中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

北京下町のシンボル、白塔寺

2020年03月27日 | 中国文化

1982年北京

1982年9月、私は当時勤めていた会社より、留学生として北京に派遣されました。留学先は北京大学。当時、会社の事務所は町の中心、長安街に面した北京飯店の一室でした。大学は、北京市の西北郊外、中関村というところにありました。大学の宿舎から北京飯店に向かう途中、宣武門という、北京の昔の城壁の城門のひとつがあったところを通りますが、ここに来ると、巨大な白い塔が見えてきます。これが白塔寺です。

白塔寺周辺の胡同

白塔寺は、正式には妙応寺白塔と言います。塔全体の高さは51メートル、レンガを積み上げてできており、全体は真っ白で、中国に現存する最も古いチベット式の仏塔(またはラマ塔という)です。

白塔は、もともと元(1271-1368)の前の遼(916-1125年)の時代の塔があったところに、元の至元8年(1271年)に建造が始められ、至元16年(1279年)に竣工したものです。

妙応寺は、元代には「大聖寿万安寺」と言い、元の大都創建時期の重要事業の一つでした。元王朝建国後、領土の面積の広大な多民族封建国家が建立され、チベットがこの時代に元朝の版図に入りました。元の世祖、フビライが採用した国策の一つが、「儒教により国を治め、仏教により人心を治める」ことで、チベットに伝わった仏教であるラマ教を国教に定め、モンゴル、中国に広く伝えました。フビライは、新しく建設した都城、明朝以降、北平や北京と呼ばれることになる「大都」で、大型のチベット式仏塔を建てるよう命令し、自ら塔の場所を視察し選定しました。

白塔の形や構造は、古代インドのストゥーパに起源を発する形式の仏塔であり、元の世祖フビライの中統元年(1260年)にネパールの工匠、アニゴからチベットに伝わり、その後、元の大都に伝わりました。アニゴは、優れた建築、絵画や造形の才能を備え、「帝師」パスパの推薦により、フビライの御座に到り、元朝に四十年余り仕えました。フビライは、完成した塔を見て大いに喜び、アニゴに莫大な褒賞を与えました。

フビライの時代、白塔寺の寺域は16万平方メートルを誇り、数多くの殿宇が建てられました。元代の大聖寿万安寺は、元の皇室が首都大都で行う仏教行事活動の中心であっただけでなく、モンゴル語やウイグル文字に翻訳した仏典を印刷する場所となりました。繁栄を誇った白塔寺ですが、元の至正28年(1368年)、寺院の殿宇は、雷による火災で焼失してしまいました。

80年あまり後、明の天順元年(1457年)、宛平県民、郭福が寺院の修復を願い出、後に妙応寺と改名した。再建後の寺院の面積は約1.3万平方メートルと、元の十分の一の規模になりました。塔の前に山門、鐘鼓楼、四間の殿宇、及び東西の配殿や僧房等が建築され、この伽藍配置は基本的に今日まで保たれています。清代以降は、僧たちは生計のため、寺の土地や建物を貸し出すようになり、白塔寺は、次第に北京城内でも有名な、寺院の縁日が立つ場所のひとつになりました。縁日や正月、節句のたびに、寺の境内の両側には店や屋台が立ち並び、寺の中庭には芝居小屋が架けられ、民間の様々な物、季節の産物の市が立ち、各種の地方風味の軽食の店や、人を夢中にさせる娯楽や曲芸が行われ、人の往来が盛んな、にぎやかな場所になりました。

白塔の基壇は、城壁のレンガを積み上げた台になっていて、地面から2メートル出ており、面積は1422平方メートルです。その方形の中心に、多角形の塔の台座が築かれていて、面積は810平方メートル、台座は三層に重なっていて、高さは合計9メートル、最下層は保護壁、上の二層は須弥壇となっています。台座の上の塔身本体は、大きな円形の伏せた鉢の形で、7本の幅の広い鉄の箍(たが)がはまっていて、様々な大きさの鎹(かすがい)が、間隔の広いところ、密なところを交互にして、塔身に打ち込まれています。塔身の底と台座の接合箇所には、一周が24個の仰向きのハスの花弁の形の「蓮座」になっていて、上には更に「金剛圏」という帯状のつなぎ目が5層あり、方形の塔座が自然に円形の塔身につながるようにしてあります。伏せた鉢の形の上端にはまた一層、小さな須弥壇が間に作られています。その上は大きく長い「十三天」と呼ばれる部分で、円錐形をしていて、十三層の水平の輪を積み上げて作られ、輪は下が大きく上に行くほど小さくなっています。

白塔の外観

頂上は直径9.7メートルの「華蓋」(「天盤」とも言い、古代に帝王の車につけた絹の傘。ここではそれと同じ形の飾り)で、盆の形をしていて、厚い木材で底を作り、銅の板瓦で蓋をし、周囲には「流蘇」(馬や車に付けた房状の飾り)のように36枚の銅製の透かし彫りの「華鬘」(けまん。仏具の一種で、仏前を荘厳にするため、本来は寺の堂内の梁などに掛けるもの)を吊り下げてあります。1枚が幅1メートル、長さ2メートル、下にはそれぞれ風鈴が吊るされています。

