烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

一人称で語る権利

2007-01-02 09:32:27 | 本:文学

 『一人称で語る権利』(長田弘著、平凡社ライブラリー)を読む。
 昨日ブログに書いた詩集『人はかつて樹だった』と一緒に購入したエッセー集を続けて読む。その中の「街の暮らし」というエッセーで私たちは今街の中に否応なく住まわされているのではないだろうかという問題提議がしてあった。中心からずるずると広がっていく街の周縁部へ押し出されていくようにして住んでいる状態では、「街の中」に住んでいるという意識が希薄になりひいては「じぶんの街」とい意識がなくなってしまう。「住まいかた」について思想がなくなってしまう。その結果周縁から中心へと移動する時間というものが、意味のない時間、できうるかぎり短く、ないほうがいい時間となる。移動のために歩く時間がもはや自分の時間として生きることができなくなっている。そう著者は指摘する。
 散歩という生活がなくなっているのだ。最近は都市計画の中に遊歩道を初めから設計しているものもあるが、おそらくそれは本末転倒なのだと思う。街に住むそれぞれの人が日々の暮らしの中から見つけてその人の遊歩道(というより散歩道という表現が好きだが)になるのではないだろうか。出来合いの遊歩道ではそこには浅いものや根のないものしか見つからないのではなかろうか。エッセーの中で著者は荷風の『日和下駄』のような作品は今日望むべくもないと悲観的な意見を述べている。いや、しかしそれは工夫次第で可能ではないだろうか。ブログなどに掲載されている散歩のときに撮った写真と短いコメントなどを眺めていると、現代はそれなりに新たな形式の『日和下駄』の世界を創ることができると思う。

 「ふりかえって詩について」というエッセーの中では、思いがけない誤植の効用について述べた部分がある。かつて著者が書いた詩句に誤植があって、慌てて訂正していたら友人たちから誤植のほうが詩情があっていいと指摘され、結局誤植のままで通すことにしたというエピソードを紹介している。
 原文)涙が洗ったきみやぼくの苦い指は
 誤植)涙が洗ったきみやぼくの若い指は
 私はこの詩句が織り込まれているもとの詩の全体を知らないので、なんともいい難いが、この句だけを眺めると、確かに誤植の句のほうが、自分の指を「若い」と表現している分イメージが広がるような感じを受ける。この経験から著者は、シュルレアリスムの自動書記を連想しているが、事実誤植によって書かれた詩の例はあるといい、ブルトンの詩を挙げている

ぼくの女の肩はシャンパン酒
そして氷の下の海豚の頭のひよめき
ぼくの女の生首はマッチ
ぼくの女の指は運まかせ そしてハートのエース
指は切られた紋章

この第三行の「生首」は本来「手首」だったという(結局「生首」になっているから「本来」という言葉遣いをしていいのか疑問だが)。これも「生首」のほうがよさそうに思う。
 誤植というのは全くの偶然であるが、こうした偶然の「添削」でより詩情に富む詩句が生まれることがあるのは、自然科学で偶然の手違いから大発見が生まれる現象と似たようなことのような気がして面白く感じる、というのは鑑賞者の感想であり、詩人である著者は最後にこう述べる。

 「誤植」でないことを保証された言葉を欲しがるんじゃなく、「誤植」を率直にみてめてゆく方法こそいひつようなんだ、とおもう。プロパガンダの言葉で、詩の言葉は書けないのです。詩の言葉は、気のきいた「号令的讃美」の言葉とは、はっきりとちがう。「誤植」までも方法として活かせるような、ひとのまちがい、蹉跌を容れられるだけの器量をもたないような言葉は、言葉として死んだ言葉にすぎないんです。言葉について肝心なことはただ一つ、それが一人のわたしによってよく生きられた言葉かどうか、ということです。

 「蹉跌を容れられるだけの器量」か、これは詩だけでなく人間にも必要だ。