城郭 長谷川博美 基本記録

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兵庫城と別所山城のビイスタ工法

2022-05-13 21:03:32 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、

兵庫城と別所山城のビイスタ工法

 

 

◆兵庫様「匿名」

織田信長の家臣として前田利家を想起しますが

天正11年1583年、賤ケ岳合戦の伝前田利家陣城

は典型的な織田軍つまり織豊系陣城だ先月見学

して感じた。織田信長の側近から兵庫城を与え

られた池田常興の城にも城郭ビイスタ論は適応

されるのでしょうか?是非とも御教示下さい。

◆長谷川

4月16日のウッディパル、城郭フォーラム現地

見学会は確かに別所山陣城を見学しましたが

織豊系城郭としてのビイスタ工法が概略的に

アバウトながら概略的存在した可能性がある。

 

▼別所山陣城

横堀と土塁を見学する余呉城郭研究会の諸氏

▼滋賀県長浜市余呉町別所山陣城長谷川略図

 

▼滋賀県長浜市余呉町別所山陣城 写真B地点

 被写体 余呉城郭研究会 生月茂会長

◆兵庫様「匿名」

現在は無くなってしまった兵庫城にもビイスタ工法

が存在するのですか?今巷間では長谷川先生の提唱

される城郭ビイスタ論は有識者専門家間で、大変な

話題になっておのますが頑強な城郭保守派から完全

否定する人もおられます。令和という新しい時代に

なり長谷川先生の城郭ビイスタ論と動画は全国区に

衝撃的新時代の令和新城郭研究手法の黎明の鐘を

連打されるような新取にして気鋭の学問躍動胎動

さえも感じます。是非とも長谷川先生に今はなき

織田信長家臣池田恒興の兵庫城の城郭ビイスタを

解説を願えないでしょうか?お願い申し上げます。

 

◆長谷川

兵庫では関西の名門城郭研究会『関西城郭研究会』

様の格別の招聘を賜り浅学非才の凡人長谷川博美

が2回も講演をさせていただける名誉な御配慮賜り

会員各位様には改め感謝御礼の言葉を申し上げます。

 

◆長谷川

先月4月の見学城郭は伝前田利家の別所山城でした

が先ず以下ウイッキペデイアより引用した池田恒興

の略歴を御紹介致します。

 

天正6年(1578年)11月、有岡城の戦い荒木村重

が突然織田信長謀反をおこした。その有岡城も落

城し荒木村重は花隈城へ逃走し、そこで花隈城の戦

が行われたが、織田信長軍の武将池田恒興

(信輝)・輝政父子により花隈城も落城した。その

功により、織田信長より兵庫の地を与えられた。

摂津国の大守になった池田恒興は、1581年(天正

9年)花隈城には入城せず兵庫津に城を築いた。

その時の様子は、「池田信輝此津守領の時、花隈

城を毀り、其材石を移してここに築く」(『摂津

名所図会』)とある。しかし1583年(天正11年)

池田恒興わずか2年で美濃国大垣城に移封され、

兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり片桐且元

代官として入城した。呼称も兵庫城から片桐陣屋

と称されていた。1607年(慶長12年)に朝鮮使節

がここに招かれており、その日記の中には、

「及館主所周以城池門設三重(略)支供官乃秀頼

代官片桐主膳」とある事からの周りにはがあり

、三重のがあったことが窺い知れる記載となっている。

 

◆長谷川

上記で着目したい記録は

 

1581年(天正9年)花隈城には入城せず兵庫津に城

を築いた。その時の様子は、「池田信輝此津守領の時、

花隈城を毀り、其材石を移してここに築く」(『摂津

名所図会』)とある。しかし1583年(天正11年)池田

恒興わずか2年で美濃国大垣城に移封され、とある事

要するに兵庫城はこの時期の典型的織豊城郭の様式に

従って築城されたか考察する事が重要だと思います。

天正11年期築城廃絶の長浜市余呉町の織豊系陣城 

別所山陣城と兵庫城比較研究する意義が深く大きい

思います。

 

◆長谷川

先ず古図に描かれた兵庫城の形状とは以下の如く。

主郭と馬出相当の主郭副郭供えた典型的織豊城郭。

城主池田氏とは出身が関ケ原より東の東国の人物。

◆長谷川

 次に2方向からの城郭ビイスタを確認致します。

城館の通例の如く正方形には作られていません。

城外の2方向から縄張した城郭ビイスタ工法です。

◆長谷川

更に本丸とその周囲を形成する武家屋敷群の町割

は明らかに「扇形」城郭ビイスタ工法が読取れる。

▼扇形ビイスタ工法

▼放射状ビイスタ工法

◆一般様

長谷川先生すごいです。我々一般の人々にも解りますよ。

 

◆反論者

何が城郭ビイスタ工法だ!長谷川如きが偉そうに言うわ!

