城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

船舶櫓と城郭櫓の絵画的比較研究 岡部又衛門のこと

2020-02-22 06:39:41 | 比較研究論
船舶櫓と城郭櫓の絵画的比較研究 岡部又衛門のこと
はじめに
城郭天守の大工岡部又衛門が佐和山に在城
して織田信長も佐和山城に在城して船上に
櫓を構えた件は前投稿で既に述べている。
また岡部又衛門をウッキペデイアで検索
すると次のような文言が記されている。
「尾張の大工で、熱田神宮の宮大工の棟梁。
「岡部家由緒書」に拠れば、岡部家は室町
幕府将軍家の修理亮を勤めた家柄とされる。 
天正元年(1573年)に近江・佐和山の山麓
で長さ30間、幅7間、櫓100挺の大型軍船を
建造。天正3(1575年)、信長の熱田神宮
造営に被官大工として参加した。 
安土城築城では大工棟梁として、5重7階の
天守造営を子の岡部以俊(岡部又兵衛)と
共に指揮し、その功により織田信長より総大
匠司の位と日本総天主棟梁の称号を与えられ
小袖を拝領した。」とある岡部氏が天守や
軍船に関与した技術者である事がよく解る。 
一般に歴史民俗学的には城郭の丸と船舶の丸
は共通根が存在すると昔日から述べられてい
るが浅井長政最期の感状天正元年(1573年)
8月29日小谷城落城を目前にした浅井長政が、
片桐直貞宛に小谷籠城を感状においても長政
は最後に当方の丸ひとつ残り候。と小谷城
本丸の様子を簡潔に伝えている。果たして
これが落城寸前長政が心頭を滅却して冷静に
書状を認めた自筆のものかそれても浅井氏の
祐筆的存在の片桐子息が豊臣秀吉の妻妾とな
った茶々こと淀の方に提出披見させて浅井氏
「淀殿」に再就職仕官
を得る為の片桐氏自筆による書状だったか?
はたして若き浅井長政と言う自刃落城が迫る
切迫した精神状態のなかで小さな文字を用い
て安定した文字を書けたかはなはだ疑問でも
ある。件の籠城の労をねぎらう長政の言葉を
片桐氏が落城後に心落ち着けて記したのか?
いろいろと詮索して本論から脱線しまう私
ではあるのだが?中世の文書は没落した今井
氏なども『島記録』に残して江戸時代になっ
ても武士階級として再仕官する為に江戸滞在
して江戸浅井氏江姫や浅井系の縁者のツテを
たよりに再就職の段取りをしていた事が解る。
浅井系の縁者では江戸幕府に再就職した田屋
氏は三好氏を名乗り武家として存続している
思いもよらない事に浅井氏から美濃の斉藤氏
に一度縁あるも近江に帰った女性が近江の方
を名乗り江戸幕府大奥の高級女官となってい
る事なども意外性をしめしていると言える。

さて再度澤山城図と文禄慶長の役における
と肥前名護屋に停泊する、豊臣系の軍船と
澤山城図を比較したい。


先ず軍船には2基の大小の矢倉が存在する事。
澤山城図も基本的2基の大小櫓を描いている。
肥前名護屋図も後部矢倉には欄干つまりは
手すりを回している事だ。澤山城図も小櫓
には欄干を巡らしている。また脱線するが
羽柴秀吉築城する長浜城の地名には天守の
他に欄干に近い文字覧観の文字が見える事
これは秀吉の長浜城にも明智光秀の坂本城
と同じく天守と小天守が存在した痕跡地名
か?
さて艦船と澤山を比較すると双方に大櫓の
前方に附櫓を付属されている共通性がある。
これは織豊大名として一次佐和山城の城主
であった堀尾義晴の松江城天守も全面には
附け櫓を付属させている共通根がみえる。
文禄慶長の役に使われた秀吉方の軍船の
隅柱も澤山城図も隅柱は明確に露出して
いる共通根も観察できる。
軍船に張り巡らされた陣幕には右から
菊花紋、五三の桐紋、菊花紋が交互に
装飾されており皇室の政治を代行する
豊臣政権の様子を如実に語っている。
かく言う佐和山城の山上においても
五三の桐紋瓦破片が採取されている。
また豊臣秀吉存命中の秀吉の居城を
描いた各種屏風類にも天守には菊花
紋や桐紋が描かれるケースが多い。
また秀吉関係の城からは菊花紋や桐
紋瓦が出土する類例が多い。安土城
からも菊花紋瓦が出土している。
また鳥居本側の山麓武家屋敷跡でも
五三の桐紋金具が発見されて話題に
なった。また元滋賀民俗学会理事長
の粕淵先生も彦根城内の地面から桐
紋瓦を表面採取され然るべき教育委
会様に提出報告されている。彦根城
は佐和山城から移築され築かれた事
が初期段階でしのばれる。以上の如
桐紋と佐和山は縁が深いと言えよう。
桐紋は足利将軍家が皇室から拝領し
た紋所、織田信長も足利義昭から
下賜され桐紋を使った武将でもある。
◆安土御殿と佐和山城
本能寺の変後に織田軍諸将は清須会議
の評定を開催し織田一族を安土御殿に
住まわせた事はよく知られている。信
長の孫に相当する。三法師丸は秀吉の
意見で織田家嫡宗の血統として佐和山
も織田家の領分としこの佐和山管理を
織田家として預かる役目が堀秀政だ。
佐和山城のオナー持ち主は織田家で
ある事は先の投稿で『信長公記』に
丹羽長秀を城主ではなく城代にして
いる事でも明確に理解できる。さて
石田治部少輔の居城となった佐和山
城であるが石田は皇室の正式官途名
治部少輔と言う役職である事を忘れ
てはならないだろう。佐和山から
五三の桐紋が出土する事は意味深い。



この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« しがしろ 滋賀城 | トップ | 余呉城郭研究会様の評判 »
最新の画像もっと見る

比較研究論」カテゴリの最新記事