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烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

算数の発想

2006-07-20 17:52:47 | 本:自然科学

 『算数の発想 人間関係から宇宙の謎まで』(小島寛之著、NHKブックス)を読む。算数レベルで使われる思考法を使って、物理現象や経済学の考え方を説明する本であるが、読んでいて素直に楽しめる。この本のモチーフになっているのが、「ものごとを素朴にプリミティブに理解する」ということだ。数学という考え方自体が複雑な事象を簡潔にするためのものだから、当然だといわれればそうかもしれないが、あとがきにもあるように



「数理的な記号操作をすること」は、考えを緻密にまとめる上では大切だが、何かを本質的に理解することには役立たない。本質的に理解するためには、「それが要するにどういう発想なのか」を、とことん自分のなかでかみくだいて、単純化して、できるだけ身の回りにあるような感覚や人生観に引きつけて、その上で理解する、そういう作業が大事なのだ


その素朴に理解する上で算数の発想で使われる「ちょっとした工夫」が大切なのである。例えば、鶴亀算のときに利用するような「仮にすべてが亀であったとするならば」という仮定である。すべてが亀であったときに不足する脚の数から鶴の数が分かるというのを小学校の時に習って私も目から鱗が落ちた。それはちょうど幾何学のときで使う優れた補助線と同じである。
 本書には、その他フラクタル図形やパーコレーション(浸透)現象、秩序形成のモデルのことなどが説明してあるのだが、どれもわかりやすい。引用文献にもある『自己組織化の経済学』を読んだとき難解に感じたことが、すっきり説明されている。
 同じ日本放送出版会から出ている著者の『確率的発想法』も購入することにしようっと。


ヒトの変異

2006-07-03 20:01:18 | 本:自然科学
 生物の多様性という現象には、私たちの生半可な想像力を遥かに凌駕するものがあり、今まで多くの人によって記録され、ときには誇張されたりとんでもない意味づけをされて語り継がれてきた。『ヒトの変異』(アルマン・マリー・ルロワ著、上野直人監修、築地誠子訳、みすず書房刊)には、そうしたさまざまな遺伝的変異によってもたらされるヒトの(主に)形態学的疾患の歴史的背景と最新の分子遺伝学的知見が解説されている。
 表紙にはフォルトゥニオ・リチェティの『怪物の性質、原因、相違について』(1616年)の挿絵から採った畸形が描かれているので、畸形学teratologyが主題になっているかと思ったが、後半はさらに話題が広がり、性分化や皮膚の色、老化と寿命の遺伝学的異常について紹介されている。著者の博覧強記ぶりに目を奪われると、たださまざまな怪異を論っているだけと受け取られてしまうかもしれないが、著者が言いたいことの一つは、人間が受精卵から発生して成長していく上で、実に数多くの遺伝子の精妙な相互作用が欠かせないということ、そして変異というのは一見断続的なもののように見えるかもしれないが根柢にある現象は連続性をもったものであるということである。前者のことだけならば、単に親から受け継いだまっとうな遺伝子に感謝しましょうというありきたりな道徳講話になりかねないが、後者のことがより重要な点である。すなわち「私たちはみなミュータントなのだ」ということである。これは例えば第四章の四肢の発生分化のところで登場するHox遺伝子のところを読めば、遺伝子を通して発現する分化作用というものがオルガナイザーの濃度勾配によって変化するということが分かる。一見デジタルのように思われる遺伝子の世界も作用の濃度勾配というある力の強度によて決まるアナログな面があるのだ。現象面で断続的に見える事象も根底では連続性があるということは、人間という存在が形態学的に極めて幅広いものだということを教えてくれるし、そうしたことを洞察できれば、頭蓋骨の計測値や皮膚の色で人間を差別するという発想がいかに貧困で根拠薄弱なものかが分かる。
 神経細胞の集積回路である脳についても遺伝子群の相互作用によって生まれるシステムだから、そうしたことがいえるはずだろうが、このことについてはまだ確たる知見が集積していないから著者も慎重に避けているようである。しかしおそらくあと十数年すれば脳神経系についても遺伝子のことばで語られることが確実に増えるだろう、よりしなやかで柔軟なものとして語られることが。多様性を寿ぐ人々が、遺伝の話になると頑なに人を差別するものだという偏見をもつことが多いとすれば、それは誤った遺伝の話(これをまた頑なな差別主義者が信じているから事態は深刻である)を信じ込んでいるからだろう。
 読み進めていけばいくほど、人間の本質に人間の外観は関係ないということを確信できるし、遺伝的多様性の解明は、差別を解消する方向に進むはずであるということが納得できる。言葉を使用して互いの意志を伝達し活路を開いていくという行為は、人間の遺伝子で可能になっていることでありながら遺伝子の制約を凌駕している。実に驚くべきことだ。

