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近江泥棒に伊勢乞食

2007年04月13日 | アパレル放談
「近江泥棒に伊勢乞食」、私がアパレル問屋に勤務していた時に、滋賀県出身と話すと、相手から度々この諺を持ち出されました。
若い時には何か後ろめたい感じがしたものです。 この諺には「がめつい商法」の代名詞のような印象がありますが、実は「勤勉、正直、質素、倹約、堅実を信条」として、天秤棒を担いで地道な商売で成功しましたのが近江商人の本当の姿です。江戸で活躍する松阪や近江商人に対する当時の江戸っ子の妬みに過ぎず、最近では逆に誇りを持って、この諺を受け止められるようになって来ました。

歴史的に近江商人と松阪商人とは、織豊時代の武将の蒲生氏郷(ガモウ・ウジサト)を介して、深いつながりが有ったようです。 蒲生氏郷は信長の楽市楽座の下で日野商人を育てました。日野市は近江八幡市や五個之荘と並ぶ近江商人の発祥の地として有名です
特に「富山の薬売り」と同様に「置き薬の行商」の地として知られています。
その後、蒲生氏郷は伊勢に国替えになり、ゆかりの日野商人を松阪に帯同し、松阪商人もととなりました
三重県、滋賀県との県境にある鈴鹿山脈を天秤棒を担って山越えして、伊勢湾の海産物と近江の畳表、イグサやカヤ細工などの商品を商い近江商人の始まりといわれています。
作家の童門冬二は蒲生氏郷と日野商人の関わりを「近江商人魂」に書いています。
当時の鈴鹿山脈は山賊が頻繁に出たようで、硬い樫の木の先を鋭く尖らした天秤棒は格好の武器になったことや、各地に行く行商は自ずと各地の情報が入って来たことや見知らぬ土地での住人との揉め事や、泥棒と怪しまれたことなど、領主の蒲生氏郷と町人の仁右衛門と利八に絡めて小説にしています。 その本の帯封には、『日本を経済大国たらしめた真のルーツがここに!』「信用」「情報」「忍耐」「才覚」「倹約」をモットーに全国を制覇した近江商人の「商いの原点」と天秤棒精神と書かれていました。(昭和62年の初版の少し古い本です)
日本の繊維ファッション産業のグローバル化から藤原正彦著の「国家の品格」⇒「私の品格」⇒「近江商品魂」と藤原氏がその著の中で書いておられる様な論理性のない話になってしまいました。
結局今回も充分に読み取ることは出来ませんでしたが、著者は「国家の品格」に「武士道精神」の慈愛、誠実、正義、勇気、惻隠の情を唱えておられます。 恥ずかしながら武士道の精神に縁遠い私には、近江商人の「三方よし」「利真於勤」「陰徳善事」の方が馴染みやすいようです。
他の科学や機械や金融のような文明的な産業とは異なり、情緒的な要素の強い繊維ファッション産業のグローバル化には、武士道精神より商人道魂」のほうが案外適しているに思えます



「琵琶湖のアユは、他国に飛び出して大きくなる」という諺があります。
琵琶湖の生息するアユの稚魚を全国の河川に放流してアユに成長します。琵琶湖のアユは子鮎の時に飴炊きにして食します。そんなこともあり琵琶湖の鮎は比較的小さいのです。琵琶湖があり農地の少ない土地柄で、次男、三男は食い扶持を減らす意味もあり、「他県に出て出世せよ!」という意味が込められています。
多くの成功者が輩出した所以かもしれません。
私も近江の端くれの三男坊ということもあり、大学を卒業し、40年程前に家族や親戚の大きな期待を背にして近江商人を目指して大阪の船場にやって来ました。
残念ながら両親の期待に応えず、琵琶湖を大アユになることを目指して飛び出したアユは、元気がとりえだけの小さな鮎程度にしかなれなかったようです。
先日の37回忌法要で仏前で両親に詫び、家族の健康と無事という、ささやかな幸せを報告してきました。


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