ワシャ絶対長谷川城郭ビイスタ工法など正解でも認めん!

 

◆対談者

城郭研究は学問です。そこには派閥や感情は一切不要!

敵意や感情を優先させた段階でもう貴方は城の失格者!

気分が悪いとか気に入らん等の言葉は学門でなく感情!

 

◆長谷川

どうぞ是非とも冷静に静粛にお願いを申し上げます。

さて前回港湾環濠自治集落「泉州堺」のビイスタ論

検討考察致しまし。▼泉州堺の十字路と短冊形街割り

▼泉州堺の城郭ビイスタ=扇形縄張

◆世界百科事典から兵庫津を引用

 
「兵庫津」より
その範囲は兵庫区,北区を中心に長田区の一部を含む地域
らしい。【石田 善人】 織田信長のもとで摂津の大名とな
った荒木村重が信長に反して没落したあと,1580年(天正8)
村重討伐に功があった池田恒興に摂津の〈諸所多く〉とと
もに,兵庫津が与えられた。恒興は兵庫の地に一城を構え,
城の周りに溝渠(こうきよ)を,町の外郭に惣構の都賀堤
(とがのつつみ)を築いた。…
 
◆兵庫様「匿名」
環濠都市城郭泉州堺のような港湾全体を統括するビイスタ
工法が存在したのでしょうか?
 
◆長谷川
的を得た誠に扇の要のような御質問に感謝を致します。
池田氏は織田信長直属の武将として頭角を現して来た
直臣で昔日若きアレキサンダー大王アレキサンドリア
という都市を築くとその部下の武将達はアレキサンダー
大王の町を模倣し都市名にアレクの名前を冠する都市
をオリエント各地に構築します信長股肱の臣池田恒興
も兵庫津に近江安土城を模倣したビイスタ工法の兵庫
津の城郭港湾都市城郭を構築した事と私は思います。
海からの玄関口や兵庫津の海からの展望の展望の中心
はやはり池田氏の兵庫城と言えましよう。
 
 
◆長谷川
池田氏の兵庫城の正面「大手」を総合的に認識する
事が非常に大切な事だと思います。兵庫城はやはり
ウオターフロント海浜、港湾、陸路との結節を考慮
した日本で屈指の港湾城郭の一つと評価が出来ます。
 
 
◆対談者
兵庫城つて奥の方が広く出来ています。これ即ち
ビイスタ工法が存在した証拠です平凡な人達なら
安土城の小櫓を正方形に表記してしまう所が私達
米原学びあいステーシンの城郭講座の受講生の皆
様達は冷静に安土城の小櫓が奥ほど広く出来てる
事に気づかれて長谷川先生とともに安土城の城郭
ビイスタ設計を導きだされた城郭研究の金字塔が
そこにある令和の城郭研究は城郭ビイスタ時代!
 
 
▼肥前名古屋城 文禄慶長の役 太閤秀吉本陣
▼北陸道の織田軍団の重鎮柴田勝家の玄番尾城ビイスタ工法
▼余呉城郭研究会
▼小谷城の城郭ビイスタ論の一例
 
 
◆長谷川
 
神戸市史には

ここは奈良時代には大輪田泊(おおわだのとまり)

と呼ばれ,12世紀中ごろには平清盛による大規模な

修築が行われた。鎌倉時代に入ると兵庫津と名がか

わり,清盛の築造した経ヶ島を中心に町が形成され

た。応仁の乱で町は一時衰退するが,江戸時代に西

廻航路が発達すると再び隆盛に向かい,幕末の開港

まで海上交通の要衝として繁栄した。とあります。

◆質問者

源氏の源義朝は鎌倉の扇ケ谷に居館を構えており

東国武士団の信頼を受けてた。現在の大河ドラマ

では鎌倉幕府を中心にドラマが展開しております。

そう源頼朝の東国武家政権の本拠は鶴ケ丘八幡宮

若宮大路を中心に置いた鎌倉湾に門戸開いた都市

港湾総合体か『吾妻鑑』の鎌倉城の全貌でしょう。

 

◆長谷川

歴史上、平相国入道清盛ほどの貿易商業に長けた

傑物が、大輪田泊(おおわだのとまり)の修築を

した時点において兵庫湊のビイスタ都市工法施工

の起源が存在した可能性があります。残念ながら

清盛は経ヶ島なる人工島をアレクサンドリアの都

パロスの灯台の如く構築したが現在は失われてる

との事です。清盛築く経ケ島のが何処に存在した

のか歴史ロマンとして非常に興味ある事案ですね。

◆質問者

経ケ島の形状はどのようなものだったのでしよう?

