かわたれどきの頁繰り

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【書評】『吉岡実全詩集』(思潮社、1996年)

2012年05月27日 | 読書

 正直に言ってしまえば、シュールレアリスムの詩というのは苦手である。「シュール」と言うだけあって、私の感受力を「超えている」ようで、なかなかなじめないのだ。シュールレアリスムの詩といったら必ずといっていいほど引き合いに出されるロートレアモンの『マルドロールの歌』の有名な一節がある。

彼は十七才と四力月だ! 彼は肉食猛禽の爪の牽縮性のように美しい、あるいはさらに、後頸部の柔らかな部分の傷口の定かならぬ筋肉運勤のように、あるいはむしろ、あの永久の鼠取り機、動物が捕えられる度毎にいつでも仕掛け直され、一台で無数の齧歯類の動物を浦えることができる、藁の下にかくされていても機能を発揮することのできるあの機械のように、そしてなによりも、ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出逢いのように美しい! [1]

 これを読んだときの戸惑いを今でも覚えている。40年ぶりに『マルドロールの歌』を読み返してみたが、印象は変わらない。確かに西脇順三郎を読んだときも、瀧口修造を読んだときも、ある種の感動と、それとは別の戸惑いがない交ぜになっていたのである。西脇の詩に触発されて、イギリスに行ってみたいと思ったのは20才の頃だった。それから30年ほど経って、仕事でイギリスに行った時には西脇のことをちらっと思い出したが、だからイギリスの印象がどうにかなるというわけではなかった。

 時の経過という観点から、吉岡実の二つの詩を見てみよう。

牛乳の空罎の中に
睡眠してゐる光線と四月の音響
牡猫の耳のやうに透けてうすく
砂の上に日曜日が倒れてうづまる
麺麭が風に膨らむと卵は水へながれ
堊には花の影が手をひろげて傾く
眠り薬を嚥みすぎた男が口を尖らし
銅貨や皺くちやの紙幣を吐き出す
夜を牽いて蝙蝠が弔花をとびめぐる
            「昏睡季節2」全文 [2]

柘榴の木の陰で
          「からだが地上から浮いている
           ことに気づいていない」
ロベルト夫人
        (神の模像?)
                「それを覆つている
雲はみなひと幸に凝縮する」
                 屈辱 涙 (愛の類落)のように
             「ムーンドロップ 2」部分 [3]

 上の詩は戦前に書かれ、下の詩はそれからほぼ40年後に書かれている。どちらかと言えば、下の詩には主情的な単語(あくまで単語である)が含まれていることや、印象が柔らかいということがあるが、詩が表象する想世界のイメージの質に そんなに違いがあるとも思えない。わたしの感受力では、40年の時間の差違を明らかにできないのである。一人の人間の人生のなかで40年も不変であることが可能であるとしたら、これはもしかして、レアリスムを徹底しつつ、現実を乗り越えようとする芸術とその想念にとって、シュールレアリスムの手法は最強であることを意味しているのではないか。とすれば、私のような才能はしごく残念、というしかないのである。

 私の本棚には『吉岡実詩集』 [4] というのがあって、そこに収められいる「静物」、「僧侶」、「紡錘形」、「静かな家」、「液体」の各詩集は再読ということになる。新しく読んだ詩集のなかから、とくに気に入ったフレーズを3つほど。

来たるべき絵画
来たるベき時
わたしたちの有罪期の
半跏思惟像!
    「神秘的な時代の詩」部分

われわれには不用のものがありすぎる
不用のものから
より不用のものを選び
それはたしかに不用だと考える
そしてたえず不用のものから
必要なものをつくるんだ
たとえば
「精神の外傷」のようなものを
        「異霊祭 3」部分

もしかしたら
楕円の中ではなく
美しい夏ではなく
ぼくたちの愛をたしかめる
ここはつつしみ深い所ではないだろう
精神上の理由で
ぼくたちは一羽の秋の燕をみつける
          「九月」部分

