ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

鈴木東海子「朗読の人」、詩誌『櫻尺』第39号2012年2月28日発行

2012年04月10日 | 同人雑誌評

鈴木東海子「朗読の人」詩誌『櫻尺』39号2012年2月28日発行

小林 稔


 イギリス文学に目を馳せるとき、イギリスの美しい自然の風景が瞼に浮かび上がってくる。
エリオットの現代詩「荒地」にいたるまで、イギリスの詩と自然の光景は切り離せないもの
であろう。鈴木東海子氏の「朗読の人」は、朗読をこよなく愛する詩人ならではの詩である
と思った。彼女が実際にイギリスを訪れて書いたのかどうかは判然としないが、心は完全に
イギリスに降り立っている。

 四月が旅のはじめにちがいなくいつも四月がわたしをせきたてた。
                  「朗読の人」第三連の部分

 四季の始まりである四月。「旅のはじまり」とは人生の始まりと重ねあわされる。四月に
命の花を咲かせ、夏に繁栄期を迎え、秋は実りと収穫期であり、厳しい冬は死に支配される。
そしてそこから命をよみがえらせる春。この自然の循環のなかで、私たち人間は自然の草花
や樹木と違い、「知」からもたらされる言葉を繁らせ実らせようとする。次世代へと引き継
がれていくために。詩人、鈴木氏は女性であり、前世代の女性の「歩いてきた道のり」を振
り返る。チョーサーの「カンタベリー物語」の一節を引用して、さらに彼女の脳裡にその詩
を読むシルビア・プラスという詩人の声が聞こえてくる。そして「わたし」の詩の朗読は始
まる。

 物語はどこからでも変えることができる。省略すること
 もできるのであったがカンタベリーへの道のりは省略す
 ることができなかったように今日ここにいるために昨日
 を省略するわけにはいかなかった。
                 「同」第七連の部分

 とつぜん詩人は女詩人吉原幸子を思い起こす。「傷口が開くように血が流れ出す日本の詩
人」と詩の中で表現している。「プラスと同年に生まれ詩人」であり、「プラスの倍を生き
て沈黙した。十年の沈黙を車椅子のうえで。」

 裏切りは完膚なきまでにわたしたちを切り裂いた。
                  「同」第九連の部分
 
 ここまで読みついてくると、詩人が何をこの詩で伝えたかったのかが見えてくる。「四月
は一番残酷な季節」と書いたエリオットの「荒地」の冒頭から暗示される、豊かな自然と人
間の精神の不毛に、ただ嘆き酔いしれている男(=私)ではいられなくなるというものだ。

 野を歩く女達は
 母であったかもしれない
 少女であったかもしれない
 沈黙することは
 全部であったかもしれない
 朗読するように
 歩くのであった。
                「同」最終連の最後の七行

 言葉において自己表現をする女性に必ず内在するであろう、男性社会による「女性蔑視の
歴史」を見つめる眼差し。私たちは歴史を操ってきた権力というものから目をそらさずに、
理性というものを形成してきた西洋の思考を解読していかなければならないだろう。最後の
一行に詩人の決意を読み取ることができる。そのようなことを私に考えさせた一編であった。





書評・情念のエクリチュール(中編)小説「ショパン 炎のバラード」ロベルト・コトロネーオ

2012年04月06日 | ショパン研究
小林稔個人季刊誌「ヒーメロス」20号(2012年3月25日発行)
書評「炎のエクリチュール」(中編)

小林稔


   七
 
叶うものならば音楽を高雅な行為のひとつのように、「創世記」の七日間における善き神の賜物のひとつと、私は考えたかった。すなわち音楽を、生き物や植物、太陽や月、星々と共に、天地創造の成果のひとつと、考えたかった。(p.133)

 闇の海に光を放つ星々はなぜあのように沈黙のままに浮かんでいるのだろう。「私」は神の存在を考えてみる。それは一つの声である。「無限の底のかすかな物音」。この視覚で捉えた星々が聴覚で捉えられるかすかな物音を何かの道具でたてるとすればホルンやスキソフォンのようなものか。「できうるものならば、宇宙はひとつの和音をもって鳴り響いてもらいたい。」コルネリウス・アグリッパの『隠秘哲学について』では惑星のたてる音が記述されている。例えば、土星は「悲しい音」を、金星は「淫らで、淫蕩で、柔らかで、豊満で……といった風に。「私はいつも天体と音楽とのあいだの協和音を、自分の内的宇宙と真の宇宙つまり自分の外にあるものとの協和音を、求めつづけてきた」。偉大な音楽が宇宙の秩序を変える力をもっているのなら、私の向かうピアノの生み出す波動はどこへ消えていくのだろうか。私が知っているのは「この世界の調和が、音楽の調和の、冴えない模倣であることだけだ」。「たった二つの音符の和音」は何百通りもの組み合わせから成る。街路で出会う男女の目がいくつもの組み合わせを生み、葛藤や憂愁を垣間見たりするのに似ている。「音楽は、しばしば、このような対比のうちから生まれる。」幼かったころの故郷の農夫たちの口笛を思い出す。労働を終え家路に着くときに鳴らす口笛を聞いていると、「そこに私の音楽がある」と感じた。「私」がピアノを弾くとき声に出して歌ったがいまはそういう習慣は去った。あのころは生活の中に音楽があったのだ。宇宙にどこにおいても聞こえてくる音を、私たちは追い払ってしまったのである。「それは私たちの自我を守る力が弱まり、私たちの心の扉が開かれて、聞こえてくる原初の物音だ」。
 一概にコンサートといえ、聴衆を身近に感じ演奏されるそれと儀式のようになされる大きなコンサートホールでの演奏とは相違する。後者では、二十世紀にはいってはほとんどがこの環境で演奏が行なわれるが、ピアノ自体の訴えかけが聴衆に大きく作用するであろう。演奏者のコンディションが鍵盤に微妙な変化を生じさせてしまうのだ。多くに批評家はそんなことはお構いなしに演奏された作品の質を問うのである。
 パリに来るとき、数百冊の書物だけを運んだ。そのほとんどは古典であり、文学作品であった。音楽に関する書物は除外した。楽譜がすべてを物語ってくれる。ある楽譜を読んでいたとき、不意にレンヌ通りのカフェであった例の一夜を共にした娘を思い起こす。捜し出そうとすれば可能であろう。「私」はどんな「ロマン派の幻想」を作り上げようとしているのか。
 「なぜバラード四番は違っているのか」。終結部でショパンは何を創り出そうとしていたのか。公式に印刷されたバラード四番が公刊されたときショパンは心身ともに健康であった。「肉体の状態は悪化の一途をたどっていたが」。

