烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

回転木馬のデッドヒート

2008-01-07 19:01:05 | 本:文学
 『回転木馬のデッドヒート』(村上春樹著、講談社文庫)を読む。
 現代の都市で生活するさまざまな人たちのちょっと変わった生活のスケッチ集といった印象の短編集だった。まず表題が変わっている。デッドヒートといえば、ふつうは直線コースをまっしぐらにゴール目指して競争していくものだが、それが回転木馬に乗った状態で行うというのだから。まずゴールがどこなのかはっきりしない。そして誰が先頭走者なのかも皆目わからない。先頭を走っている(走っているのかどうかも定かではないのだが)木馬は自分の先を行くのか、周回遅れなのか。それを決めるのはただ自分だけしかいない。そう都会生活者にとって、自分が果たして勝者なのか敗者なのかを決めるのは結局自分なのだ。したがってそれを気にしている人は自意識が過剰な人だ。そうした人たちが語る日常が小説家というフィルターにかかるときに、底に溜まる澱は、「なんとなく居心地の悪い気分」にさせるものであり、「身よりのない孤児たちのような」ものだという。語ることでは語りつくせない、語ろうとしても語りきれない、象徴化を拒み続ける、ある意味どうしようもなく残るモノがあるのだ。それをなんとかしようとする虚しい試みが表題の不自然さにはこめられている。
 夫のために海外で半ズボンを買おうとした30分のあいだに離婚を決めてしまった女性、タクシーに乗った男の絵に魅せられた女性、誕生日をきっかけに人生の折り返し点を自覚した男性など彼・彼女たちの語りはどこか哀しさを漂わせている。それがどこかといわれるとなんとも言いようのない哀しさである。人生の中にはおそらくいくつものエアーポケットが仕掛けてあり、気づかずに生きていく人たちには全く見えないのだが、ふとそれにはまってしまうとリズムが狂ってしまうような見えない渦があるのだろう。そこにつかまると前に進めず、いつも同じところをぐるぐると回ってしまうような、でも自分は前に進んでいると錯覚するような、そんな特異点があるのだろう。この不思議な短編集は、決してそれを描き出してはいない。だからそれがどんなものかは読んだあともはっきりしない。ただそれがたしかに”ある”ことは実感できる。そんな不思議な物語である。

