鳳爪”(鶏の爪先)も同様である。肉を貪り食うというのは、相変わらず貧困の特徴である。嘗て地方の匪賊が人を誘拐すると、人質(“肉参”)に鶏を食べさせたと言われる。丸々一羽の鶏で、先ずどこの部分に箸をつけるか見る。腿肉を挟んだら、取れる身代金は適量である。手羽を挟んだら、家の財産を使い尽くして(“傾家蕩産”)いて、金は取れないだろう。

 もう一つの“鶏腿”は、カエル(“田鶏”)の腿で、たいへん美味しい。名物料理で“烤櫻桃”と言うのは、カエルの腿肉を材料にしている。いわゆる“櫻桃”は、捌いた後のカエルの腿肉が上向きに肉の塊が縮んでまとまり、骨が露出して、茎付きのサクランボ(“櫻桃”)のように見えるからである。食べると肉はきめ細かく滑らかで柔らかく、しかも噛み応えがある。もちろん、この二本の“美腿”以外は、カエルの全身にはとりたてて食べるところは無い。

 肉食民族にとって言えば、あまり食べることがないがそれを棄て置くのは惜しいものは、蟹や伊勢エビの類の、水生動物の腿(足)である。足の数は多いが、あまり肉は付いておらず、食べるのは、瓜子(クアズ)の殻を剝くのと同様に面倒である。しかし、伊勢エビの前足(正確に言うと、はさみの部分)は、以下の特殊な状況下では、絶対にほっておくことはできない:伊勢エビがまだ生きている時に一方のはさみを失うと、栄養分が残ったもう一方のはさみに集中するので、殊のほか美味しくなる。

  ソルジェーニツインの小説《癌病棟》で、一人の患者がこう言った。「足を一本失ったぐらいで、生活のことをとやかく言うことはできない。」それなら、生まれつき足の無い魚類は、「二本の腿を持っていないので根本的に美味をとやかく言うことはできない」と言えるだろうか。魚を食べることを熱愛する者はこの問題に対する意識がおそらくたいへん矛盾している。一方で、食客達は魚の水掻き(つまり、しっぽ)やヒレを追求し、ちょうど潜在意識として“魚腿”や魚の完全性への渇望があるのかもしれない。もう一方で、腿の無い生物は、世界で最も美味な食物かもしれないのである。李漁は女性の顔、髪、手足を語り尽くしたが、ただ美腿、つまり太ももや膝のことだけは語らなかった。どうしてか?それは主に腿がスカートの下に隠され、視覚を惹きつける衝撃になり得なかったからだと思う。見えない腿は、機能の上では見えない手より強大で、腿が無いということは美腿の至高の境地なのかもしれない。これすなわち南派の拳法の一手、“佛山無影脚”である。

【原文】沈宏非《飲食男女》江蘇文藝出版社2004年から翻訳


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