 ぼくの手稿譜には、何の価値もないが、もしも失われたりすれば、ぼくには莫大な労力を必要とすることになってしまうだろう。

友人のクジワらに送った手紙からショパンがどれほどこの作品にこだわっていたかが理解される。手稿譜は失われずに種パン者に届けられ印刷にまわされたが、それとは別に異稿付きのバラードを出版しようとしたが間に合わなかった。ショパンの生涯最後の数ヶ月に主要作品の見直しを始めた。バラード四番の終結部を再検討しようとしたに違いない。それを強いたのはジェイン・スターリングという女性であった。ジョルジュ・サンドとの破綻後、ショパンを支えた人物である。彼女の書類の中でショパンの作品は完璧に整理されたのである。バラード四番は作品52と記される。書き出しはショパンの真執であるといわれる。この二小節の筆跡に「私」は躊躇の気配を探した。「もしかすると、偉大なショパンは、まだ若くして、おそらく老人のような震えに襲われ、わずかにこれだけの、音符を書きつづけるのさえ、大変な苦労を必要としたのかもしれない」。作品を見直すには肉体的にも大変な労力を必要としたのだ。「私」はバラード四番の終結部の異稿の手稿譜を、情念の筆跡を見たいという欲望を捨てきれずいる。そのことは、あのレンヌ通りであった娘と関係があるのだろうか、と自問しながら、「私のバラード四番ヘ短調、作品五二」を求めることになる。ドラクロアの肖像画に描かれた帽子をかぶった人物に重ね合わせる。「あの女にふたたび会わないうちは必ずや、あの楽譜を見出すことはないだろう」。とはいえ、あのロシア人の共犯者であったり、なにかかかわりがあるとは考えているわけではないが、「私が探し求めている情念の筆跡」の謎の扉を開けてくれる女性」であることを勝手に願っているに過ぎない。つまり「私」にはショパンの自筆譜とその女性への愛はどちらか一つだけを手に入れることではなく一つにつながった欲望であった。過去の音楽のページとして「ロマン主義の燃えかすに、生命を吹き込むためではなく、一つの物語に情念の火を放つことである」。

私の創り出す音の背後に、私こそが永遠に生きたかったのである。(p.151)
 
グレン・グールド。三十歳でコンサートを封印し、レコードの録音に専念したグールド。彼のレコードからは彼自身の唸り声が聞こえてくる。後世に録音テープだけが残された。「レコード盤のなかにいることを思い出させるための、それはひとつの方法だったのである」。しかし「私」はそういうタイプのピアニストではない。「楽器から発せられる音波こそ神聖なものである、と教えられ育ってきた」からだ。とはいえ、自分の録音に耳を傾けると、ピアニッシモになると、かすかに息づかいが聞こえてくる。音楽とピアニストとの深い関わりにおいて、「私」が虚しく探し求めている女性は、「私の精神の縺れ」など到底知るはずもない。「私」は理解したのだ、謎を解く鍵はすべて私の側にあったのだと。
 
 どの楽譜を介在させれば、あれらの日々の私の生活を、読み取ることができたのであろうか?(p.153)

「私」はユングフラウを見渡すスイスの山荘で十数年前のパリでの生活を追憶している。「私自身こそが決断すべき存在であったとすれば、いまや私自身が不確かなものと願ってさえいたあの記述のうちに、死に瀕していた、消耗しきっていたショパンの何を、私は見出そうとしたのだろうか?」当時の私の人生は、「まだ私の知らなかったヘ短調と等価物であった」。あの終結部の異稿は百五十年前から「私」を待っていたのだ。その手稿譜はショパンの友人から私の知らない他の人物の手に移り。ベルリンへ移って、「この曲から何一つ取り出せなかった人々の手によって演奏された。その後に、モスクワに渡り、何人かの臆病で、かつ秀れた、ピアニストによって演奏されたであろう」。そこからふたたびパリに戻ってきて「私」を待っている。「私」はそれに向かって存在のすべてをもって受け入れようとしていたのである。