不完全性定理

2006-06-03 23:29:25 | 本:自然科学

 『不完全性定理』(野崎昭弘著、ちくま学芸文庫)を読む。ゲーデルの不完全性定理について「わかりやすく」解説した本である。とはいってもやっぱりこの定理は難しいのであるが、やさしく語るにはどういう切り口で話を進めるればいいのかということに参考になる。無矛盾な自然数の世界で、ある命題とその否定命題のいずれかが必ず証明可能であるわけではないこと、すなわちいずれとも決することができない命題があるということを証明したということなのだが、これは見方を変えればある命題の証明をあきらめれば、無矛盾性は保たれるということである。数学の世界では命題が証明できるということは非常に重要だから、この定理の証明に数学界は震撼したのだが、数学の世界でなければ証明できないことはいくらもある。そして証明できないからといって、それは必ずしも正しくないことではない。
 数学の世界と実際の世界とは共通するところもあるけれど、違うところもある。だからこの「不完全性定理」が証明されたことをもってまるで鬼の首でもとったように、さまざまな言説の不完全性をあげつらってもしかたがない。
 すばらしいと思うのは、刃物をどんどん研ぎ澄ましていくように形式化を極限まで進めていく努力と、著者も述べているように「このような結果が、人間の知性によって、厳密に証明された」ことだ。「人間の知性のある一般的な限界が、人間の知性によって証明された」ということはほんとうに驚くべきことであるし、こんなことは人間にしかできないのではないかと思う。
 たいせつなのは、ある限界が証明されたときに、どういう態度をとるのかということだろう。限界があることに幻滅し、その中でお互いの不完全性を論うことに汲々とするのか、限界を弁えた上で新しい挑戦をしていくのか。答えは明らかだ。



 さいごに、ゲーデルの不完全性定理が「理論の終わり」ではなく、「新しい理論の始まり」になったこともつけ加えておきたい。このように
 「大きな結果によって片付いたかに見える分野が新しい方向に、さらに豊かに発展していく」
のは数学のいろいろな分野でよくあることで、決してめずらしいことではない。


 そうだろう。私たちの世界でも珍しいことではない。このことはどちらの世界にも共通している正しいことだと思う。その証明はできないにしても。


うぬぼれる脳2

2006-05-13 09:42:32 | 本:自然科学

 『うぬぼれる脳』の後半を読む。セルフ・アウェアネス、自分の身体の部分が自分に帰属するという身体に関する認知、自分のことについての記憶(自伝的記憶autonoetic memory)などは、大脳の右半球の機能が重要であることを様々な脳機能検査の結果や特定の脳が障害された症例で示されている。
 あることを単に知識として知っている(know)ことと、その知識を獲得したときの状況を含めて覚えている(remember)ことには違いがあるが、右前頭領域の障害では、自己認識的・自己参照的な記憶が特に障害されるという。ある情報を自分と関係付けることは、実践的な知識を考える時に重要だ。自分の過去の状況あるいは未来の状況に関連づけて情報を処理し、行動することは自分のみならず社会生活を送る上で欠かせないからだ。「知っているのに実行できない」という状態は、故意にそうしている場合もあるだろうが、両者を関連付けるある一定の訓練なり努力(というといささか精神論的になるが)が必要なのだろう。社会性の獲得のためには人は社会の中に生まれ、成長する必要がやはりあるのだ。
 その他に挙げてある実験的事実で非常に興味深かったのは、次の協力課題に取り組むという実験である。




被験者には、協力の相手は人間だと告げる場合と、コンピュータだた告げる場合がある。協力の目的は現金で、被験者は相手とうまく協力できれば、結果として現金を手に入れることができる。したがって被験者は、相手が何を「考えている」かを推察しなくてはならない。コンピュータは一貫して標準的な戦略を使うことになっており、被験者はその戦略をあらかじめ知らされていたが、人間の相手は、なにしろ人間であるから、どう出てくるかわからない。
 (中略)実験の結果、被験者の一部は人間の相手と協力し、一部は協力しなかったが、興味深いことに、協力した人たちは、相手が人間のときとコンピュータのときとで、右前頭前野の活動性に大きな違いが見られた。言いかえれば、人間の心を読んでいるときと、コンピュータの心を読んでいるときで、活動性に違いが見られたのは右の前頭領域だった。