◆長谷川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

経が島(きょうがしま)は、日宋貿易の拠点である

大輪田泊摂津国)に交易の拡大と風雨による波浪

を避ける目的で築造された人工島。承安3年(1173年

に竣工する。その広さは『平家物語』に「一里三十六町」

とあることから、37ヘクタールと推定されている。

経ヶ島経の島とも書く。後世、兵庫津にちなんで

兵庫島とも称された。塩槌山を切り崩した土で海を埋

め立てた。工事の際、それが難航したために迷信を信じ

貴族たちが海神の怒りを鎮めるために人身御供をする

ことになる。一説には、平清盛は何とか人柱を捧げずに

埋め立てようと考えて、石の一つ一つに一切経を書いて

埋め立てに使う(経石)。その後、事故などもなく無事

に工事が終わったためにお経を広げたようなの形を

したこの島を「経が島」と呼ぶようになったとされる。

とあります。

 

◆長谷川

私が注目している事は経ケ島の「経」とは

仏法をしるした『扇形』の島なのか?また

それとも築城を「経始」とも書きますので

そ港の計測「経」を意味するのか興味ある。

 

◆質問者

鎌倉幕府は西国に平家を滅ぼした後に奥州藤原氏

の平泉を攻略しますが奥州藤原氏の栄華の跡とも

言える毛越寺にビイスタ工法が存在しましたか?

 

◆長谷川

建造物は見栄が肝心です可能性はあろうと思います。

◆質問者

安芸の宮島は平家一門が崇敬した海に開いた神社

ですが厳島神社にもビイスタ工法は存在するの?

 

◆長谷川

神社仏閣堂塔伽藍とビイスタ工法は切り離せな

い神道「しんとう」で言う正中線「中心中軸腺」

も明確です十分ビイスタ工法の可能性と言うよ

そのもの左右対称のシメトリクに近い社殿配置。

 

尚ウッイキペデイアを引用しますと「平安時代

末期、神主・佐伯景弘と当時の安芸守平清盛

の結びつきを契機に平家一族から崇敬を受けた。

仁安3年(1168年)頃、平清盛が社殿を造営し

現在と同程度の大規模な社殿が整えられた[* 5]

平家一門の隆盛とともに厳島神社も栄えて平家

氏神となった。

 

◆長谷川

厳島神社の場合「大鳥居」が海からの玄関や

神社遥拝の正面玄関口と言えます。日本国に

おいて宮殿建築の正中線、中央基軸線が読み

取れる最古級の類例は弥生の遺跡奈良の纏向

宮殿遺跡と言えましょう。中国史、東洋史学

、日本史をも大観して、人類が創造してきた

ランドスケープ論「国土土地都市設計論」や

城郭ビイスタ論に取り組んで日本人の普遍的

歴史建築物基礎設計を冷静に観察しましよう。

▼纏向宮殿遺跡のビイスタ工法

▼大和毛原寺の複合型ビイスタ工法

▼伊賀国の国分寺跡のビイスタ工法

▼出雲国の二基の前方後円墳のビイスタ工法

 

 

▼大和朝廷型 前方後円墳のビイスタ工法

▼九州 オサホ メサホ 塚古墳のビイスタ工法

 


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2022-05-13 13:10:00
他に類例のない全く新しい令和の城郭史や日本史の新分野とも言える歴史建築物の配置法ビイスタ工法の比較研究論が素晴らしいと言えます。目が覚める内容です。
返信する
Unknown (Unknown)
2022-05-13 21:10:26
長谷川さんの場合特定組織に拘束されず真実や現実に対して率直に素直に自然体で研究されています、その研究の学門的純度は非常に高いと感じます。万人が気付けない独自の遺跡鳥瞰感覚全体像や平面感覚を駆使されるその能力には非凡なで特殊な能力と学才を強く感じます。
返信する

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