   八
 
ソランジュ・デュドヴァンという名の娘はジョルジュ・サンドのわがままな娘であったという。執筆で忙しかった母親の代わりに乳母や祖母に養育された。成長し女性的感覚が見え始めると、母親は男仲間から引き離すため修道院に入れた。一八四五年、ソランジュが十七歳になったころ、彼女とショパンの関係は親密になったといわれる。多くの伝記作家は、ショパンとサンドの破綻の原因をソランジュへの愛として描いている。ソランジュにはモーリスという兄がいて、ショパンとの関係は最悪であった。サンドが病弱のショパンに厭き疎んじていたころ、ソランジュはショパンを気遣い始める。ソランジュとショパン対サンドとモーリスという構図ができていたのであった。ソランジュがクレザンジュという彫刻家と婚約したが、ショパンは「知的であるが、厚かましく、我を通す」彼を嫌っていた。一八四六年の夏、ショパンはノアンで過ごしたが、翌年からは招かれなくなった。クレザンジュを快く思わないショパンに、ソランジュは結婚式の招待状を送らなかった。ショパンはソランジュとの交友関係を続行させたくクレザンジュに対する考えを修正しようと努力する。一八四八年九月九日、ソランジュに会うために一通の手紙を書く。

変ロ短調のわたしのソナタ(第三楽章は《葬送行進曲》)をイギリスの友人たちに弾いていたときのことです。突然、ピアノの半ば開いた蓋から、呪われた者たちが立ちあがるのを見ました。それらは、ある陰鬱な宵に、修道院で、わたしの前に現われた者たちです。一瞬、その場をはずすべきでした。が、やがて、何も言わずに、わたしはまた弾き始めました。(p.160)

 一八四九年初めに、ショパンはバラード四番の終結部を書き直した自筆譜をソランジュに贈った。十月十七日にショパンが亡くなる数ヶ月前、健康状態を一瞬取り戻したショパンは多くの手稿譜を焼却するため暖炉に投げ入れた。「おそらくバラードの修正は一八四九年の初めの数ヶ月に成ったと断定できよう」。バラードが自分に献呈されているのを知ってソランジュは喜んだが、終結部の変更を見ていなかったであろう。
 
「私」はレンヌ通りであった娘にソランジュを重ね合わせていた。「人生には、しばしば小説のような奇妙な関係の生じることがあるものだ」。それには、例のロシア人、バラード四番の自筆譜を所有している男の介在がぜひとも必要とされるのだ。
 ある暑い日の午後、「私」の自室の窓辺に凭れ、視線を落すと、偶然にも「私」を見上げているあのロシア人を見つけた。「擦り切れた革製の古いカバンを、彼は両腕にしっかりと抱えていた」。「私」は怖れから身を退いた。カバンの中には凶器がしまわれているのかもしれない。手稿譜などなく「私」から金銭を奪い取ろうとするだけなのかもしれない。しかし不安は一瞬のことで消え去った。「それは、演奏会で、ピアノに向かってすわる、一瞬まえの、あの威厳にみちた、私の姿と同じものでありたかった」。窓辺に進み出て見たとき、男は「私」をじっと見た。「私」はうなずき、階段を上ってくるように合図をする。「私」の少し冷たい態度に当惑した様子であったが、広間に入るなりピアノの譜面台に広げた譜面の「私」の書きこみを覗きこんだ。わずらわしく思った「私」はソファーのある窓辺の方に誘導した。バラード四番が公式に献呈されているのはロスチャイルド男爵夫人であるが、修正した楽譜はジョルジュ・サンドの娘のソランジュに献呈され手渡されたことを男は話し始めた。ショパンは彼女の父親的な存在であった、が彼女が成長してからは紺所の婚約者に嫉妬したりして、近親相姦的な関係にあったし、それが原因でサンドとの関係が破局したことを男は話した。男によると、ショパンの亡くなる一九四九年の初めの二、三ヶ月にバラードの終結部の変更をショパンは決め、衰退した体力をふりしぼって書いたという。「私」はなぜその時期に書いたといえるのか、また男の所持する手稿譜がなぜ本物であるといえるのかを尋ねた。「私」の疑いを見抜いて男は落胆した様子であった。この手稿譜を弾いた人物がいること述べる。それはヴェルトという人物であることをすでに「私」は知っていた。友人のために自分の技を使うことができるひと、つまり「体制の奴隷のような人たち」である。ほんとうにあの手稿譜を読み取ることのできるピアニストは一人もいない。「ソランジュからヴェルトに至る物語」はどのように説明されるのか。ソランジュは一八九九年に亡くなるまで、手稿譜は抽き出しにしまわれていたであろう。一九〇六年、ピガール通りに住むある蒐集家の手に渡り、書籍類は古書店に流れ、手紙類は先述した一通を除いて行方が分からなくなっていた。サンド宛のショパンの手紙はサンドがすべて焼きつくしていた。
 「私」の部屋にいるロシア人はカバン、おそらくショパンの手稿譜のしまわれたカバンを机のうえに置かずに抱えていた。両手を震わせながら心のうちを明かす態度から、「私」は手稿譜が本物であると分かったのである。彼は手稿譜が自分の手もとに流れ込んできた経緯を語り始める。モスクワ音楽院にいた、あるピアニストが奇妙な形で弾いていたという噂が流れた。その三年後には行方不明になった。ソ連崩壊後に、このピアニストについての情報を手に入れていた。その老いアニスとの名は、アンドレイ・カリトノヴィチ。一九四九年に逮捕され強制収容所(ラーゲリ)に送られた。おそらく彼の同性愛の生活が世に知られてしまったためであろう。KGBの文書記録によれば家族全員が強制収容所に送られそこで残らず死亡したと記されている。あのロシア人によるところでは、カリトノヴィチはモスクワ音楽院で重要な役割を果していたが、教授である老ピアニストの愛人であったという。そこで彼はバラード四番の手稿譜を目にしたのであった。あのロシア人はカリトノヴィチをよく知っていて、彼の弾くショパンの作品を聴いていたという。ポーランド人であったショパンはロシア人を侵略者と呼んでいたので、第三帝国の崩壊後しばらくしてベルリンからモスクワに輸送された、赤軍に封印された荷物の中にあったものを弾く仲間たちとの集まりを彼の父は嫌っていたという。

