1982年北京
1982年9月、私は当時勤めていた会社より、留学生として北京に派遣されました。留学先は北京大学。当時、会社の事務所は町の中心、長安街に面した北京飯店の一室でした。大学は、北京市の西北郊外、中関村というところにありました。大学の宿舎から北京飯店に向かう途中、宣武門という、北京の昔の城壁の城門のひとつがあったところを通りますが、ここに来ると、巨大な白い塔が見えてきます。これが白塔寺です。
白塔寺周辺の胡同
白塔寺は、正式には妙応寺白塔と言います。塔全体の高さは51メートル、レンガを積み上げてできており、全体は真っ白で、中国に現存する最も古いチベット式の仏塔(またはラマ塔という)です。
白塔は、もともと元(1271-1368)の前の遼(916-1125年)の時代の塔があったところに、元の至元8年(1271年)に建造が始められ、至元16年(1279年)に竣工したものです。
妙応寺は、元代には「大聖寿万安寺」と言い、元の大都創建時期の重要事業の一つでした。元王朝建国後、領土の面積の広大な多民族封建国家が建立され、チベットがこの時代に元朝の版図に入りました。元の世祖、フビライが採用した国策の一つが、「儒教により国を治め、仏教により人心を治める」ことで、チベットに伝わった仏教であるラマ教を国教に定め、モンゴル、中国に広く伝えました。フビライは、新しく建設した都城、明朝以降、北平や北京と呼ばれることになる「大都」で、大型のチベット式仏塔を建てるよう命令し、自ら塔の場所を視察し選定しました。
白塔の形や構造は、古代インドのストゥーパに起源を発する形式の仏塔であり、元の世祖フビライの中統元年(1260年)にネパールの工匠、アニゴからチベットに伝わり、その後、元の大都に伝わりました。アニゴは、優れた建築、絵画や造形の才能を備え、「帝師」パスパの推薦により、フビライの御座に到り、元朝に四十年余り仕えました。フビライは、完成した塔を見て大いに喜び、アニゴに莫大な褒賞を与えました。
フビライの時代、白塔寺の寺域は16万平方メートルを誇り、数多くの殿宇が建てられました。元代の大聖寿万安寺は、元の皇室が首都大都で行う仏教行事活動の中心であっただけでなく、モンゴル語やウイグル文字に翻訳した仏典を印刷する場所となりました。繁栄を誇った白塔寺ですが、元の至正28年(1368年)、寺院の殿宇は、雷による火災で焼失してしまいました。
80年あまり後、明の天順元年(1457年)、宛平県民、郭福が寺院の修復を願い出、後に妙応寺と改名した。再建後の寺院の面積は約1.3万平方メートルと、元の十分の一の規模になりました。塔の前に山門、鐘鼓楼、四間の殿宇、及び東西の配殿や僧房等が建築され、この伽藍配置は基本的に今日まで保たれています。清代以降は、僧たちは生計のため、寺の土地や建物を貸し出すようになり、白塔寺は、次第に北京城内でも有名な、寺院の縁日が立つ場所のひとつになりました。縁日や正月、節句のたびに、寺の境内の両側には店や屋台が立ち並び、寺の中庭には芝居小屋が架けられ、民間の様々な物、季節の産物の市が立ち、各種の地方風味の軽食の店や、人を夢中にさせる娯楽や曲芸が行われ、人の往来が盛んな、にぎやかな場所になりました。