 これは単に右の前頭葉にそうした機能的重要性があるというだけではなく、相手の心を推測する(思い遣るといってもいい)という「心の理論」を適用するかどうかは相手が人間か機械かによって変わるということが強調されるべきことだと思う。インターネット社会になりネットの世界で様々な事件が起こったりしているが、メールやチャットをしている場合に画面の向こうが人間であると思って対峙するのか無機質なバーチャル空間だと思って対峙するかによって、その人の態度が大きく違う可能性があることをこのことは示唆している。相手の顔が見えるか見えないか、顔を意識するかしないかというのは単に道徳的な話にとどまらず、脳科学的に見ても重要なことなのだろう。インターネットの空間では常に人を意識させるようにさせるような環境を整えるようにすることがいろいろな暴走を防ぐことに役立つかもしれない。


うぬぼれる脳

2006-05-11 23:49:51 | 本:自然科学
 人間は自分のことだけでなく、他者のことを気遣い相手の身になって他人の気持ちを察することができる。他人のための行動をとれるという点が社会を成り立たせるために重要だとされる。
 『うぬぼれる脳』(ジュリアン・ポール・キーナン著、山下篤子訳、NHKブックス)は、脳科学の視点から自分を客観的にとらえる能力(セルフ・アウェアネスself awareness:自分自身の心的状態を省みる能力で、自己を他者とは異なる存在ととらえる能力)を検討した実験結果を紹介しながら、人間ではいつごろからその能力が獲得されるのかを述べている。
 人間では自己認知は生後二年目あたりに発達するらしい。自分の鏡像を認知できるようになることと自己についての意識をもつことが相関している。そして興味深いことは、自己認知ができることで自己関連の情動(プライドやうぬぼれ)が芽生えるということだ。まあ当然のことといえば当然だが、他人の心を洞察するのにこうした情動が伴うことは大変重要であるに違いない。また、親離れが早いほど自己の認識が早いらしいのだ。ほとんどの子供は生後十八ヶ月を過ぎると自己の記憶システムが確立されてきて、過去の出来事の再体験が可能になるようだ。二歳以前のことを思い出せないのは自分と出来事との関連付けができないからだろう。それから自分の心的状態を自分にきちんと帰属させることができるようになり、その直後に他者の心的状態の帰属ができるようになる。これが三歳から四歳にかけて起こるようで、四歳児は自分の体験したことをまだそれを経験していない他者がどのようにとらえるのかということをきちんと推論できるようになる。これも興味深いことに、この頃から欺瞞を働くことが可能になるということだ。
 自己認識能力とプライドなどの情動、他者の心の推論と欺瞞を働くことが発達心理学的に互いに密接に結びついていることを知っていることは、人間の性質を理解する上でも非常に重要なことだと思う。欺瞞や自惚れをなくすことは土台無理なのだし、他者を思いやることができるほど自分の利益を客観的に評価でき、打算的にもなれるのだ。

言語能力という生物学的本能(続)

2006-03-29 22:27:55 | 本:自然科学
 『言語を生みだす本能』(スティーブン・ピンカー著、椋田直子訳、NHKブックス)の続きである。ピンカーは言語能力に遺伝的基盤があること、そしてそれが自然選択による進化的産物であることを説明している。その中で「文法遺伝子」の話題が出てくる。もちろんこれは誤解を招きやすい表現で、ピンカーは単一の遺伝子で言葉をしゃべる際の文法が規定されるわけではないことを念をおしている。これに限らずいつも思うことだが、「○○のための遺伝子」という表現は特に注意する必要がある。まるでその遺伝子だけがすべてを規定しているような印象を与えるからである。
 まあ言語能力についての遺伝子はまだ全くといって分かっていないのだが、ある特定の遺伝的異常を有する人は高い確率で文法的規則にしたがった表現に非常な困難を覚えることが多いということがあるということである。こういうことが書かれると決定論だとか人を生まれつきによって差別するものだとかという人もいるが、これは的外れな意見だ。
 運動能力に個人差があるように、言語能力や数学的能力、芸術的才能には遺伝的基盤があることは確実であろう。複数の遺伝子が脳神経系のニューロンの接続に関係しているに違いない。遺伝子は設計図というより料理のレシピのようなもので、料理書に何分くらいどれくらいの火加減で煮るかが書かれているように、DNAはある特定の時期にどれくらいの間ある遺伝子を発現させるかという指示に関わるのであろう。だから物質的基盤は同じ(すなわち料理の材料は同じ)でも違った表現型(すなわち違った料理)になる。表現型は環境要因によっても変わるから、訓練などの後天的影響によって上達もするわけである。後天的要因が最小限でも最高の後天的環境下に置かれた個体と同等かそれ以上の能力を発揮するのが、いわゆる天才である。
 話が少し横道にそれたが、言語能力の遺伝的基盤が自然選択の結果獲得されたものであることをはっきり述べているところがピンカーの面目躍如たるところである。人間に、ある固定した下部構造があることこそが、いい加減な相対主義を退ける根拠となるのだ。

