「酒田君。信心の極意は、『師弟不二』にあるんだよ。戸田先生は、不世出の、希有の大指導者だ。先生の一念は、広宣流布に貫かれている。その先生を人生の師と定め、先生の仰せ通りに、先生と共に、また、先生に代わって広宣流布の戦いを起こしていくんだ。その時に、自分の大いなる力を発揮することができるし、自身の人間革命もある。さらに、幸福境涯を築くことができる。事実、私はそうしてきた。それで、今日の私がある。
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農島が、最も真剣に中森に訴え続けたのは、師弟についてであった。
「大学で学問をするには、その道ば究めた教授が必要やろ? 信心にも師匠が必要なんよ。我見じゃいかんとばい。
俺は、山本先生が第三代会長に就任されてから、先生を師匠と決めて、その指導通りに実践ばしてきた。聖教新聞に載った先生の指導は、頭ん中に叩き込んできたばい。
先生のおっしゃる通り、教学ば学んで、懸命に折伏に励んだ。そのおかげ . . . 本文を読む
五月二十日午後、晴天のもと、山口文化会館では開館記念勤行会が行われた。勤行会で山本伸一は、二十年前の山口開拓指導に触れながら、懇談的に話を進めた。
「山口開拓指導は、戸田先生から、直接、指示を受け、私が指揮を執った戦いでした。当時、山口県の広宣流布は、他地域と比べて、著しく遅れていた。戸田先生は、昭和三十一年(一九五六年)の九月初め、私を呼ばれ、広宣流布の飛躍の転機をつくるために、『山口県で指 . . . 本文を読む
『御義口伝』には、『今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり此れを道場と云うなり』(御書七八一ページ)とあります。私たちのいるところは、そこが、山であろうが、谷であろうが、広野であろうが、どこであれ、寂光土であり、成仏得道の場所になるのだと言われているんです。
それには、その場所で、広宣流布の戦いを起こし、信頼の輪を広げ、幸せの実証、勝利の実証を打ち立てていくことです . . . 本文を読む
その後、福島県の幹部らと懇談し、午後一時半過ぎからは、文化会館の庭に立つ、歴代会長の碑の除幕式に出席した。
伸一が紅白の紐を引くと、白布が取り除かれ、黒御影石に彼の筆で、「妙法の 広布の旅は 遠けれど 共に励まし とも共に征かなむ」との、戸田城聖の歌が刻まれた碑が姿を現した。同時に、初代会長・牧口常三郎の「学会精神」、戸田の「大願」などの文字が刻まれた石碑が、一斉に除幕された。
伸一は、戸 . . . 本文を読む
広宣流布の師匠には、すべての民衆を救っていこうという地涌の菩薩の大生命が、脈動している。その〝師のために〟と、心を定めて戦う時、生命が共鳴し合い、自身の境涯も開かれていくんです。
私は、そうすることによって、戸田先生の生命、ご境涯に、連なることができた。わが命は燃え上がり、無限の勇気が湧き、智慧が湧きました。誰もが不可能と思い、たじろぐような困難の壁にも、勇猛果敢にぶつかり、乗り越えていくこと . . . 本文を読む
「みんな、一騎当千の人材になるんだよ。では、どうすれば、力が出るのか。自分の話で恐縮だが、私は、青年時代から〝すべてに勝ち抜いて、戸田先生の正義を世に示すのだ。先生のために戦おう。先生にお喜びいただこう〟と決めて戦った。つまり、師弟の道に、私の力の源泉がありました」
山本伸一は、聖教の記者たちに訴えた。
「戸田先生は、広宣流布の大誓願に生涯を捧げられた指導者でした。先生は、こうおっしゃってい . . . 本文を読む
山本伸一の講義は、「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや」(御書一三六〇ページ)に入った。
「『日蓮と同意』とは、大聖人と同じ心、同じ精神ということであります。大聖人は、『日蓮生れし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり』(同一五五八ページ)と仰せです。
この心で、広宣流布の使命に生き . . . 本文を読む
一九五一年(昭和二十六年)の一月六日、土曜日であった。山本伸一は、業務停止となった東光建設信用組合の残務整理のために、戸田城聖の自宅に呼ばれた。四面楚歌の状況であり、一部の債権者は、戸田を告訴さえしていた。事と次第によっては、戸田は、逮捕もされかねない事態にあったのである。また、
新たな活路を求め、戸田が最高顧問となって、大東商工がスタートしていたが、思うに任せぬ状況であった。戸田は、妻の幾枝を . . . 本文を読む
伸一は、この日、さらに、男子部、学生部の精鋭の研修会に出席した。そのスピーチのなかで、彼は、なぜ先師・牧口常三郎、恩師・戸田城聖を守り、宣揚し抜いていくのかを語った。
「それは、私どもに、大聖人の仏法を、御本尊を、御書を教えてくださったのは、牧口先生、戸田先生であったからであります」
師恩を知るところから、弟子の道は始まる。
山本伸一は、力説した。
「いかに仏法がすばらしく、御本尊が偉 . . . 本文を読む
「昨日は、私の入信記念日でしたが、二軒のお宅を訪問し、一人ひとりを真剣に激励してきました。
君たちも、誰が見ていようがいまいが、一兵卒となって、会員のために汗を流し、懸命に励まし、学会を守り抜いていくという姿勢を、忘れないでいただきたい。
諸君は、既に学会の中核であり、これから多くの人が、さらに、副会長などの要職に就いていくでしょう。さまざまな権限をもつようにもなるでしょう。最高幹部になって . . . 本文を読む
富島は、いつも、“山本先生が喜界島を訪問される時には、どうやって迎えようか”と考えていた。彼女は、家を建てる時、玄関を二つ造ってもらった。その一つの玄関は、直接、客間につながるようになっていた。伸一が来島した時に、宿泊するための部屋として用意していたのだ。
彼女の心には、広宣流布の師匠として、常に伸一がいた。“いつ先生を迎えても、勝利の報告ができるように”と、日々、真剣勝負で活動に取り組んでき . . . 本文を読む
山本伸一は、気迫のこもった声で、大阪の青年に語った。
「いよいよ、弟子が立ち上がる時代だよ。私が、大阪の戦いを開始したのは、昭和三十一年(一九五六年)一月です。ただただ、戸田先生がお元気なうちに、広宣流布は、必ず弟子の手で成し遂げられるという、一つの実証をご覧いただき、安心してもらおうとの思いで戦いました。それが弟子です。みんなの力で、私が出席した以上に、意気軒昂で、大歓喜が爆発する文化祭にして . . . 本文を読む
「牧口先生は、小学校の校長でしたが、常に信念を貫いたことから、権力者ににらまれて、学校を追われています。迫害の連続でした。その牧口先生を、一貫して守ってこられたのが、戸田先生でした。留任運動の先頭にも立って戦っています。
また、戸田先生が、私塾・時習学館を開いたのも、牧口先生の教育学説を、弟子の自分が実証しようとの思いからでした。さらに、将来、牧口先生の本を出したい、そのための資金も自分が用意し . . . 本文を読む
戸田城聖は、師の牧口常三郎の写真を飾った、学会本部の恩師記念室ともいうべき部屋で、常に、牧口を偲び、誓いを新たにして、広宣流布の大願に生き抜いてきた。
伸一もまた、学会本部に掲げた戸田の写真に語りかけ、誓いながら、広宣流布の戦いを起こしてきた。
遺影の前で、人知れず悔し涙を流した夜もあった。苦闘に呻吟しながら、“負けるものか!先生の弟子ではないか!”と、自らを鼓舞したことも、幾度となくあっ . . . 本文を読む