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▼ 1582年(天正10)、織田信長は、毛利勢を滅ぼすべく備中高松城で苦戦をしている羽柴秀吉に、明智光秀の援軍を差し向けた。
▼ しかし、光秀は播磨へは向かわず京都の町に入る。戸惑う部下たちに「わが敵は中国に無し。京都四条の本能寺にあり。急ぎ攻め討て」との命を下し、謀反を決行。
▼ 6月1日の未明、不意討ちをくらった信長は、無念のうちに自刃して果てた。死に際に、生前好んで歌い舞った『敦盛』の一節「人間五十年 下天のうちに比ぶれば夢幻のごとくなり 一たび生を得て 減せぬもののあるべきか」を口ずさんだという。享年49歳。
▼ 織田信長が京都・本能寺で明智光秀に裏切られて自害したのは、1582(天正10)年の6月2日。いわゆる「本能寺の変」だ
▼毛利攻めに難儀していた羽柴秀吉の応援を命じられた光秀は進軍の途中で道を変更し本能寺に宿泊していた信長を急襲した。信長は近侍の森蘭丸に誰の襲撃かと尋ね、光秀と聞くと「是非もなし」と応え、自刃したと伝えられる
▼当時、天下人に最も近かった信長と嫡男の信忠を有力家臣の光秀が亡き者にするという日本史上有名なクーデター事件。ここから同日を「裏切りの日」という。光秀の謀反の理由については光秀の野望に端を発するとの説や光秀以外に首謀者がいたとの説など謎が多い
▼そして現代。東日本大震災や福島第1原発事故などへの対応を不満とする野党が菅直人首相に退陣を突きつけた。谷垣禎一自民党総裁は「菅政権に任せていたら(震災被災地の)復興は絶対に成就しない」と息巻く
▼内閣不信任決議案について民主党内にも小沢一郎元代表を中心に同調する動きがあり、まさに首相周辺は「野火」に包まれている。政局は大きなヤマ場を迎える。造反者が出て平成の本能寺の変が起きるのか
▼だが、国民の多くは「復興に向けて、もめている場合ではない」と思っている。その機微が分からないことが、今の政治の最大の問題だ。・・・・・・・岩手日報風土計より
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◆ 盛岡南リトルシニアのホームページ