死生観などには全く興味も関心もなかったが
「胃潰瘍・脳梗塞・胃癌」今年の2月から連続の
「なんで私が?何が起こっている私に?」そういう
問いかけをしていた、「もう一人の自分」とね
だから「これが見納め」という言葉も自然と
また、私にはピッタリとした言葉になりつつある
11月1日の言葉はトルストイの死生観だった
以前の私なら「流し読み」で終えた文章である
トルストイの「死」が近づいてきたときの実感です
「・・・・、死は私にとって怖ろしさを失い、私は
死が生のエピソード(生のちょっとした一部分)の
一つであり、生は死によって終わるものでないという
認識に日ごとに近づいていた。ついに、死を忍耐強く
いや、むしろ喜びをもって待ち望む境地に達した。」
エピソードというのがチョットわからなかったので
(生のちょっとした一部分)に解釈した。
なんだか私には納得できるようになったんですよ~
「彼岸において継続される生命の確信は、私の内では
確固なものになったので、すべての疑いは力なく
消え去った。そして、しばしば、赤ん坊の産声にも似た
歓喜の叫びが私の胸からほとばしり、出そうになった。
限りない幸福感が私の魂をみたし、私は善き親友を
待つように死を待ち望んだ。」
「彼岸」というのは仏教でいう「彼岸」のことなのかね?
私の「彼岸」の解釈は、「此岸」はボヤっとした常識の中で
すべてを分かったような顔して毎日を暮らしている自分
「彼岸」は覚醒・眼ざめとでも言おうか~
そんなボヤっとした世界、親鸞聖人の「化土」の真実と
「彼岸」の真実の違いか、ね~~~~
だから生というのは「時間」ではなく「永遠の今」
「彼岸において継続される生命の確信」が「永遠の今」
だろうと解釈しましたよ~~~
だから「赤ん坊の産声」とか死を「善き親友」とかという
言葉になって表れたんだろうと思う
今日の朝は、こんなことを思いめぐらされた
いい時間になったねえ~ありがとうヒルティ先生
そしてトルストイさん~~~~
ラグビーの決勝戦が近づいてきたねえ~~~
ワクワクしちゃいますよ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます