かわたれどきの頁繰り

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【書評】 森達也『誰が誰に何を言ってるの?』(大和書房、2010年)

2013年04月28日 | 読書

               

 これは、森達也の映像作家、ドキュメンタリー作家らしいジャーナリスト精神溢れた優れた社会批判の書である。テレビ、新聞などのマスコミ・ジャーナリズムが目を覆いたくなるほど劣化していることを考えれば、森達也は日本のジャーナリズムの貴重な才能ではないかとずっと思っていたし、今も思っている。
 本書も含め、森達也の著作を貫いている批判精神が依っている社会正義は、どの点においても私にとって首肯できるものだ。その著作に向かったとき、ある信頼感のようなものがあって安心して読み進められるのだ。私にとっては、このような信頼感が生まれる作家(評論家)としては第一に辺見庸をあげることができるが、森達也もまた様々な場面で率直に賛意を表することのできる数少ない著述者の一人である。

 著者がこの本に収められている文章を書こうと思い至った経緯を「はじめに」で次のように述べている。 

その日も街を歩いていた。あるいは駅の構内を歩いていた。もしかしたらデパートの地下街かもしれないし、空港のゲートへと向かう通路かもしれない。とにかくどこかを歩いていた。そしてうんざりしていた。日本中どこに行っても同じような掲示や表示があることに。
 ここ数年でこれらの掲示や表示は、明らかに急激に増えている。ところが周囲を歩く人のほとんどは、これらの掲示や表示はずっと昔からあったものとでもいうように、まったく気にもとめていない。立ち止まるどころか視線を送ることすらしない。
 でもこの状況を多くの人は、全面的に容認しているわけじゃないはずだ。要するに気づいていないのだろう。あるいは馴れすぎてしまっているのかもしれない。いずれにせよ何らかのきっかけさえあれば、「これは何となく変だ」とか「これはさすがに行き過ぎだ」と気づくはずだ。
……
 そんなことを考えながら、僕は道を歩いていた。(街か駅か空港か家の周囲かは忘れたけれど)歩きながら「テロ警戒中」の掲示の前で足を止め、またこんなことを書いているよとため息をついてから、ふと思いついた。
 目の前のこの掲示や表示を、そのまま映像に記録すればよいのだ。 (p. 1-4)

 そうして、一つ一つの評論で、著者はその種の「掲示や表示」の写真を掲げ、それが日本の社会で果たしている役割の意味あるいはそれを産みだす日本社会の病理を問うている。本書の全体はテーマ別に分けられ、急速に進みつつある監視社会化を取り上げる「監視するのは誰か。そしてされるのは誰か」、不寛容を正義の代替として欺瞞する社会を取り上げる「暴走する正義」、戦争を美化する近年の言説を批判的に取り上げる「平和な国で想う戦争の空気」の3章で構成されている。

 「1章 監視するのは誰か。そしてされるのは誰か」で取り上げている写真が示す掲示や表示は、「この駅はテレビモニタ—により管理を行なっています。」 (東京メトロ溜池山王駅構内)、「魔の手から子どもを守る町 長万部!」、「テロ警戒中」(静岡・安倍川の奥の山中)、「特別警戒実施中」(都内某所)、そして「私服警官巡回中」や「警察官立寄所」などである。
 どんなに鈍感でも、これだけの写真を並べたら問題の所在は明らかであろう。日本中に犯罪者が満ちあふれているように擬装するような表示や掲示はいくら何でも行き過ぎだろう。ここには企まざる(時として企んでいる人もいるかも知れないが)日本社会の意図(悪意?)があるのだと思う。著者が言うように、このような状態を「多くの人は、全面的に容認しているわけじゃないはずだ」と思う、そう思いたい。 

 この駅はテレビモニタ—により管理を行なっています。

 違和感のひとつは「行なって」。正しい送りがなは「行って」だ。でもそんな些末な間違いは別にして、この文章は何となく落ち着かない。何かが舌足らずだ。だから文法的に解析してみょう。
 この文章の主語は「この駅」だ。述語は「(管理を)行っています」。「管理」という言葉を辞書で調べれば、「全体の統制」や「監視」、「保存維持」、「利用・改良」などの意味になる。
 そのうえでもう一度、この掲示の文面をよくよく眺めてみる。やっとわかった。文章として何となく舌足らずな理由は、主語と述語だけで目的語がないからだ。
 述語である「管理を行っています」の目的語は、テレビモニタ—に映る乗降客だ。つまり東京メトロは、「私たちはあなたたち乗降客を統制(監視・保存維持、利用や改良)しています」と、ここに宣言していることになる。まあこの場合は、いくらなんでも保存維持や利用・改良のつもりはないだろう。監視で充分だ。私たちはテレビモニタ—を使って、あなたたち乗降客を監視しています。
 つまりはそういうことだ。 (p. 18-9)

 こうした私たちの日常に危険が蔓延しているかのような過剰な安全の呼びかけは、治安が次第に悪化している、犯罪が年々凶悪化しているという思い込みによって支えられている。しかし、統計的には凶悪犯罪が減少していることは多くの社会学者が指摘しているところである。10年ほど前、ある社会学者の本で、戦後最も犯罪に多く関わったのは少年期に終戦を迎えた世代であって、彼らが青年期を迎えた時期が最も凶悪な犯罪が多かった、ということを読んだことがある。つまり、その本が書かれた当時、犯罪の凶悪化、低年齢化を憂い、「今時の若い者は……」と嘆いていたお年寄りたちが最も凶悪な(あくまで統計上であるが)世代に属していたのである。
 本書でも次のように指摘している。

 以前にも書いたけれど、戦後の日本において殺人事件の認知件想がいちばん多かったのは、1954年の3081件だ。つまり映画『ALWAYS三丁目の夕日』の時代設定から少し前。安倍晋三元首相が「美しい時代」と形容した時代でもある。貧しいが明るく前向きで希望に満ちていたあの時代に、この国は最も殺人事件が多かった。人口比では現在のほぼ4倍だ。
 近年の殺人事件の件数は毎年のように、戦後最低を記録している。つまり減少し続けている。ところが多くの人はこれを知らない。ほとんど報道されないからだ。
 このデータは警察庁のホームページの片隅に、とてもひっそりと掲載されている。できることなら知られたくないとでも言うように。 (p. 74)

 それでは、多数の監視カメラ(偽善的には防犯カメラと呼ぶ)の設置で治安は良くなったのだろうか。著者はそれを明確に否定する。

 歌舞伎町浄化作戦の目玉として、警視庁は2002年に50台の監視カメラを歌舞伎町に設置した。結果としてこの年に歌舞伎町で起きた犯罪件数は2100件。ところが設置前の2001年の犯罪件数は1800件。つまり犯罪は、減るどころか増加した。
 もちろん統計の見方は難しい。監視カメラがあったからこそ、この程度の増加にとどめられたとの見方も不可能ではない。でもここ数年の犯罪件数の動きを見れば、その見方には相当に無理がある。
 アメリカと並んで厳罰化を推進する国であるイギリスでは今、全国で450万台以上の監視カメラが設置されている。1日外を出歩けば、およそ300台のカメラに自分の映像が撮られているとのデ—タもある。ところが最近、「監視カメラがもたらす防犯効果については、駐車場での車上荒らしを5%減少することはできたが、繁華街や公共機関では効果はほとんど認められなかつた」とイギリス内務省は報告した。 (p. 36)

 にもかかわらず、なぜ私たち日本人は日本の治安が悪化している、犯罪は凶悪化していると思い込んでいるのだろう。つまり、それは国民がそう思うことで利益が生じる、あるいは立場上都合がよい人々がいることを意味している。