ミトコンドリアが進化を決めた

2008-01-06 09:04:11 | 本:自然科学
 『ミトコンドリアが進化を決めた』(ニック・レーン著、斉藤隆央訳、田中雅嗣解説、みすず書房刊)を読む。
 細胞内小器官であるミトコンドリアの起源を考察し、この共生体が真核細胞ひいてはヒトまでに至る進化の決定的な役割を演じていたことを説く。さらに本書の原題(『Power, Sex, Suicide』)にもあるように、性(なぜ雌雄の別があるのか)と細胞の自殺(アポトーシス)、老化にミトコンドリアがどう関係しているかを披露する。最初から最後まで実にエキサイティングな読み物である。
 ミトコンドリアはもともと独立した生命体だったが、宿主の細胞に侵入し寄生し、やがて共生するようになり、現在の姿に至ったという共生進化はマーギュリスの説以来有名になった。宿主の細胞は貪食により寄生体に食物を供給していたが、やがて寄生体からエネルギーを取り出すようになる。この共生のタイミングは20億年前の全球凍結後の酸素濃度の急上昇の時期であるという。この元の宿主は古細菌(Archaea)とよばれる細菌の中のメタン生成菌だという。嫌気的環境に棲むこの細菌がなぜ酸素に依存しているミトコンドリアと共生するようになったのか。1998年に提唱された水素仮説によると、水素生成が可能なヒドロゲノソームという細胞内小器官がミトコンドリアと共通の祖先をもつという。現段階ではヒドロゲノソームやミトコンドリアの共通祖先は多面的な代謝ができる細菌であり、それがそれぞれの環境に適応していった結果特殊化していったというストーリーが有力だという。
 原核細胞から真核細胞への進化にはミトコンドリアとの共生が必要だったということだが、これが生命進化の過程でおきた適応的な現象なのか、確率は低い偶然の事象だったのかはわからない。一元的に説明するならば前者であろうし、もしそうならもう一度原始の地球と似た環境で生命が発生しても同じような真核細胞が出て来る確率は高い。しかし後者なら現在に至るような生命の進化はかなり稀な事象であり、まして高度な知的生命体が進化するようなことはありえそうになかったことになる。
 続いて生命のもつ基本的性質として著者は核酸や蛋白質よりも化学浸透(chemiosmosis)という膜を隔てて電位差が生じる現象の重要性を強調する。すべての生命はエネルギー生成のためにプロトンを膜を超えて汲みだし、プロトン勾配を作り出すことによりATP生成や運動、熱産生に利用している。この発生装置こそが電子伝達系をもつミトコンドリアの二重膜構造なのだ。エネルギー生成装置を組み込んだおかげで、真核細胞はサイズを飛躍的に増大させることが可能になり、より複雑な多細胞生命体への道が開かれた。この細胞のサイズとエネルギー代謝の関係についての議論もたいへん面白い。大きいことはいいことなのだ。またエネルギー産生の際不可避的に生じるフリーラジカルを精妙に調整するシステムがどうしても必要であり、そのために今なおミトコンドリアには独自の遺伝子が、フリーラジカルによる変異を蒙る危険までおかして存在している理由だと説明されている。
 有性生殖がなぜコストがかかるのに進化したのかという難しい問題についても、ミトコンドリアとの共生の結果負うことになったフリーラジカルストレスが遺伝子組み換えを促進させた結果生まれたものではないかと推測している。ミトコンドリアという当初の寄生体から促されて宿主が遺伝子組み換えの相手を求めていたとうストーリーはいささか衝撃的である。極言すると求愛行動ももとをたどれば寄生体によって操られていたということか。同様に細胞の自死もミトコンドリアが重要な役割を担っている。細胞がいたずらに自死しないように呼吸鎖の電子の流れを精妙に調節する必要があるわけだが、そのための手段として脱共役システムがある。これと哺乳類や鳥類の体温維持システムと寿命の関係、ヒトの寿命と病気の関係の議論は目から鱗が落ちるものだった。当然これは老化の問題とつながるし、その調節システムの遺伝的多型が長寿と関係してくる。生まれてからの経過年数で老化は計られるべきものではなく、フリーラジカルの漏出速度とその処理効率によって計られるべきものだということになる。暦年齢は同じでもより老けて見える人もいれば、驚くほど若く見える人もいる。フリーラジカルの処理効率が遺伝的に規定されて改善する手だてが今のところないとすると、あとはなるべくフリーラジカルを不必要に産むようなストレスに曝さないようにするのが長寿の秘訣ということになる。ここで著者も述べているが、抗酸化を謳ったサプリメントなんかはまったく効果がないという。
 生命の発生・進化から現在の人の健康に関するまで実に幅広くかつ壮大な物語を著者は実に興味深くかつ堅実に語ってくれる。早くも今年の読書の大きな収穫である。

