ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

誤読の活用「ヒーメロス16号」2010年12月10日発行からの引用

2011年12月25日 | 誤読の活用「ヒーメロス16号」からの引用
誤読の活用
ネット批評「詩はどこにあるか」(谷内修三の読書日記)から
                   小林 稔
(個人季刊誌「ヒーメロス」はパソコンとコピー機を使った手作りなので十分な部数を作れなく多くの人の手に届けることができませんでした。1年前の記事ですがここに改めて公表します。ここでコメントされている作品は、私の最新詩集『遠い岬』(2011年10年「以心社」刊)に収録されています。

 
 私が初めて谷内氏から批評をいただいたのは、前詩集『砂の襞』(二〇〇八年、思潮社刊)についてである。彼自身から、コメントをしているのでサイトを見てくださいという手紙をいただき開いたのであった。私の詩に理性重視の姿勢を読み取り批判的な考えを述べながらも、冒頭の詩「明るい鏡」のテーマに興味を惹かれてのコメントであったように私は感じた。私の創作の姿勢は決して一般にいうロゴス重視のそれではなく、むしろ理性を破棄したところで、経験から立ち上がる、自我を超えた自己を導くポエジーの探求であり、そこで見出される「道」(身振り)を刻み込むことであった。(ロゴスはこのように獲得されるものであろう。)しかし結果的に読み手の自由な想像を奪ってしまうことになり敬遠されることにもなった。私の力量不足から「誤読」を生じさせることになったのであり、谷内氏にそのような印象を与えてしまったのであろう。
 それから一年を経て、今年二〇一〇年に発行した私の個人誌「ヒーメロス13~15号」に掲載した『髀肉之嘆』の連作にそれぞれ批評をいただき、驚嘆するとともに感謝の想いでいっぱいになった。私の詩作の根底には、出発時からエクリチュールの可能性を最優先させようとする欲望があり、自然主義的な表現との長い葛藤を経て文学の伝統を包括しながら、最初時の詩への関りを継続しようと私はしているのである。
 谷内氏の批評を読んでいくうちに理解できたことは、誤読を許す文学(詩)こそが優れた文学であると考えていることである。最近、『井筒俊彦著作集9 東洋哲学』の「意味文節理論と空海」(真言密教と言語哲学的可能性を探る)という論文を読んでいたら、「誤読」ついて述べている箇所に出逢った。井筒氏の考えは次のようである。思想や哲学の領域において、学問を築き上げようとする専門的な研究家がいる一方で、彼らとは別に過去の哲学者の著作を読み、過去の思想的遺産を「己の哲学的視座の確立のために、思索のきっかけとなるであろうものを求めて、過去を探る」創造的思想家たちがいる。つまりテクストの「読み」を出発点として「その基盤の上に思惟の創造性を求めることは、現代西洋哲学の一つの顕著な戦略である」。このような人たちの「読み」は恣意的であり独断的であるゆえ、一種の「誤読」といえるかもしれないと井筒氏はいう。むしろ「誤読」の積極的な活用によって「過去の思想家たちは現在に生き返り、溌溂たる今の思想として新しい生を生きはじめるのだ」と述べている。つまり東洋思想の研究に日々没頭している研究家たちのなかには、「時代の知的要請の応じつつ、生きた形で展開している独創的な思想家」はほとんど見あたらず、逆に「現代日本の知の最前線にある思想家たち」が求めていく古典は、東洋哲学のそれではなく、マルクスやニーチェやヘーゲルであったりするという。いわばこの長い年月を経て構築された東洋思想の宝であろう伝統を、宝物殿から引きずり出し、生きた現代哲学を誕生させようと提案しているのであり、井筒氏自身がイランから帰国してからの研究課題であった。つまり、古典を蘇生させるための「誤読」の活用を井筒氏は主張しているのである。
 エクリチュールにおける表現とは(私が思うに)意識と意識下のせめぎ合いから表層意識に現象するものである。したがって「読み」を通してポエジーを書き手も読み手も探求するものであると言えないだろうか。一種の「深読み」としての「誤読」は大いに活用されるべきものである。谷内氏が私の『髀肉之嘆(三)』(ヒーメロス15号に掲載)に言及した批評は、書き手の私自身にも多く示唆に富むものであった。その一部を紹介してみよう。


