『ドストエフスキー 父親殺しの文学』(上・下)(亀山郁夫著、NHKブックス)を読む。
年末から年明けにかけて読んだのが本書である。ドストエフスキーの人生(「伝記」)を辿りつつ、彼の小説に影響を与えた社会的事件を「事件と証言ファイル」として挿入しながら作品(「テキスト」)を分析(「講義」)していく著作である。
「読者の皆さんには、どうか最後まで「眠らず」一気に読了されることを願ってやまない」と「はじめに」に記してあり、著者の意気込みが感じられる。(著者には申し訳ないが)一晩の睡眠をはさんで、年末年始をまたいで読了した。
第一章ではドストエフスキーの父ミハエルの殺害事件がとりあげられている。この事件を分析して見せたフロイトはエディプス・コンプレックス理論を適応し、彼の父親殺害の無意識の願望を指摘した。この「父親殺し」のモチーフは彼の作品の随所に顔を出すが、とりわけ最後の大作『カラマーゾフの兄弟』では正面から取り上げられている。同時に著者は殺すことを「使嗾」するイワンの存在の重要性を指摘している。ドストエフスキーの小説を読むときに神と同時に悪(悪魔的悪)の存在に彼が正面から取り組んでいることがひしひしと伝わかるが、人間の行為が至高の存在によって使嗾されたものであるとしたらという可能性をこの著作で改めて考えさせられる。ドストエフスキーの小説にしばしば登場する道化的役割の人物もそうした使嗾された役回りを進んで引き受けている存在ではないだろうか。これは同時に嗜虐的・被虐的存在としての人間の意味について考える際にも重要な要素だろう。それにしてもこの作家の多重性、多層性、多中心性には恐るべきものがある。
全編を通して随所に皇帝の暗殺未遂事件のことが挿入されているのを読むと、彼が生きた時代はまさにテロリズムの時代であったのだと実感する。そしてこれは宗教的対立がますます先鋭化する現代にも当てはまる状況ではないだろうか。初めてドストエフスキーの小説に触れたとき、その宗教性やロシアの土着性には全く違う時代の空気を感じていたのだが、いまこうして本書を読むと彼の作品は今まさに読まれるべきではないかということが肌で感じ取れる。著者が敢えて『カラマーゾフの兄弟』の新訳を世に問うたということは大変象徴的で、意義深いことだと思う。
本書を読了後あわせて同じ著者による『ドストエフスキー 謎とちから』(文春新書)も読んだ。こちらは表題の著作のダイジェスト版という感じで、もう一度要点を整理するのに役立った。上下二冊は重たいという人はこちらをまず読んでもいいかもしれない。