『改めて日本語を考える』その17。ふとしたことから気がついたこと、「◯助」という言葉は意外に多いが、その由来が気になりはじめた。
最初に気づいたの『半助』、これは東京の人にはあまり馴染みがないのかも知れないが、うなぎの頭を焼いたものである。関東はうなぎをさばくときに頭は落としてしまい、串うち、蒸し、焼きとなるが、関西は蒸さず、腹開きしたうなぎに金串を刺して背鰭や尾鰭、頭を付けたまま焼いていく、いわゆる地焼きと呼ばれる調理法である。
このため、頭の部分もこんがりと焼けていて、最後に頭を落とす。これを鰻屋では10〜15匹分を纏めて売っている。これを半助と呼び、出汁を取るのに使ったり、少ない身を食べたりする。家庭料理だが、半助鍋にして豆腐や野菜と煮込んだり、うどんにしたりするといい出汁が出る。ではなぜ半助というのだろうか?
あまり明確な答えではないかも知れないが、①明治時代は1円のものをよく円助と呼んだが、50銭で売っていたので半助、②半助という男がうなぎの頭を売っていたなどの説がある。
また、食べ物のことだが、『久助』という言葉を聞いたことがあるだろうか。よく煎餅屋にいくと割れたり、焦げたりした煎餅を纏めて安い価格で売っているが、これを久助と呼ぶ。実は久助と呼ぶものの一つに葛粉がある。
今も続いているのだが、福岡県秋月に広久葛本舗があるが、ここの主人は高木久助を名乗り(現在は10代目)、一子相伝で葛粉の製造を行なっている。この葛粉の品質が良かったので業界では葛粉=久助と呼ばれた。ここから転じて「割れて商品とならなくなった煎餅→屑→葛粉→久助」という説がある。
最後の一つが『三助』である。最近はあまり見かけなくなったが、公衆浴場で背中を流してくれる職人のことをこう呼んで金を払って洗ってもらった。江戸時代初期には湯女という女性がいて同様のサービスをしていたのだが、性的なサービスにエスカレートしたため、お上がこれを禁止した。
これに変わり男が勤めるようになったのが三助だが、その名前の由来は①江戸時代の銭湯で働いた人気がある流しの三兄弟が皆助が付いていたから、②奈良時代に光明皇后が浴室を建設して天然痘の患者を治療したが、その際に光明皇后を助けた3人の典侍が三典(さんすけ)と呼ばれたからなどの説がある。
他にも『ポン助』『助六(寿司)』などもあるが、今回はこの辺で。