一方、大聖人は、建治三年(一二七七年)の年末から、体調を崩されていた。四条金吾は、懸命に治療に当たった。
“師匠のためには、どこであろうが訪れ、治療に当たろう。大聖人の御健康は自分が守り抜いてみせる!”
それが、彼の決意であったにちがいない。 弘安元年(一二七八年)六月の、彼の投薬によって、健康を回復された大聖人は、この年の閏十月、御手紙を認められ、「今度の命たすかり候は偏に釈迦仏の貴辺の身に . . . 本文を読む
「開目抄」をいただいた四条金吾は、はるばると山海を越えて、鎌倉から、佐渡の大聖人を訪ねた。込み上げる歓喜に、居ても立ってもいられなかったのだ。主君に仕える身でありながら、流罪された大聖人を訪ねることは、容易なことではなかったはずである。
大難という烈風は、欺瞞の信仰者の仮面をはがす。誰が、真の信仰者か、本当の弟子かを明らかにしていくものだ。 真正の弟子・四条金吾を迎えた大聖人のお喜びは、いかばか . . . 本文を読む
四条中務三郎左衛門尉頼基、すなわち四条金吾が、日蓮大聖人に帰依したのは、青年時代とされている。彼の偉大さは、単に医術に優れていただけでなく、生涯にわたって師匠である大聖人を守り、師弟の道を貫き、広宣流布の大願に生き抜いたことにある。
文永八年(一二七一年)九月十二日、大聖人が頸をはねられんとした、竜の口の法難でも、不惜身命の行動を貫いている。
深夜、大聖人が、四方を兵士たちに取り囲まれ、処 . . . 本文を読む
「私は十九歳で、戸田先生とお会いして、入信した。若いころ、私は病弱であり、医師からも、三十歳まで生きられない体であると言われていた。しかし、戸田先生と共に、ひとたび決めたこの道を、歩み通そうと覚悟を定め、私は歌を詠み、日記に記した。
『荒狂う 怒濤に向かいて 撓まぬは
日の本背おう 若人なりけり』
これが私の決意でした。また、『波濤会』の決意としていっていただきた . . . 本文を読む
それは、戸田の事業が暗礁に乗り上げ、窮地を脱するために、伸一が奮闘を重ねていたころのことである。給料も遅配が続き、オーバーも買えず、食事も満足にとれないような日々が続いていた。
伸一は、久しぶりに、実家に立ち寄った。なんの土産も用意できなかったが、せめて母に顔を見せて、安心させたかったのである。母は、伸一の身なりから、わが子の置かれた状況を、すぐに察知したようであった。幸は、笑みを浮かべて言った . . . 本文を読む
山本伸一は、ただ“すべてに勝って、戸田先生にお喜びいただくのだ”との一念で、働き、戦い、走り抜いた。
伸一の心には、瞬時も離れず戸田がいた。彼の日々は、瞬間、瞬間、師匠である戸田との対話であった。
彼は確信していた。 “自分の一挙手一投足を、心の奥底を、常に先生はご覧になっておられる!” そして、“いかなる瞬間をとっても、常に胸を張って、先生にご報告できる自分であらねばならない”と心に決めていた . . . 本文を読む
山本伸一は、ただ“すべてに勝って、戸田先生にお喜びいただくのだ”との一念で、働き、戦い、走り抜いた。
伸一の心には、瞬時も離れず戸田がいた。彼の日々は、瞬間、瞬間、師匠である戸田との対話であった。彼は確信していた。
“自分の一挙手一投足を、心の奥底を、常に先生はご覧になっておられる!”
そして、“いかなる瞬間をとっても、常に胸を張って、先生にご報告できる自分であらねばならない”と心に決め . . . 本文を読む
編集室では、伸一は記者たちに言った。
「みんな、一騎当千の人材になるんだよ。では、どうすれば、力が出るのか。自分の話で恐縮だが、私は、青年時代から〝すべてに勝ち抜いて、戸田先生の正義を世に示すのだ。先生のために戦おう。先生にお喜びいただこう〟と決めて戦った。つまり、師弟の道に、私の力の源泉がありました」
山本伸一は、聖教の記者たちに訴えた。
「戸田先生は、広宣流布の大誓願に生涯を捧げられ . . . 本文を読む
師匠を宣揚することは、運動の原点を明らかにすることでもある。師の教え、生き方のなかに、自分たちの運動の目的が示されているからである。ゆえに、戸田城聖も、初代会長・牧口常三郎の偉業を、生涯、宣揚し抜いた。十回忌には、牧口の『価値論』を補訂・再版し、その英訳を、世界の四百以上の大学・研究所等に送ったのである。 . . . 本文を読む
戸田先生は、昭和二十七年(一九五二年)二月の青年部研究発表会で、東西冷戦の渦中にあって、『地球民族主義』を提唱されました。その世界平和への大構想を実現するために、私は命の限り、走り抜いてまいります。
また、恩師の偉業を讃え、永遠に顕彰するために、先生の故郷である厚田村に、記念碑を建設することを提案し、私のあいさつとさせていただきます。 . . . 本文を読む
彼は、常に弟子たちに語っていた。「広宣流布は、この戸田がする。七十五万世帯は、戸田の手で達成する。君たちも手伝いたいか!」
戸田は、決して「戦ってくれ」とは言わなかった。自分でやると決めていたのだ。一人立ったのである。
弟子たちは、「お手伝いをさせてください!」と、広宣流布の戦いに加わることを、戸田に誓願したのだ。
だが、その戸田が、ある時、伸一にこう語ったのである。
「広宣流布は、お . . . 本文を読む
創価学会の確信の精髄は、戸田城聖の「獄中の悟達」にある。法華経に説かれた「在在諸仏土 常与師倶生」(在在の諸仏の土に常に師と倶に生ず)の文を生命で読んだ戸田の、「われ地涌の菩薩なり」との悟達こそが、学会の魂である。
その戸田という師に連なる時、学会は広宣流布を使命とする「創価学会仏」たりえるのである。
この時、伸一は決意した。 "戸田先生は広宣流布の大指導者である。先生に自在に指揮を執っていた . . . 本文を読む
山本伸一は、ただ“すべてに勝って、戸田先生にお喜びいただくのだ”との一念で、働き、戦い、走り抜いた。
伸一の心には、瞬時も離れず戸田がいた。彼の日々は、瞬間、瞬間、師匠である戸田との対話であった。
彼は確信していた。 “自分の一挙手一投足を、心の奥底を、常に先生はご覧になっておられる!” そして、“いかなる瞬間をとっても、常に胸を張って、先生にご報告できる自分であらねばならない”と心に決めていた . . . 本文を読む
戸田は、よく伸一に、「学会としての会館もないのでは、同志がかわいそうだ」と、もらしていた。
しかし、一九四九年(同二十四年)秋ごろから、戸田の会社の経営は悪化し、窮地に陥っていった。学会に迷惑をかけないようにと、戸田は学会の理事長も辞任した。とても会館の建設どころではなかった。
そんなある日、戸田と伸一は日比谷方面に出かけた。どしゃ降りの雨になった。傘もなく、タクシーもつかまらなかった。全身、ず . . . 本文を読む