 いずれにせよ、治安は悪化などしていない。どんどん良くなっている。でも人は脅える。治安が悪化しているかのような報道をメディアがくりかえすから。ならばなぜメディアは、そんな報道をくりかえすのか。不安と恐怖を煽ったほうが、視聴率や部数は上がるからだ。 (p. 35)

 そのようにして、毎日が特別な警戒を要する緊急事態であるかのごとく、「テロ警戒中」、「特別警戒実施中」などという標語がいたる所に掲げられ続ける。

 慢性化した特別な状態。考えるまでもなく論理矛盾だ。慢性化と特別が共存できるはずがない。でも大多数の人たちはそこまでは考えない。とにかくとても物騒な世相なのだ。街には凶器を隠し持った不審者が跋扈し、いたいけな幼児を狙う変質者が小学校や幼稚園の周囲の闇に紛れ、テロリストは腹に巻いた爆弾をさすりながら標的を探し、凶暴な少年たちは無力な犠牲者を求めて辻を走り回る。
 おそらくはそんな状況を多くの人が想起しているのだろう。だからこそ特別な警戒と警備が必要になる。
 何度も書くけれど、日本の治安は決して悪化などしていない。でも大多数の人はこれを知らない。あるいは聞く耳を持たない。治安は悪化などしていないと言えば、「だってニュースでは凶悪な犯罪が増えていますとか言っているじゃないか」との反論が返ってくる。 (p. 50)

 治安が悪化している、犯罪が凶悪化しているという喧伝は、オーム真理教事件で極度にヒートアップする。そのおかげで存在意義を回復した公安調査庁のような具体的な利益を得る権力組織もある。しかし、「テロ警戒中」、「特別警戒実施中」のような非常事態を想像させるような宣伝は、おそらく支配統制を目指す権力システムの本質、本性によっているとも言える。つまり、特別に安全に配慮しなければならないほど危険な状態であることを国民に納得させうれば、憲法や法律を宙づりにして国民統制に乗り出すことが可能になるからである。
 そのような政治権力のあり方についてはカール・シュミツトを取り上げつつジョルジョ・アガンベンが説く「例外状態」と同質のものである。経済的な側面から見れば、ナオミ・クラインが言う「惨事資本主義」、つまり、災害や凶悪犯罪による惨事が発生するとそれを利用して社会的合理性や規範を一挙に宙づりにした「例外状態」を作り上げて改革を進めるネオリベ的動向と軌を一にするものとも言えるだろう。

 同時にまた、治安が悪いとの思い込みから派生する不安や恐怖は、人を集団化するうえでとても有効に作用する。ならば国民を効率よく統治したいと考える為政者にとって治安悪化幻想は、とても好都合な追い風になりうるとの推測も可能だろう。だからヒトラーもムッソリーニもブッシュもフセインもポル・ポトもビッグ•ブラザーもスターリンもキング・ブラッドレイも金正日もアレキサンダー大王も、ほぼ本能的に仮想敵国や仮想敵民族を設定し、その危険性を最大限に誇張しながら、国民の危機を煽ろうとする。なぜならこの危機意識は、自分たちへの強固な支持と同義だからだ。
 というわけで警察と政治家はあてにならない。 (p. 75)

 人々の犯罪に対する恐怖や不安は、オーム真理教事件の際に恐ろしいほどにふくれあがる。そうやって発生した私たち日本人の異様な集団的反応については、著者による『A3』で詳しく言及されている [1]。そこでは、殺人等に関与しなかったオーム信者も自治体によって住民登録が拒否されたり、大学による麻原彰晃の子女の入学が拒否されるなど、いわば日本国民に基本的に保障されているはずの権利があっさりと否定され、「オームだからしょうがない」という言説の蔓延が指摘されている。

 本書でも「2章 暴走する正義」において上述したようなオーム真理教事件(への反応)のことが取り上げられている。ここでは、もう少し一般化した例を紹介しておこう。それは、「過激派(テロ・ゲリラ)はあなたの近くに潜んでいる。 少しでも「変だな」と感じたら110番」というポスター写真を契機として語られる。