白塔頂上部、「十三天」と「華蓋」

「華蓋」の頂上中央には、高さ約5メートル、重さ約4トンの中心が空洞になった金銅の「塔刹」(とうさつ。日本の塔での相輪に当たる)が立っていて、小さな宝塔のようで、「塔刹」の高さと傾斜度がちょうど「十三天」の大円錐体の先端部分を構成し、これと「十三天」で一体となります。これは中国に現存する古い塔の「塔刹」の造形では唯一のものです。

金銅の「塔刹」

元代の碑文の記載によれば、白塔が初めて建設された時、上面にはたくさんの美しい仏教画の彫りものや飾りがありました。塔の台座に彫られたのは動物で、須弥壇には多くの仏法を守る神像があり、鉢を伏せた形の上には五方佛のマークと「天母が執る器物」が置かれ、角の石柱の上には「法杵」が置かれ、大きな塔身の上には真珠のネックレスがかけられていましたが、長い年月が経ち、現在は皆剥落してしまいました。けれども、白塔の「珍鐸は風を受けて鳴り響き、金盤は太陽に向き光り輝く」雄姿は相変わらず昔のままです。

白塔はその後、10回程度、大規模な修理を受けています。清の乾隆18年(1753年)の修繕の時、皇帝の名義で多くの美しい収蔵品が塔の中に納められたと、寺に残る清代の石碑に書かれていました。1978年の白塔修理で塔の頂上を開けた時、これらの文物が発見され、実物によりこの碑文の記載が裏付けられました。

この収蔵品の中には、清代の龍蔵版『大蔵経』は、乾隆帝が自ら書いた経咒であり、精緻に彫刻された、小さな純金(「赤金」)の舎利長寿佛があり、高さ5センチ、40数個のルビーがはめ込まれていました。

龍蔵版『大蔵経』(清)

純金の舎利長寿佛(清)

五佛冠と袈裟が一式あり、その上には、千個以上の真珠、サンゴ珠、紫檀珠や宝石が縫い付けられていました。

五佛冠と袈裟(清)

また、白檀(「黄檀木」)でできた厨子と一体で刻まれた観音像が一体ありました。厨子の中には小さな宝龕があり、その中には舎利子が納められていました。

白檀の厨子入り観音像(清)、その外部と内部

1961年、中国国務院は北京妙応寺白塔を第一期の「全国重点文物保護単位」に指定しました。国家の予算で何度か修理が施され、1961年に白塔に避雷針が取り付けられ、1962年、塔身の修理、1978年から1980年まで、白塔と寺院の主要建造物の大修理が行われ、1980年より、美しく修復成った白塔寺が一般公開されました。


紹興烏氈帽

2020年03月20日 | 中国文化

1983年紹興にて

1982年秋から北京に留学していた私は、1983年2月の春節休みを利用し、中国国内の旅行をしました。途中、江南地方では、蘇州と杭州に滞在したのですが、杭州から列車で、文豪魯迅の故郷、紹興へ日帰りで行きました。杭州から、2時間ぐらいの距離であったと思います。紹興の駅に着き、街に出ると、人々がかぶる帽子が独特なものなので、驚きました。思わず撮ったのが上の写真です。「烏氈帽」と言います。

「烏氈帽」、黒いフェルト帽は、中国浙江省紹興市で、人々がかぶっていた独特な帽子です。内も外も黒色で、頂上が丸く、端が巻き上がり、前の部分はシャベルの先のような形をしていました。冬は雨風をしのぎ、夏は陽の光を避け、冬暖かく夏は涼しく、一年中使うことができました。丈夫で傷みにくく、分厚くて固く、濡れても乾きやすく、経済的であったので、幅広い人々が使いました。

1983年紹興にて

明の張岱は、「秦漢時代、羌人(チベット系の遊牧民族)に倣って氈帽を作り始めた」と言いました。明の会稽郡の人、曾石卿の詩に、「鵞黄蚕繭燕毡帽」(黄色いカイコの繭、ツバメの羽のように黒い氈帽)という句があります。

烏氈帽の成り立ちと、紹興の人々の、古くから黒を尊ぶ審美感は、切り離して考えられません。紹興は、古くは「於越」の地で、「於」とは烏のことです。紹興は今に至るまで越文化の影響を深く受け、紹興の氈帽が黒色なのは、紹興人が黒を貴ぶ他、紹興の風俗習慣と切り離せません。紹興人は、葬儀の時白い帽子をかぶるので、日常生活では、白い帽子をかぶるのを忌み嫌ったと言われています。

清の光緒25年(1899年)、潘尚升が紹興袍瀆から中心部の西営に移り、潘万盛氈帽店を開店しました。ここが紹興の代表的な氈帽の製造先でした。

烏氈帽の材料は羊毛で、先ず選別し、ふわふわやわらかく加工し、脂肪分を抜いて後、繊維を梳いて何層にも重ね、圧縮して成形します。その特徴は、水がしみ込みにくく、汚れがつきにくく、頭にかぶると風を遮り、雨を防ぎ、側面の曲がったところは、たばこをはさんだり、小銭を入れたりできました。

紹興というと、文豪、魯迅の生まれ故郷です。魯迅の短編小説、『孔乙己』の舞台である咸亨酒店が、1981年に紹興の中心街に復元され、観光名所になりました。旅行者は紹興に来ると、烏氈帽を買い、咸亨酒店の前で、烏氈帽をかぶって記念写真を撮る、というのがお決まりのコースとなっているようです。

