ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

鮎川信夫研究・「ひいめろすの会」・個人詩誌「ヒーメロス」7号からの転載。

2012年02月08日 | 鮎川信夫研究
鮎川信夫研究『ヒーメロス』7号2004年発行に掲載した記事
小林 稔

平成十五年九月十四日天使舎
第十二回ワークショップ「ひいめろすの会」からの報告

鮎川信夫研究
 吉本隆明は「戦後詩の体験」で戦後詩を次のように述べている。
「戦争がもたらした破壊と、生命を剥奪される実感に耐えて生き、そのまま敗戦後の荒廃した現実を体験せざるをえなかった意味を、内部の問題としてつきつめることのなかった詩人に戦争詩人という名を冠することはできないだろう。戦争と戦後の現実体験を内部の問題として罪業のように、とにかく未来にむかって歩みはじめねばならなかった詩人たちによって、推進されねばならなかった」という。前回でも言った戦前のモダニズムとプロレタリアの不完全さをどう克服すべきかが課題であったのであり、それはとりもなおさず明治以後の近代文学全般の問題にかかわるものであった。「
 ところで、吉本は「現代詩批評の問題」で、詩の批評が小説の批評のように文芸批評家によって「はっきりとした批評的な自覚のうえに立って照らし出された」ということがないのはどういうことなのかを論じている。「詩の表現上で、コトバの格闘を余儀なくされて、形式と内容とが、分裂の危機にさらされたとき、はじめて詩と小説の概念が分裂し、和解しがたくなったのだとかんがえられる。」後期象徴派の「詩の思想性を言葉の格闘の面から獲得しようとした時期」「昭和初年、ダダイズムやシュル・レアリズムの影響下に、現代詩が手法的な試みをつきすすめた時期」に決定的になったという。後期象徴派以来、詩が文学全般から隔絶された事情を、「日本の現代詩が、衣裳やイデオロギーの転写ではない、真の意味の思想性を獲得するためには、内部世界と、外部現実と、表現との関係についての明晰な自覚が必要である」のだが、「この問題をコトバの面からの格闘によって解こうとした日本の詩人たちの態度に原因がある」とし、以後も続いているのではないかという。そして「荒地」グループは、「主体的態度の尊重、現実体験の内面化、表現領域の拡大によって、いわば小説の世界と独立に、戦後文学の課題を共通に担っているといいうる」と主張する。
 今回は鮎川の詩、「繋船ホテルの朝の歌」と「死んだ男」と「秋のオード」「アメリカ」「アメリカ覚書」などを小林が朗読した。鮎川のいくつかの詩に触れた時、思想的な詩だけでなく、抒情詩の系列の詩があることに驚く。吉本は次のように解説している。「詩への願望という意識下を軸にとってみれば現実的な上辺に、自我形成の黄金時代である戦前の下降期文化にたいする郷愁のようなものがあり、戦場の体験があり、戦後革命勢力にたいするアンビヴァレントな反応があり、下辺には母や姉にたいする近親相姦的な執着があり異性にたいする童姦性の愛憎がふかく埋没されていて内部世界の性格を決定している。」(「鮎川信夫の根拠」)また別のところでは、「姉さんごめんよ」という詩では「極限の体験から生き残ってしまった自己の象徴を、一人の男と近親の異性という微妙な設定の仕方が、なぜ必要だったのか。たぶん、ここで幼児期の体験を反芻している。幼児の心の戯れを、ひとつ残しておいて、戦争をくぐり、無理に喪失させられた青春の生が、どういう位置にあるのかを、確かめようとしている」(同書)と述べている。
「繋船ホテルの朝の歌」では恋人である女性が出てくる。
「荒廃した現実、希望のない未来、とじこめられた敗戦日本のいきぐるしさ、こういう一切から逃れたくて、死に疲れた女と、どこか遠い世界へゆきたいと願いながら、けっきょくは安ホテルで一夜をあかし、女とむかいあって白けきった朝食をとる、そういう個人的な体験をとおして、戦後日本革命の敗北してゆく現実へ、内部世界をおしひらいてみせた記念碑的な作品である」(「鮎川信夫論」)と吉本は言う。これ以上付け加えられる言葉がないが、一時代の歴史的体験を超えて、戦争の体験を持たない私にも、詩というものが絶えず内包している「根源的な喪失感」に訴えるものがある。かつて吉本は四季派の詩と戦後詩を比較して、「永続的な意味で詩的なものが含まれているかは疑問である」と言ったが、この鮎川の、極めて個人的なものに題材を求めた詩が、普遍的な詩の概念に関るところのものとは、「喪失感」であると私は思っている。詩の本質を追い求めた時に必ずや問題にされる中心的なテーマになると考えられるがここではこれ以上論じることはしない。
 さて、戦前、モダニズムから出発した鮎川が、「囲曉地」という詩を書き始めたころから、倫理的要請が彼の内部で生れ始め、戦争中、戦後と一貫してそれは存続し続けたと吉本はいう。
 瀬尾育生の二〇〇一年十一月号の現代詩手帳に発表された論文「もう一人の<内なる人>」によると、「鮎川信夫は戦争期を、閉ざされた内部に明晰な密室をつくるというヴァレリー的な方法によって通過した。」「だが自らの肉体をやがて戦場に赴かせようとしていた彼ら(サンボリストやモダニズムの詩人たち)にとって、この無償性の理念は十分な支えを与えなかった。」「エリオットがそうしたように、詩は社会に対して抵抗して生きることを強いられた人間にとって、何らかの有償性となるべきものだ」と考えたという。社会に対して「内的に同調しない」という抵抗を示し、「死者たちとの関係だけを拠り所にして、戦後詩の公的な場面に姿をあらわすことになる」。鮎川は、西欧の知識人が第一次世界大戦後に考えたことを、日本の戦後に語ろうとしたのである。「戦争期の体験が中世的な原罪の観念にまでつながるような射程のなかで考えられた」。しかしそれが敗戦後の日本で語ることが「いかに伝磨性を欠くものであったか」を悟り、以後「詩の理念の中に移されるのである」。『何処へ持っていっても変色しない美と真実を示すことによって、全く新しい共感の社会を創り出すこと』。(鮎川)このような詩の理念からすれば「内的世界を棄てて集団性や共同性へと逃亡したと考えられる詩人たちの責任を」鮎川は問うことになった。
 鮎川の一貫した主張は、戦後の混乱した思潮の中で孤立させ社会との接点を喪失してしまうことになったのである。『私の発言の根底には真の意味での連帯感がなく、その歪んだ戦時体験には、ほとんど伝魔性がないことを自覚していた』(鮎川)彼は民衆に対して自分は詩を書くという一点において優位性を主張した。そして吉本の戦争責任論から鮎川との差異を瀬尾育生は論じている。「吉本が戦争期の詩人たちを批判することができたのは、彼がそれらの詩人たちと同じ過程を生き、同じように汚れ、彼らに対する批判を自分自身がその一部であるような存在に対する批判として成り立たせることができたからである」と述べている。
 鮎川にとっての先行世代の詩人たちは、モダニストであったり、プロレタリア詩人だったりしたが、彼らは戦場に行く経験をもたなかった人たちである。愛国詩を戦時中はさかんに書き、戦後は謝罪し、戦前のモダニズムやプリレタリア詩に戻って行ったという。しかし鮎川は、彼らは「嘘や偽りで戦争詩を書いたのではない。」彼らの愛国心は「正真正銘のものでした」という。瀬尾は「彼らの詩にはこのときはじめて、現実と出会いうる構造、現実に裏切られれば傷つくことのできる構造が生れた」と述べている。したがって、「彼らが戦争詩を肯定し、そのうえに否定を重ねていけば、鮎川との対立は「闘争の場所となりえたかもしれない」ともいう。しかし現実には彼らは謝罪し戦前の言語芸術に戻ってしまったのである。「近代以降の日本の詩を、深い層からあらたに取り出される連続性の上に立てるための、彼らに与えられた唯一の機会だった」とする。
 以後、現代詩の詩人は孤立したまま、対立を避けたままになったのである。鮎川にとっても私たちにとっても、また日本の現代詩にとっても不幸なことであった。鮎川の戦争責任論と吉本のそれを比較し、今後考え論じなければならないテーマではないだろうか。
 戦後詩はほんとうに終わったのだろうか。社会に対立して詩人の「内的次元」を追い求め、つまり超越的なものにポエジーを追究し続ける立場と、「権力や国民の意志の大きな変動に遭遇して、一人の人間に大きな変容が強いられる時、その人間のなかで、内的な連続性と、同時に起こるその切断の相とを、衝突させ」「否定された自己にあえて権利主張させることによって、より深い層から現在の自己へとつながるもう一つの連続性を手に入れることができる」立場があることは、いまだ継続している問題であろう。

