東京奇譚集

 『東京奇譚集』(村上春樹著、新潮文庫)を読む。
 同名の短編集が文庫化されたのを機に購入した。五編のいずれもどこか不思議な余韻が残る短編だった。突拍子のなさということであれば、最後の『品川猿』が一番で、あってもおかしくないという現実味のある奇譚であれば最初の『偶然の旅人』だろうか。
 出来事というのものがわが身に降りかかってきたときに、私たちはまず因果関係という定規で処理してなんとかそれを自分の経験として片付けている。すべてがこれで片付けばそもそも奇譚というものは成立しないのだろうが、どうしても解釈に困ることが残り、これらを偶然と名づけて片付けてしまう。この場合必然という枠内に収まりきれないのが偶然とされるわけだが、この小説を読むと実は世の中で経験することは偶然のあつまりで私たちはそれらをなんとか因果関係の綻びそうな糸で結びつける努力を日々しているだけなのではないかと思ってしまう。
 ある経験に対して「そうだ、これでよかったんだ」と自分を納得させるとき、そうした自分が自分に敢えて語りかけるような行為を必要とするような経験というものは、どこか因果関係の定規を無理やりあてているようなところがあり、どこか無理したような居心地の悪さが残る。この小説のなかの登場人物たちも大なり小なりそうした違和感を感じているに違いない。そしてそれでいながら全体としてはどこかで納得しているところがあり、ふっきれたような視線が未来へと向かっている。どこかせつないこの感じがきっと共感を生むのだろう。この感じはそれぞれの短編の最後によく出ていると思う。まだ読んでいない人がいたらいけないので、これから読もうという人はここでこの文章を読むのをやめてほしいのだが、抜書きすると

ジャズの神様だかゲイの神様だかが-あるいはほかのどんな神様でもかまわないのだけれど-どこかでささやかに、あたかも何かの偶然のようなふりをして、その女性を護ってくれていることを、僕としては心から望んでいる。とてもシンプルに。
                     
 (「偶然の旅人」)

貿易風に流される雲、大きく羽を広げて空を舞うアルバトロス。そしてそこで彼女を待っているはずのもののことを考える。彼女にとって今のところ、それ以外に思いめぐらすべきことはなにもない。ハナレイ・ベイ。
                      
(「ハナレイ・ベイ」)

私はまたどこかべつの場所で、ドアだか、雨傘だか、ドーナッツだか、象さんだかのかたちをしたものを探し求めることになるだろう。どこであれ、それが見つかりそうな場所で。
                    
(「どこであれそれが見つかりそうな場所で」)

同じころ、女医の机の上からは、腎臓のかたちをした黒い石が姿を消している。彼女はある朝、その石がもうそこに存在していないことに気づく。それは二度と戻ってはこないはずだ。彼女にはそれがわかる。
                    
 (「日々移動する腎臓のかたちをした石」)

彼女はこれから再びその名前とともに生活していくことになる。ものごとはうまく運ぶかもしれないし、運ばないかもしれない。しかしとにかくそれがほかならぬ彼女の名前であり、ほかに名前はないのだ。
                     
(「品川猿」)

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
「東京奇譚集」 (eno)
2007-12-14 21:21:10
「東京奇譚集」よんでいただいて有難うございます。
表紙の絵も気に入ってもらえると嬉しいです。
(´・ω・`)ノENOKI
 
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