下の写真の咸亨酒店は、古い民家を改装したもののようで、中は薄暗く、カウンター越しに甕から紹興酒を量り売りするような店で、正に『孔乙己』のイメージそのものでした。現在は、建て替えられ、たいへんりっぱなレストランとなり、また中国全土に支店を出しておられるようです。

1983年当時の咸亨酒店

もちろんメニューには、酒の肴として、茴香豆(ういきょうで味付けしたソラマメ)もあります。残念ながら、この時は、写真を撮らせてもらっただけで、中で飲食はしませんでした。

咸亨酒店内部

烏氈帽がこれほど有名になったのは、魯迅の作品と切り離しては考えられません。魯迅の多くの作品で、頭に烏氈帽をかぶった農民の姿が描写されています。彼は『故郷』の中で、幼いころに一緒に遊んだ、使用人の子の閏土の姿を描写する時、「紫色の丸顔で、頭には小さな烏氈帽をかぶっていた。」と表現しました。『阿Q正伝』では、「阿Qはちょうど現金の持ち合わせがなく、烏氈帽を質草にした。」と書きました。烏氈帽が、紹興の庶民の間では、ごく普通に見かける帽子になっていたことがわかります。

江南の水郷の町、紹興。小さな手漕ぎ船に、烏氈帽をかぶった船頭さんの姿がよく似合います。

烏氈帽と烏篷船

 


四合院の魅力、垂花門と屏門

2020年03月16日 | 中国文化

垂花門は、四合院の中の一番外の外院から、母屋のある内院に通じる門であり、屏門は、庭と庭をつなぐ門です。垂花門と屏門が担うのは、風水的には、影壁と同様、気を収斂(しゅうれん)させ、屋敷内で、気をゆっくりした速度で流れるようにし、気を拡散させないようにするのが目的です。屏門は、通常は閉められていて、気の流れが勝手に出ていかないよう、遮る役割を果たしています。それともうひとつは、表門は、その家の主人の身分に合わせ、大きさや装飾などに様々な制約を受けますので、屋敷内の母屋のある内院につながる垂花門については、豪華な装飾を施したものが多く見られます。

■垂花門

四合院を入ると、表門の次にくぐる門で、「二門」(二の門)です。表門を入ると、一番目の四合院、「外院」に入りますが、次いで、「主房」、母屋のある「内院」に入るための門が「垂花門」です。「二門」の形式はたいへん多く、垂花門一種に止まりません。例えば護国寺の梅蘭芳故居では、その二門は比較的簡単で、二門の内側には、木製の、磚を模した影壁があります。垂花門は、二門の一つの種類に過ぎませんが、二門の建築様式として、垂花門は最も凝って作られています。そのため、垂花門が二門の代名詞となっています。

垂花門は、「屋宇」(家屋)式と「随墻」(壁付)式の二種類に大別されます。「屋宇」式垂花門は更に二種類に分かれます。簡単な垂花門は、一つの屋根でできており、大型のものは、二つの屋根から成り、「勾连搭(棟続き)」式、或いは「一殿一卷」式と呼ばれ、後者は、外側の屋根には棟が上がっていますが、後ろの屋根は棟が無く、弧を描いています。

「一殿一卷」式垂花門

垂花門は、その巧みな工程、美しい造形、精巧な設計で、四合院の中の重要な装飾部分となっています。それは屋敷の主人の地位や趣味を示すだけでなく、表門の内側にあるので、自分を外にひけらかすことなく、極めて穏便であることを示しています。前面の軒下に垂れて地面につかない短い木の柱(「垂蓮柱」)についていえば、柱の頭は蓮の花の形の垂珠や風に揺られる柳の形に刻まれ、方形のものもあり、上面には吉祥図案のレリーフが刻まれています。

垂蓮柱(赤で印をつけた柱)

垂蓮柱の先端部分

「垂蓮柱」の歴史は古く、宋の天府3年(1100年)に出版された、宋代の土木建築様式についての本の中で、何か所か「虚柱」という言葉が取り上げられており、「虚柱蓮花篷(苫。とま。日よけ、雨風よけ)五層」との記述があります。これは仏像の上にかざす帳(とばり。天蓋)の制作様式です。つまり、仏様の上を飾る天蓋のような豪華な装飾が、垂花門に施してあるということです。

垂花門には、たいへん華麗な磚や木の門楼のようなものがあり、四合院の内側から見ると、あずまやのような小さくて凝った造りの建物です。内側にある、四枚の戸板がいつも閉じられた屏門は、一枚の壁のように、垂花門の立体感を増してくれます。

垂花門。奥が屏門。左右から内院に入ることができる

更に屋根、階(きざはし。階段)、梁(はり)の方形の木材(「梁枋」)、桁の垂木の支柱(「檩椽戗」)、門の台座石(「門枕石」)、梅花釘、抱鼓石、華板、「望板」(屋根の裏に張る板や磚)、磚の壁の基本的なパーツを加えると、中国の伝統建築で用いる土木構成部品、装飾手法、建築スタイルのほとんど全てが集中していて、そこから四合院を構成する各種の建物の中で、最も精緻で美しい部分ができあがっています。