戦後詩を読む・「ひいめろすの会」『ヒーメrス』7号2004年からの転載。

2012年02月07日 | 戦後詩を読む
個人詩誌「ヒーメロス」7号(2004年)からの記事
小林 稔


第十一回、詩のワークショップ「ひいめろすの会」平成十五年八月天使舎の報告

戦後詩を読む
 今回と次回で戦後詩を読み、明治の「新体詩抄」から出発した近代詩の概要を終える。われわれは「現代詩の源流を求めて」というテーマのもとで詩の歴史を辿ってきたのであるが、戦後詩の定義とは何か、を考えてみた場合、おそらく戦後詩の終わりを想定しなければならないだろう。九十年代にあわられた詩人たち、野村喜和夫と城戸朱理の編集した「戦後名詩選」(思潮社二〇〇〇年発行)の解説、「戦後詩展望」(野村)によればポスト戦後詩と呼ばれる八十年代までとする。戦後詩の始まりはもちろん第二次世界大戦後の「荒地」からである。今回、戦後詩を読むうえで、吉本隆明の「戦後詩人論」をよりどころに考えてみることにする。
 吉本によると「日本の戦後詩は、まず、戦前のモダニズム詩とプロレタリア詩の欠陥を、どう克服するかという課題を技術と内容の両面から解決することを強いられた」という。近代詩の出発から引きずり、いまだ現在においても影を落としている課題である。言い代えれば「自我意識を現実経験によって深めながら、そこに詩の態度をすえ、しかも如何にして日本の表現にまつわる非論理性、平板性、無思想性を超えうるかという点」に「荒地」の詩人たちは努力したということである。結果として残した「最大の功績は、内部世界と現実との接触する地点で、未だ、無限に詩の表現の領域が存在していることを啓示してみせた点にある。日本の現代詩は、内面性を拡大したことは疑いを容れない」と吉本は分析する。
 グループ「荒地」は、昭和二十二年、鮎川信夫を先導者として詩誌「荒地」を創刊し、参加者に、田村隆一、黒田三郎、北村太郎、木原孝一、三好豊一郎らがいた。今回は、七十年代に詩を書き始めた私「小林」が、多少慣れ親しんでいた田村隆一の詩を会員といっしょに読み進めた。詩が垂直に屹立している印象を当時、強烈にもったように思う。一般的に言って、詩人の感じたものを言葉にする詩ではなく、言葉そのものが前面に押し出されている詩であって、傍若無人であった私に、ある種の「かっこよさ」として映っていたものであった。今回「幻を見る人」を朗読した。再び吉本の分析を引用させていただくと、「十月の詩」に対して次のようにいう。「意味はそのまま内部世界の様相としてあらわれ、メタファは一義的に確定している。自己の内部世界と表現との関係について明晰な省察と位置づけが行われている。日本の現代詩が、衣裳でない、真の意味の思想性を獲得するためには、内部世界と、外部現実と表現との関係についての明晰な自覚が必要であった。」このように書き出して私は、詩というものの普遍的な定義に触れている、これからもほんとうの詩はかくあるべきであろうという想いに駆られたのである。
「荒地」に少し遅れて「列島」の創刊が昭和二十七年に行われた。野間宏、長谷川龍生、井手則雄、安東次男、黒田喜夫、関根弘らが主要メンバーであった。「荒地」が「モダニズムを継承することによって反モダニズム」(吉本)であるように、「列島」は、プロレタリア詩運動を継承し、その欠陥を乗り越えようとしたと言えよう。戦前のモダニズムには、大正十三年、野川孟・隆兄弟、安西冬衛、北川冬彦がいる。シュールレアリズムに引き継がれ、北園克衛、稲垣足穂、さらに引き継いで春山行夫、北川冬彦、西脇順三郎らが、昭和三年創刊した「詩と詩論」があった。プロレタリア詩では大正七年創刊の「民衆」があった。福田正夫、白鳥省吾らがいる。大正九年、根岸正吉、伊藤公敬の「労働詩集・どん底で歌ふ」に始まり、「文芸戦線」が大正十三年に創刊された。中野重冶、西沢隆二、伊藤信吉らが後に「プロレタリア詩」を刊行した。吉本が最も関心を引くという、昭和初年の不定職インテリゲンチャの詩人たち、小熊秀雄、岡崎清一郎、山之口獏、草野心平らの動向もこれらと関連して興味があるところだが、今回は省略し別の機会に譲ることにした。
 先に述べた「戦後詩選」の野村氏の解説によると、情報化社会は「言語の砂漠化」へ進んでいる、意味の表層化が見られ、そのような意味でも、「数行の言葉が世界と釣り合ってあやうくバランスをとっているかのような」戦後詩は人々に必要とされ、世代を越えて変遷していった詩が一巡(詩の領土の回復とその限界地点、脱領土化)を終え、絶対的な始まりに向けて「ポエジーを再び産み出そうと試みる」ことが二十一世紀の現代詩の課題」であろうと述べている。
 われわれの「ひいめろすの会」の二回目で、「現代詩はなぜ一般から敬遠されるか」を考えた時、「四季派」の詩人たちとの比較で、戦後詩の存在が大きく関与していることを了解した。「観念の動きについても、初発の自然性にすべてをゆだねてしまう」(吉本)ことで大衆性を獲得した四季派の詩人に比べて、「現在の重さのために詩において永続的なものからそれていかざるを得ない運命を、不可避的に辿らされているのが戦後詩人の生きざまである。」(吉本)思想性を打ち出した戦後詩とそこから変貌していった現代詩が、一般から難解ゆえに敬遠されてしまったのではないだろうか。結論として言えば、四季派の「現在性の欠如」と戦後詩の「永続性があるか否か」という問題が今後問題になるということでもある。先にも述べたように八十年代に入って、戦後詩が終焉を迎えたという認識が流布されている。言わば古典という位置を獲得したということである。「永続的に流れる時間的なものとそれから滞留する現在的なものの二重性がいつでも生きていなければならない、ということが詩とは何かの問いである」(吉本)とするならば、現在の詩人が選択するであろう経緯に関る問題である。次回は「戦後詩を読む」の第二回、鮎川信夫の詩を読み、戦後詩の今日的意味について考えてみましょう。




西脇順三郎研究・ワークショップ「ひいめろすの会」からの報告・『ヒーメロス』7号

2012年02月06日 | 西脇順三郎研究
個人誌『ヒーメロス』7号2004年発行に掲載された記事より(無断転載禁止します)
小林 稔

第十回詩のワークショップ「ひいめろすの会」報告
平成十五年七月十三日・天使舎・午後一時半から五時

西脇順三郎研究
 (覆された宝石)のような朝
何人か戸口でささやく
それは神の生誕の日  
          「天気」

黄色い菫が咲く頃の昔
海豚は天にも海にも頭をもたげ
尖った船に花が飾られ
デイオニソスは夢見つつ航海する
模様のある皿の中で顔を洗って
宝石商人と一緒に地中海を渡った
その少年の名は忘れられた
麗な忘却の朝 
          「皿」