フレデリック・ショパンの、告白しがたい情念の結実である、あのフィナーレの部分を、素晴らしい形において再現できるのは、あなた以外にいないでしょう。(173)

 そういう彼の言葉を聞いて、「私」もまた、「私だけが、自分の掌中にひとつの物語に似た何かを握っていて、それと同時に、人びとからその物語を唯一の方法で完成させるよう、私は求められていたのかもしれなかった」と思うに至る。ふたりの人物。ひとりはロシア人であったカリトノヴィチ、もうひとりはドイツ人のヴェルト。彼らは亡命ホーランド人であるショパンの譜面に、祖国から逃れ出るための慰めを探し求めたとになろう。ヴェルトについてはロンドンにいる友人から詳しく聞いていた。ナチス親衛隊の少佐であり、宮廷のピアニストであった。ベルリンからチリに逃亡し、そこで流布していないバッハやショパンの曲を弾いていたという噂が立ち、コレクターたちが彼のもとに集まったという。一方、カリトノヴィチはどのようにしてショパンの手稿譜を手に入れたのだろうか。あの老教授のために弾いたのか。カリトノヴィッチの欲望の対象が自分になく、彼の所有していた手稿譜にあったことに激怒してカリトノヴィチをソヴィエト警察に告発したのだろうか。差出人不明の手紙で「破壊活動、同性愛、学院内部の健全なる社会主義的環境を損ない、腐敗させようと試みた、怪しい人物」として。例のロシア人もまた老教授の愛人であったので逃亡を試みた。カリトノヴィチが逮捕される三日前に手稿譜をあのロシア人に託したのであった。そのロシア人は「私」のまえにその手稿譜の入ったカバンを持ってきていたのであった。ロシア人の話によると、カリトノヴィチには開けるな、隠しておけと言われたが、逮捕の知らせが届いたときカバンを開けた。「その手稿譜は、深紅色の書類入れに、収められていた。背表紙が付けられ、革の紐で、結ばれていた」という。カリトノヴィチは誰かのもとから持ち出したものであることを理解し、持ち去られた人物は私から取り戻そうとするに違いない。だから自分は危険にさらされているのだと「私」に語ったのであった。しかし手稿譜はカバンとともにロシア人に手に残された。危険はないだろう。なぜなら、カリトノヴィチが逮捕されたのは「近視眼的な道徳精神の嫌疑」からであり、「楽譜の異稿をもとにして、陰謀の嫌疑を組み立てられるほどの能力はなかった」からである。ともあれかれはモスクワを脱出し一九七六年イギリスに亡命、翌年パリへ来たのだ。

私はあのとき、狂気に襲われつつあったのだろうか? もしかすると、そうだったのかもしれない。たしかに、あの錯乱の音楽のなかで、私は心地好さを感じていたにちがいなかった。

「私」はこのパリ滞在時を追憶しそう思った。「私」はあのロシア人から手稿譜を買い受けたのであった。手稿譜がしまわれていることは暗黙の了解ではあったが、あくまでカバンを受け取ることを条件として。彼は架空の物語をし、「私」を騙したのではないかと危ぶんだ。しかし「騙されても、たとえ何ひとつ入っていなくても」、彼の言うように「あのカバンを開けるまい」と覚悟したのである。

  九
 
小説『ショパン 炎のバラード』の第八章は「物質が精神と結びつく一点がある」という一文で始まるのであるが、鍵盤と指との接触がハンマーを通じて弦を打つという単純であるとともに複雑な過程、すべてはピアニストの音楽への考えが反映するものであることを「私」は改めて思いめぐらしている。ショパンが弾いていたころのピアノは現在のそれとははなはだしく異なる。ショパンの構想する音楽は、当時のピアノでは完全には到達できなかったであろう。だから彼の偉大さは楽譜に記された記号によって判断される。演奏者はそれらを読み解き演奏することによって完成することになる。「空白に残された部分」さえ解釈し直さなければならない、物質(ピアノ)の功績によって。
 「私」はエヴゲニーとあのロシア人を呼ぶことができた。サン・ジュリアン・ボーヴァル教会の方へ向かっていこうとする彼を、「私」は窓辺から見下ろしている。「私」はカバンを見みたがすぐに開けずに、ドビュッシーの練習曲やスクリャービンの練習曲、バッハの《平均律曲集》第二巻を弾いた。パリに来て「私のソランジュ」に逢い、手稿譜を手渡そうとするロシア人と出逢うという物語が始まってから一度もバラード四番を弾いていなかったことに気づく。「もしかしたら私は決定版が見つかるのを待っていたかもしれない」。やっと手稿譜を開ける時がきた。ロシア人から聞いていたように深紅色の紙のケースの中に縁の崩れた紙片はあった。額縁に似たデザインの、象牙色の最初のページ。黒のインクで各紙片に三箇所の五線譜が施され、裏面は空白であった。十六枚ある最初のページの中央に表題の「Ballade」という文字と、右手に《ソランジュ・デュドヴァン夫人に献げる》という文字が鉛筆で書かれていた。紙片のいたるところに飛び散ったインクの飛沫。最後の二ページ、十五ページと十六ページ。この手稿譜はコピーではなく、ショパンが続けて書いたものかもしれない。そうであるならさらに別の手稿譜があることになる。訂正があり、躊躇ったあとがあり、取り消されたものもあるならば、さらに別の手稿譜が考えられよう。「私」の手にしている手稿譜が本物であるなら、筆跡からして断固とした気配が感じられる。ショパンは演奏会場で《フォルティッシモ》を《ピアニッシモ》にして自由に演奏したと伝記作家はいう。しかし自分に対して厳格な演奏者でもあった。無用な装飾音などのロマン派の気配は排除し、「正確で、直線的で、しかも明快で、情熱的で、厳格な気配に燃えあがる気配のうちに」、「私」は読み取っていたのである。、死の年、一八四九年の初めの数ヶ月、病魔が彼からを力を奪い、いくどとなく書くのをやめ、ペン先が思わぬ方向へ飛んでしまったことを思わせるインクの跡が読み取れるのであった。最後の演奏会では《ピアニッシモ》で演奏したのは、自分の音楽を解釈し直したからではなく、彼の体力のなせるものであったろう。この羊皮紙に刻印された筆跡に、河川や谷間や高台の姿を探り当てたいと「私」は思う。