垂花門の建物の大きさそのものは小さいですが、建物としての位置づけは高く、垂花門の石段の上は、肉親や友人を見送ったり、出迎えて挨拶をしたりする場所であり、その家の女主人が、女性の友人や親せきと、別れる前の語らいをするのに、たいへん都合の良い場所でした。女性はもともと世間話をするのが好きですから、別れる時にも、まだ話が全部は終わっていないことがままあります。地面に着いていない垂蓮柱を用いることで、足元の地面は広くなっています。上には、日差しや雨を遮る屋根があり、更には豪華で美しい垂花門に引き立てられ、気分までも、それに似つかわしいものになってきます。これこそ、昔よく言われたように、婦女子は「大門不出,二門不邁」(表門を出ることはなく、二の門を跨ぐことはない)ということで、大奥様や娘さんは、垂花門より外に出ることは無かったのです。また、屋敷内で、パーティーなど、大事な行事が行われる時は、垂花門がその舞台となりました。

垂花門から内院に入る時、まっすぐ向かうことはできません。人々の視線が、内院の中を直接見ることができなくなっています。これは、外から入って来た人が、内院の様子をあからさまに見るのを防ぐためです。また、内院にいる婦女子が、外部の人とあまり多く接触しないようにするためです。内院は、このため幾分神秘的でさえありました。河北省張家口一帯では、垂花門を管理する人を「閃門」と言いました。「閃門」の呼称は、或いは「閃」の字体に着眼しているのかもしれません。「門」が外の人々の視線を遮るのと同じ意味であったのでしょう。

四合院俯瞰図(赤丸が垂花門)

垂花門から内院に入るルートは二つあります。比較的多いのは、外院を通って、曲がって右手の垂花門から内院に入るルート。もう一つは、垂花門の奥の通路の左右いずれかから入り、回廊(「抄手游廊」、これは、雨の日に内院を訪ねる時、傘をささずとも、両手をそれぞれ中華服の反対側の袖口に入れて、腕組み(「抄手」)をしたままで通れる回廊という意味です)を通って「正房」(母屋)に入るルートでした。

抄手游廊(頤和園益寿堂)

専門家によれば、東城区の后圓恩寺胡同7号(旧称「恩園」。元蒋介石の野戦司令部。今の友好賓館)内の西側の四合院の垂花門が最も典型的で、美しいそうです。ここの垂花門は「一殿一卷」式で、内側に屏門があり、その色彩はみやびやかで、バランスも適当で、且つ保存状態も良いとのことです。

また東城区の帽児胡同8号の四合院内の垂花門は、彫刻が美しく、ゆったりとして華麗であり、東城区板廠胡同27号の四合院(北京市東城区保護文物)は、その垂花門の透かし彫りされた花卉が精緻で美しいとのことです。

■屏門(庭と庭を仕切る門)

赤丸が屏門

「影壁」両側の「屏門」

屏門(仕切り門)と門内の影壁は一体で敷地内の視線を遮る役割を果たしています。しかし影壁と異なり、屏門は開閉して動くもので、締め切って動かないものではありません。前者は壁で、後者は門であり、ゆえに「屏門」と名付けられました。屏門は四枚の戸板、或いは何枚かの戸板から成り、開けることができます。表門と影壁の間に形成される中庭の両側に屏門が設置される他、外院では、東側と相対する西側にも設置され、そこには通常、便所が置かれます。この他、二の門である垂花門の内側、内院側の正面にも四枚戸の屏門が設けられ、更には中庭と中庭の間の横向きの接続にも屏門を用いることがありました。

垂花門内側の屏門

屏門は、木の枠の中に取り付けられたものもありますが、より多くは、短い軒や頂(いただき)に瓦を積み重ねて模様にした壁に取り付けられ、敷居の枠は黒色で、また軒先に覆いがあります。戸板一枚一枚の上下の角には鉄の部品が取り付けられ、それにより敷居の枠と地面のくぼみ内に扉を固定し、戸板を動かして開けることができ、必要な時は戸板をはずして、よそへ移すことができます。緑色の屏門の上には、赤い四角の紙で、普通は黒字で「吉祥如意」、「四季平安」などと書き、また円形の「瓦頭」(軒瓦)に「寿」の字を刻むこともあり、赤色の地には金がちりばめてありました。

垂花門内側の屏門に貼られた吉祥文字

屏門ははるか周代には出現し、当時は「扆」或いは依と呼ばれましたが、元々の意味は門と窓の間に設けられた屏風のことで、しかし屏門とは違い、固定した場所に置かれたのではありません。屏門は屏風の変化したもので、風をさえぎり視線をさえぎる点では、屏風と共通のところがあります。

内院の北側の回廊が耳房に通じる前の小さな中庭のところにも、通常は壁を築き、その上に屏門を設けます。

垂花門の内側にある屏門は、最も魅力的です。垂花門の外観の華やかな装飾とは反対に、緑色の屏門は、見た感じが上品で清楚です。それに加え、赤色の紙の中の黒色のめでたい文字が、一層のあでやかさを添えています。東城の鼓楼南帽児胡同35、37号の婉容(えんよう。清朝のラストエンペラー、愛新覚羅溥儀の正妃)故居では、曾て婉容が冊封された後、「後邸」となり、屋敷は建て増しされました。完成後、前院は拡張され、東西の二間の壁には、それぞれ菱の花を刻んだ四連の戸板の窓があり、門内には一字形の影壁があり、その左右は各々四連の屏門でした。西の屏門を入ると西院で、北は互いに連なった垂花門で、東西はそれぞれ屏門で両側の跨院に通じていました。三重目の四合院は上房院(母屋のある四合院)で、敷地の南壁は緑のペンキに金色の板を貼った壁で、下に須弥壇を築き、中間は切妻屋根の木の屏門でした。ここからも、大きなお屋敷であっても、屏門のある場所がたくさんあったことが分かります。

