どうして謙虚に素直に謝れなかったのか?
頭が良くて高学歴で強い職権を持っていて庶民を見下していて・・・、もちろんそれもあるかもしれませんが、
「物事を理解し、納得して、(自分の物差しで)正しいかどうかを判断して、行動したい」という欲求が強すぎることが原因だとおもうのです。
学生時代に、蛇嫌いの友人がいました。蛇という言葉が出るだけでも身を震わせて怖がるので、仲間内では面白がって、わざと蛇の話をしたり、写真を見せたりしてからかっていたのですが、私は、どうしてそんなにへびが嫌いなのか、どこが気持ち悪いのか、などをいつもしつこく追及していました。
ある日、仲間と結託してその友人を、蛇に直接触れることのできる遊園地につれていきました。
無理やり蛇を間近で見せられた友人は卒倒してしまい。救急車を呼ぶ騒ぎになってしまいました。
私は友人をいじめて楽しみたいというよりも、「蛇をそんなに恐れるのはおかしい」という意識が強くて、正直なところ悪意はほとんどなかったのですが、救急車に載せながら、大変なことをしてしまったと反省しました。
どうしてその友人が蛇を嫌うのか、その理由なんてどうでもよくて、その理由を私が納得できるかどうか、ということも全く関係なく、「蛇嫌いの人に、蛇の話をしたり、無理やり蛇に近づけたりしてはいけない」
それが謝罪しなくてはならない理由のすべてです。
自分の価値判断で、蛇を嫌いだということは納得できないとか、蛇に近づける程度のことがいじめなのか、と言ってはいけないのです。
他人を理解するというのは、「なぜ、どうして」で納得することではなく、「あなたはそうおもうんだね、そう感じるんだね」ということを丸ごと受け入れることだとおもいます。「そだねー」の効用がここにあります。
次官さんも前都知事も、自分の物差しで納得できなければ、「そだねー、ごめんね」が言えない人。
いくらお勉強ができても、こういう人を頭がいいとはいえない。
これは、異性だけでなく、異文化、民族、宗教など、あらゆる立場の違う人同士のコミュニケーションにおいて重要です。
話せばわかる、よく使われる言葉ですが、私が人と話してわかるのは、すべての人、たとえ家族や親しい友人であっても、一人一人が違っていて、不完全なのだ、ということです。
頭が良くて高学歴で強い職権を持っていて庶民を見下していて・・・、もちろんそれもあるかもしれませんが、
「物事を理解し、納得して、(自分の物差しで)正しいかどうかを判断して、行動したい」という欲求が強すぎることが原因だとおもうのです。
学生時代に、蛇嫌いの友人がいました。蛇という言葉が出るだけでも身を震わせて怖がるので、仲間内では面白がって、わざと蛇の話をしたり、写真を見せたりしてからかっていたのですが、私は、どうしてそんなにへびが嫌いなのか、どこが気持ち悪いのか、などをいつもしつこく追及していました。
ある日、仲間と結託してその友人を、蛇に直接触れることのできる遊園地につれていきました。
無理やり蛇を間近で見せられた友人は卒倒してしまい。救急車を呼ぶ騒ぎになってしまいました。
私は友人をいじめて楽しみたいというよりも、「蛇をそんなに恐れるのはおかしい」という意識が強くて、正直なところ悪意はほとんどなかったのですが、救急車に載せながら、大変なことをしてしまったと反省しました。
どうしてその友人が蛇を嫌うのか、その理由なんてどうでもよくて、その理由を私が納得できるかどうか、ということも全く関係なく、「蛇嫌いの人に、蛇の話をしたり、無理やり蛇に近づけたりしてはいけない」
それが謝罪しなくてはならない理由のすべてです。
自分の価値判断で、蛇を嫌いだということは納得できないとか、蛇に近づける程度のことがいじめなのか、と言ってはいけないのです。
他人を理解するというのは、「なぜ、どうして」で納得することではなく、「あなたはそうおもうんだね、そう感じるんだね」ということを丸ごと受け入れることだとおもいます。「そだねー」の効用がここにあります。
次官さんも前都知事も、自分の物差しで納得できなければ、「そだねー、ごめんね」が言えない人。
いくらお勉強ができても、こういう人を頭がいいとはいえない。
これは、異性だけでなく、異文化、民族、宗教など、あらゆる立場の違う人同士のコミュニケーションにおいて重要です。
話せばわかる、よく使われる言葉ですが、私が人と話してわかるのは、すべての人、たとえ家族や親しい友人であっても、一人一人が違っていて、不完全なのだ、ということです。