パブリッシュ・オア・ペリッシュ

2008-01-05 21:03:51 | 本:社会

 『パブリッシュ・オア・ペリッシュ』(川崎茂明著、みすず書房刊)を読む。
 昨年はいたるところで偽装が社会問題となったが、こちらは知の偽装問題を取り上げた著作である。表題のpublish or perishとは、自らの研究成果を発表して成果を残すことがなければ、その専門分野からは淘汰されてしまうというこの業界の死活問題を端的に言い表した言葉であるが、本書ではこれが1942年に使われたのが最初であると述べ、アメリカでスプートニクショックの後国防と宇宙開発競争におけるソ連の優位を打ち破るべく大学教育と研究に政府が資金を投入した以後論文発表を推進するために広まった経緯があるようだ。その結果論文量産主義がはびこり、結局誰も読まないような論文が量産され、パブリッシュ・アンド・ペリッシュとなり真に得たい情報すら得にくい状況になることが危惧されるようになったという。
 そこから著者は、最近の自然科学界を騒がせた論文捏造の背景に迫っていく。そこには研究資金に見合う成果を比較的短期に発表していかねばならない背景と研究室という非常に狭い世界(ほんとうに狭い)での教授と研究員という圧倒的に力関係の差がある人間関係、責任感系が曖昧な共著者という問題を指摘していく。この中で匿名で描かれている教授と論文の恣意的変更を求められた大学院生の話などは、(一方的な情報源から記述ではありながら)さもありなんという話である。
 特に著者は、そうした捏造などが発覚した際に当該学術誌が論文の取り下げを行う普遍的ルールの確立が必要であることを強調している。確かにこれは重要なことで、多くの場合論文取り下げの広報があまり目立たない形で掲載されることが多く、その理由や経緯を明記すべきだろう。それは「簡単に編集者への手紙欄などで扱われるべきではない」し、「原則的には、撤回通知の著者は、撤回論文と同じ筆頭著者であるべきである」。こうしたことは周知されないと、撤回された後でもそれがわからずに引用されるということが起こるからである。これは食品でいえば、消費期限切れと分かった食品がその後も店頭に残って買われるような状態であり、より性質が悪いといえる。
 著者はさらにインパクト・インデックスという学術誌の評価のための尺度が研究者の成果の評価に使われる誤用を批判(この部分は私も教えられること大だった)し、より適切な評価を確立する必要性を説くとともに、ピアレビュー制度の改正についても述べレフェリー側からの改革も必要であることを説いている。
 論文査読から公表という過程が成立して時が経ち、さまざまな利権や資金が絡むようになったサイエンスにはそれに相応しいシステムが必要だということだろう。捏造や盗用を防ぐシステムとしてオンラインでのメール受理システムも一法であると書かれているのもインターネットがこれだけ発達した現在興味深い方法かもしれない。科学者も人の子であり、名声や資金のために捏造や盗用する誘惑があることは認め、その誘惑を損だとあきらめさせるようなシステムを確立することが、単純に研究者個人の倫理を説くより有効だろう。
 科学界の問題に限らず、いろいろなシステム(特に経済的利益や社会的権限が成功すればするほど大きくなるようなシステム)を導入する場合には常に悪用されることを前提とした上で、悪用されても発覚すればそちらの方が逆にコストのかかるのだということをシステムの受益者に周知徹底させるようにシステムを設計していく思想が必要だということだ。


灯台守の話

2008-01-04 07:40:36 | 本:文学

 『灯台守の話』(ジャネット・ウィンターソン著、岸本佐知子訳、白水社刊)を読む。 シルバーと名づけられた女の子が母親と死別し、盲目の灯台守のピューの元で生活することになることから話は始まる。彼女の父親は港に偶然立ち寄った船乗りで、そこで「母さんの胎内に錨をおろした」。彼女の家は「崖の上に斜めに突き刺さって建って」おり、ある日足を滑らせ家の中から崖下へ転落してしまう。このとき彼女は十歳。「十年前、わたしは虚空をまっしぐらに落ちて母さんの岸辺にたどり着き、この世に生まれた。そして今また母さんがべつの虚空をまっしぐらに落ち、わたしの手の届かないところに行ってしまった」というわけである。なんとも不思議な始まりの小説だ。 彼女の親代わりとなったピューは代々灯台守をしている。盲目でありながら光を航行する船に投げかけ船を導く役目をしているという不思議な人だ。外に光を与える源でありながら、その内部は闇に包まれている。



 光が仕事なのに、わたしたちの暮らしは闇の中だった。光はけっして絶やしてはならなかったけれど、それ以外のものを照らす必要はなかった。あらゆるものに闇がつきまとっていた。闇は基本だった。わたしの服は闇で縁かがりされた。時化帽をかぶれば、つばが顔に黒い陰をおとした。(中略) 闇はひとつの実体だった。わたしはしだいに闇の中を見、闇を透かして見、自分の中にある闇が見えるようになった。


 そしてピューは彼女に物語りを語る。この地の先祖のダーク父子の話が語られる。物語の始まりは1802年ジョサイア・ダークがソルツを初めて訪れる。1814年にここに灯台建設が決定されたときである。ジョサイアの息子バベルは牧師となり、1850年にソルツの地を始めて踏む。しかも1859年にはあのチャールズ・ダーウィンと会っており、小説家のスティーヴンソンもソルツの灯台を訪れているという設定である。