 十代ももうすぐ終わる頃、私は「アムバルワリア」に収められたこれらの詩に触れて、新鮮な驚きを覚えた。文学臭を毛嫌いしていた私は、なんとも自由な精神の羽ばたきを感じたように思う。振り返ってみれば、自然主義的な文学表現から無縁な明るさを感じていたのかもしれない。ランボーの「イリュミナシオン」のいくつかの詩篇にも同様のものを感じた。それから三十年以上の時が流れ、西脇の詩が現代詩にどのように貢献したか少し分かってきた。
一八九四年一月二十日、新潟県北魚沼郡小千谷に生れる。代々っ縮問屋を経営し、反物を主に京都の商人ととりひきをしていた。明治十三年吉郎右衛門が金融会社をおこし明治二十六年小千谷銀行の当主に父がなった。「中学時代、興味があったのは絵画であって文学ではなかった。唐詩はすばらしいものだと思い、詩という文学は美しいものであると思った。十八歳の時、英詩で詩を書こうとした。日本語で詩を書くことは、古めかしい文学語や雅文調でなければならないと信じていた。それを打ち消したのが萩原朔太郎であった。」このように「脳髄の日記」で記している。朔太郎の影響は、一方では三好達治を生み、もう一方では西脇を生んだと篠田一士はいう。このモダニズムの巨匠、西脇順三郎は現代詩史としてどのような位置に置かれるべき詩人なのか、吉本隆明の評論「抒情の変革」を紐解いてみよう。
「第一次大戦後の西欧のダダイズムからシュル・レアリズムへいたる手法の、影響下に出発した日本のモダニズム詩運動は、日本近代詩の詩的土壌に根をはった自然主義的な抒情に対する徹底的な反逆をめざしてはじめられた」。昭和三年、「詩と詩論」の創刊から昭和八年の廃刊まで、西脇順三郎、北園克衛、村野四郎らは「詩はコトバの芸術性を主体とする春山行夫がしいた軌道をたどったとみることができる」「詩をコトバの芸術だとする考えをおしすすめていけば、現実体験の意味は詩の表現から切り捨てられ、現実はただ素材とか風俗感覚としてしか詩のなかに入りこみえなくなる」という。西欧のモダニストについては「彼らも詩をコトバの芸術として、意味や思想性を追放することによって、内部世界と外部現実とのかかわりあいの問題を詩の表現から追放した。しかしそこに一定の方法があり、その超現実には、あきらかに内部の現実意識による裏うちがあったため、社会的危機の表現でありえた。詩の表現から、意味や思想性を追放するためには、内部世界と現実世界との対応性がはっきりと前提されていることが必須の条件であった」といい、対照的であったプロレタリア詩を「詩を意味の文学と考えた」といい、この観点から分析している。結局「プロレタリア・レアリズム運動は、詩人の内部世界の論理化と外部現実の論理化との対応を、はっきりと追及しきれない政治の優位性論にひきまわされ、主題の積極性と政治的情緒とのあいまいな混合物を、文学的意味と政治的な意味との未分化な矛盾、同居のまま、呈出したということができる」その後社会情勢の変化により両者とも消滅する。要するに、内部世界と外部現実の対応性がつきつめられなかったことが問題であったということである。両者の衰退の後、「四季」派の抒情詩が受け入れられていく。「現代詩がコトバの芸術性と意味の文学性を過度に削り取られたあとの、混合された内部世界と現実世界が、消極的にあらわれたものだと理解することができる」という。この三つの型、つまり、モダニズム詩、プロレタリア詩、「四季」派の抒情詩は、戦後の「荒地」グループ、「列島」グループ、「第三期の詩人たち」に対応するというのだ。次回と次々回に戦後詩を取り上げるのでここでは立ち入らないが、吉本は「荒地」において、「日本の詩が如何にして思想性をもちえるか」という後期象徴派以来の課題に一歩が踏み出されたとしている。また前回取り上げた金子光晴をモダニズムとプロレタリアの融合をわずかに成しえた詩人として別の論文で述べている。
 さて西脇の詩について少し立ち入ってみたい。彼の詩法の根幹をなしているのは、ベーコンから学んだと自ら述べる「自然がむすんでいるもの離し、離しているものを結びつける力をいう」。これは彼の想像力についての定義である。「昔からすべて詩的表現方法というものは、ものを表現するのにたとえていったり、形容したりすることであった。そうしたたとえ方は超自然的にした方が効果的であると教えた。ようするに象徴の形式をとれということである。」ロマン主義的美の原則、「連想上の存在として遠い二つのものが連結されると考えられる」という考え、ボードレールにおいては「イロニー」ということだという。さらに進んで、「相反する」という関係をも超えてイメージ自身をつくりあげようとする。何も象徴することもないイメージこそ「最大な詩の世界の産物である」という。「詩の世界が構成されるのは脳髄の中である」「意識の流れ」という方法が好きで、「これは違った二つの世界の外面と内面の世界が連結されるからである」と述べている。(ジョイスを思わせはするが決してプルーストを連想させないことは今後考えなければならないだろう。)ここで朔太郎の時に取り上げたイマジズムを思い起す。何ものも象徴することのないイメージそのものが現出する世界である。ところでロートレアモンの詩句を引用したシュルレアリスムの理論「手術台の上でミシンと蝙蝠傘が出会う」を思い起してしまうのだが、ブルトンから感じる現実意識が西脇には完全に欠落しているのだ。これは吉本隆明の指摘した「現実意識による裏うち」が欠落しているという主張である。もう少し西脇の言うところを考えてみよう。「詩の情念で説明すれば、詩は存在自身の淋しさである。自然、すなわち人生の淋しさである。その淋しさは恋愛の淋しさである。詩の術は恋愛をかくすことである。恋愛でないものに恋愛の淋しさを感じさせるように作る詩人は立派な詩人であろう。」「それは無の淋しさであろうか。淋しい心をもつ自分を慰めようとする。これはアリストテレスの言うカタルシスの論である。」「アムバルワリア」で西欧に近づいた彼が、「旅人かえらず「近代の寓話」になるに連れ、東洋的なものに回帰していくことを考えるならば納得される。シュルレアリスムを生き方の変革と考える私から見れば、西脇にはシュルレアリズムの影すらないといえよう。詩人の内部世界が現実意識と表現において結晶したのが戦後詩の一部の詩人であった。しかし戦争という外的要因によって引き起こされたもので、戦争の傷が癒されれば解体していく必然であった。今の現代詩を目にすれば理解されることである。次回からの戦後詩のテーマである。最後に、西脇のいう「人生派の詩人」と「理知的な虚無の詩人」の二極分裂は現在でも見られる現象である。ほんとうの詩人においては両方が内包されていると言える。萩原朔太郎と金子光晴という二人の詩人の存在を知ることで理解されよう。ノサックの「文学という弱い立場」という書物から引用して終わる。(中野孝次「金子光晴」の中で引用されたもの)

「あらゆる芸術作品、あらゆる書物は、常に一つの革命的な行為なのだ。文学は常に一つの新たな開始であり決して継承ではありません。文学が革命的なのは、それが常に制度的なものに反対して生命あるものを擁護するからです。常に過去に対して現在を、真理のドクマチックな所有に反対して真理の探究を、既成の解答に反対して問いかけを、常に人間を社会的な商に下落させることに反対して人間を擁護するからです」