言語能力という生物学的本能

2006-03-27 23:24:12 | 本:自然科学

 言語をもち、それゆえ言語に基づく文化を有する存在は人間だけである。ここが決定的に動物と違うところとされるから、人間の起源を考えることは言語の起源を考えることに直結する。言語が出現するためにはまずそれが通用する社会がなければならないが、そもそも社会があるためには言語でお互いが意思疎通できなければならない。どちらが起源なのかははっきりしないから、ルソーは『言語起源論』で言語は神から与えられたと暗示している。これではまったく解決にはなっていない。解決がつかない深遠な問題があると決まって神様を持ち出すばかりか、それをもって神の存在理由にすることがあるが思考停止に陥るようなこうした神の概念はいただけない。
 『言語を生みだす本能』(スティーブン・ピンカー著、椋田直子訳、NHKブックス)を読むと、言語能力が人間の本能であることが主張されている。この説の淵源はダーウィンの『人間の由来』である。すなわち言葉を操ることは、鳥が巣作りをしたり、ビーバーがダムを造るのと同じ生物学的本能であるというのだ。人間が普遍的な文法をもつことを主張したチョムスキーに、ダーウィンの自然選択を接続させる形で、ピンカーは言語の生物学的基盤を解き明かしていく。
 この本では言語が人間に普遍的であるということの基本に、心的文法があることを聴覚障害者やクレオールのことばを例にとりながら説いている。同時に言語的思考というものがすべてではなく、心的イメージに基づく思考というものも存在していることを言葉をまだもたない幼児の研究成果から主張している。
 特に重要と思われるのは、こうした基礎研究から「言語が思考を規定する」という社会学の説を否定していることだ。特に俎上に上げられているのがサピアとウォーフの言語決定論で、民族によってたとえば色彩の語彙が違うことから主張されるところの言語決定論がいかにいいかんげんな代物であるかが示されており、旧来の認識は破棄されるべきであることを教えられた。さらに赤ん坊は言葉を覚える前に簡単な計算をしていることや心的イメージによる思考の存在を示す実験結果を紹介している。思考と言語ははっきり別物であるというのが最近の認知心理学の成果だ。
 このことが事実だとすると、言葉が人間の認識を決定するという言説はかなり怪しい(すなわちかなり割り引いてきいておくべき)説だということになるし、言語によって初めて欠如が認識できるようになるとするラカンの説も再検討する必要がある。ラカンは人間が言語をもつことで初めて象徴界に参入し、欲望をもつことができるようになるとしているからである。言語により認識できるようになる欲望以前にある欲望の方がより根本的なものであるならば、精神分析的言説が人間の根源を説明するというのもいいすぎだろう。