脾肉之嘆(六)

闇を攪拌する肉の鋏は、たとえば巨大な蟹のそれに似て夜の眠り
をむさぼるように棲息しつづけ、夜具に被われた幼年の肢体を捕ら
える。海のふところに頚を抱かれ、頭髪を藻のように静かな流れに
遊ばせ、私は陽光の名残りをその肌に感じ入る。繰り返す偶然の航
跡が必然の糸をたぐりよせて一つの命をつくり船出させたのであっ
たが、命はそこがふたたび還る場処であるかのように記憶しては忘
却していく。のちに性の匂いと名づけられた、魚群の放出する精液
を感覚器はすでに受け入れていた。遠くで幾度も花火が打ち上げら
れた。

やがて帳をひらく〈時〉の推移に身を裁断するように母は、まどろ
む私を置いて台所で葱を刻み始める。産声を上げたときの原初の記
憶に呼び止められていた私は、瞬時に夜を忘却し身支度をする。同
じころに異なる処で闘いつつ旅をつづけて地上に生を受けた類たち
のいる場処に向かう。自己を知るには他者という鏡が必要であった。

銃口を押し当て私を狙い打つ他者がいることを知ったときの驚愕。
火薬の鼻をつく匂い。一方で私に渦巻いていた名づけられない火が
他者の体躯に向かい身を焦がし始めた。まるで自身の身体の部位を
確認するように指を這わせる。所有したいという欲求、それは美を
知る端緒にさえなったのであったが、私が視線で捕らえた領野に他
者の銃口を見出したとき、雷鳴が烈火のように私の輪郭を走り抜け
た。狂おしいほどに相似なるすべてのものを愛するようになった。

他者の祠(ほこら)に私が忍びこむ。身を焼く他者と共生し生成する
私とは生きつづける他者たちの褥(しとね)である。足萎えや未熟児
の消えざる傷痕に鍛えられ分裂と凝縮を反芻する。かれらは幼年の
ままに老いていく魂の深遠に棲み、さらに生まれくるものたちの微
熱を私は身体に受け留めようと執拗に迫った。


全文掲載。発表時は「脾肉之嘆(三)」として掲載された。

(ここから谷内氏の批評文になる)

「肉の鋏」とはなんだろう。わからない。そして、そのわからないものが、すぐにわかりきったものとして登場する。「巨大な鋏のそれに似て」の「それ」は「肉の鋏」であろうか。この瞬間、わかるとわからないが逆転する。……(中略)……「似て」は「ように」と書き換えられるはずである。ここでは比喩を二十に動くことで、そこにかかれているものが「もの」ではなく、「比喩」する認識だということがわかる。「比喩」とは一般的に何かの「もの」をわかりやすくするために用いられるが、小林は逆に使うのである。「比喩」を増殖させ「もの」をわからなくする。そして、わからないことが、何かをわかりたいという欲望のように感じられる。比喩を重ねるたび、何かから遠ざかり、遠ざかることが、そのものを「認識」するという運動そのものに重なるのである。……(中略)……「闇」と「眠り」と「夜具」が通い合い、「攪拌する」「むさぼる」「棲息する」「捕らえる」が呼びあう。小林のことばは、ことばがことばのきちんとした積み重ねの論理を破って動く。ことばの運動がことばによって破られる。しかも呼びあいながら、互いを破るのだ。ことばが、言葉そのものとしてうまくつながらない。衝突する。互いを破壊する。その瞬間に、言葉にならない何かが一瞬見えるー見えると錯覚してしまう。その見えたという思う瞬間、実際には見えない何か。そこに、詩が動いている。「もの」としてではなく、動きそのものとして動いている。つまり、そこにはエネルギーだけがあって、「もの」は明確な形のまま崩壊するのだ。……(中略)……ことばが進めば進むほど、認識は逆流し、源から再出発する。ことばの運動は常にことばとぶつかり、分岐しながら、その分岐の瞬間にはね返されるものが(水の流れが巨大な石にぶつかってふたまたに分かれる瞬間、その水の一部は逆流するが……)、源流を強く引き寄せるような感じなのだ。ふくらんで、岩の上を乗り越える水の頂が、遠い源流を呼び寄せるための背伸びのように感じられるのだ。……(中略)……おもしろいのは「記憶しては忘却していく」である。「記憶」と「忘却」は逆のことである。矛盾である。矛盾がからみあったまま、矛盾をエネルギーにして進むことばの運動が小林の運動である。矛盾することを積極的に選び、そこから、いま、ここにはないものをつかみ取ろうとするのだ。それは弁証法の「止揚」とは逆の動きに、私には感じられる。発展していくのではなく、発展を拒絶し、根源へかえるのための運動のように思える。