金子光晴研究・ワークショップ「ひいめろすの会」の報告・『ヒーメロス』7号から転載。

2012年02月05日 | 金子光晴研究
金子光晴研究
小林 稔


2004年個人詩誌『ヒーメロス』7号に掲載


平成十五年4月19日「ひいめろすの会」報告
金子光晴研究第一回
 四回に亘り萩原朔太郎の研究をしてきましたが、朔太郎がいかに日本近代詩にとって重要な詩人であるのか解っていただけたでしょうか。今回から、もう一人の大詩人、金子光晴を考えてみたいと思います。吉本隆明によれば、昭和初期のモダニズムの詩人たちは「高度化した社会のメカニズムを生活様式、社会様式の変化として感受したが、詩的現実の世界を生活意識からはみ出させようとしなかった。それが日本のモダニズムの特色であった。その中でももっとも優れた詩人に西脇順三郎がいる。現代詩はモダニズム派とプロレタリア派に分けられ結合することはなかった。しかしそれを試みた詩人に、中野重治、北川冬彦、金子光晴がいる」といい、そして金子光晴については「西欧近代主義の骨髄を自身の実生活の意識と結びつける契機をつかんだ。社会に投げても通用しないが、自身の内部で充分に熟知された化物のような観念を持っていた」という。このことを彼の生涯を読み解きながら考えてみようと思います。新潮日本文学アルバム「金子光晴」という書物から、彼の生い立ちの概略を見てみましょう。明治二十八年(一八九五年)十二月二十五日、愛知県津島市、大鹿和吉と里やうの三男として生まれた。今年は日清戦争に勝利し帝国主義の基盤を得た年である。生後二年にして父は事業に失敗し、建築業者清水組の支店長金子装太郎の家にもらわれていく。六歳の時、正式に養子として入籍。養父の転勤にともない、六歳の時に京都、十一歳の時に東京と移り住んだ。十七歳のころ文学に熱中する。ニ十歳の時、肺尖カタルを患った。こんな時、保泉兄弟と交際が始まり、フランス文学へのあこがれを抱く。ヴェルレーヌやボードレールの耽美的世界にひかれた。二十一歳の時、養父が胃癌で死去。遺産二十万円(現在の数億円)を養母と折半する。二十四歳の時に第一詩集「赤土の家」を出版するがほとんど反響がなかった。出入りの骨董商から欧州の旅に誘われ一回目の洋行に踏み出す。神戸よりロンドンに着き、ベルギーに渡った。一年半の滞在。この時期が金子にとって静かで充実した時であったという。この時に書いた詩を帰国後まとめ、詩集「こがね虫」を刊行する。二ヵ月後に関東大震災が起こった。翌年、森三千代と結婚。二十九歳。昭和三年、三千代といっしょに東南アジア、ヨーロッパの放浪の旅に出る。西欧諸国による苛烈な植民地支配の暴力にあえぎ虐げられた東南アジアを、キリスト教文明の過酷な収奪を目の当たりに見る。世の中の底辺にいる人々と同じ視点に立ち世界を見つめ、国家権力への批判精神を学んだ。昭和七年帰国。日本は植民地政策へと向っていた。昭和十二年、詩集「鮫」を刊行。戦争が終わると日本人はたちまち民主主義者になった。金子は抵抗詩人ともてはやされるが深い疑念を持った。詩集「人間の悲劇」自伝「詩人」詩集「非情」などを出版していく。七十代後半になってから、四十年も前の外国放浪体験を書き始め、自伝三部作として「どくろ杯「「ねむれ巴里」「西ひがし」を出版する。散文の白眉と評されている。
 さて、西欧近代主義を非情、野蛮と見なし、帰国後の軍国主義の道を走る日本にも同化できない彼は、どのように生き詩を書き続けたのであろうか。彼の詩を読みながら考えていくことにしよう。
 二冊目の詩集「こがね虫」で金子は詩人の地位を得たといえる。長い自序がつけられている。ボードレールの「旅」の詩を引用。
Mais les vrais voyageurs sont ceux-la seuls qui partent pour partir:….だが、ほんとうの旅人は旅立つためにのみ旅立つ人である。この詩句をまねて金子は「まことに、夢見るために夢見る者のみが、真実の夢想家であろう。」と書き加えている。
この詩集を要約すれば、日本の現実から可能な限り遠い青春期の夢の世界なのである。もちろん金子光晴という詩人はこういう詩を書いて世に名を記す詩人ではない。プロレタリア詩人にもあがめられるほどの詩人である。この詩集に著されている青春の誇り高い華麗な世界から地上に堕ちてきたところに驚きを禁じえない。彼をそうさせたのは関東大震災であった。中野孝次は「金子光晴」の中で次のように書いている。「こがね虫」の世界の成立そのもの、社会も他者も自然も排除して成立させたあの抽象的、人工的、高踏的な「美の殿堂」そのものが、結局はここで手ひどくそのしっぺがえしをくったのではなかったか。彼はいまや覆う何物もなく、裸で、ふるえながらその外界のきびしさに身をさらさねばならない。彼がよく知っているあの日本人の世界に直面しなければならない、と。つまりはこの詩人に生きることの厳しさを徹底的に与え、そこから這い上がらせるために、「こがね虫」の他者を破棄したナルシシズムの陶酔が必要なのであった。中野孝次は先の評論でまた次のようにいう。「詩的世界の自立性を信じ、人生を詩的世界の材料としか見ていないうちは、ひとはまだ詩人ではないのだ。人生に詩を見ようとしているうちは、その詩はまがい物である。人工的な建築物である。どんな詩的言語も、もう一度人生という波に洗いざらされ、その中をくぐって来て初めて本物の言葉となる。」「こがね虫」の次の詩集「水の流浪」から少しずつ閉じられた自己の美的世界から外の世界に歩き出しているのである。彼がほんとうの詩人になったのは、その後の海外放浪を経たあとである。晩年に書いた自伝三部作でその放浪の内実が知れてくるのである。二回目の東南アジア欧州行きには、一回目のような至福な時はなかった。金の工面をしながらの苦難の旅であった。妻三千代を道連れにした旅である。金子を鍛えようとする旅である。文学など無縁になっていた、とのちの回想で彼は語っているが、困難な旅へ自ら突き進んでいく姿を考えると、意識の根底に、詩の本質を見極める目を持ち、詩人になるための不可欠なものを本能的にかぎとっていたように私には思われる。



平成十五年5月「ひいめろすの会」報告
金子光晴研究第二回
 今回は彼の詩「洗面器」と「古靴店」を小林が朗読し、「こがね蟲」のころの金子光晴がいかに変貌を遂げていったのかを考えてみました。彼の変貌において第二詩集「こがね蟲」の存在がどのようなものであったかをここで要約しておきたい。自序を読んで知れることは、いかにヨーロッパのロマンチシズムの影響下にあったかということである。一九一九年、「赤土の家」刊行した翌月二月にベルギーへの旅に出た。翌年十二月に帰国するが、その間に書いたという詩篇を詩集にまとめ、一九二三年に「こがね蟲」を出版した。「生涯の楽しい蜜月」と自序に書いているように、半生を顧る静かな日々であり、読書と詩作と散策に明け暮れる日々であった。のちに書かれた自伝「詩人」においてもそのころの様子を窺い知ることができる。養父から受けた遺産もあって、フランドル地方の空気を満喫したのである。日本の現実から詩人を引き離し、夢見るためには都合のよい環境が提供されたということであろう。しかしそれは長く続けられることではない。「おのれの世界に酔えるということは、それ自体が才能である。居傲とは若さの特権である。若いときに自分を信じきれない者に何ができよう。金子光晴が若くしてこのような、完璧に日常性を排除した精緻な人工的世界を構築したことを讃える。これは創るという意志によってだけ創られた、最も純粋な創造行為であった」と中野孝次氏は評論集「金子光晴」においていう。俗にいう夭折した天才詩人の詩全般に共通する魅力ともいえよう。「こがね蟲」出版の二ヵ月後に関東大震災が起こる。どこにも実体を持たない美的世界が社会の変化にもろくも崩れ去るのを自覚したのであった。ヨーロッパ的詩の世界が日本人である彼にとって「借りものにすぎないことを認識した」(金子)といえ、社会の変化によって「伝統への復帰」を許さないところまで身を投げ出されていたのであった。「彼はいまや覆う何物もなく、裸で、ふるえながらその外界のきびしさ身をさらさなければならない」(中野)のであり、その対決のあとに、ほんとうの詩人金子光晴が私たちの前に現れたのである。彼にとって対決の手段の一つに放浪があった。
 詩人と放浪の関係は普遍的なテーマに成りえるが、ここでは金子光晴に限定して話を進めていくことにしよう。一九二八年九月、妻三千代とともに子供を妻の実家にあずけ五ヵ年に渡る、東南アジア、ヨーロッパの放浪の旅に出た。このへんの事情は彼の自伝三部作「どくろ杯」「ねむれ巴里」「西ひがし」にくわしく書かれている。
 未刊詩集「老薔薇園」を読むと、二回目にあたる今回の渡欧には希望らしきものが見られない。「ヨーロッパにはなんの魅力もない。ただ、ほかにゆく所がなくなってしまっただけなのだ。亜細亜は、前世紀の巨龍の柱骨だ。いくら上手に骨を並べて、針金でくつけ合わせても、巨龍は行きかえってこない」(金子)といい、コスモポリタン的な立場を主張する。「私は思想のコスモポリタンです。故郷をもっていないんです。人間は自分のもちものをすててはなればなれるより方法がないのです。」(金子)これはノマドとしての詩人像を思い描いたといっていい。「そこで自分の生きていることを感じ、人間を愛し、人間を見ようという立場に彼はいる。絶対的な自由と絶対的な無とがそこでは一つになっている」(中野)のであった。先に引用した「洗面器」はヨーロッパから東南アジアに帰った時に作ったといわれている。「こがね蟲」からのなんという変貌であろうか。
 五年間の放浪から帰った時、日本は軍国主義に向って体制を整えていた。一九三七年、軍国主義や天皇制を批判した詩集「鮫」を出版。それ以後の詩人としての歩みは今回取り上げることが時間の関係で省くことにした。
 萩原朔太郎と金子光晴という詩人から知りえたことは何だったのだろうか。私には彼らが詩人像に向って変貌していくさまがなんといっても興味深かった。それはほんとうの詩人になっていく過程である。ほんとうの詩人とは何か。詩の言葉は、一般に私たちが意志伝達の道具として使っている言葉とは差異がある。「人間にとって言語は、とりわけ自国語は、絶対的に{外部}であり、どうしても手の届かぬ彼方に退いてゆく永遠の異物である」(松浦寿輝)といった意見が詩人自身からなされてもいるが、だからといって言語の遊戯に堕してはならない。日本的モダニズムの軽薄に終止符を打たなければならない。ポエジーから与えられる言葉とはわれわれの日常に亀裂を作るものである。言葉の日常性との差異は当然である。しかし、ノマドとしての詩人とその生の倫理が問われることを忘れてはならないのではないだろうか。



