てのひらに太陽を

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ヒルティ先生「11月1日」はトルストイの死生観だよ~~

2019年11月01日 06時03分49秒 | Weblog

 

 死生観などには全く興味も関心もなかったが

 「胃潰瘍・脳梗塞・胃癌」今年の2月から連続の

 「なんで私が?何が起こっている私に?」そういう

 問いかけをしていた、「もう一人の自分」とね

 だから「これが見納め」という言葉も自然と

 また、私にはピッタリとした言葉になりつつある

 

 11月1日の言葉はトルストイの死生観だった

 以前の私なら「流し読み」で終えた文章である

 トルストイの「死」が近づいてきたときの実感です

 「・・・・、死は私にとって怖ろしさを失い、私は

 死が生のエピソード(生のちょっとした一部分)の

 一つであり、生は死によって終わるものでないという

 認識に日ごとに近づいていた。ついに、死を忍耐強く

 いや、むしろ喜びをもって待ち望む境地に達した。」

 エピソードというのがチョットわからなかったので

 (生のちょっとした一部分)に解釈した。

 なんだか私には納得できるようになったんですよ~

 「彼岸において継続される生命の確信は、私の内では

  確固なものになったので、すべての疑いは力なく

  消え去った。そして、しばしば、赤ん坊の産声にも似た

  歓喜の叫びが私の胸からほとばしり、出そうになった。

  限りない幸福感が私の魂をみたし、私は善き親友を

  待つように死を待ち望んだ。」

  「彼岸」というのは仏教でいう「彼岸」のことなのかね?

  私の「彼岸」の解釈は、「此岸」はボヤっとした常識の中で

  すべてを分かったような顔して毎日を暮らしている自分

  「彼岸」は覚醒・眼ざめとでも言おうか~

  そんなボヤっとした世界、親鸞聖人の「化土」の真実と

  「彼岸」の真実の違いか、ね~~~~

  だから生というのは「時間」ではなく「永遠の今」

 「彼岸において継続される生命の確信」が「永遠の今」

 だろうと解釈しましたよ~~~

 だから「赤ん坊の産声」とか死を「善き親友」とかという

 言葉になって表れたんだろうと思う

 今日の朝は、こんなことを思いめぐらされた

 いい時間になったねえ~ありがとうヒルティ先生

 そしてトルストイさん~~~~

 ラグビーの決勝戦が近づいてきたねえ~~~

 ワクワクしちゃいますよ

  


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