白塔の基壇は、城壁のレンガを積み上げた台になっていて、地面から2メートル出ており、面積は1422平方メートルです。その方形の中心に、多角形の塔の台座が築かれていて、面積は810平方メートル、台座は三層に重なっていて、高さは合計9メートル、最下層は保護壁、上の二層は須弥壇となっています。台座の上の塔身本体は、大きな円形の伏せた鉢の形で、7本の幅の広い鉄の箍(たが)がはまっていて、様々な大きさの鎹(かすがい)が、間隔の広いところ、密なところを交互にして、塔身に打ち込まれています。塔身の底と台座の接合箇所には、一周が24個の仰向きのハスの花弁の形の「蓮座」になっていて、上には更に「金剛圏」という帯状のつなぎ目が5層あり、方形の塔座が自然に円形の塔身につながるようにしてあります。伏せた鉢の形の上端にはまた一層、小さな須弥壇が間に作られています。その上は大きく長い「十三天」と呼ばれる部分で、円錐形をしていて、十三層の水平の輪を積み上げて作られ、輪は下が大きく上に行くほど小さくなっています。
白塔の外観
頂上は直径9.7メートルの「華蓋」(「天盤」とも言い、古代に帝王の車につけた絹の傘。ここではそれと同じ形の飾り)で、盆の形をしていて、厚い木材で底を作り、銅の板瓦で蓋をし、周囲には「流蘇」(馬や車に付けた房状の飾り)のように36枚の銅製の透かし彫りの「華鬘」(けまん。仏具の一種で、仏前を荘厳にするため、本来は寺の堂内の梁などに掛けるもの)を吊り下げてあります。1枚が幅1メートル、長さ2メートル、下にはそれぞれ風鈴が吊るされています。
白塔頂上部、「十三天」と「華蓋」
「華蓋」の頂上中央には、高さ約5メートル、重さ約4トンの中心が空洞になった金銅の「塔刹」(とうさつ。日本の塔での相輪に当たる)が立っていて、小さな宝塔のようで、「塔刹」の高さと傾斜度がちょうど「十三天」の大円錐体の先端部分を構成し、これと「十三天」で一体となります。これは中国に現存する古い塔の「塔刹」の造形では唯一のものです。
金銅の「塔刹」
元代の碑文の記載によれば、白塔が初めて建設された時、上面にはたくさんの美しい仏教画の彫りものや飾りがありました。塔の台座に彫られたのは動物で、須弥壇には多くの仏法を守る神像があり、鉢を伏せた形の上には五方佛のマークと「天母が執る器物」が置かれ、角の石柱の上には「法杵」が置かれ、大きな塔身の上には真珠のネックレスがかけられていましたが、長い年月が経ち、現在は皆剥落してしまいました。けれども、白塔の「珍鐸は風を受けて鳴り響き、金盤は太陽に向き光り輝く」雄姿は相変わらず昔のままです。
白塔はその後、10回程度、大規模な修理を受けています。清の乾隆18年(1753年)の修繕の時、皇帝の名義で多くの美しい収蔵品が塔の中に納められたと、寺に残る清代の石碑に書かれていました。1978年の白塔修理で塔の頂上を開けた時、これらの文物が発見され、実物によりこの碑文の記載が裏付けられました。
この収蔵品の中には、清代の龍蔵版『大蔵経』は、乾隆帝が自ら書いた経咒であり、精緻に彫刻された、小さな純金(「赤金」)の舎利長寿佛があり、高さ5センチ、40数個のルビーがはめ込まれていました。
龍蔵版『大蔵経』(清)
純金の舎利長寿佛(清)
五佛冠と袈裟が一式あり、その上には、千個以上の真珠、サンゴ珠、紫檀珠や宝石が縫い付けられていました。
五佛冠と袈裟(清)
また、白檀(「黄檀木」)でできた厨子と一体で刻まれた観音像が一体ありました。厨子の中には小さな宝龕があり、その中には舎利子が納められていました。
白檀の厨子入り観音像(清)、その外部と内部
1961年、中国国務院は北京妙応寺白塔を第一期の「全国重点文物保護単位」に指定しました。国家の予算で何度か修理が施され、1961年に白塔に避雷針が取り付けられ、1962年、塔身の修理、1978年から1980年まで、白塔と寺院の主要建造物の大修理が行われ、1980年より、美しく修復成った白塔寺が一般公開されました。