平成十五年六月「ひいめろすの会」報告
金子光晴研究第三回
放浪の始まり
 金子にほんとうの放浪を始めさせたのは、彼自身「どくろ杯」で記しているように一九二三年の関東大震災であった。
「地震があるまでの日本と、地震があってからあとの日本とが、空気の味までまったくちがったものになってしまった。地震が警告して、身の廻りの前々からの崩れが重なって大きな虚落になっていることに気づかされた。私の不器用な旅のきっかけは、さかのぼって、あの地震のころに始まったということができる。この天災は、後になって考えると私のしまりのない性格からくるいい気な日常にきまりをつけるための気付け薬でもあった」と書かれている。彼の旅の範囲は東南アジアとヨーロッパである。五年間の放浪を終え帰国した日本は軍国主義をひた走り、ヨーロッパの国々と同様に、海外に侵略の手を伸ばしていた。「彼は自己のうちにある古い日本を否定して、ことごとにそれに反逆するような自己をつくりあげた。彼の身につけた原理は、彼のうちにある日本と断じて合一できない性質のものであった」(中野孝次著「金子光晴 近代日本詩人選20筑摩書房刊」。「文明がみずからつくりだした怪物によって、人間を、文化を、地球を破壊している。彼は関東大地震のとき予感したものが、いま現実となって、途方もない破滅として人間世界を襲っている」(中野)という認識であった。戦後も一貫して「俗衆嫌悪」を持ち続け、言葉を武器に一人戦いを止めなかったのである。
変遷する詩人
 詩人の生涯を通して詩法といいうるものを辿る時、萩原朔太郎と金子光晴の二人ほど激しく変遷した詩人を私は知らない。朔太郎の「青猫」の耽美的世界から「氷島」の荒涼とした世界への変遷は、その内的必然をもって私を魅了するものであった。今回の金子もまたほんとうの「詩」の概念を余すことなく伝え、現代詩に問題を投げかけているように私には思われた。その変遷を中野氏の書物から大まかに辿ってみよう。「金子の本領は言うまでもなく「鮫」以後にある。最初に「こがね虫」の人工的な完成があったからこそ、この詩人はああいうところまで行けたのではないかという疑問が生じてくる。初めにつくりあげた夢の世界の完璧が砕け散り、パルナッソスの高みから限りもなく人生へと転落していったからこそ、ようやく詩と人生とが微妙な均衡の上に結晶したような、あれらの詩ができたのではないだろうか。」(中野)ここで金子自身がこのころのことを思い起している「詩人」という書物から引用してみよう。「僕のなかにまだ、近代の否定的な精神はめざめていなかった。ふるい美を無視したり、すてたりする代わりにそれによってじぶんをゆたかにしようとこころがけた。それは欧州の古典美を見てきて、日本のそれが等閑視され、新しいものが借りものにすぎないことを認識したとき誰もが陥り易い無条件な伝統への復帰というところへゆきつくものであった」と書く。朔太郎や高村光太郎のように日本回帰しないで、金子は日本文化や日本人と最後まで和解できなかったと、中野はいう。一回目のベルギー滞在は彼をヨーロッパに強く結びつけたとすれば、「こがね蟲」以後は、彼の求めた美の世界と日本という土壌との乖離を認識せざるをえなかった。そこに関東大震災である。そこに自分自身の精神の空洞化と、崩壊した古い日本の姿を見た。「僕はただ、絶代の美貌にめぐまれて、それが衰えぬ若さのあいだに死にたかったのだ」(「詩人」)。しかし彼の「強靭」な精神は「荒野」に生きることを強いたのだ。私たちにとってなんという幸運なことだろうか。なぜなら、詩は「荒野」に咲く一輪の花のようなものだからである。とにかく彼は荒野に旅立ったのだ。以後五年間の辛酸をなめつくした放浪。現代では詩人と経験の繋がりを問うことがなくなった。言語論隆盛である。「机上のランボー」ばかりである。詩は詩人の経験から独立して読み取るべきであることに異論はない。しかし言葉だけを操作して詩を書くことの限界を知るべきだ。経験と詩は深いところで密接な関係を保っている。このことは別の機会に譲ることにする。金子の二極の詩法として中野氏が引用した金子の言葉をここに挙げておく。「詩は、美の反省である。美を感じることのできなくなったものに、詩をつくる資格がない。」「詩は、ぼくらの生活以外のどこにもない。詩は生きものであり、生きものというよりなまものなのだ。」美と生活を次元を同じく詩のファクターとして述べているのだ。美学的な詩と生活の詩に今も別れてにらみ合っている詩人たちがいる。その二項を本質的に結びつけるものが詩人の経験でなくてなんであろうか。金子は詩に引き寄せられ導かれ変遷していったに過ぎない。それゆえ彼はほんとうの詩人であった。

コスモポリタンとしての詩
「文学なんてものに足をとられた人間は、もともと集団社会にくわわれないやつが多く、おのれひとりの感性や思考や好みにこだわって、そのこだわりを通して自己表現するものである。だが人間のうちにひそむ可能性を信じようとし、言葉という共有財を通じてそこに語りかける者と、具体的に個人しか信じようとしない者とでは径庭ができる」と中野氏は語り、日本文学の伝統がどのような精神構造でなされてきたかを分析する。もちろん金子は前者であることは言うまでもない。早くから民主主義を実現してきたイギリス、フランスでは、文学者は社会に孤立した存在ではなかったという。近代的統一国家の実現が遅れたドイツでは現実世界とは別次元の芸術に奉仕する「精神の貴族」と見なす精神の経験が著しい。ブレヒト、ベンヤミン以後は思想として政治を取り入れた、という。日本ではどうか。江戸時代の文人気質について、精神世界と社会生活を分離させ、現実とは違う芸術を志向していた。さらに遡って、西行、鴨長明、吉田兼好などでは政治的拘束から脱して塵外に遊ぶのを尊しとする気風があった、という。つまり金子は「西欧的個人主義をてっていしてわがものにしてしまった。彼の身につけた原理は、彼のうちにある日本と断じて合一できないものであった」(中野)帰国後の彼の目に映る日本は異国人の眼に映る日本であった。「ねむれ巴里」を紐とけばわかるように、一回目のヨーロッパ体験のような西欧への憧憬はなく、ヨーロッパ社会に対しては冷ややかな態度である。「彼はその半生の流浪に賭けて学びとった唯一の思想、ただ人間があるのみだ、人間のまえには国家とか民族とかイデオロギーとかは相対的な価値でしかない。日本中がいくさによいくるっている時代に、たとえそう信じるのが自分ひとりでもいい、自分だけは自分の正しさを信じぬこうと必死でたちむかう」(中野)戦後もだいぶ時を経て外圧が消えていけば自分のことはほっといてくれという一自由人に戻るのである。大衆という存在に向けた疑いの眼は終生消えることはなかった。三ヶ月に亘って金子光晴という詩人を読んできましたが、日本には稀有の詩人であるといっていいのではないだろうか。これほど徹底して美と生活を同一次元で追及した詩人は他にいなかっただろうし、今もいない。


萩原朔太郎研究 ワークショップ「ひいめろすの会」からの報告

2012年02月04日 | 萩原朔太郎研究
 平成十四年から「現代詩の源流をさぐる」というテーマで、ワークショップを開き、毎月一回小林稔が講義をしてきました。「近代詩からの百年」「現代詩はなぜ一般から敬遠されるのか」現代詩の源流を江戸時代の俳文や行分け詩に求められないか」「萩原朔太郎研究」「金子光晴研究」「西脇順三郎研究」「戦後詩を読む」を解説していきました。今回、ブログ「ヒーメロス通信」において個人誌「ヒーメロス」に発表した四回分の論文「萩原朔太郎研究」を公開します。
無断で転載することを禁じます。


