烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

言葉と心

2007-01-26 19:50:19 | 本:哲学

 『言葉と心 全体論からの挑戦』(中山康雄著、勁草書房刊)を読む。
 自分が語ることは自分が一番よく知っている。私の言葉の内容は私の中から紡ぎだされる。この言語の内在主義に対して、発話の信念内容は、その信念を持っている者(信念所持者)の内部状態によっては完全には決定できないという外在主義の立場を主張していくのが本書である。そこでは言葉が対象を指示するとする意味論的アプローチに対して、言葉の使用者の立場を考慮にいれる語用論的アプローチがとられる。記号の意味は、記号の使用者の信念状態に依存することがまず確認される。
 第4章では、確定記述の二つの使用法-帰属的使用と指示的使用(ドネラン)-の基底にあるものが、根拠という関係性により構造化された話者の背景信念であること、すなわち自分の信念を背景として主張がなされるという語用論的な捉え方が有効であることが述べられる。このドネランの区別をさらに一般化した区別-意味論的指示と話者指示(クリプキ)-が紹介され、これが著者の提案する公共の意味と話者の意味に対応するものであるとされる。二つの意味解釈は一致しない場合もあるが、話者が伝えたかったことを公共の意味と与えられた文脈情報を手がかりとして再構成することで適切な解釈が施される。この場合に発話における文脈情報や話者の背景信念、話者の意図が考慮される。
 話者の信念というのは厄介な躓きの石であるが、第5章では、信念を表現する信念文に「言表信念de dict文」と「事象信念de re文」の二種類があり、それらが互いに違うことを表現していることが説明される。事象信念についてのクワインのパズルが紹介され、この解決にあたり信念が誰に帰属しているのかをきちんとおさえておくことがキーポイントであることが明快に説明される。この部分はなるほどと感じた。信念所持者を規準とした信念記述と、信念帰属者を規準とした信念記述は必ずしも一致しないこと、他者の信念について語る場合は、必ず信念が帰属されているということを認識しておかねばならないのだ。
 それでは「私」が表明する思考内容、信念とはいったい何なのか。表明される信念の内容により、限りなく「私」(信念の表明者)に権威がある場合と、外在的な(共同体的な)背景にそれが依存する場合があり、それにより変化するということになる。一般に自分の思考内容というものは、自分に最も権威があると考えられる。しかし精神分析の営みは、まさにこの自己知を外在主義的に解釈していく営みといえる。精神分析の立場から言えば、信念所持者は自分の信念について知らないところがあることを知らないのである。
 外在主義は、実に説得力がある。しかし著者のいう「共同体」というものがどのようなものをその標準としているのかは問題として残される。共同体の信念背景に相対的であるならば、命題について「真偽」を論うのは意味のあることなのだろうか。それはせいぜい「妥当・非妥当」というところまでしか主張できないのではないか。
 またウィトゲンシュタインの奇妙な足し算をする人の例ではないが、個人の信念は共同体の信念により評価を受け、誤りは訂正をされつつ標準的な解釈に繰り入れられていくということになるのであろうが、斬新で革命的な個人の概念や思考がどのようにして逆に共同体の信念背景を変えていくのかということが気になった。その点については、著者は最後のところで抜かりなく言及しており、「魅力ある思索の言語的表現は、人々の関心を捉え、人々の背景信念の内部へと浸透する。そして、それは、公共の言語の一部を形づくるようになり、文化の一部となって次世代へと伝承されていく。語りの作業は、このような思索伝承の大きな流れの中のどこかに位置づけられている」と述べている。この新しい思索(思索だけには限らないが)に対する批判・評価というか共同体の伝統的解釈とのぶつかりあいの力学は今後発展性のある問題ではないかと感じた。 
 読書に際しては、同時に購入した『言語哲学』(W.G.ライカン著、荒磯敏文、川田由起子、鈴木生郎、峯島宏次訳、勁草書房刊)を平行して読んだ。これは分析哲学の主要な点を解説してあり、主張とそれに対する反論をコンパクトにまとめてあり、大変役にたった。