 第一一六節の下の、ある一点に、非常に小さな染みを、私は認める。それは、アマランサス(不死の花)の、深紅色か。もしやそれは、血の痕ではないか、と私は自分に問いかける。咳きこんだときに、彼の肺から出たものかもしれなかった。あるいは、その後に、だれかしら私の知らない者が、落とした血の痕かもしれない。(p.192)

「手稿譜にだって、魂はあるのだ」。音符に記された記号には健康状態に偶然支配されたものではなく、一つの強い意志なのだ。さらには音符を超えて意志を伝達しようとする強固な意思だ。愛する女性に献呈しようとするだけではなく「言葉では表現しきれない何かを付加せずにはいられない、気持の表われであった」。その「意志の跡の記号」を「私」は見つめ、「何百年来、コード化されてきた規則の総体」を知るだけではなく、違った方法で「音楽を読み解く」ことを考えなければならなかった。それ以来、「私」は楽譜を見て喜びを感じ、純粋な音楽に変容させることができるようになっていた。今「私」はスイスの山荘で十七年前のパリ時代を思いめぐらしている。「ひとりの人間がすべてを見抜く感覚を備えたと信じるときには、わずかな部分からも、全能の神にまで達するかのような確信を抱くのだ」が、そうではなく、それまで拒んでいた世界に自分が参入したと考えられるのである。音符の群れが小宇宙のようなものに「私」の存在を取り戻してくれる何ものかのうちに変容させてくれると思った。「神の震えを豊かな調べへと移し変えるように用意されて」いて、「神の震えこそ、私たちの精神のうちに、音楽を生み出すのである。ショパンは一人のロシア人とイギリスに住む友人の蒐集家とパリで出会った一人の女性が、「私」を《バラード四番》の高みに達する役割を果したといえる。しかし、「私の音色の根源にまで達したのは私である」。最後の二ページが不意に現われ終わると思われたニ一一番目の小節がフィナーレの序曲であることが分かった。「私」の知らない世界であった。ピアノから立ち上がり、目眩を払うように窓辺に立った。「セーヌ川は流れ落ちる滝のように見え、ノートル・ダム大聖堂の二つの尖塔は、流れから水をすくい出す水車の、羽根のようであった。エッフェル塔でさえ、巨大な鉄の振り子のごとくに揺れ、星座は遠くの宇宙船のように走った」。「私」は「情念の筆跡」楽を読み進むにつれ、ショパンが衰えた体力に抗うように納得できるまで書き加え、取り替えた箇所があった。「まさに戦場のあとのよう」であった。今まで出版されていたバラードの楽譜とは違っていた。「私」はそこに一つの秩序を発見したのだが、清書された楽譜とは違い乱脈であった。贈られたソランジュはどのように思われたであろうか。
 《プレスト・コン・フオーコ》(情熱の炎をこめて迅速に)
「フェンシングの名手が、試合のなかで、あちこちと跳びまわって、剣を操り、巧みにかつしなやかに、相手の急所を突いて、相手の剣と激しく切り結ぶようすに似ている」。「非常な巧みさで、両手は跳びあがり、しかも腕の腱は、激しく張りつめて、指先はときに力強く鍵盤を打ち、あるいはときに優しく、鍵盤の表面を撫でる」。ショパンがこの二ページを書いたのは死の六、七ヶ月前のことで、彼自身はこの部分を弾く肉体的条件にはなかったので、弾けなかったはずである。ショパンは貧しかった。家賃の半分は友人たちが援助した。「ショパンは彼の秘密をどこに隠していたのだろうか?」ドラクロアの手紙や知人や証人たちの言葉によってショパン像は描かれていったが、「真の姿は誰らの目からも、逃げていってしまうのだ」。かれは最後の瞬間までサンド夫人のとこを尋ねていた。しかし彼女は死の直前においても逢いにくることはなかった。
 「死の床にありながらも、神々しいまでに、苦しみ抜いた、寛容な精神の持主」。「愛を拒まれたがゆえに、いつまでも恋々と愛する女を慕い、死の床にあってまで、そうでありつづけては、修復の関係をその娘とはかろうとするような」人物像が多くの伝記作家によって描かれてきた。しかし、「私」はそのような人物とは思わないのである。手稿譜の筆跡は「官能の筆跡」であるが、色彩の豊かな官能ではない。「彼と同世代の気取ったあのロマン主義とは分かちあう何ものもない」。
「何の才能のない人びとのあの集団のなかにあって、ショパンがどれほど耐えがたい苦しみに苛まれていたかを」これらのページを見て「私」は確信した。

