話せばわかる?

2018年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
 どうして謙虚に素直に謝れなかったのか?
 頭が良くて高学歴で強い職権を持っていて庶民を見下していて・・・、もちろんそれもあるかもしれませんが、
「物事を理解し、納得して、(自分の物差しで)正しいかどうかを判断して、行動したい」という欲求が強すぎることが原因だとおもうのです。
 学生時代に、蛇嫌いの友人がいました。蛇という言葉が出るだけでも身を震わせて怖がるので、仲間内では面白がって、わざと蛇の話をしたり、写真を見せたりしてからかっていたのですが、私は、どうしてそんなにへびが嫌いなのか、どこが気持ち悪いのか、などをいつもしつこく追及していました。
 ある日、仲間と結託してその友人を、蛇に直接触れることのできる遊園地につれていきました。
 無理やり蛇を間近で見せられた友人は卒倒してしまい。救急車を呼ぶ騒ぎになってしまいました。
 私は友人をいじめて楽しみたいというよりも、「蛇をそんなに恐れるのはおかしい」という意識が強くて、正直なところ悪意はほとんどなかったのですが、救急車に載せながら、大変なことをしてしまったと反省しました。
 どうしてその友人が蛇を嫌うのか、その理由なんてどうでもよくて、その理由を私が納得できるかどうか、ということも全く関係なく、「蛇嫌いの人に、蛇の話をしたり、無理やり蛇に近づけたりしてはいけない」
 それが謝罪しなくてはならない理由のすべてです。
 自分の価値判断で、蛇を嫌いだということは納得できないとか、蛇に近づける程度のことがいじめなのか、と言ってはいけないのです。
 他人を理解するというのは、「なぜ、どうして」で納得することではなく、「あなたはそうおもうんだね、そう感じるんだね」ということを丸ごと受け入れることだとおもいます。「そだねー」の効用がここにあります。
 次官さんも前都知事も、自分の物差しで納得できなければ、「そだねー、ごめんね」が言えない人。
 いくらお勉強ができても、こういう人を頭がいいとはいえない。
 これは、異性だけでなく、異文化、民族、宗教など、あらゆる立場の違う人同士のコミュニケーションにおいて重要です。
 話せばわかる、よく使われる言葉ですが、私が人と話してわかるのは、すべての人、たとえ家族や親しい友人であっても、一人一人が違っていて、不完全なのだ、ということです。

Nessuno perfetto

2018年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
 機長がCAさんに下品な言葉で言い寄っている状況を、CAさんが機内放送で乗客に流しました。
 乗客はこんなやつに飛行機は任せられないと機長を糾弾、言い訳していた機長が逆に怒り出して、こんな状況じゃ操縦できない、と飛行機からパラシュートで飛び降りてしまいました。乗客の運命やいかに。
 どんな人材も、本人の努力だけでなく世の中全体の支援があって、今の立場にいるわけです。人材とはいい表現で、人は皆、世の中から有形無形の投資を受けている財産なのです。特に官僚の方々は、もらったお給料だけでなく、それとは比べ物にならいほどの税金をつかって経験を積んでいる、ということを、本人も国民の側も忘れてはいけないとおもいます。それを仕事にならないから辞める、ではあまりに無責任だし、国民も高額の税金を使って育ててきた財産を捨てる、大損害を被ったという痛みを感じるべきです。
 前の都知事が、セコイという理由で糾弾され、さらし者になって辞めていき、熱狂的に迎えられた次の都知事が今どうなっているかを考えると、多額の税金で教育を受けて有能な点も少なくない人材の前途を断ち、さらに多額の税金を使って選挙をやり直した意味があったのか疑問です。マリーアントワネットも、マクシミリアンもギロチンにかけて、ナポレオンをセントヘレナで獄死させても、その後のフランスは王政、帝政、共和政を行ったり来たりして、苦しんだのは民衆と後の受験生、という歴史をみても、誰かを糾弾して引きずり降ろしても、みんなにとってあまりいいことはないのです。
 Nessuno perfetto.
イタリア人が何か失敗した人に掛けてくれる、私の大好きな言葉です。
 「完璧な人はいない」
 人は過ちを犯す存在、だからダメなところを補って、教育して、その人材のいいところを世の中に生かしていくべきです。
 またどんなに優秀でも、自分は人より偉い、いつも正しい、完璧であると自惚れてはいけない。
 件の次官さんも、前の都知事も、もっと謙虚に素直に「ごめんなさい」が言れば、職を失うこともなかったし、我々も貴重な人材を失わなくて済んだとおもいます。