現代の都市で生活するさまざまな人たちのちょっと変わった生活のスケッチ集といった印象の短編集だった。まず表題が変わっている。デッドヒートといえば、ふつうは直線コースをまっしぐらにゴール目指して競争していくものだが、それが回転木馬に乗った状態で行うというのだから。まずゴールがどこなのかはっきりしない。そして誰が先頭走者なのかも皆目わからない。先頭を走っている(走っているのかどうかも定かではないのだが)木馬は自分の先を行くのか、周回遅れなのか。それを決めるのはただ自分だけしかいない。そう都会生活者にとって、自分が果たして勝者なのか敗者なのかを決めるのは結局自分なのだ。したがってそれを気にしている人は自意識が過剰な人だ。そうした人たちが語る日常が小説家というフィルターにかかるときに、底に溜まる澱は、「なんとなく居心地の悪い気分」にさせるものであり、「身よりのない孤児たちのような」ものだという。語ることでは語りつくせない、語ろうとしても語りきれない、象徴化を拒み続ける、ある意味どうしようもなく残るモノがあるのだ。それをなんとかしようとする虚しい試みが表題の不自然さにはこめられている。
夫のために海外で半ズボンを買おうとした30分のあいだに離婚を決めてしまった女性、タクシーに乗った男の絵に魅せられた女性、誕生日をきっかけに人生の折り返し点を自覚した男性など彼・彼女たちの語りはどこか哀しさを漂わせている。それがどこかといわれるとなんとも言いようのない哀しさである。人生の中にはおそらくいくつものエアーポケットが仕掛けてあり、気づかずに生きていく人たちには全く見えないのだが、ふとそれにはまってしまうとリズムが狂ってしまうような見えない渦があるのだろう。そこにつかまると前に進めず、いつも同じところをぐるぐると回ってしまうような、でも自分は前に進んでいると錯覚するような、そんな特異点があるのだろう。この不思議な短編集は、決してそれを描き出してはいない。だからそれがどんなものかは読んだあともはっきりしない。ただそれがたしかに”ある”ことは実感できる。そんな不思議な物語である。