 彼女は(サンド)は芸術家などではなかった。彼女のもっていた名高い流麗な文体は、ブルジョワたちの好みに叶っている。愚かで、重々しげで、大変な、お喋り女だ。彼女の道徳観は、門番の女や囲われ者のそれと同じ、繊細な感覚をもっている。(P.206)

右の引用はボードレールがジョルジュ・サンドについて記した文章である。「ある種の男たちが、こういう観念の淀みに陥ることを好む」と書きつづけられているが、ショパンはそのような「程度の低い」男ではなかった。それを教えてくれたのは、「私のソランジュ」、パリで知りえた娘であった。それは周知の物語だ。あのとき、最後の二ページを、「私」がどのような思いで弾き始めたのかを今では思い出せなくなっている。

  十
 
《栄光の孤立》として「私」のような特権的存在を人びとは讃えるであろうが、「老いゆく孤独」を理解しようとしない。かつてのようにショパンを弾くことはなくなった。「年をとるにつれて、身のまわりに生じる事態についての理解は、薄れていく」のだ。人生が意味をもつということを、バッハやモーツァルトは感じさせてくれる。しかしショパンは不完全で時の破片である。「ショパンは未完成の天才なのだ」。その不完全さは弾き手の「命の断片」で補強すべきであるのだが、「私」は老いて扱うことができないであいる。だからバッハに戻ってしまう。いわば「ピアニストたちがたどる老人病の末路だ」。手稿譜を入手したことを告げると、ジェイムズはロンドンから駆けつけた。ジェイムズの機械の一部になったように「無味乾燥」な自分を見出していた。機械の部品が作動しなくなったら、「私の両手は何の役に立つのであろうか?」「私」はショパンやソランジュのことは考えなかったが、「私のソランジュ」(パリで出逢った娘)のことを考えていた。捜し出さなければならないと思うが、「何の役にも立たないことは分かっていた」。この世は休符と不確実の連続ではないか。

この世を後にする瞬間が、やってきたにちがいない、とまで私は思った。地上における私の存在を閉ざす時が来た、と。そして私は思った、この世の生から私はすべてを手に入れたのだ、と。…(中略)…それにしても、私には残せる何ものもなかった。録音したわずかなもの以外には。私には後世に残すべき何の情念もなかった、わが恋人に送るべきいかなる手紙も、おのれの苦い思い出を分かちあう子供すらも。(p.233)

 「私はひとりの演奏家」に過ぎない。「思考に不向きな」、「肉体の労働者」である。そのことが「私」を苛立たせ、それゆえ手稿譜を「解明すべき暗号」のように思いなした。もしかしたら「私」を「落とし入れようとした罠」かもしれない。しかしそのように仮定した自分を笑った。そうされる必要がどこにあるのか。「類似の関係を夢想して病む者」であるなら、「私」の脳髄内に創り出した夢」であるから、外の世界に求めることは必要がなかった。
 九月のある火曜日の午後遅いころであった。フール通りと直角に交差するシェルシュ・ミディ通りを過ぎ、レンヌ通りにあるカフェの角を回った。「軽やかに吹き渡る風に振り返って見た、ソランジュの立ち姿を。彼女の眼差しは「私」の方に向けられていたが、「私」を捉えてはいなかった。「別人であるかのような印象を「私」は彼女に受けた。彼女は私の存在に気づいて見つめていたが、すぐに視線を逸らし遠ざかっていった。ほんとうに彼女であったのだろうか。

私は願ってきた。ひとりの良き技術者として、神の赦しにさえ叶うものならば、首尾よくひとつの物語を生み出すことができて、最後にはあらゆる物をあるべき場所に収めることができますように。しかも完全な形で。あの情念を美しい文字のうちに閉じ込めることを 私としては願ったのであるが、それが確かなものになったであろうか?(p242)

