陸奥宗光、小村寿太郎の霊言が公開になるそうです。
どのような人物なのか、調べてみました。
<陸奥宗光>(
Wikipediaより)
※大河ドラマ『龍馬伝』では平岡祐太さんが演じています。
日本の武士・紀州藩士、政治家、外交官。「カミソリ大臣」と呼ばれ、外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。
土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つ。
文久3年(1863年)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867年)には坂本龍馬の海援隊に加わるなど始終坂本と行動をともにした。勝海舟と坂本の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめるほどだったという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」だと絶賛している。
龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。
明治19年(1886年)10月に外務省に出仕。
明治21年(1888年)、駐米公使となり、同年、駐米公使兼駐メキシコ公使として、メキシコ合衆国との間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。
同年5月に朝鮮で甲午農民戦争が始まると清の出兵に対抗して派兵、7月23日朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、25日には豊島沖海戦により日清戦争を開始、イギリス、ロシアの中立化にも成功した。この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる川上操六参謀次長の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。
戦勝後は伊藤博文とともに全権として明治28年(1895年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。日清戦争の功により、伯爵に陞爵する。
<小村壽太郎>(
Wikipediaより)
明治の外務官僚である。外交官、外務大臣などを務めた。
大学南校(東京大学の前身)に入学。第1回文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学へ留学し、法律を学んだ。
帰国後は司法省に入省し、大審院判事を経て外務省へ転出。陸奥宗光に認められて清国代理公使を務めた。日清戦争の後、駐韓弁理公使や外務次官、駐米・駐露公使を歴任。明治33年(1900年)の義和団事件では、講和会議全権として事後処理にあたった。
明治34年(1901年)、第1次桂内閣の外務大臣に就任。
日露戦争後の明治38年(1905年)、ポーツマス会議日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印。
明治41年(1908年)成立の第2次桂内閣の外務大臣に再任。幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正の交渉を行う。明治44年(1911年)に日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした。日露協約の締結や韓国併合にも関わり、一貫して日本の大陸政策を進めた。
日本のリーダー 鳩山由紀夫VS小村寿太郎