 いわゆる過激派が巿井に生きる人の生命・財産を脅かした事例は、(60年から70年代はともかくとして)近年ではまったくない。年間の水難事故の犠牲者数は600~700人あまり。こちらのほうがよほど深刻だ。わざわざお金をかけてポスタ—を作るなら、「海や川で泳ぐときはくれぐれも慎重に!」とか「出かけるときは浮き輪を忘れずに!」と呼びかけるポスターのほうが、国民の安全を守るという意味では、はるかに有効なはずだ。
 でもキャッチコピーの下に記されたフレーズを読んで何となく納得。

 少しでも「変だな」と感じたら110番。

 標的は過激派だけではない。少しでも変な人なのだ。着るものや髪形が「少しでも変な」人。生活のリズムが「少しでも変な」人。言動が「少しでも変な」人。少数野党を支持する人。死刑廃止を訴える人。現政権を支持しない人。警察や検察を信用しない人。テレビを1日3時間以上見ない人。そんな人は要注意。少数派は危険です。みんなで監視しましょう。なぜなら何をするかわからない。 (p. 117-8)

 こうして均質化が進行する。空気を読まない人は許さない。周囲に同調しない人は排除する。おまわりさーん。ここに変な人がいますよ。早くつかまえてください。わかりました。容疑は変であること。多数派とは違うこと。さっそく社会から排除します。 (p. 119)

 これは私自身もまたいつも感じていることだが、今、社会は不寛容性を強めつつある。それは、刑罰の厳罰化としても現われている。著者が指摘しているように、治安はけっして悪化していない、少年犯罪はけっして凶悪化していない。にもかかわらず厳罰化を憂える声は少ない。私たち日本人はテレビや新聞の煽りに簡単に乗せられてしまって疑問を抱かないということだ。

 そのような日本人である私たちは、最近、日本を軍事国家にすると公言してはばからない石原慎太郎がマスコミ・ジャーナリズムに強く批判されたという例を聞かない。とすれば、北朝鮮や中国を(仮想)敵国とみなす言説が燎原の火のごとく日本を覆い尽くすのは目前ではないかという恐怖におそわれる。
 「3章 平和な国で想う戦争の空気」は、戦争をめぐる言説を取り上げている。まず、先の戦争における東京大空襲の死者について、こう述べる。

 この10万人近い犠牲者たちを追悼する横網公園の慰霊堂は、東京大空襲の犠牲者たちを慰霊するために建立された施設ではない。
 ……変な文章だ。でも書き問違いではない。現状を正確に書こうとすると、こうなってしまう。そもそも横網公園の慰霊堂は、関東大震災における犠牲者たちを慰霊するために、昭和5年に建立された施設だ。つまり東京大空襲における10万人の犠牲者は、関東大震災の被害者の魂と合祀されたということになる。いくらなんでも乱暴すぎる。ところが、時期も意味もまったく違うふたつの災害における犠牲者を同じ施設で慰霊してしまうというその発想の安易さを、問題視する人はほとんどいない。誰も突っ込まない。関心すら向けない。 (p. 174)

 アジアに侵略の牙を向けた先の戦争を反省する戦後民主主義のあり方を「自虐史観」として非難し、反省の意思を表明している反戦的な憲法そのものを変えてしまおうとする言説が氾濫している。そのような言説に、著者はきわめて自然で常識的な言葉で応える。

 とにかく「あの戦争は自衛だから正しい」との彼らの主張を聞くたびに、不思議に思う。だってとても当たり前のことなのだから。
 すべての戦争は自衛の意識から始まる。ナチス•ドイツにおける軍隊の正式名称はドイツ国防軍(wehrmacht)だ。パレスチナを迫害し、レバノンなど周辺諸国に軍事的脅威を与え続けるイスラエルの軍隊も国防軍(Israel Defense Forces)で、アメリカのペンタゴンは国防総省(united States Department of Defense)。金正日総書記の肩書きは朝鮮人民軍最高司令官であると同時に、国防委員会委員長でもある。ピルマ(ミヤンマー)軍事政権における現在のトップであるタン・シュエの肩書きは国家平和発展評議会議長だ。
 要するに世界中の軍隊はその目的と使命を、国防や自衛に置いている。侵略軍など存在しない。 (p. 186)

