城郭 長谷川博美 基本記録

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うみ「湖/海」ビイスタ 湖の城のビイスタ工法

2024-04-27 16:47:15 | 比較研究論

うみ「湖/海」ビイスタ 湖の城のビイスタ工法

 

◆対談者

私達の何人かは元は伊香郡人

なのです。昔三万一心と伊香

郡は呼ばれて伊香郡体育連や

郡展覧会などが催されていた

時代の人間としては伊香4町

「イカヨン」の世界が心の中

に根強く今も残っております。

 

◆県外者

長谷川先生は長浜北部の城址

に精通しておられるので遠く

から宿泊してでも長浜余呉へ

と通っていた訳で長浜北部や

西浅井の城の見学を期待して

いました。もう無理ですか?

◆長谷川

上図を見てもらっても解る通り

私長浜市出身ながらも地元長浜

からの出席参加が極端に少ない

人間なのです。私は滋賀県外の

人や湖東湖南の方に支持されて

る。私の故郷余呉町で講演開催

されましたが余呉の人が一名様

たりも参加されず、心の悲しみ

痛みは痛切なモノがありました

もう一つ私は敦賀、金津、今庄

細呂木、吉崎、若狭、金沢能登

に幼少期から縁のある人間です

つまり簡単に言うと私の心の奥

は「北陸人」「嶺南人」とも言

る気質ですね。敦賀市の発掘

に行って高野の人や大蔵の人や

野坂の人に敦賀弁を使い仲良く

なる様な人間な訳で北近江での

見学会や講演で地元や敦賀地域

の人々や長浜伊香からの参加様

が極端に少ない事に嘆き悲しみ

ました。解りますかコレつまり

は浦島太郎が故郷に戻って来て

も誰知る人無くて玉手箱を開封

して一時に白髪の翁に変貌遂げ

る虚しい虚無の心境の到来です

 

親鸞様の白骨の章に

朝には紅顔ありて、夕には白骨

となれる身なり。既に無常の風

来りぬれば、すなわち二の眼たち

まちに閉じ、一の息ながく絶え

ぬれば、紅顔むなしく変じて桃李

の装を失いぬるときは、六親

・眷属集りて歎き悲しめども、

更にその甲斐あるべからず。

 

◆対談者

その気持ち解ります。幼少期は

武生の鎌売の職業の人々または

富山の薬売りの人々が来られて

敦賀から行商オバサンがヘシコ

を持って伊香郡に訪れられた事

 

◆長谷川

13年も長浜市北部の城郭講師と

してお世話になりながらも私の

インターネット効力は全く無駄

徒労におわり仕事も無くて悩む

ばかり暗い人生を過ごしました

私は1人になって冷静に考えた

のです。私を信頼支持される

人々は湖東、湖南、県外の人

私の人生は残り少なくなって

きた。私は私ともに城の勉強

をされる方々と元来の湖東に

活動拠点に戻る事にしました。

◆対談者

暗い気持ちになってはなりません!

前向きに考える事ポジティブ思考!

米原公民館での長谷川先生の講座

は毎月好評につぐ好評です。これ

一重に湖東の人達賢人紳士の諸氏

が多いと言う事で先生の講座好評

◆長谷川

仕事に就けない辛い身の上の私に

とり身に染みる温情に感謝します

思いもよらず国指定遺跡 鎌刃城

まつりの講師に招かれた事などは

幸甚とさえ言える事で深甚の感謝

どうぞ宜しくお願い申し上げます。

◆対談者

さて私は森忠政が津山城築城

に際しての伝説が非常に私は

非常に深く気にかかります?

ウイッキペデイア参考に!

山城

小倉城の天守を模して造られたともいわれているが[5]

これに関してひとつの伝承がある。小倉城の天守の評判

を聞いた森忠政が築城にあたって小倉に家臣の薮田助太夫

を派遣した。海に面して築かれた小倉城は海の上から検分

できたため、船を出して津山から同行した大工と絵師に

天守を見取らせようとしたが、検分していたところを小倉

の家中に見つかってしまった。事情を伝え聞いた小倉城主

細川忠興は、薮田一行を城内に招き入れて好きなだけ

調査させ図面まで手土産に持たせたという話が伝わっている[3]

同様の話で慶長8年(1603年)に津山築城に携わっていた

工の保田惣右衛門が小倉城の天守を写して津山に帰ったと

いう伝承がある[6]ちなみに、小倉城天守の竣工は慶長15年

1610年)である

◆長谷川

そうですね!貴方の着想に

私は注目致します。美作の

津山森忠政は家臣に小倉城

を海から調査させたと言う

事は海ビイスタつまり小倉

城は海からの眺望を意識し

て築城された事を暗示する

伝説伝承である可能性です

 

◆反論者

城郭ビイスタ論など無用の

学問だ何の意味も待たない!