研究資金という投資

2006-03-21 22:40:21 | 本:自然科学
 科学技術が発展するためには、才能のある科学者に潤沢に資金を与え研究に没頭させることが最良だと認識されている。最近のわが国の大学への研究補助も可能なかぎりそうあるべく、重要な研究課題について優秀な人材に十分研究費を助成するための仕組みを整えつつある。しかし考え方は間違っていなくても、真に独創的な才能をどう評価するのかという問題は常に付きまとう。真の独創性はしばしばその同時代の科学的価値観からは評価されないからである。つぎ込む資金が国民の税金ともなれば、その評価には多大な責任が伴うから博打みたいなことは当然しづらくなる。
 でも潤沢な研究費が私財であるならば、(家族や親類は別として)誰からも文句を言われる筋合いはない。裕福な環境にあっても才能はそこそこで結局道楽科学に終わるという例は多数あるが、歴史を変えるほどの独創的な科学者で裕福さを兼ね備えたという(本人にとってはもちろん人類にとっても)幸福な組み合わせを進化論の祖チャールズ・ダーウィンに見ることができる。以下のエピソードは『甦るダーウィン』(小川眞里子著、岩波書店刊)からの受け売りを交えながら紹介する。
 彼の父親ロバート・ダーウィンは橋や道路の開発に積極的な投資を行うと同時に、医業でも成功を収め同時代の医師としては破格の収入を得たという。おまけに金貸しまで営んでいた。妻はあのウェッジウッド家の娘だったからこちらも相当な資産家である。息子たちに潤沢な教育費が注がれたことは当然であった。父親はチャールズに年間三百ポンドの学資を与えたという。当時の大学教授の年収が百ポンドだったというからいやはやという感じである。チャールズはその金で人を雇って標本採集をしていたという。
 当のチャールズはどうだったかというと、博物学に興味はもっていたものの進学した医学部の学業ははかばかしくなく、二年で中断して自宅に戻ってしまい、結局医者にはなれずじまいであった。これだけのことならばチャールズという資産家の息子が牧師の道を歩み道楽で博物学をしていたという何の変哲もない話に終わるのだが、ここであのビーグル号での五年間の航海旅行の話が持ち上がり、チャールズは運命的な旅立ちをする。ここでもその準備資金に六百ポンド、乗船するにあたり年間五百ポンドを要しているから、チャンスも大事だったが、ここでも親譲りの資産が大きくものを言った。
 科学者としての能力は確かに優れていたから、たとえ資金がなくても同時代での有名な科学者の一人として名を連ねるくらいにはなっていただろうが、『種の起源』を著し、人間についての認識を一変させた偉業を達成するには産業革命時代のイギリスの経済成長の恩恵を蒙った父親の存在が不可欠であった。もしこの莫大な資金が国の金ということだったらおそらく当時無名のチャールズに投ぜられることはなかったであろう。
 文系理系に共通したことだと思うが、研究費の無節操なばらまきというのはもちろん困る。しかし世界的業績をと腹を決めて国が取り組むのならば、実の親が子を育てるつもりで金を投じる必要があるのだ。道楽息子に終わるリスクも覚悟で。

眼の誕生

2006-03-08 23:35:09 | 本:自然科学

比類のないしくみをあれほどたくさん備えている眼が、自然淘汰によって形成されたと考えるのは、正直なところ、あまりに無理があるように思われる。


と進化論の鼻祖チャールズ・ダーウィンが『種の起源』で半ば当惑気味に述べたように、眼の精緻な構造を知れば知るほどこのような装置がどうやって進化してきたのか答えることは難しい。実際自然淘汰による漸進的進化に反対する人たちは、眼のような構造が進化してきたとして、その中間段階にある不完全な「眼」にいったいどんな利得があったのかと述べ、答えに窮する進化論者を見て得意になっていた。

 35億年前に地球上に生命が誕生して(到底想像しがたい)長い時間が経過して、5億4300万年前のカンブリア紀に至って「わずかに」500万年の間(この地質学的な形容もさらに到底想像しがたい)に多様な生物群が爆発的に進化した。カンブリア紀の大爆破としてしられるこの現象は、その化石記録が大量に残っているカナダのバージェス頁岩での発掘研究から明らかにされた。このことの一般向けの優れた解説書『ワンダフルライフ』(S.J.グールド著、早川書房刊)は、実に衝撃的だった。私は古生物とその研究に情熱を注いだ研究者たち双方の「ワンダフルライフ」に素直に感動した。
 今回読んだ『眼の誕生』(アンドリュー・パーカー著、渡辺政隆、今西康子訳、早川書房刊)は、そのカンブリア大爆発のきっかけが眼の誕生によるものという著者の新説(光スイッチ説)を紹介したものである。大洋に降り注ぐ陽の光を視覚情報として活用する眼が出現したことで、爆発的な進化(複雑な外部形態の出現と多様化)が起きたというのである。個体の繁殖、生存のための捕食、捕食者からの逃走など生物の基本的な生命戦略を考えた時、視覚は非常に重要な道具であることがわかる。それゆえあれだけ精巧な構造が短時間に進化したのだろうし、それだけのものを装備するコストをかけても十分ペイするのだ。
 最初生命進化の概説が続いた後、回折格子によって生み出される「構造色」というこれも実に興味深い色があることが紹介され、第7章以降眼の進化の話は一気に盛り上がる。地球規模の興奮に包まれた後、第9章で引用されているダーウィンの言葉