2004年個人誌「ヒーメロス」6号から転載

小林 稔


平成十四年十二月第三回「ひいめろすの会」報告
萩原朔太郎研究第一回
 
 この会では創作批評と勉強会を併行して行なってきました。日本近代詩百年の詩史を概観し、その出発時のおける新体詩が、いかに以前の日本の詩歌を拒絶し、海外の詩に影響を受けていたかが理解されたことと思います。やがて島崎藤村らによって日本の詩が生まれ始める。そしてそれ以後、口語詩の潮流が起こるのである。川路柳虹の詩がその最初とされ、また三富朽葉や大手拓次によって朔太郎以前に優れた口語詩は書かれていた。それなのになぜ朔太郎を口語自由詩の完成者というのであろうか。そこには大変重要な問題があるのだ。それは追って報告することになるのであるが、朔太郎を研究することによって、われわれは詩の総体像を見ることになるのではないか。なにより朔太郎自身が詩の広範囲な領域を悩み考え記述した詩人であるからである。また彼の詩法の変遷も興味深い。

 今回、「朔太郎小伝」(佐藤紘彰氏)よりまとめた二枚のプリントを配布した。それによると、一八八六年群馬県前橋で、裕福な医者の長男として生まれたとある。その甘やかしは普通のものをはるかにこえたものであった。母ケイの朔太郎に対する影響は非常に強く、人生とその作品における様々な要素はケイを抜きにしては考えられない。朔太郎は三十三歳と五十二歳の時に結婚している。                         
 与謝野晶子の歌集「みだれ髪」が出た一九〇二年に、短歌に興味を持ち始める。北原白秋や啄木の影響はあるものの、特筆に値するものはないという。一九一三年室生犀星に手紙を送ることがきっかけで白秋の編集する雑誌に詩を採用された。一九一四年、高村光太郎、大手拓次、山村暮鳥と知り合いになり、この年、人魚詩社を設立。雑誌「異端」発足させる。朔太郎が歌人から詩人に脱皮した年であった。一九一五年、「卓上噴水」を創刊。詩的に最も多産な時期であるが、精神錯乱の時期が対応している。一九一七年第一詩集「月に吠える」が出版された。「病気をおそるる病人」の印象と、そのような病人の瞑想するイメージのあらわな表出。明確なものを何ら指し示すことなく底深い不安を暗示する力で読者を驚かし続けた。一九二三年第二詩集「青猫」を出版した。創造力に富む時期はここで終わるとされる。

 これら朔太郎の初期の詩集を読む時、忘れてはならない朔太郎自信の次のような言葉がある。
「月に吠える」自序より
「詩は一瞬間における霊知の産物である。ふだんにもっている所のある種の感情が、電流体の如きものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとっては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。」
「友人高橋元吉への弁」大正六年四月十七日より
「小生は自作の詩に対しては創作当時はほとんど盲目であって、自ら如何なることを唄っているかさえ知らない。どんな思想をどんな感情を時分自身でもっているのか、自ら何事を書こうと試みているのか、全く無我夢中です。ただ心の底をながるる一種のリズムを捉えて無自覚にそのリズムを追っているにすぎない。それゆえ創作当時における自身は半ば無意識な自動器械のようなものにすぎない。」

 このような言葉を読む時、私に想いおこされるのはアルチュール・ランボーのポール・ドメニーに宛てた手紙である。ランボーの意識的な激しい口調に及ばないが、一言で言えば錯乱の詩法である。
「だって、ぼくは今や、別人として存在しているのですからね。銅が目覚めたときらっぱになっていても、まったく銅が悪いわけじゃない。このことはぼくには明々白々です。ぼくは思想の開花に立ち会っているんです。┊詩人たらんとする人間がまずなすべき仕事は自分自身を認識することです。┊重要なのは、怪物的な魂を作りあげることなんです。┊詩人は、あらゆる感覚の、長期にわたる、途方もない、体系的な乱用によって、おのれを見者に作りあげるのです。彼は、自分自身を探り、自分のなかのいっさいの毒を汲み尽し、その精髄だけをとっておく。」(以下省略)
 あるいはアンドレ・ブルトンのシュルレアリズム宣言を想いおこされるのである。しかし、後半期の朔太郎は変遷する。その変貌が二十一世紀のわれわれの詩に何を示唆し、何を示唆しないのか、私には興味が尽きないのであるが、先を急がずに、まずは彼の詩をじっくりと読み、そこから浮上する問題点を取り出してみよう。
 

平成十五年一月「ひいめろすの会」報告
萩原朔太郎研究第二回

 朔太郎という詩人の全体像が、彼の著作、彼についての批評を読むにつれて明らかになり、私には大変興味深い詩人に思われた。彼の想念する詩の領域が広範囲であり、より深い、つまり根本的なのである。そして彼の肉体を通してポエジーのほとんどすべての問題が浮上してくる。詩と真正面から格闘した一人の詩人の姿が見えてくる。
那珂太郎は「月に吠える」の前半期の問題、という論文で「詠嘆的抒情表白なしにヴィジョン自体をほとんど裸形のまま提出するといった方法は朔太郎自身の詩的経歴の中でも極めて特異な位置を占めるもの」といい「イマジスチックのヴィジョン」の自立化を「作者内奥の実存意識の表象として「わが国近代詩の歴史における一革命」とさえ書き記した。また、藤原定は「感情」詩派の新風、という論文において,近代詩と現代詩の分岐線を山村暮鳥の「聖三稜玻璃」、萩原朔太郎「月に吠える」の創作活動の開始とのあいだにあるとする。「ヨーロッパにおける二〇世紀初頭の新興芸術の勃興にほぼ相応する質と様相を呈していたということによっても区分される理由を持っている。」「イタリアのマリネッティの未来派宣言、その他表現派やフォービズム、立体派などが起きていた。」「第一次世界大戦勃発前の異常な社会不安、精神文化の動揺による必然的な所産であった。印象主義、象徴主義の芸術を否定しのりこえようとする芸術運動においてヨーロッパの芸術運動に相応するところが多分にあった」という。前回にも私が述べたように、ランボーの錯乱の方法はその先駆的存在である。今日では「イマジスチックのヴィジョン」なるものはすでに部分的にはほとんどの詩人にとって常套になってさえいるが、それのみで書かれた詩の行為とは次元を異にするのではないか。シュルレアリズム以前にもシュルレアリズム的手法が存在するように、ここでも意味が違うのである。シュルレアリズムとは全面的な「生」の変革であったという意味において意義がある。
それでは「イマジスチックのヴィジョン」とは何を意味するものなのだろうか。那珂太郎は先の論文で「彼の意識がなおはっきりとは自己規定しなかった自らの魂の内奥の、実存感とでもいうべきもの」といい「思想とか感情とか明確には分かちがたい、未分化の作者の全生命的なものが、異様なまでの幻視力をもって一つのヴィジョンを結像し、一挙にそれが言葉となって生動している感がある」と述べた。つまり詩人と実存の問題が深く関与しているのである。
詩集「月に吠える」において避けて通れない言葉に「懺悔」「祈り」「合掌」などの宗教的な言葉がある。詩集の中の初めの章「竹とその哀傷」十二篇は発表当時「浄罪詩篇」と名づけられていた。佐藤泰正の「朔太郎と神」によると、白秋に宛てた書簡集「若き日の欲情」から「孤独と苦悩のゆえの異常なまでの白秋への傾倒を感ずるとともに病的な感覚の錯乱と不安―彼自身語るごとく、その心身を滅するていの深い危機のあったことを疑うことができない」という。さらに「神経的、生理的幻覚の創造を根底においては病者の歪みとして罪として問い、告白せざるをえなかったところにこそ彼の言う浄罪の真義はあったのではないか。疾患が詩の方法につながり創作の極限的深化への発条とさえなったことは疑いえない」と主張しているのである。「浄罪詩篇」の後、ドストエフスキーを通してキリスト教に傾倒していく。「カラマーゾフの兄弟」の「人間は罪悪を犯す時ほど神のことを思ふことはなく、罪人ほど救いを求めているものはない。」という言葉に救われたと思ったが、直後に救いが幻影であったことに気がつく。人間という孤独な生き物を知り、ますます実存意識を強くしていったに違いない。「人は一人一人ではいつも永久に、おそろしい孤独である。けれども実際は一人一人にみんな同一のところを持っているのである。この共通を人間同士の間に発見するとき「道徳」「愛」が生まれる。私は詩を思うと、はげしい人間のなやみとそのよろこびとをかんじる。詩は病める魂の所有者と孤独者とのさびしいなぐさめである。」と書かれた「月に吠える」の初版の自序にあるとおりである。
「イマジスチックのヴィジョン」に具体的に駆り立てているのは言葉のリズムである。朔太郎は高橋元吉に宛てた手紙で「心の底をながるる一種のリズムを捉えて無自覚にそのリズムを追っているにすぎない」と書いていた。朔太郎自身によるエッセイ「詩と音楽の関係」では次のように書かれている。「詩が真に自覚した光ある芸術となったのは、調子本位を捨ててリズム本位に移って以来である。即ち自由詩形が唱導されて以来の出来事である。自由詩形によって詩人ははじめて完全なる自我のリズムを自由に発現することが出来た。」那珂太郎によれば、『「自我のリズム」というときの「自我」は、表層意識的な個性などよりはるかに深層のものであって、実存の深層に及ぶことによってほとんど普遍的自我ともいふべきところから、彼は言葉のもつ潜勢的いのちともいふべきイメジと音とを直覚的に捉へ得たのであり、そこにこそ彼の作品の「不思議な魅力」の真の理由があった。』言葉の持つ音楽性(色彩、音律、情感など)と言葉の表徴するイメージの融合が詩における音楽なのであり、感覚的というより、感情的、情緒的であることが朔太郎の際立つ特徴である。