 大海原を航海していくことを生きていくことに喩えられるなら、その道標となる光の導きが必要だ。しかしその光は常に私たちを照らしてくれるわけではない。不連続な光の明滅の中でそれでも私たちは自分の航跡を確かめるために自分の物語を語る。灯台守の話を読みながら自分の物語がちらちらと照らし出されるような、そんな不思議な気持ちがしてくる。



 ・・・これからわたしが語る物語は、わたしの人生の一部を語り、あとは闇の中に残したままにするだろう。あなたがすべてを知る必要はない。すべてなんていうものはどこにもない。物語それ自身に意味があるのだ。 人生が途切れ目なくつながった筋書きで語れるなんて、そんなのはまやかしだ。途切れ目なくつながった筋書きなんてありはしない、あるのは光に照らされた瞬間瞬間だけ、残りは闇の中だ。(中略) ほら、光の筋が海を照らしだす。あなたの物語。わたしの。彼の。それは見られ信じられるためにある。耳を傾けられるためにある。絶え間なく垂れ流される筋書きの世界で、日常の雑音を越えて、物語は耳を傾けられるのを待っている。


 年明け早々気ぜわしい世間をよそに、ゆっくりとした時間を物語りに浸りながら過ごず至福を味あわせてくれる佳品である。物語の中にでてくるタツノオトシゴをかたどった、クラフト・エヴィング商會による装釘もいい。



ドストエフスキー 父親殺しの文学

2008-01-02 17:02:03 | 本:文学

 『ドストエフスキー 父親殺しの文学』(上・下)(亀山郁夫著、NHKブックス)を読む。
 年末から年明けにかけて読んだのが本書である。ドストエフスキーの人生(「伝記」)を辿りつつ、彼の小説に影響を与えた社会的事件を「事件と証言ファイル」として挿入しながら作品(「テキスト」)を分析(「講義」)していく著作である。
 「読者の皆さんには、どうか最後まで「眠らず」一気に読了されることを願ってやまない」と「はじめに」に記してあり、著者の意気込みが感じられる。(著者には申し訳ないが)一晩の睡眠をはさんで、年末年始をまたいで読了した。
 第一章ではドストエフスキーの父ミハエルの殺害事件がとりあげられている。この事件を分析して見せたフロイトはエディプス・コンプレックス理論を適応し、彼の父親殺害の無意識の願望を指摘した。この「父親殺し」のモチーフは彼の作品の随所に顔を出すが、とりわけ最後の大作『カラマーゾフの兄弟』では正面から取り上げられている。同時に著者は殺すことを「使嗾」するイワンの存在の重要性を指摘している。ドストエフスキーの小説を読むときに神と同時に悪(悪魔的悪)の存在に彼が正面から取り組んでいることがひしひしと伝わかるが、人間の行為が至高の存在によって使嗾されたものであるとしたらという可能性をこの著作で改めて考えさせられる。ドストエフスキーの小説にしばしば登場する道化的役割の人物もそうした使嗾された役回りを進んで引き受けている存在ではないだろうか。これは同時に嗜虐的・被虐的存在としての人間の意味について考える際にも重要な要素だろう。それにしてもこの作家の多重性、多層性、多中心性には恐るべきものがある。

 全編を通して随所に皇帝の暗殺未遂事件のことが挿入されているのを読むと、彼が生きた時代はまさにテロリズムの時代であったのだと実感する。そしてこれは宗教的対立がますます先鋭化する現代にも当てはまる状況ではないだろうか。初めてドストエフスキーの小説に触れたとき、その宗教性やロシアの土着性には全く違う時代の空気を感じていたのだが、いまこうして本書を読むと彼の作品は今まさに読まれるべきではないかということが肌で感じ取れる。著者が敢えて『カラマーゾフの兄弟』の新訳を世に問うたということは大変象徴的で、意義深いことだと思う。

 本書を読了後あわせて同じ著者による『ドストエフスキー 謎とちから』(文春新書)も読んだ。こちらは表題の著作のダイジェスト版という感じで、もう一度要点を整理するのに役立った。上下二冊は重たいという人はこちらをまず読んでもいいかもしれない。