音楽は文学と違い、音によってロゴス化以前の感情を伝えるものであろう、絵画が色彩や形象において感覚に訴えるように。しかし、いかなる分野の芸術家であろうと己の体験や世界認識を受容する作業においては言葉によって思考することに変わりはない。表現手段が異なるのである。小説の主人公である「私」は、文字によって物語を形成しようとする。それゆえに「私のソランジュ」を求めつづける。作曲者はロゴスを音楽にするのではなくロゴスの彼方に現出させるべき音の情動である。演奏者は楽曲の解釈をしなければならないのである。なおかつ再現をする。何を再現するのであろうか。とうぜん作曲者の想いをそのまま再現することではなく、芸術家のひとつの生からそれを超えた領域に向かおうとする精神の躍動を演奏者もまた志向することを意味するのではないだろうか、演奏者もまた己のひとつの生を礎にして。
「私」は故郷での若き日の情事を思い起こす。あの日もパリのカフェで追憶するその日のように雨水がガラス窓を打っていた。十三歳のアンネッタという娘が夏のあいだ、十五歳の「私」に毎日会いに来た。彼女は「私」をカレージに誘い込み肉体的接触を迫ったのであった。そのときと同じように「私」はソランジュを求めていた。「私」はソランジュを連れて家に向かった。「ほとんど無気力にうちに、すべてが終わるのを待つばかりであった」。情事が終わると、「私」は暗がりのなかで、その一部を反芻し、「自分の楽譜を前にして、わが身が吸い込まれていくような身振りをした」。アンネッタがどれくらい自分を求めていたか分からなかったが、大人の男といっしょにいて情事を目撃してから、「自分が慰め者に過ぎなかった」ことを知り、その後「私」は女たちに多くを求めることをしなくなった。しかし、ソランジュは例外というべきであった。なぜ自分の家に戻ってこなかったのかを尋ねたが返答がないことは分かっていた。数時間後に彼女はもう「私」の家にはいなかった。
 失われた女性を懐かしく追想することは「私」を弱くする。「ロマン派の情熱だけが、複雑な記号のシステムである」と知っている。「強烈な音楽性が、玩具のように解体されて、しばしば、単純明快な一連の音符という要素に還元されてしまうから」、「書き記されたページを前にしたときだけ、私は反省という優位を味わうことができた」のであった。
 一八四九年十月三十日朝十一時、マドレーヌ寺院の聖堂でショパンの葬儀が行なわれた。ソランジュは最前列にいたであろう。オーケストラと合唱団が、モーツァルト《レクイエム》を演奏した。さらにオルガン奏者がショパンの二つの《前奏曲》を奏でてから、「第三の《前奏曲》の主題をめぐって、いくつかの変奏を行なった」。《嬰へ単調》ではなかったかと「私」は思ったので、十七歳であった「私」はアルトゥーロ叔父さんの葬儀のときにその曲を奏でたのである。母は叔父との結婚を願ったが、叔父は同性愛者であり不可能であった。叔父を完全に失わないために母は父の愛を受け入れ結婚したのである。叔父は独奏者で母の師であったから、叔父の葬儀に母は「私」が弾くことを望んだのは《前奏曲ホ短調》と《前奏曲ロ短調》であったが、番外として「私」は《前奏曲嬰へ単調》を選んだのであった。「最前列に悲しみに打ち拉がれた母親の姿があった」。ショパンが亡くなったときソランジュは二十一歳であった。彼女のために書かれた《バラード四番》を思わなかったのであろうか、ペール・ラッシェーズ墓地にドラクロアたちが棺を運んでいったときに。アルツーロ叔父は母のために弾いたのであろうか。アンネッタは家畜の通る道から「私」の弾くピアノ曲に耳を傾けることはなかったであろう。しかし、「私のソランジュ」(パリで出逢った娘)は「私」の録音してあるレコードをすべて聴いていた。彼女はショパンを好きでなかったが、彼女は「私」が放置していた足跡を追い探求してみせた。「私」がかつて弾いたドビュシーやショパン、ベートーヴェンのテレビ放送のフィルムを入手していた。実際に聴いたとさえ言った。そのなかの一つにショパンの絶筆といわれる《マズルカ作品六八の四》があったという。そのマズルカも《バラード四番》もともにヘ短調であることに「私」は気づかなかった。マズルカとバラードのコーダとの間にどのくらい差異があるかを、それらの作曲の日時の間隔がどれほど近かったことかを「私」は考えた。「あの瞬間に、私の人生が、ヘ短調のなかを突っ走っていた」ことを思い、「遥かに遠く離れた物語のいくつかを、あのように一つにまとめることが、多くの物事を知る人間たちの特権の一つであり、充分に承知したコードを介して世界を読み解き、一つの言語を導き出して、そこにさえ、存在しないと思われる文字を、そしてたぶん存在しなかった文字を、解読してみせようとするのだ」。改めてアンネッタの官能を、ソランジュの肉体を感じ始めたのであった。

  

小林稔第7詩集『砂の襞』思潮社2008年9月25日刊からの一編。

2012年04月01日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』
小林稔第七詩集『砂の襞』(思潮社刊)2008年から


オルフェウス日録



   一 詩人と竪琴

夕暮れは世界の終わりである
靴音を響かせるアルハンブラの水音
黎明は新たな苦悩の始まりであるか
イスファハン 見えない神の気配に触れる王のモスク
細胞のように増殖しひろがる雑踏 カルカッタの夜よ
旅から知りえたものは ただ事象のむなしさである
地獄を歩く自己を見出しつづけなければ
私はたちまち解体するであろう
今日も竪琴を黒い棺に横たえ 象牙の鍵盤を叩く
舞いあがる音で室内を満たすポロネーズ律動
ひとり作曲家が夢想し 足もとに織りなした
いく千もの泥の靴に踏みにじられ 浮き出る
花びらの舞い散る絨緞に 足裏を据えて
彼が命を代価につかんだ世界への共有である
音符の森に眼差しを疾走させる私は
死者を呼び寄せるひとりのオルフェウス
空の青から光の矢が心臓を刺し留める
雪崩れながら音の階梯を 乱反射する右指の打鍵
地上の廃墟に 片腕を亡くした神神の列が風を仰ぎ進む
非在への陶酔に抗いがたく私の手はとつぜん動きを止める
室内の余白を消えゆく音の沈黙で満たし始めると
不運に見舞われた私に 逆境に立ちはだかる私に
ポエジーとロゴスの結びの糸が舞い降りるのだ