その他、什錦花園19号の、戴笠(1897-1946。中華民国の政治家・軍人)が曾て住んだ四重の大四合院では、母屋の四合院の西側に、月亮形の屏門があり、その中は小さな跨院(母屋の横の四合院)で、山の石が積まれていました。美術館東街25号は、曾ては西太后のめいの住まいで、ここも母屋の四合院の西側に、月亮形の屏門が設けられていました。しかし、ここは跨院に通じているのではなく、北側の三重目の四合院に通じていました。

月亮形の屏門


四合院の魅力、めかくしの壁「影壁」

2020年03月11日 | 中国文化

中国の伝統文化において、四合院の中で「影壁」(目隠しの壁)の設置は、単に装飾機能に限られるのではありません。四合院の建設をする時、風水で言う、気の流れを確保しないといけませんが、気の流れは、直進させてはならないのです。四合院の門の外、左右両側にある影壁は、気を収斂(しゅうれん)させるのに有利で、門の内側にある影壁は、気をS字形に迂回して進ませ、ゆっくりした気の流れの速度を確保し、気を拡散させることがありません。故宮の中では、宮殿内のほとんど全ての四合院で影壁が設置され、壁は木製、石製、瑠璃瓦製などがあり、たいへん凝っています。

木製影壁

またそれとは別に、清代の満州族の人々の間には、門前の影壁は、天を供養する位牌であるという言い伝えがあります。これは、清朝を建てた憨王、ヌルハチが、建国前のある時、他国との戦闘中にひとり逃げ帰る途中、畑仕事をしていた老人に助けられ、また一群のカラスが舞い降り、身を隠すのを助けたという故事から、彼が年老いて後、全ての満州族の家の中庭に「索倫杆」(「神竿」とも言う)を立て、その上に丸い升を付け、天とカラスを祭る肉を置くように命令し、またそれぞれの家の門前に影壁(目隠しの壁)を建て、天への位牌とし、正月、節句と親族が亡くなった時に供養するようにしたというものです。

瀋陽故宮清寧宮前の「索倫杆」

このように、清代の満州族の人々の家の門前の影壁は、天を供養する位牌であることを表しているという説があります。とはいえ、実は影壁が出現するのは、この伝説よりはるか昔にさかのぼり、陝西省岐山鳳雛村の西周遺跡にある、中国最古の四合院跡の表門の外に、既に影壁の残存がありました。影壁は幅広い範囲の四合院式住居に設置されており、帝王の宮殿の庭園、宗教寺院から官邸や役所に至るまでの建物の門前には影壁があります。

北京の四合院住宅の影壁は、このように、表門の門外に建てられたものと、表門の内側の、門と中庭の間に建てられたものとがあります。

1.大門外の影壁

「三号門の外の、古いエンジュの樹の下には目隠しの壁(影壁)があり、壁は黒い所は黒、白い所は白に塗られていて、真ん中には二尺(約60センチ)四方の赤い「福」の字が書かれていた。祁家の門外には目隠し壁は無く、胡同中のどの家にも目隠し壁は無かった。」老舎の『四世同堂』の中で、私たちは、明らかに表門の外に設置された影壁は、貧しい人の住む家の門の前に建てられたものではないと感じることができます。

門外の影壁は王府の大門や等級の高い広亮大門の外にあります。こうした影壁は一般に「一」の字形、もしくは「八」の字形であり、中間がすこし高く、両端がすこし低くなっています。

「一」の字形影壁

「八」の字形影壁

いくつかの規模の比較的大きな屋敷の大門の前方には、一定の空間が確保されていて、影壁を建てる場所になっていました。そこは大門と向かい合っていて、大門の外の左右の牌楼(アーチ形の門)や建物と、門前広場を構成しています。北京では、門前に影壁のある四合院は少なからず存在し、とりわけ「東富西貴」(北京の東城は、水運による物流の動脈であった通恵河の船着場に近く、商品の積み下ろしにも便利が良いので、大商人たちがこのあたりに住んだ。一方、西城は皇族の住む王府や満州八旗の一族の屋敷が宣武門内外から西四、或いは什刹海、后海、中海、前海の周辺に集中していたことから)である東城、西城地区に分布していました。

北海公園北岸の九龍壁は、有名な影壁です。これは木造構造に似せた彩色の瑠璃磚の影壁で、壁全体で彩色瑠璃磚を424枚使っています。九龍壁の北側には、曾ては大円鏡智宝殿(四合院式の廟宇。元は東側にある西天梵境というラマ教寺院の羅漢堂であったものが、その後、単独の寺院として独立)があったのですが、1900年に八か国連合軍の北京侵攻により焼き払われ、ただ九龍壁のみが残存したものです。

