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つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

桜田門と丸の内ビル群

2009年02月20日 | 歴史
                        桜田門と丸の内オフィスビル

三宅坂からお堀に沿って歩いていくと桜田門が見える。
その後方には丸の内のオフィスビルが立ち並んでいる。
今から150年前桜田門で事件が起きた。
桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)、江戸城桜田門外にて水戸藩の浪士らが大老・井伊直弼の行列を襲撃し暗殺した事件である。

桜田門の前には、警視庁の建物がある。
関係者からは、この建物のことを「桜田商事」と呼ぶ。
拘留された容疑者らは「桜田ホテル」と呼んでいる。

昔も今も事件を見てきたのが桜田門である。
江戸城への城門として風格を醸し出す。
桜田門に立ってみると、国会議事堂が目の前に位置する。
反対側には、日比谷の高層ホテルやオフィスビル群が立ち並ぶ。

日本の歴史が見える桜田門である。

(2月20日記)
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浅草六区

2008年09月12日 | 歴史
                     浅草六区の賑わい

歴史
1873年(明治6年)の太政官布告により、浅草寺境内が「浅草公園」と命名され、1884年(明治17年)一区から七区までに区画された。
この時浅草寺裏の通称・浅草田圃の一部を掘って池を造り、池の西側と東側を築地して街区を造成。
これが第六区となり、浅草寺裏手の通称奥山地区から見せ物小屋等が移転し、歓楽街を形成した。

その後、1887年(明治20年)の根岸興行部の常盤座に始まり演劇場、活動写真常設館、オペラ常設館などが出来て隆盛を誇り、江川の玉乗り、浅草オペラ、安来節等が注目を浴びた。
突き当たりに位置した凌雲閣は通称「十二階」と呼ばれた高層ビルで、その展望台は浅草はおろか東京でも有数の観光名所となったが、関東大震災で崩壊した。

昭和期に入っても「アチャラカ」と呼ばれた荒唐無稽の喜劇が好評を博し、戦後も軽演劇、女剣劇、ストリップおよびその幕間に演じられたコントが注目を浴び、芸能の殿堂・一大拠点として、ここからスターとなった芸能人も数多かった。

1959年浅草寺五重塔再建のためにランドマークであった通称「瓢箪池」が埋め立てられ、跡地に楽天地の遊園地と東急グループの複合娯楽施設「新世界」が立つ。
また、奥山から新世界までの間が西参道商店街として整備される。

しかし1960年代に入り、テレビ時代を迎え東京オリンピック以降、新宿、渋谷、六本木など城南方面に若者の文化が芽生え、浅草公園六区は急激な地盤沈下を迎える。
映画館・劇場は悉く閉鎖され、新世界の跡には場外馬券売場 (WINS) が移転して、以降平日は通行人がまばらで週末は競馬目当ての労務者が集中する光景が多くなった。
夜間は7時になると人通りも疎らになり、不夜城と詠われた嘗ての殷賑振りとは隔世の感がある。

こうした六区地区の斜陽に歯止めを掛けるべく、地元の「おかみさん会」等の下支え等により次第に復調の兆しを見せ、今日に至っている。

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熊本城の二様の石垣

2008年07月19日 | 歴史
                       熊本城の二様の石垣

熊本城に「武者返し」がある。
天下一流と名を馳せた熊本城の石垣は「清正流石垣」と呼ばれ、独特の弧を描く扇の勾配で造られている。
下は、30度ほどとゆるやかながら、上に向かうに従って角度を高め、天端では75度の絶壁になっている。
高さ十間から二十五間までの石垣の高さごとに反りの角度を数種類に分けていたことがわかる。

二様の石垣は、手間の清正時代のゆるやかな石垣角と奥の細川時代の急勾配の石垣角からなっている。

(7月19日記 池内和彦)
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