   二 譚 

かつて降りしきる雨を いくすじもの線で描いた絵師がいた
かつて世界を 一冊の書物に書き著そうとした詩人がいた
ふと眼にした一葉のアフリカの邑の写真
土の家が並んで建ち 背後には 
植民地時代に造られた西洋風の建物
腰布を巻いた男たちが屯してこちらを見つめている
旅人のほんとうに見た邑は
かつて見た写真の記憶に場所を空けられるであろう
旅には帰還があり 人生には終着駅がある
喜望峰という名を呼べば胸騒ぎがして
えもいわれぬ感動を抑えられず
北に象牙海岸を辿れば
燃える赤道の帯は陸揚げを待つ奴隷船に焼印を押す
東にシナイ半島の無人地帯
さらにアラビア半島を辿れば
うしろ髪曳かれる地獄に
いくたびも甦る己を見出すだろう
書物からの追憶であれ 足裏の記憶であれ
片雲の流れのままに
旅のさすらひをさすらわせる
旅とは過ぎ去った時空への追悼である
忘却の辺境よりさまよい出た記憶は
亡くした青春と引き換えに
言葉の相のもと 永遠の生をきらめかせる
われら創造に与する者に老いは喜ばしく
虚無に身を投げ打つことも辞さないだろう
世界の形象と引き換えに


  
  三 伽藍

朝霧が山を降りて
家家の軒下を走り
阿弥陀の道という道
行商を迎える街道に流れこんだ
そびえ建つ 塔また塔と
翼のような三層の屋根瓦を這い上がる
数百の窓のある王宮 その内部は夜をはらんで
数百の歳月をひたすら老いつづけた
ある者は塩を担いで北から来た
ある者は絹を売りに西に向かった
ある者は胡椒を求めて南を訪ねていった
ある者は経典を抱えて東へ旅立った

道の終わりにして始まりである
王宮広場の透視図法 あるいは伽藍配置
陽光が水汲み場の石段に影を曳いて
僧院の白壁はいっそう清廉をきわめる 
いまひとり異邦の旅人が道の終わりに立ち
矩形の中庭に眼差しを遊ばせると
語られなかった言葉がいっせいにひしめく
たわんだ帆布が宙に舞い上がり
記憶の余白に
彼方の港市から潮が流れこむだろう
われら空より誕まれ 空をさすらひ 
空へ逝く者の 無為なる時の永からんことを

 
  
  四 汝自身を知れ

アポロンの神託から遁れようと
コリントスの父母から去る三叉の辻で
四人の護衛と仔馬の引く車に乗る 老いた男に逢った
両者道を譲らず 殴り合い殺したその男が父親であると
あなたには どうして知りえたであろう
テーバイの王となるべきオイディプスよ
父を殺し母と交える という忌まわしい神託に
遠ざかることで近づきつつあった あなたの若い裸の背に
ぴたり運命の女神モイラが貼りついていたことを
あなたの視線は 真昼の光線で気づくことはなかった
(絡んだ糸がほぐれ 記憶に影が陥れられていく)
デルポイの神殿の石に刻む「汝自身を知れ」とは
明かされずにいたあなたの出生のこと
予言を避けるために あなたが別れを告げたのは
ほんとうは血を分けた者たちではなかった
みずから呼んだ闇の視界にさえぎるのはキタイロンの山
無垢な笑みを浮かべる幼子のあなたが棄てられた古里のこと
不運から一歩も譲らずに神神と闘ったゆえに
王となったあなたの 人としての尊厳は貫かれた
裁く者にしてみずからが裁かれる者
くるぶしが抜かれたオイディプスよ
今日 あなたの嘆きはすべての人の嘆きである
デルポイに咲く野の花におおわれた丘の傾斜
神殿の廃墟から 神神は星辰に還りついたが
運命の女神モイラは 生き延びた地上で
さまよえる旅人であるわれらの背に
忍び寄ろうと待ち構えている



   五 旅の詩法

岩陰から躍り出た男と私は
向かい合わせに川を越えた
男が跡を残した道を私が辿り
私が残した道を男は引き継ぐのだ
――文明の匂いがしてきた と西に向かう男はいう
水のない川から十数メートル上方の
岩壁のたなごころで 少年が釣り糸を垂れている

私の向かった東では
国境を越えてきたバスの車窓に 少年たちが群がって
なりわいのため両替せよと 札束を叩きつけた
太鼓と弦の打ち鳴らす音が 砂地を這う蛇のような
声の旋律とからんで 旅を憂える青年の私がいた
地の霊に牽引された群集は 路地から路地を駆けめぐり
死を静かに迎える老人を取り囲んで 姻族たちは
中空に視線をさまよわせ 嘆いては胸をかきむしる
真鍮を叩く音が規則的に空に響く大通り
灼熱で足裏を焼かれた惰眠の群衆を覚醒させ
きんいろの光の針を乱反射させ 水辺に魂たちは憩う
焔に包まれた死体が噴煙を上げるパトナの岸辺から
川を渡り夜行列車に揺られつづけて未明 
湿地帯から神神の住まう山岳への勾配を
私とリクシャの男は昇りつめた

私の若年を襲った心の飢えに癒しは訪れることなく
(人生こそが旅であると諭される なんという苦い認識だ)
時の流れが水かさを増して 私は手足をもぎ取られる
事物は砂粒のようにざわめき 私に書記になれという
旅の道の輪郭に虚構の線を入れよ 新しい旅の門出に
鉛の夜に沈んだ記憶の淵から 根のように枝分かれした道
机上の水晶球に写して 白昼私は眺めている
定住は人間を堕落させると かつての私は考えたが
たれひとりさすらひを遁れた者はいない
神と祀られた王の骨は盗賊に運ばれ
永遠の命は行方不明