北海公園「九龍壁」

門外の影壁は、知らず知らずのうちに公共の道路を自分の住宅の領域内に入れてしまう効果があり、通行人が通るのを禁止されてはいないものの、人々に他人の家の領域で、自分が他人の家の領域に侵入しているかのように感じさせる効果があります。

門外、道路の向かいに作られた影壁

門外の影壁は、大門の向かいにあるものの他、大門の両側にあるものがあり、西長安街の中南海新華門の外の両側のように、両側に長い影壁となっています。北京では、およそある程度の規模の四合院になると、表門には、その向かいに影壁があった他、門の両側にも影壁がありました。

中南海新華門と両側の八の字形影壁

 

2.大門内の影壁

大門の内側の影壁は、まっすぐ大門に向き合い、左右は屏門になっています。影壁の形式から言うと、「独立式」と「借山式」の二つに分かれます。「独立」と言うのは、その前提として、設置される場所の空間が広いことで、とりわけ倒座房の前の中庭は奥行きが長くなっています。独立式影壁は、地面から上方に磚が積み上げられ、下面は須弥壇形をしていて、その上が壁になっており、青レンガを磨いて柱、桁、垂木、瓦当(丸い軒瓦の先端部分)などの形状にしています。影壁の中心部分は、白色の石灰を塗られたり、斜めに磚を積んで、中心部分は磚でレリーフの図案を突出させたり、吉祥の語句を書くようになっています。独立式の影壁は、見た感じが押しつぶされた家屋のようになっています。

独立式影壁

借山式のものは、東廂房の山墻(山形の壁)を影壁にしたもので、多くは中心が平らで、中に吉祥の字句が書かれ、下面には一般に須弥壇がありませんが、頭部には必ず軒が出ています。

借山式影壁

影壁の中には、二の門の入口や西廂房の北側の山形の壁のところに設けられたものもあります。その理由は、中庭への門が中庭の西南の角に設けられているためです。

北京西方の古刹、戒台寺の牡丹院の中に、太湖石を積み上げて作った築山花壇式の影壁があります。ここは曾て明清両王朝の皇帝の行宮で、清の光緒年間、恭親王がここで長期間暮らし、ここを大改造しました。この築山花壇式影壁は高さ3メートル、長さ6メートル、太湖石は高低入り混じり、窪んだり出っ張ったりし、多くの穴がそのまま残され、形状は築山のようで、それゆえ築山影壁と名付けられました。影壁の前は花壇になっていて、影壁と一体となり、これにも太湖石が積み上げられ、5メートルの長さがあります。この築山花壇式の影壁は衝立の作用をするだけでなく、これ自身がひとつの景観となり、たいへんユニークです。これは北京の伝統的な四合院と江南の園林芸術を巧みに結合させた産物です。

戒台寺牡丹院築山花壇式影壁

壁形の大多数の影壁は、壁の上に多少の装飾ができるだけで、九龍壁のように全身上下全てを装飾することはできません。このことは、たとえ宮殿建築であっても同様です。装飾の配置についてみると、多くが、壁面の中心と四隅の角に集中しています。中心を「盒子」(器、うつわ)、四つの角を「岔角」(角、かど)と言います。装飾内容から見ると、各種の獣の紋や植物の花卉が描かれ、その題材は広範に亘ります。けれども用いるテーマは、しばしば建築内容に関わるものが選ばれます。例えば紫禁城内の皇帝、皇后が居住する養心殿、養性殿では、敷地内の瑠璃の影壁の中心の「盒子」(器)は、「オシドリがハスに寝そべる」絵で、海棠の花形の「盒子」の中に、二羽のオシドリが水に浮かび、周囲はハスの葉、花托、花が描かれています。

紫禁城養心殿の影壁

いくつかの王府、寺院、役所の建物では、影壁にただ彩色の瑠璃の磚で壁の頂上、斗拱、梁を作り、梁や壁本体は瑠璃の磚で縁取りをし、真ん中は赤色の漆喰の壁面とし、中心の「盒子」と四隅の「岔角」は黄色や緑の瑠璃の磚で装飾しています。きれいで、さっぱりしているのが、多くの民居の影壁の特徴です。また、影壁の前に植物の花や太湖石を置くことで、影壁全体が生き生きとしてきます。護国寺街の梅蘭芳故居はこの手法を採用しています。装飾の無い門内の影壁の前には、青笹が植えられ、梅蘭芳の半身像が置かれています。黒色の大理石の基壇の上に、白玉の像が配され、青笹に引き立てられた梅蘭芳の姿は、訪れた人に忘れがたい印象を残しています。

護国寺街梅蘭芳故居の影壁前の装飾

影壁は、表門の外にあれば、その家の門の勢いを強め、門内の影壁は、調和、安穏の作用があり、幽玄な環境を生み出します。影壁本体だけでなく、地面、仕切り門(屏門)、影壁の前の鉢植え、蓮の花や金魚鉢も、その手助けをします。来訪者がひとたび門をくぐると、先ず目に入ってくるのは、さっぱりとして気品のある、つやつやした影壁や、よく茂った草花であり、視覚的な美しさを感じることができます。


四合院の魅力、屋根のいろいろ

2020年03月06日 | 中国文化

1920-30年頃、鼓楼から北海方面を見る

四合院の魅力のひとつは、様々な形の屋根により構成される、大海原が描く波のような風景だと思います。景山の万春亭から故宮を見下ろすと、瑠璃瓦の屋根の波を見ることができます。また、鼓楼から北海の方向を俯瞰すると、曾ては灰色の四合院の屋根の波を見ることができました。