さまざまな種類の植物に覆われ、潅木では小鳥がさえずり、さまざまな虫が飛びまわり、湿った土ではミミズが這いまわっている、そんな土手を観察し、互いにこれほどまでに異なり、互いに複雑なかたちで依存しあっている精妙な生きものたちのすべては、われわれの周囲で作用している法則によってつくられたものであることを考えると、不思議な感慨がわく。


を読み終わってからもう一度振り返ると、実に不思議な読後感を満喫できるのである。


 最後にあえて付け加えたいが、残念ながら参考文献が全く割愛されてしまっている。巻末参考文献は、また読書が広がる種みたいなものだし、これがないとリンクのないホームページを閲覧するようなものだ。人文系の書籍で参考文献を割愛することなどまずないと思うが、科学系の本でも同様に掲載してほしいものである*。
 *と最後に述べていましたが、原著にも参考文献の記載はないとのご指摘を訳者さんからいただきました。私の軽率な感想でありましたので、訂正して追記いたします(4/6)

男と女の生物学講座

2006-01-17 21:23:34 | 本:自然科学

 死は人を含めて地球上のすべての生きとし生けるものに訪れる。前回『四十日』を読んでセンチメンタルならぬ唯物論的な零度から眺めた死に触れたこと、加えて死体に群がるさまざまな生き物の姿を思い浮かべたことで、改めて有機物から無機物へ、そして有機物へという循環(宗教的に言えば輪廻か)を考えた。死体に集う生き物たちは、そこで饗宴を繰り広げながらそこで交尾して繁殖をする。そこでも生死をかけた生物たちの闘争がある。たまたま平行して読んでいた本が、『ドクター・タチアナの男と女の生物学講座』(オリヴィア・ジャドソン著、渡辺政隆訳、光文社刊)だったのだが、死に抗って生物が行う重要な行為である生殖の森羅万象を知ることができた。

 この本を最初に書店で見かけたときの第一印象は、「あ、またいいかげんな生物学的知識で面白おかしくセックスとのことを取り上げ、人間はああだこうだのとあげつらっている本だろう」というものだった。だから発刊されてからしばらくは横目でみるだけで手に取らなかった。しかしこの間書店で手に取ってみると、これは様々な生物たちの生殖戦略を性淘汰からみて説明している極めてまっとうな本であると分かった。思わず笑ってしまったのは、訳者の渡辺政隆さん(彼が訳者だからそんな疑いはすぐ捨てるべきであった)もあとがきで、「原書を初めて手に取ったときもなんとなく嫌な予感がし」、「動物(もちろん人間も含む)の不倫やレイプを進化学の観点から正当化したアブナイ本ともかぎらない」という感想をいだいと書いていることだった。書店に大量に本が溢れる中、題名のネーミングが本の淘汰と生死を分ける例ともいえよう(でも原書の題名がそうなっているから仕方がないね)。巻末の解説によれば、著者のオリヴィア・ジャドソンさんは進化生物学の博士号を取得した(写真で見るとなかなかチャーミングな)女性だ。しかもお師匠さんがかの進化生物学者のウィリアム・ハミルトン博士であることで一度頷き、彼女のお父上はあの分子生物学の歴史の名著『分子生物学の夜明け』(野田春彦訳、東京化学同人刊)の著者と知って二度頷き、私はレジへ直行したのであった。

 自分の身長よりも20倍も長い精子をつくるショウジョウバエ、何百万匹もの雄を殺して雌と交尾するブラジルイチジクコバチなど驚くべき生殖戦略をとる生き物が目白押しである。ミツバチの項などを読むと、雄と雌というのが協調して子孫を残すとうのは幻想であり、お互いの性が(軍拡のように)競争して進化してきているのだということが分かる。この本はそうした進化戦略を紹介しており、この多様性を知ることは大変楽しい。

 誕生して生殖可能になるまで長い時間をかけて成長しておきながら、一旦生殖を始めるや狂ったように交尾してごく短時間に死んでいく(ただ死にいくというだけでなく交尾した異性から食われて死ぬということも含む)昆虫たちの存在にはどんな意味があるのだろう。仮にそんなものには意味はないとしても自分の遺伝子をなんとか残そうと死にものぐるいになっていること人間にはどんな意味があるのだろう。人間も進化により生まれた生物である以上、避けては通れない問題である。この事実とその意味づけをどうすればよいのか。人は意味づけなしには生きていけない存在であるからこの問いも問われ続けなければならない。