平成十五年二月「ひいめろすの会」報告
萩原朔太郎研究第三回

 朔太郎が口語自由詩の完成者と言われながらも「月に吠える」では文語が一部見られ、「純情小曲集「「氷島」においては文語詩に戻っていることはどういうことなのであろうかを今回考えてみた。「月に吠える」以前の最初期の詩は文語詩である。以後、朔太郎詩の鉱脈には文語的表現がとぎれることなく続いていたのであった。
 明治の「新体詩抄」まで遡って考えると、それは日本の俳句、短歌、漢詩などの古典詩に対する反逆であった。生活に視点を定め、西洋の影響を受けながら試みられたのであったが、表現形態は依然として文語にならざるをえなかった。形式と内容の分離が出発点にあったのである。しかし文語から離脱しようと苦悩していた。つまり新しい詩には文語は相応しくなかったというわけである。「反文語的要素は口語自由詩運動以前から、訳詩などでかなり顕在的にかたちを見せていた。詩が日常に堕することを恐れ、格調と文学性、ことに音楽的調べを失うことを恐れて依然として文語詩を書かなければならなかった。そうしたジレンマをみずからの詩の状況として、詩人たちはめいめい自分の言葉をさがしていたのである。」「日常をうたって、しかも日常から離脱し屹立するところの非日常の言語世界、それが詩にほかならないという詩人の意識が、それなりの形式と、言語世界、様式を得ようと欲するからである」(原子朗「文語と口語」)薄田泣菫、蒲原有明の時代から北原白秋、三木露風の時代に移ればより口語に近い文語になっている。そう原氏は指摘して亜文語詩と名づける。また、原氏は、口語詩の第一作として評判を呼んだ川路柳虹の「塵溜」を、文語を捨てた代わりに定型を取ったとする。そして上田敏の訳詩は文語を守る代わりに定型を捨てたという。明治四十三年ごろに朔太郎は詩作を始めているが、すで大手拓次らによって多くの口語自由詩が書かれていたのであった。「詩の価値はその詩が文語体であるか口語体であるかによって決まるものではない。」「朔太郎は、文語と口語の<二重語法者>の具体的な例ということになるが、現代詩人も、本質的にはそうだと言いたい」と原氏は述べる。さらに原氏によれば、「青猫」は口語文脈のもつ、かんまんな非音律性を逆手にとって、口語表現を文語表現と可能な限り遠い所に置くことによって、かえって一種の音楽性というか、だるいしらべを出すことに成功したといえないか、と主張するのである。
 朔太郎自身の論文「詩における口語表現の不満足」では、「芸術的価値はゼロに近い口語で、芸術的な詩を創造しまければならないぼくらは大きなる過渡期にある新日本の敏かにおける犠牲者である。この素朴的なる猥雑極まる非芸術的の言語を用いて、最も格調音律の美を書こうといふのがそもそもの冒険であり、日本語で詩を書くならばいかにしても文章語を用いるほか、正当には手段がない。新しい文章語はまだ生まれていない。そこでぼくらの時代における詩人の義務は、主としてこの新文章語の創造にかかっている」と書かれている。
 「青猫」論(中桐雅夫著)では、頻繁に使われる語として、憂鬱、さびしい、悲しいなどの語を取り上げ「転喩」という観点から論じている。(例)ぼくのさびしい訪問者は老年の よぼよぼした いつも白粉くさい貴婦人です(悪い季節)この詩の「さびしい」は訪問者を修飾する語であるが、実際は作者が「さびしい」ということを言っているのだと指摘する。また、直喩の用い方「┋のように┊」は二重三重の複雑な意味や気分を出すための技巧であるという。
 南洋の日にやけた裸女のように
 夏草の茂っている波止場の向うへ
 ふしぎな赤錆びた汽船がはいってきた(題のない歌)
「南洋の裸の女は、文法的に、第三行の赤錆びた汽船を修飾するだけでなく南洋の島に日にやけた裸の女がいる。そして夏草の茂っている波止場の向うへ、ふしぎな三行の赤錆びた汽船がはいってきた」という意味にも取れると論じている。
 今回は詩人の実存意識についても考えてみた。初期の詩篇「旅上」「浜辺」「こころ」などの詩に現われている生の意識を追っていくと、まず初めに、少年期の社会からの疎外感が浮き上がってくる。そこから遠い世界への憧れが生まれる。「ふらんすへ生きたしと思えどもふらんすはあまりにも遠し」「こころは二人の旅びと されど道づれのたえて物言ふことなければ」などを引用して、河村正敏「悔恨人の抒情」を参考にしながら実存意識が生じてくる過程を考えた。自分のこころを一人の他者と見る自意識の眼が「外部世界からの疎隔の意識」「自己乖離した自意識」「被虐的な自己愛」となりはるかな世界に対する浪漫的な憧れをさそっていたのであった、と河村氏は論じる。「なにゆえの若さぞ この身の影に咲きいづる時無草もうちふるへ 若き日の嘆きは貝殻をもてすくふよしもなし」(「浜辺」より)その影のあまりの孤独さに驚き、遠い世界を思わずにはいられない。朔太郎の私的生涯はボードレールと同様に、時間の外への逃亡の繰り返しであったと河村氏は展開する。しかし、これら初期詩篇から、自らの影を吠える「月に吠える」の詩篇に向かうには、かなりの飛躍があるのではないか。憧れは一変して強迫観念に摩り替ったようである。「ぬすっと犬めが くさった波止場の月に吠えている」この遠吠えもはるかな郷愁の声にほかならないと河村氏はいう。また、白秋にあてた書簡集「若き日の欲情」「浄罪詩篇ノオト」を読めば、二十代後半の朔太郎が、「人は何のために生まれてきたのか」といった問題にいかに苦悩したかが分かるだろう。「月に吠える」は生の実体に触れえないところからくる自虐的な生の確認であった、とも分析している。ところが「青猫」においては運命を運命として甘受するようになる。情念のまぼろしを自由に呼び寄せ、エロスの夢にふける。(河村氏)「青猫」の序文で朔太郎はこう述べる。「私の真に歌おうとするものは、あの艶めかしい一つの情緒である。それは感覚ではない、激情でない、興奮でない、ただ静かな霊魂の影をながれる雲の郷愁である。遠い遠い実在への涙ぐましいあこがれである。その笛の音こそプラトオのエロス、霊魂の実在にあこがれる羽ばたきである。それのみが私の「音楽」である。私の詩の本質はあの実在の世界への故しらぬ思慕の哀傷である」
 私の個人詩誌「ひいめろす二号」で、かつて私はプラトンの「パイドロス」のイデアの世界を論じたことがあったので、及ばずながら解説を試みた。それはさておき、「青猫」の夢も醒めれば索漠とした現実が詩人を包み込んで、いっそうの絶望の深みに落ちてしまうのだ。そこで、現実に対する反逆心が鋭く立ち上がってくるのだ。朔太郎は詩を書くことと併行して、夥しい量のアフォリズムやエッセイを残している。「純情小曲集」から「氷島」へと詩篇は移行する。この二つの詩集は文語詩へと戻っていることをどう考えるべきか。アフォリズム集「虚妄の正義」の次のような激しい文は、この二つの詩集の基盤であろう。「仏陀となって、自ら宿命の上に超越するか、もしくは仏陀そのもの―――すなわちあらゆる悟ったもの、納まったもの、平和なものを敵として、残虐の意志の悪い快楽から、ニヒルの歯ぎしりをして戦ふかである」河村氏によれば「青春の日、生の不安をそそられたあの時間のさけ目の中に、つまり、初めも終わりもない永劫回帰があるだけの虚無の時空に、生の深淵と向き合って生きなければならなくなったということである。人生が虚妄である限り、何ものをも失うはずがない。失うことさえ失われたという絶望的な喪失があるばかりである。人生は過失でしかない。悔恨だけがただ一つの実在となる。思えば遠い廻り道。何も変わっていないのだ。この地上が時間の外だったのである。」朔太郎がこのような心情を詩にする時、口語体ではなく文語体で書くことになったのは、口調の激しさを表わすために当然のことではないだろうか。朔太郎のように自らを変遷させて行く詩人を私は他に知らない。詩はおそらく文学というカテゴリーに穴を空けてしまうものに違いない。真の詩人は、その生に文学の虚構性を重ね合わせてしまうからである。ポエジーという一詩人をはるかに超えた彼方からの照射に、彼の人生のもろもろの経験が応えるのである。詩人は人生に敗北するだろう。彼からあらゆる「私」を奪い去ることによって。そのことが彼を栄光の座につかせることになる。詩はその時、星辰のように天蓋にきらめくだろう。
朔太郎は「氷島」の序文でいう、「著者の過去の生活は、北海の極地を漂い流れる、わびしい氷山の生活であった。その氷山の嶋嶋から、幻像のようなオーロラを見て、著者はあこがれ、悩み、悦び、悲しみ、かつ自ら怒りつつ、空しくも潮流のままに漂泊して来た。」と。彼の詩は、今も私たちの詩に多くの問題を投げかけている。