屋根にも地位や身分があって、四合院では、中心となる母屋を中心に、大屋根(「大屋頂」。大棟を上げた屋根のこと)がつけられました。大屋根は、その形について言うと、一冊の開いた本を逆さに向けて置いた形で、「人」の字の形です。こうした屋根を、「曲線斜屋頂」(曲線斜め屋根)と呼ばれます。表面はアーチ型の屋根面を構成しています。それには、人にとっての冠に相当する、その人の地位を表す象徴的な意味の他、実際の機能も備えていました。こうした屋根は、放物線と双曲線の特性を利用し、迅速に排水する効果が得られます。また、北京は冬と夏の気温差が大きく、冬の気候は寒冷で、垂れた水が氷結し、手で金属を触ると、張り付くような感じになります。一方、夏はじめじめと蒸し暑く、座っているだけで汗が滴り落ちてきます。こうした状況下で、家屋の大屋根は、独特の機能を発揮しました。屋根が高いので、屋根と天井の間に過渡的な空間が形成されます。冬は、外は寒いが、この過渡層を通して、天井の下の部屋には、外の冷気が直接侵入することがありません。夏は、太陽の厳しい日差しを防いでくれます。更に、廊下に竹のすだれを掛けて垂らせば、入ってくる熱気を制御できる他、部屋の中は涼しい風がそよぎ、快適に過ごすことができました。

「曲線斜め屋根」の構造は、何ステップかの工程で完成させる必要がありました。これは主に何種類かの建築手法で処理され、屋根が跳ね上がるように作られ、生き生きとした美しさが現れるようにされました。「垂脊」(下り棟)はぴんと伸び、屋根は威厳を持ち落ち着いた中にも躍動感を失っていませんでした。

「硬山頂」(切り妻)屋根の「垂脊」(下り棟)

四合院の屋根は、建築形式の上では、主に「大屋脊」(大棟)、「元宝脊」(馬蹄銀の形に似ていることから)、「清水脊」(魚の背骨の形の棟で、先端に「「鼻子」と呼ぶ突き出た飾りが付いている)、「皮条脊」(清水脊の先端の突き出た飾りが省略された形の棟)、「鞍子脊」(馬の鞍の形の棟)などに分類されます。

大屋脊

元宝脊

清水脊

清水脊鼻子(清水脊先端の飾り)

鞍子脊

施工上の技術から言うと、ごく少数の平屋根(「平頂」)や「一面坡」(片勾配。つまり、後方が高く、前面の軒が低くなった形)の屋根を除き、全ての屋根は先端が低く、中間が高くなっています。したがって、両方の壁も必然的に両端が下降し、中間は高くなっていて、家屋の側面から見ると、この壁は山の峯のような形をしており、それで「山墙」(山形の壁)と名付けられました。

硬山山墙

「山墙」の頂上と屋根がつながるところで、様式がいろいろ異なります。一般の四合院住宅の「山墙」は、屋根の側面に嵌め込まれているので、「硬山」と呼ばれます。凝った家屋の「山墙」と屋根がつながる部分では、頂上が大棟から二筋の棟に分かれ、前後の勾配に沿って下り、前後の軒まで伸びています。軒のところで「瓦頭」(がとう。「瓦当」とも言う)と「滴水」(逆さ向きの瓦。雨水がここから滴り落ちる)が敷かれています。

丸いのが「瓦頭」、その下の逆さ向きの瓦が「滴水」

滴水瓦

「滴水瓦」から雨水が滴り落ちる様子

「山墙」の端と、この1列の「滴水」がつながるところには、更に細かく磨かれた方形の磚が端にはめ込まれ、「博縫極(頭)」と呼ばれ、これはたいへん精緻で美しい「山墙」で、「大式硬山山墙」と名付けられています。

博縫極(博縫頭)

これより少し劣るのですが、「山墙」が頂上まで積み上げられ、頂上とつながるところで、磚で突き出た三本のへりを作り、その形が二等辺三角形の二辺のようで、且つ多少下に窪んでいて、更に黒い石灰できちんと塗りつぶしたものを、「小式硬山墙」と呼び、一般の四合院でよく見かけられ、見た感じが簡潔明快で、古風で質素な感じがします。

小式硬山墙

 

古建築「硬山屋頂」構造図(1)

古建築「硬山屋頂」構造図(2)

古建築「硬山屋頂」構造図(3)

     ・瓜柱:梁の上に立てる短い柱
     ・脊瓜柱:「瓜柱」のうち、棟を支えるもの 
     ・脊檁:棟木 
     ・金柱:軒の下の柱を「檐柱」と言うのに対し、家屋の内側の柱を「金柱」という。
     ・金檁:「金柱」の上の桁
     ・檐檁:軒を支える桁 
     ・檐柱:軒の一番外側を支える柱
     ・三架梁:中央の「脊瓜柱」と左右二本の「金檁」を支える梁。
      三本の桁を支えるので「三架梁」という。
     ・五架梁:「三架梁」の下方にあり、左右二本の「金檁」と「三架梁」の下の
      「瓜柱」を支える梁。全部で五本の桁を支えるので、「五架梁」という。
     ・檐椽:軒に渡した垂木
        ・飛椽:屋根の軒の先端の跳ね上げの深さを大きくするため、
         「檐椽」の外側に更に方形の垂木を渡したもの

