『改めて日本語を考える』その35。今回は『未必の故意』について考えてみた。11月10日の夕刊に先日発生した熱海の崩落事故で土地所有者を刑事告訴する記事が出ていたが、ここで久しぶりに『未必の故意』という言葉き出会った。一般的な言葉としてはあまり馴染みのない『未必』、ただ、刑法を学んだことがある者ならば法律用語として避けては通れない言葉である。
『未必』とは必ずしもそうなるものではない、といった意味合いだが、このニュアンスが分かりにくい。『未必(みひつ)の故意』の対義語として使われているのが『認識ある過失』である。
少し難しくなるが、刑法では①『構成要件』、つまり刑法の条文に書かれてる犯罪が成立する要件、②『因果関係』、ある行為があったため、その結果が生じたと言えるのかどうか。③『故意』、簡単に言うとわざとやった、認識してやった行為と言えるかである。(例えば傘をコンビニの傘立てから持ち去ったとしても自分の傘と思い込んだ場合には故意ではない)この3つの要素から罪になるかを考える。
元に戻って『未必の故意』により故意を認識する場合は『必ずしもそうなるとは思わないがなるかもしれない』という場合であり、『認識ある過失』は『多分大丈夫であろう』と思っていた場合である。
では具体的にはどんな場合をいうのか。よく例えられるのが、混雑している場所でのキャッチボールで球が当たって怪我をした事例である。『未必の故意』と思われるの場合は『人に球が当たる可能性はあるかもしれない』と思い、球を投げたことを指す。一方、『認識ある過失』は『人は多いが腕に自信があるので多分大丈夫だろう』ということになる。
口角泡を飛ばして学生時代に議論をしたことがあるが、この2つの事例は客観的に見ると殆ど差がない。普通の故意、例えば人のものを奪う、人を殺す、人の家を壊すなどとはかなり異なる。崖を放っておくと山崩れを起こす危険な状態になるかもしれないと意識していたのだから故意がある、というかなり苦しい法理から『故意』を認識して土地所有者を告訴したというものである。
ただ、この記事を見た一般人が何を言っているのかを理解するのは難しいのではないか。