平成十五年三月「ひいめろすの会」報告
萩原朔太郎研究第四回

 すべての必然的なものは現実的であり、すべての現実的なものは理性的である、というヘーゲルの言葉を引用して、朔太郎の一九三七年「詩人の使命」の「理性に醒めよ」という章は始まる。詩集「氷島」出版三年後にこの評論集は世に出された。二〇〇三年の今日、日本の文学は変わったか、と自問自答するならば、否である。今もって日本文学の脆弱さに対して朔太郎の主張は有効であると私は思う。まずそこでなされた彼の真摯な訴えを要約する。
「日本における、すべての詩壇的なものは喜劇的であった。」なぜなら外国の模倣であり全く別物であったからである。ダダイズムしかりシュルレアリスムしかりである。「要するに日本の詩という文学は、現実する生活や文化と交渉なく、趣味性の観念上で遊戯しているところの、本質的ジレンタンチズムの文学に過ぎないのである。」つまりは必然性に欠け、現実性がない。「この一切の原因は、真の理性的判断力を持たないことに帰着する。」日本の自然主義の文学においても同様である。「社会的必然性がなく、非現実的に遊離している」ということになる。西欧近代化は日本が避けて通ることにできなかった宿命である。ならば、「理性に醒めよ」と朔太郎は叫ぶ。「本質に人生探求のヒューマニチイと、イデアやモラルを持たない所の文学は、所詮して皆趣味の遊戯であり、新しさの香気を悦ぶダンヂイの流行にしか過ぎないのである。」
 現代のわれわれの詩はどうなっているのかについては、今後、朔太郎の視点から考えて見なければならないことである。趣味性に陥る危険は考慮すべきであるが、一方では西洋の現代思想が流入され、深く考察されている。そうした理論のもとで詩作をする詩人も現れてきている。しかし朔太郎が言うように、日本においてシュルレアリズムが存在しなかった(皮肉でいえば生活的現実性がないことでは皆シュルレアリストであったが)ことは、それ以後の変化した西洋詩の一見同じ土壌の上に立っていると考えられがちな現状で、留意しなければならないことであろう。無論、日本の近代詩が蒙った歪みとしての西洋も理性を持って顧るべきである。私の言いたいことは、朔太郎の「氷島」とそれ以後の評論、散文詩の意義を考えなければならないということである。右で取り上げた朔太郎の指摘は、現代においても完全には払拭されていないと思うからである。今回のテーマは「氷島」であるが、萩原朔太郎の全体像を考えた時の、この詩集の持つ意味は今日でも定まっていないように思えてならない。かつてどのように受け入れられ、あるいは受け入れなかったかを資料をもとにして考えてみた。
篠田一士『詩的言語』の「氷島論」では、「氷島」を前にした時の当時の詩人たちの当惑を挙げる。「月に吠える」「青猫」「蝶を夢む」の、自由で大胆な口語詩形の実験とかがやかしい成果のあとにどうして文語詩形が用いられたか、という驚きである。全二十五篇のうち四篇は「純情小曲集」からの再録であり、十年ほど隔てて書かれた他の詩篇が編まれている。篠田一士によると、同時代のモダニズム詩人たちと本質的な対立がない、つまり、いつわりの詩的言語を真正の詩的言語に変貌させたということになる。「氷島」の詩的言語そのものがぼくたちの経験に直に訴えるところのものである、と言う。会では、彼の分析によって、「漂泊者の歌」を読んでいった。(詳細は省略)
 
 この紙面では私の解釈を若干試みることにする。漂泊者とは誰か、それは実存を意識し孤立せざるを得なかった、社会から締め出された一詩人の像である。朔太郎その人の人生を直接に結び付けてはならない。朔太郎が描いた詩人像なのである。あくまで彼の脳裡を過ぎった普遍的な詩人の姿であり、それを自分に重ねているのだ。前回、「悔恨人の抒情」河村正敏著をもとにして解釈を試みたように、彼の少年期に世界と自分との弧絶感といったものが生まれた。自己を見つめるもう一つの目にいつもつきまとわれている。そこに固着しようとする詩人の意識がある。詩の主題として、むしろ積極的に望んでさえいる。「孤独な自意識は、人が時間というものの、重みを感ずる最初の経験ではないだろうか。」Out of the world ! と叫んだボードレールのように時間の外への逃亡を想うのであった。「イマジスチックなヴィジォン」というものも、言語世界への逃亡と考えられよう。それはまた一方では悔恨を引き起こす。そして「月に吠える」の「懺悔」「浄罪」などの言葉になって表わされた。「青猫」では、逃亡に敗退した詩人の憂鬱、プラトンの霊魂のノスタルジックな世界を唯一の慰安とする退廃的な気分に遊ぶのであった。だが理性の詩人、朔太郎はそこにとどまることなく、あくなき探究心に駆られ、現実的な姿勢を崩さない。私が朔太郎にひかれる所以である。夥しい量のアフォリズム、エッセイが彼の理性の根源である。絶望的な状況に身を置くことをためらわず、文明のみならず人生の虚妄をを暴きたて、その運命を生きようとするのだ。ニーチェと接触するところである。ここに「氷島」は存在している。「我は何物をも喪失せず また一切を失い尽くせり」という詩行は、「人生が虚妄である限り、何物をも失うはずがないからで、失うことさえ失われたという絶望的な喪失があるばかり」ということであろう。よくよく考えれば、この世界こそ時間の外だったのである。「漂泊の歌」の最終行「汝の故郷は有らざるべし」に篠田氏が「解放感」を読むのも同感するところであるが、「われは餓えたりとこしえに 過失を人も許せかし。過失を父も許せかし。」と終える「父の墓に詣でて」の最終行には、最期まで悔恨から断ち切れずに終えた詩人の宿命が浮かび上がってくるではないか。「氷島」が私に教えるものは、「普遍的な詩人像」である。「異邦人」や「ノマド」にまつわるイメージなのである。今日こそ、詩人の特性を浮かび上がらせ、彼らの人生への深い考察を社会的役割に還元すべき時ではないだろうか。