 このような事実に議論の余地があるとは、私には思えない。そして、このことを私は知らなかったのだが、とても興味深い(とても愉快で面白い)事実を指摘する。

日時は日本国憲法公布のおよそ4ヵ月前である1946年6月28曰。衆院本会議で野坂〔参三〕は、憲法草案の9条を示しながら、「侵略の戦争は正しくないが、侵略された国が自国を守るための戦争は正しい」との趣旨で質問し、これに対して吉田は、「近年の戦争の多くが国家防衛権の名において行われたことは顕著なる事実であり、正当防衛や国家の防衛権による戦争を認めるということは、戦争を誘発する有害な考えである」と一蹴した。記録ではこのときの吉田の答弁に、議事堂では大きな拍手が沸いたという。
 でもその教訓と記憶は、いつのまにか消えた。本当にそんな時代があったのかと思いたくなるほどに、痕跡も残さずきれいに霧消した。だからこそ今、同じように自衛意識の塊となった隣国が被害妄想的な挑発行動をくりかえすたび、この国の政治家の多く(吉田茂の孫である麻生太郎を筆頭に)は、「やられる前にやれ」との敵基地攻撃論を、臆面もなく 口にする。
 もう一度書く。愛するものを守るためと自己陶酔的に高揚することで結局は愛するものを殺してしまったことを、僕たちはあの戦争で学んだはずだ。自衛の意識が最も燃費のいい戦争の燃料であることを、世界は20世紀以降の戦争から知ったはずだ。  (p. 197-8)

 〈9・11〉以降、戦争の形が変わったと言われるが、テロとの戦争と先の戦争、そこから見えるものがある。著者は、石原慎太郎が製作総指揮を務めた『俺は、君のためにこそ死ににいく』について自ら「この映画を"特攻隊賛歌"にするつもりはない。これは美しく悲しい青春映画であり反戦映画だ。今、世界で起きている自爆テロと特攻隊は、まったく理想の違うものだと知ってほしい」と欺瞞することを「ジハードと大東亜共栄圏の理想は違うという意味で言ったならば、あまりにレベルが低すぎる」と批判する。しかし、それにしても、石原慎太郎が「反戦映画」だと、どんな思考回路がこのような言葉をでっち上げるのか、私にはほとんど理解できないファンタジーである。まったく……。

 世界貿易センタ—に激突した旅客機の操縦桿を握り締めていたテロリストと、爆薬を抱えながらアメリカの戦艦に突撃していった特攻隊員とのあいだにもし違いがあるとすれば、「アッラーフは偉大なり」と「靖国で会おう」の違いくらいだ。確かにフレーズは違うけれど、価値ある自分の死は来世で必ず祝福されるとの考えは共通している。愛するものを守るとの大義と正義に燃えながら、同時に脅え、震え、それでも生命を捨てる覚悟をしたという意味では、位相はまったく変わらない。 (p. 199)

 著者は、最後に「心細いからこそ、僕たちは間違える」というあとがきに相当する文章の中で、「群れる動物である人類は、多数派に自らを合せようとの本能的衝動がある。少数派は心細い。もちろん僕もだ。できることなら多数派に身を置きたい。でもその結果、人は時おり、ありえないような間違いを犯してしまう。スタンピード(集団的な暴走)に荷担してしまう」と自戒する。それは、先の戦争における日本人の暴走であり、ドイツ人の暴走であったはずだ。歴史から学ぶどころか、自分が帰属する集団の行いのすべては正しい、美しいと語る人々がいる。思想ではなく、(麻薬のような)信仰である。

[1] 森達也『A3』(集英社インターナショナル、2010年)。