 こうやって私の好みの選択を見なおすと、やはり、シュールレアリスム的イメージが弱い表現部分に集中しているようなのである。読み直し、読みなおしつつも、シュールレアリスムの詩をすっぱりとその全体を受けとることはまだできないということのようだ。

 「僧侶」という詩集は、1970年に出版された『吉岡実詩集』[4] に含まれている。その中に「死児」という長詩があって、その頃には読んでいたはずである。その詩は、ジョヴァンニ・セガンティーニの《悪しき母たち》のモティーフときわめて対称的な想世界を描いているのである。ところが、1970年頃にはもちろん私はセガンティーニという画家を全く知らなかったし、昨秋にセガンティーニのことを少し考えていた時には、吉岡実のこの詩を思い出しもしなかった。

 《悪しき母たち》は、私が生まれて初めて見たセガンティーニであった。たった一枚のセガンティーニに魅かれ続けていて、昨秋の「セガンティーニ展」[8]
で、やっとたくさんのセガンティーニに出会えたのであった。私にとってのたった1枚のセガンティーニであり続けた《悪しき母たち》は、セガンティーニの友人ルイージ・イッリカの次のような詩『ニルヴァーナNirvana』に基づいて制作された象徴主義的な作品で、罰せられる母と乳飲み子が描かれている絵である。

かくて、悪しき母は、鉛色の谷間に、永久に凍てた氷の中で
枝には緑の葉もなく、花も咲かぬところで、追い回されるばかりだ

わずかな微笑みも、あなたの息子の口づけのひとつもなく、母よ、虚しくはないか?
あなたの口づけが若枝に命を与えることもなく、母よ、虚しくはないか?
かくて、静寂があなたを苦しめ、あなたを運び去り、あなたを追い立てる

凍てついた幼児の目に溢れる涙も、その涙は氷なのだ
見よ、悪しき母を! 喘ぎつつ、あてどなくさまようばかり、1枚の木の葉のように
彼女の苦しみのまわりには、ただ沈黙があるばかり、すべては押し黙るばかりだ

そして今、鉛色の谷のはずれに、数本の樹々が現れ
すべての枝が、苦しみ、愛する魂をはげしく呼び求める
そして、沈黙を破って、最も人間的な声が、こう叫ぶだろう
来てください、私のもとに、母よ!
来て、その胸と命を私に下さい
来てください、母よ!
……あなたを許します……
          「ニルヴァ一ナ」部分 [9]

セガンティーニ《The Evil Mothers》 [10]
1894年、 油彩、キャンバス、 105×200 cm、 国立オーストリア美術館
 

 この絵は、セガンティーニの無意識のなかにある母への懲罰への意識を反映していると解釈する向きが多いが、私はそう考えてはいない。イッリカの詩の引用の最後の部分で明確に示され、また、次のように述べているクリスティアン・クレムの主張にしたがえば、あくまでイッリカの詩に基づいた象徴主義的作品で、乳を求めている児を通じて悪しき母が救われるというドラマに主眼が置かれていると考えるのが素直な解釈だと思う(もしかしたら、素直に解釈するのは素人くさくて知的ではない、とでもいうような常識が美術評論にはあるのかもしれない)。

《悪しき母たち Le cattive madri》(1894)では、絵画の主題は詩のテキストと内容に沿って、さらに発展したものになる。すなわち、女性の渦を巻く赤みを帯びた金髮は木の枝に絡まりついており、この木の枝からは拒まれた赤ん坊の頭が生えている。しかし、この幼児の頭は母の乳房から乳を飲むことで、愛の喜びに、もっぱら快楽主義的に耽溺したことに対する懲罰から、母がいつかは救済されることを予告しているのである。 [11]

