【2010/12/1】
私には、座右の銘とか人生訓とか呼ばれるようなものの持ち合わせがない。誰か、偉い人の言葉を信じて生きるというような素直さがないのである。小学生の頃、読書感想文でいくら宿題として期待されても、伝記物、いわゆる偉人伝などを読んだ記憶がない。いや、実際には少しは読んだのである。そして、その語り口に含まれるある種のいやらしさに嫌気がさしたのだ。功なり名遂げた人を、後付けでほめまくる話なんて反吐が出る、と本気で思っていた。いや、この年になっても変わらない。
病気の原因? (安西水丸「天誅蜘蛛」より[1])
偉人あれば偉人にかならず逸話あり近代少年に読ましむる為
小池光 [2]
座右の銘や人生訓でよく引き合いに出されるひとつに「論語」がある。もともと儒教として宗教であったものが倫理化して、日本では儒学などと呼ばれていた。「論語」は受験対策として一応は目を通した記憶がある。私の高校時代には、「漢文」という科目が独立していたのである。しかし、ただそれだけで終わってしまった。やはり、倫理臭が強いと、身を遠ざけるのは私の習性のようである。
それでも子供の時分には、いつか処世訓や人生訓のようなものが身について、そうして大人になっていくのだろうと漠然と思っていた。一人前の大人というのはそういうものなのだろうと、想像していたのである。けれどもそんなことはいっこうになくて、私はじゅうぶんに年老いてしまった。幼年期のイメージから言えば、大人になり損ねたのだろう。
進むべき道、行動を指示するような処世訓も人生訓も座右の銘もないが、いろんな場面で思い浮かべる言葉はある。何も指示するわけではないが、場面場面での思考の参照系にはなっていると思う。一つは、
蠅のゐない文明なんて嗤ふべき錯誤だ
という金子光晴の詩の中の1行である。出典はもう分からない。20才前後に読んだはずなのだが、手持ちの金子光晴のいくつかの詩集には見あたらない。「現代詩手帳」とか「詩学」のような若い頃に呼んでいた雑誌に掲載されたものかも知れない。したがって、金子光晴らしく旧仮名遣いにしたが、この通りであったかは保証できない。音はこの通りだという確信はある。
この句はまず、文字どおり文化、文明系への参照として思い出すのである。人はどうしても、新しいものへ、事物、事象の改変、改訂へと向かうことが価値あることとして生きることが普通だと思っている。ハイデッガー流に言えば、私はいつだって「頽落」にどっぷりと浸かって生きている。自分に役立つ、自分の得になる、利益となるという方向へ落ち込んでいく。そうして失うものを自覚的に認識できているのか、という場所でこの句は作用する。
また、この詩句は、自然、環境への態度決定における参照系でもある。最近は、生物多様性について喧しく議論されている。2010年には「生物多様性条約第10回締結国会議」が名古屋で開かれた(現実には有用生物資源をめぐる先行資本と後進資本の戦いにしか見えないのだが)。金子光晴の詩句は、ラジカルな生物多様性の宣言である。蠅は有用生物資源か。たとえ有用生物資源ではなくとも、「蠅のゐない文明なんて嗤ふべき錯誤」なのだ。「有用生物資源」という語彙に含まれる本質的な反自然性こそ問題なのだ、とこの詩句は語ってはいないか。
やはり、20歳前後に読んで記憶に定着したもう一つの参照系がある。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
という寺山修司の短歌である。これも、何で読んだか記憶がないので、新しい本から引用した [3]。
これを私は「愛するに足る祖国であるか」という設問として思い浮かべるのである。祖国もそうだが、この社会で生きていくうえで、私たちは多くの組織、集団に帰属することになる。それは故郷であったり、母校であったり、職場であったり、労働組合であったり、時には政治党派であったりするだろう。そうして生きるプロセスの中で、私が帰属する、それゆえに愛する、などという思考方法はとらないということである。
たとえば、生を受けたこの日本、この生は避けがたくこの国にある。その事実から、全く無媒介に祖国愛とか愛国心に突き進む心性が、いかに歴史を誤ったかは自明である。みずからが帰属するものから少し身を引き、踏みとどまるのは苦しい行いである。無条件に身を委ねたら、どんなに気楽な人生かとは思う。そのとき、「身捨つるほどの祖国はありや」と思うのだ。
この二つの参照系は、決してその場その場でどう生きるか教えてはくれない。考えるベースだけを気付かせてくれるだけである。私は、これだけで十分だと思いたい。あらかじめこう生きろと指し示すような人生訓や座右の銘では、多分私は生き方を間違う。いや、世間的には正しい生き方かも知れないが、多分悔やむことになる、という方が正しいようだ。その場面で、悩み考えずに生きる方向が定まってしまったら、生きる実感が少ないのではないかと思ってしまうのである。
[1] 安西水丸『東京エレジー』(ちくま文庫 1989年) p. 88。
[2] 『現代短歌文庫65 続々 小池光歌集』(砂子屋書房 2008年) p. 112。
[3] 寺山修司短歌集『万華鏡』鵜沢梢選(北星堂書店 2008年) p. 72。
【ホームページを閉じるにあたり、2010年12月1日にHPに掲載したものを転載した】
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