屋根に関しては、もう一つ、「勾連搭」という形式があります。その意味は前後の二つの屋根が一緒につながっていて、つながった部分が樋(とい)状になっており、排水に用いられています。こうした形式の採用は、通常は敷地面積が狭いことと関係していますが、時には部屋のスパンが大きく、奥行きが深いこととも関係しています。垂花門の屋根もよく「勾連搭」になっており、それは一面では、垂花門は、四合院の内院と外院の間に跨っているからであり、別の面では、このようにすれば、変化をつけることができるからです。

「勾連搭」の屋根の連結部分に排水のための口が付いている

「勾連搭」の屋根

「勾連搭」の垂花門

古い形式の四合院、とりわけ王府、王宮などの大型、超大型の四合院では、その屋根はよく、高さが異なり、姿形が様々な小さな獣の像(「走獣」と言います)を取り付け、装飾しています。こうした像は、先ず、屋根の雨漏りを防ぐという実用的な機能を備えています。というのも、こうした獣の像が置かれる部分はちょうど、棟が分岐するところ、棟を支えるところ、積み重ねた瓦の列の間の溝が合流するところで、棟瓦で蓋をしないといけない所に当たっています。獣の形の各種の飾りは、雨水の侵入を防ぐだけでなく、建物の装飾にもなっています。装飾の面では、先人は、これらにそれぞれ異なる機能を与えました。屋根の上の獣の像は、その建物に住む家族の等級の象徴でもあります。したがって、一般の四合院の屋根の上には、こうした飾りは置かれていません。

紫禁城太和殿の「垂脊」(下り棟)の「走獣」

「走獣」の先端、「垂脊」(下り棟)の端に置かれた仙人

太和殿の瑠璃角神獣の配列順序:
10.行什、9.斗牛、8.獬豸、7.狻猊、
6.狎魚、5.天馬、4.海馬、3.獅子、
2.鳳、1.龍、仙人

最高の等級の建物の場合、飾りに用いられる獣は、龍、鳳、獅子、海馬(せいうちに似た海獣)、天馬、狎魚(xiáyú。こうぎょ。海中の異獣で、雲を起こし、雨を降らせ、火を消し災いを防ぐ)、狻猊(suānní。しゅんげい。さんげい。龍が生んだ9匹の子のうちの一匹、形は獅子に似て、武力に優れ、百獣を率いる)、獬豸(xièzhì。かいち。体は麒麟に似て全身黒い毛で覆われ、額の上に一本角がある。人の言葉を理解し、邪や嘘を憎む。公明正大の象徴)、斗牛(とぎゅう。角のある龍の子)、行什(ぎょうじゅう。背中に羽のある猿。手に金剛宝杵を持ち、悪魔を降伏させる)です。「垂脊」(下り棟)の前方には、仙人が鳳に乗った像を置きますが、その由来は、大鳥が斉の湣王(びんおう)を救った故事により、「災い転じて福となす」効果があるとされました。それ以外の獣を置く意味あいについては、龍は皇帝の象徴。鳳は最高の徳のある人のことであり、獅子は勇猛で威厳のある人。天馬、海馬は吉祥の化身。狻猊は獅子のように勇猛な神獣であり、狎魚は海中の異獣。獬豸は忠実で、正邪を見分けることができ、勇猛で公明正大。斗牛は蛟(みずち、角のある小さな龍)の一種で、吉祥の雨を降らせ、物を鎮める。行什は伝説中の仙人で、移動することが得意で、スムーズに事が運ぶという意味合いがあります。屋根の角に順番に並べられたこれらの獣は、災い転じて福となる、災いが消え災難が無くなる、邪(よこしま)や悪が取り除かれる、公平が維持されるといった意味合いを象徴しています。

部屋の中を見ると、表門の出入り口の通路や垂花門といったあまり重要でない建物を除き、大多数の建物には、天井が張られています。一般には、穂や葉を取り除いたコウリャンの茎を架け渡して支柱とし、桁の上から吊り下げ、先ず繊維の粗い紙を下地にし、更に石灰を刷毛で塗ったり、透かし模様のある専用の紙をかぶせたりしています。それより更に高級な、王府や役人の屋敷になると、天井裏を漆喰(しっくい)で塗ったり、天井板を用いたりしています。天井板を使う場合でも、木材で支柱を作っているので、堅牢にできているし、見た感じもきちんと整っています。

■その他の屋根のバリエーション
四合院で使われる代表的な屋根の形には、以下のようなものもあります。

・懸山頂

懸山頂

懸山頂と硬山頂の違いは、懸山は屋根の檁(棟木)が建屋の端から突出していますが、硬山は建屋の中に納まっています。両者の違いの特徴として、懸山は、屋根が「山墙」から突き出ているので、雨水がかかりにくくなります。硬山は屋根の突出が無い分、防火に有利です。

・巻棚頂

硬山、懸山、歇山(入母屋屋根)の屋根の「正脊」(大棟)を、円弧を描いた曲線にしたものです。硬山巻棚、懸山巻棚、歇山巻棚があります。上の絵は、歇山巻棚です。