烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

漱石という生き方

2007-01-14 09:31:24 | 本:文学

 『漱石という生き方』(秋山豊著、トランスビュー社刊)を読む。
 冒頭に「ただ何かを導き出そうとして、これから文章を作っていくのではないことだけは確かである。私の希望は、漱石に寄り添って、よく彼の言葉を聞き取りたいということに尽きる」という一句が目に入る。このあと最近の文芸批評に対する苦言が呈されるのであるが、全体を通して読んでみると、この冒頭の一句に誤りはないこと、著者がほんとうに漱石に「寄り添って」いることがわかるし、漱石の「言葉を聞き取りたい」というのが、(一見謙虚に見えながら)単なる著者の希望ではなく、確乎とした著者の厳かなる宣言であることがわかる。
 それはすなわち、自分の読みで単純に「漱石」という人物と思想を割り切らないということであり、また割り切ることなどはそもそもできないという著者の洞察が冒頭に凝縮されていると読める。この「割り切れなさ/割り切らないこと」というものが本書を読むときのキーワードになるのではないだろうかと考えた。既定の批評理論で漱石を俎上にのせることは、著者はしないと言っているのである。
 漱石の人生は、その視点からすると、まさに「割り切れなさ」を生きつつ、それを悩み続けた人ではなかったかと思う。本書では『心』が最初にとりあげられ、「先生」の「生きることの淋しさ」から論じられるのであるが、その部分を読むと、漱石が「経験」と「経験を書くこと」を一致させることの不可能性にいかに悩んでいたかが窺い知れるのである。著者は漱石のこの真摯さに寄り添っていこうとしている。3節で引用されている『行人』の一節には



 「自分のしてゐる事が、自分の目的(エンド)になつてゐない程苦しい事はない」と兄さんは云ひます。(中略)
 兄さんの苦しむのは、兄さんが何を何うしても、それが目的にならない許りでなく、方便(ミインズ)にもならないと思ふからです。たゞ不安なのです。従つて凝っとしていゐられないのです。兄さんは落ち付いて寐てゐられないから起きると云ひます。起きると、たゞ起きてゐられないから歩くと云ひます。歩くとたゞ歩いてゐられないから走ると云ひます。既に走け出した以上、何処迄行つても止まれないと云ひます。止まれない許なら好いが刻一刻と速力を増して行かなければならないと云ひます。其極端を想像すると恐ろしいと云ひます。冷汗がでるやうに恐ろしいと云ひます。怖くて怖くて堪らないと云ひます。(「塵労 三十一」)


 とその苦しみが代弁されているように思われる。この点は終盤で著者の、そして人間一般の「変わる」ということの考察で深まりをみせ、39節の「片付かないということ」で晩年の漱石の姿を映し出してくれる。本質は細部によりよく宿るといわれるが、著者がこの部分で紹介している「片付かなさ」の些細な部分への着目はまことに鋭いものがある。それはたとえば、漱石初期の作品である『我輩は猫である』の猫が餅にかぶりついて抱いた感想(「歯答へはあるが、歯答へがある丈でどうしても始末をつける事が出来ない」)を引用していたり、漱石が答えを求められたアンケートに対する応対に歯切れの悪い「談話」を遺していたりする点を出していることから分かる。


40節は「生きる」と題され、漱石がまさに「書くこと」によって生きようとしていたことを教えてくれる。ここにとりあげられている『それから』の代助は、



 ・・・自己本来の活動を、自己本来の目的としてゐた。歩きたいから歩く。すると歩くのが目的になる。考へたいから考へる。すると考へるのが目的になる。それ以外の目的を以って、歩いたり、考へたりするのは、歩行と思考の堕落になる如く、自己の活動以外に一種の目的を立てゝ、活動するのは活動の堕落になる。(「十一の二」)


 と考える。アリストテレスは、『ニコマコス倫理学』で、「それ自体において追求されるものの方を、他のもののために追及されるものよりも、また、決して他のもののゆえにではなく好ましいものを、それ自体においても好ましく同時にそうしたもののゆえにも好ましいものよりも、より終局的なものという。そして無条件に終局的なものは、つねにそれ自体において好ましいもの、決して他のもののゆえにではなく好ましいものである。そして、そのようなものはなによりも幸福であると考えられている」と述べている。漱石が目指していたものはこうした生であったのだろう。「生きている」ことはすなわちその終局(テロス)であり、「生きている」ことが成立するために「生きている」ことの終わりは含まれない実現態(エネルゲイア)であるように、「書くこと」がすなわちテロスであるような作家生活を目指していたのだろう。
 その点で本書の中盤に28節「金の力」というところで、著者が漱石作品全般において金すなわち経済の問題が必ず絡んでいること、漱石が金に対して抱いてたアンビバレントな態度を指摘していることは非常に興味深い。この視点から漱石を論じた評論があるかどうかは浅学にして知らないが、漱石における経済と純文学は奥の深い問題であると思う。