 

◆長谷川

私の案件に賛同されなくても

前向きに小倉城に海から展望

ビイスタが存在したのか冷静

に考察する事が城郭研究者で

頭から鼻から拒絶は困ります。

◆対談者

うん!ヤッパリそうかと納得

致します。さて今年大津坂本

城から石垣が出土して大変な

賑わいが創成された事に着目

この坂本城も天王寺屋記には

ウイッキペデイアによると

天正6年(1578年)1月11日に光秀の茶の師匠

であった津田宗及が坂本城に招かれ茶会

がひらかれている。この時の様子は、「御座船

を城の内より乗り候て、安土へ参」(『天王寺屋会記』

)と記載されている。城内には琵琶湖の水が引き

入れており、城内から直接船に乗り込み、

そのまま安土城に向かったようである。従って

城郭の建物が湖水に接した「水城」形式の城で

あったと思われている。また吉田兼見が天正10年

(1582年)1月20日に坂本城に訪れた時に「小天守」

で茶湯を喫している。大天主・小天主で構成される

高層の天主を中心に城と内堀で囲まれた主郭があり、

その西側に中堀で囲まれた曲輪、さらにそれを取

り巻くように外堀で囲まれた曲輪があったと

▼津山城 ビイスタ

 

◆質問者

明智光秀の坂本のビイスタとは?

ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスは 

築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」 

と評価していま

◆長谷川

坂本城は琵琶湖【うみ】から見せる

Aうみ「ビイスタ」西近江路から見

せる陸ビイスタ存在したと思います。

▼坂本城重複ビイスタ

◆対談者

そう言う城郭測量の見地から

坂本城の石垣が出土している

事は長谷川先生の理論が幻想

論や破綻した理論ではない事

キッチリ理路整然としてます。

◆反論者

何が城郭ビイスタ論だ!ふん

そんな動画絶対に見たら駄目!

陸ビイスタ、海ビイスタなる

勝手な言葉を作るな!じやあ

坂本城の後身豊臣勢力築城の

大津城には湖のビイスタ陸の

ビイスタがあるのか?言って

おくが城郭ビイスタ動画など

絶対にみるべき動画ではない。

 

◆長谷川

怒気は学問ではありませんよ。

冷静に大津城も考察しますね。

大津城も湖ビイスタ有ります。

学問や研究は素朴な心が基本

 

◆一般者

城郭ビイスタ論見事な論説です。

明治大正昭和平成にない理論!

新研究/新研究/深研究と言える。

 

◆質問者

細川忠興が森忠政の小倉城調査

使者に小倉城の図面も調査者に

持たせた伝承は何を物語ってる

なのでしょうか?

 

◆長谷川

細川忠興は一色忠興とも言い

明智光秀の娘玉の婿でもあり

勝竜寺城は光秀最期の拠点で

もありました。細川氏は築城

のノウハウは明智から知って

いたと思われ細川は城郭精通

者だったという伝承でしよう?

 

◆質問者

まさか勝竜寺城城郭ビイスタ

ではないでしようね?まさか

 

◆長谷川

そのまさかは常に存在します。

勝竜寺城も城郭ビイスタです。

その証拠に本丸が正方形では

ない事に気付く事が大切です。

◆長谷川

明智は一時期越前に逗留して

朝倉義景とも縁のある謎多き

人物です。朝倉館も勿論当然

城郭ビイスタ構造と言う事。

 

◆質問者

まさか細川藤隆と細川忠興の丹後

宮津城は海ビイスタがあります?

 

◆長谷川

まさかは続きます。宮津城は明智

の力を借り築城された海ビイスタ

の城だと言えます。▼宮津城

◆反論者

そんな雑説など完全否定するぞ!

◆長谷川

そんな事言われても明智の周山

城もビイスタ工法で作られてる

これは城の基本法則と思われる。

◆質問者

明智の娘婿 織田信澄の大溝

城はうみビイスタでしょうか?


◆長谷川

その通りいい質問をされます。

琵琶湖からのビイスタ展望を

考慮した織豊系城郭ですね!

◆長谷川
大溝の街割りもビイスタの理論
で作られています。
◆反論者
勝手に適当な事を言うんじゃないぞコラ!
城郭ビイスタなんざあ存在しねえんだよ!
大溝城の天守台は正方形に決まってらあ!
 
◆長谷川
繰り返します怒気は学問に非ず。
 
◆対談者
私は正直者です。私は大溝城天守台自体
正方形には見えなかった大溝は正方形じ
や絶対無い。シッカリ観察する精神性が
真の城郭見学の素朴さ純粋さと思います。
そう長谷川先生が言われる城郭初心者!
 
◆長谷川
正直真心さんの意見尊重致します。
大溝城天守台も南が大きく北が狭い
遠隔型ビイスタ工法です
◆質問者
羽柴秀吉の長浜城も湖ビイスタが
存在するのでしょうか?
 
 
◆長谷川
長浜城を陸地から見ただけと
の発想も良いが湖から長浜の
城が美しく見える工夫をした
事でしょう。湖のビイスタが
◆反論者
長谷川城郭ビイスタなど絶対に
存在しない。
 
◆長谷川
そう言われても小谷城大嶽城
 
◆長谷川
京極高次の大津城も
ビイスタ工法という
日本の伝統技術こそ
相伝されている事に
気付く事が研究家!
 
 
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