烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

ミトコンドリアが進化を決めた

2008-01-06 09:04:11 | 本:自然科学
 『ミトコンドリアが進化を決めた』(ニック・レーン著、斉藤隆央訳、田中雅嗣解説、みすず書房刊)を読む。
 細胞内小器官であるミトコンドリアの起源を考察し、この共生体が真核細胞ひいてはヒトまでに至る進化の決定的な役割を演じていたことを説く。さらに本書の原題(『Power, Sex, Suicide』)にもあるように、性(なぜ雌雄の別があるのか)と細胞の自殺(アポトーシス)、老化にミトコンドリアがどう関係しているかを披露する。最初から最後まで実にエキサイティングな読み物である。
 ミトコンドリアはもともと独立した生命体だったが、宿主の細胞に侵入し寄生し、やがて共生するようになり、現在の姿に至ったという共生進化はマーギュリスの説以来有名になった。宿主の細胞は貪食により寄生体に食物を供給していたが、やがて寄生体からエネルギーを取り出すようになる。この共生のタイミングは20億年前の全球凍結後の酸素濃度の急上昇の時期であるという。この元の宿主は古細菌(Archaea)とよばれる細菌の中のメタン生成菌だという。嫌気的環境に棲むこの細菌がなぜ酸素に依存しているミトコンドリアと共生するようになったのか。1998年に提唱された水素仮説によると、水素生成が可能なヒドロゲノソームという細胞内小器官がミトコンドリアと共通の祖先をもつという。現段階ではヒドロゲノソームやミトコンドリアの共通祖先は多面的な代謝ができる細菌であり、それがそれぞれの環境に適応していった結果特殊化していったというストーリーが有力だという。
 原核細胞から真核細胞への進化にはミトコンドリアとの共生が必要だったということだが、これが生命進化の過程でおきた適応的な現象なのか、確率は低い偶然の事象だったのかはわからない。一元的に説明するならば前者であろうし、もしそうならもう一度原始の地球と似た環境で生命が発生しても同じような真核細胞が出て来る確率は高い。しかし後者なら現在に至るような生命の進化はかなり稀な事象であり、まして高度な知的生命体が進化するようなことはありえそうになかったことになる。
 続いて生命のもつ基本的性質として著者は核酸や蛋白質よりも化学浸透(chemiosmosis)という膜を隔てて電位差が生じる現象の重要性を強調する。すべての生命はエネルギー生成のためにプロトンを膜を超えて汲みだし、プロトン勾配を作り出すことによりATP生成や運動、熱産生に利用している。この発生装置こそが電子伝達系をもつミトコンドリアの二重膜構造なのだ。エネルギー生成装置を組み込んだおかげで、真核細胞はサイズを飛躍的に増大させることが可能になり、より複雑な多細胞生命体への道が開かれた。この細胞のサイズとエネルギー代謝の関係についての議論もたいへん面白い。大きいことはいいことなのだ。またエネルギー産生の際不可避的に生じるフリーラジカルを精妙に調整するシステムがどうしても必要であり、そのために今なおミトコンドリアには独自の遺伝子が、フリーラジカルによる変異を蒙る危険までおかして存在している理由だと説明されている。
 有性生殖がなぜコストがかかるのに進化したのかという難しい問題についても、ミトコンドリアとの共生の結果負うことになったフリーラジカルストレスが遺伝子組み換えを促進させた結果生まれたものではないかと推測している。ミトコンドリアという当初の寄生体から促されて宿主が遺伝子組み換えの相手を求めていたとうストーリーはいささか衝撃的である。極言すると求愛行動ももとをたどれば寄生体によって操られていたということか。同様に細胞の自死もミトコンドリアが重要な役割を担っている。細胞がいたずらに自死しないように呼吸鎖の電子の流れを精妙に調節する必要があるわけだが、そのための手段として脱共役システムがある。これと哺乳類や鳥類の体温維持システムと寿命の関係、ヒトの寿命と病気の関係の議論は目から鱗が落ちるものだった。当然これは老化の問題とつながるし、その調節システムの遺伝的多型が長寿と関係してくる。生まれてからの経過年数で老化は計られるべきものではなく、フリーラジカルの漏出速度とその処理効率によって計られるべきものだということになる。暦年齢は同じでもより老けて見える人もいれば、驚くほど若く見える人もいる。フリーラジカルの処理効率が遺伝的に規定されて改善する手だてが今のところないとすると、あとはなるべくフリーラジカルを不必要に産むようなストレスに曝さないようにするのが長寿の秘訣ということになる。ここで著者も述べているが、抗酸化を謳ったサプリメントなんかはまったく効果がないという。
 生命の発生・進化から現在の人の健康に関するまで実に幅広くかつ壮大な物語を著者は実に興味深くかつ堅実に語ってくれる。早くも今年の読書の大きな収穫である。