自己を知るには他者という鏡が必要であった。(第二連の最後の一行)

 この「哲学」は「肉の鋏」という出発点ではなく、もっと違った「源流」から始めれば、わかりやすくなるかもしれない。「比喩」に「比喩」を重ねて、矛盾したことばをむりやり互いに解体させるよりも、もっとわかりやすい形で書けるはずである。はずなのだけれど。そうしない。そんなことをすれば、ことばが動きたがっているそのエネルギーそのものを制御してしまうからだ。制御された「哲学」、完成された「哲学」ではなく、制御されない運動そのものへと小林はことばを帰してしまいたいのだ。小林の書いていることは、難しくて私にはなんのことかさっぱりわからない。さっぱりわからないけれど、そこには激しいエネルギーがあることだけは感じることができる。それは、きっと、わかってしまえば消えるものかもしれない。「完成」してしまえば、きっと瞬間的に手垢にまみれる「現代用語」になってしまう。「現代用語」になって「辞典」に載る前の、絶叫のような声の高みが、小林のことばにある。あ、すごい声、と私は感じるのである。私はその声に追いつけない、同じ高さの声を出せない。―そういうことだけを知らされる。自覚させられる。この敗北感はうれしい。私の知らないところで、ことばはまだまだ生きていると実感できるから。
(以上、谷内氏の批評文である。途中省略したことをお許しください。)


編集後記からの小林稔のコメント
 今年も残すところあとわずかになった。書き続けることによって自らを変えていかなければならない。私のような無名詩人にも日本全国から詩集が送られてくる。何度も読み返さなければ返事を差し上げることがはばかれ、ついそのままになってしまうことが多い。次号から詩集や詩誌紹介のコーナーを設けたいと思う。今回は谷内氏のネット批評を述べてみたが、谷内氏の批評に対してコメントを寄せ、それに対して他の人や谷内氏のコメント、作者本人のコメントも寄せられることもあり、使い方しだいではネット上での相互批評が可能であることを実感した。
 それにしても谷内氏の旺盛な批評は驚きである。詩のホームページやブログはたくさんあるが、創作や批評が遊戯性を感じさせ、私は敬遠していた。しかし、谷内氏の毎日のようになされるネット批評は、時に作者にとっても多くのことを教えられるものになっている。詩は読み手がいて成立するものである。とくにエクリチュールを重視する詩は、書き手の意識に多くの他者を内包させなければならないと思う。今回の私の作品への批評は、私に、井筒俊彦氏の「言語アラヤ識」理論を思い起こさせるものであった。
 来年も年四回の発行は続けたいと考えている。今年は「詩と思想」の詩誌評で光富いくや氏に二回ほど取り上げていただいた。感謝するところ大である。連載の「自己への配慮と詩人像」はとうぶん続きそうである。後半の詩人像にできるだけ早く行き着けるようにがんばりたいと思う。まだまだ未熟であるが、丁寧に読んでくださる方もいて励まされている。どのような理論も創作においては忘却されるべきことであり、意識下に内蔵されるものである。東洋哲学でいう「無」や「空」の絶対無分節者から表層へと忽然と立ち上がる言葉こそポエジーなのではないか。「無」や「空」のエネルギーに満ちた領域へ辿るには、主体の意識の無化を必要とする。白紙に向かうとき、忽然と立ち現れる想念の引き金となるものは何か。現象界に生きる私たちの「経験」から不意に訪れる風のようなもの、一種の啓示のような何かではないだろうか。(十二月五日)


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