 一方、吉岡実の「死児」では、児は死んでおり、死んだ児を持つ母親は次々と木に吊られ、懲罰はすでに母親の宿命のようである。

枯木ばかりの異国で
母親は死児のからだを洗う
中世の残忍な王の命令だ
全部の骨で王宮を組上げる
ほのおの使役の終り
母親の涙の育てた土地を
馬のひづめにとじこめられて
死児のむれは去る
真昼は家来の悦ぶごうもんの時
一つの枯木に一人の母親を与える
枯木が殖えればその分だけ母親が木に吊られる
百万の枯木はよろめき百万の母を裂く
八月の空に子宮の懸崖
世界の母親のはげしい眼は見る
               山火事を

              同時に聞く
    それを消しに来る大洪水を
              「死児 II」全文 [12]


死児をだいて集る母親たち

或る廃都・或る半球から
おしきせの喪服のすそをひきずって
まれには償いの犬までつれ
定員になるまで沙漠へ入ってゆく
他のおしゃべりの母親たちは
沈黙を求められて村落から海面へ移動する
次から次へ黒い帯の宗教的なながれ
隈なくこの現世を司どるために
死児が生きかえらぬようにあやす
子守唄と悪夢のくりかえしで
骨肉でどうしてこの文明の腐敗の歌を合唱できょう
とどろく雷のように
豊かな腰をよじり
最後に半数のやもめの母親たちが氷河に並ぶ
必ず一人の死児をだいてる証拠に
めいめい死児の裸の臀を叩く
そのはげしさで哭いた時
この永い報復の難儀な旅の夜も明けよう
しきつめられた喪服の世界に
ピラミッドの項点がわずかに見える
これほど集ってはじめて
全部の母親のさかまく髪のなかに
あたらしい空が起り
実数の星座が染められる
          「死児 VIII」全文 [13] 

 一方は、死に至るかも知れぬ懲罰のなかにいる母とその乳房を求める児、一方は、死児を持つ母親への永遠の懲罰。偶然とはいえ、この見事な対称性に驚いてしまう。吉岡実の無意識に潜む母親像、女性像は今の私には判然としないけれども、おそらくは、シュールレアリスムが到達しうるイメージの高みではあるだろう。
 そして、セガンティーニは、母への贖罪として「悪しき母」から「救われる母」へと展開する物語を描こうとしたのである。それが、私の解釈である。

[1] ロートレアモン『マルドロールの歌』(栗田勇訳、現代思潮社、1963年) p. 292。
[2] 「詩集 昏睡季節」『吉岡実全詩集』 p.22。
[3] 「詩集 ムーンドロップ」『吉岡実全詩集』 p.670。
[4] 『吉岡実詩集』(思潮社、1970年)。
[5] 「詩集 神秘的な時代の詩」『吉岡実全詩集』 p.274。
[6] 「詩集 サフラン摘み」『吉岡実全詩集』 p.374。
[7] 「詩集 ポール・クレーの食卓」『吉岡実全詩集』 p.550。
[8] 「アルプスの画家 セガンティーニ ――光りと山――」(損保ジャパン東郷青児美術館、平成23年11月23日~23日)。
[9] マティアス•フレーナー「モダニズムへの道――ジョヴアン二・セガンティーニの生涯と作品」『セガンティーニ』 (末吉雄二訳、西村書店、2011年) p. 41。(Francesco Arcangeli & Maria Christina Gozzoli:Uopera compieta di Segantini (フランチェスコ・アルカンジニリ&マリ一ア・クリスティ一ナ・ゴッツオリ『セガンティーニ全作品集」),Milano1973,p.114における引用から。))
[10]「Prestel Museum Guide: Österreichishe Galerie・Belvedere, Vienna」(Prestel, Munich・Newyork, 2001) p. 135。
[11] クリスティアン・クレム「象徴主義に向かって」『セガンティーニ』 (末吉雄二訳、西村書店、2011年) p. 154。
[12] 「詩集 僧侶」『吉岡実全詩集』 p.129。
[13] 「詩集 僧侶」『吉岡実全詩集』 p.137。

 

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