ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

ショパン論 小林稔評論集『来るべき詩学のために(二)』より

2016年01月01日 | ショパン研究

小林稔季刊個人誌『ヒーメロス』20号に掲載


  『ヒーメロス』最新号(20号)2012年3月25日発行 無断転用禁止


書評 (前編)
情念のエクリチュール
小説『ショパン 炎のバラード』
ロベルト・コトロネーオ 河島英昭訳 集英社 二〇一〇年十月刊
小林 稔
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 今しばらくは私の音楽との関わりを通して、ロベルト・コトロネーオというイタリアの新鋭が、一九九五年十月に満を持して(訳者の弁)世に問うた処女長編小説、原題『プレスト・コン・フォーコ』(情熱の炎をこめて迅速に)の日本語訳を読みながら、主人公が音楽に抱いた思念を考え、それを一人称で書き進める小説のエクリチュールを考察してみようとするのが、この短い書評の意図するところである。
この書物を語りつぐ「私」なる人物、ピアニストの巨匠アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが七十五歳で亡くなった四ヵ月後にこの小説は出版されたことになるが、作者は「私」がミケランジェリであることは明かしていない。しかし、記述の内容から他の人物であるとは考えにくいことである。生前から謎の多い人物であるということのほかに、主人公の名を明かさない理由の一つに、ミケランジェリの音楽への思念は、あくまで作者自身の想像の域を出ないことにあるのではないか。当然のことながら作者の解釈にすぎないのだが、真の人物像にどの程度肉迫しているのかを読み手に納得させることができるかに、この小説の真価が問われるであろう。コトロネーオの描く〈ミケランジェリ〉が、私自身の〈ミケランジェリ〉と相違することを恐れながら、ドラクロアの描くショパンのデッサン画をブックカバーにもつこの小説を私は読んでいった。

「情念の筆跡というものもあるはずだ。」小説の書き出し、第一章の冒頭は、この一文から始まる。物語の中盤で、「私」に不意にもたらされることになる、これはF・ショパンの「バラード四番」の手稿譜を示している。十二章とエピローグからなるこの物語の第一章と第十二章、そしてエピローグが「私」の現在時、つまり一九九五年、スイス山中の山荘における、死の直前までになされる幼年時代の追憶、後年の著名なピアニストとの邂逅などのモノローグが記される。その間の第二章から第十一章が数年間のパリ滞在の回想になる。そこで偶然に知り合う一人の女性と、ショパンの手稿譜を「私」に託すロシア人男性との出逢いなどが語られる。
  
   一

五線譜に書かれた、なめらかに、荒々しく刻まれた音符の群れ、閃きを定着させる表音記号。例えばショパンのプレリュード集のある曲に人々は名前をつける。しかし彼は思うのだ、「音楽を何か別のものであるかのごとくに意味づけようと」すれば、「冒瀆以外の何ものでもない」と。

私に見えるのは一台のピアノだけだ。(p.10)

幼い子どものころ、母親がチェルニーの練習曲のために使用していたピアノに向かい、《幻想即興曲》を弾いていた瞬間、不眠の夜を過ごしたせいで発熱していた彼は、女性に対する想念がかすめていき、「漠とした不確かな霧の中へ」右手は速度を緩めていった。《作品》が生身の異性への関心を呼び起こしたのである。その後十四歳になった彼は、ラフマニノフのピアノ協奏曲四番ト短調を弾きこなした。「まるで全世界が私の気紛れに、平伏しているかのように思いこむのであった」。十五歳で音楽学院の卒業資格を所得する。あたかも、「成熟した女にならないうちに、あまりにも早く愛の果実を知った小娘のように」、男を見れば誘惑し思いを遂げながら男を閉じ込め、「男の目からおのれの妄念の代償を引き出そうと求めつづけるのであった。虚しくも性の虜になった自分自身を解放させようとするように。未熟であった彼からスタインウェイのピアノ一台は「調教師のように」才能を引きずり出し、人々は彼を天才と褒めそやしたが、彼は怯え戸惑うしかなかった。彼は自分が天才に値するものと思えず恥じてさえいたのである。今日の人々は彼を変人扱いにし伝記を書くように求める。彼はそこから解放されたいのだ。彼には「我慢がならない」。「私は自分のことを大切にしているだけ」である。今や音楽を読み解くことだけが日課になっていた。

 ヴァイオリンやチェロは演奏者の肉体の一部であるかのように音を響かせるが、ピアノという楽器では演奏者は「物理的に音楽から切り離されている」。「私」の情感を強く表現することには限界がある。ピアノには演奏者と音楽との距離が絶えずあり、楽器との対決を強いられる。そうであるなら、「音楽はそれ自体で漂っていくべきだ」と彼は考えるようになった。

楽器というものは、際限のない不実さで作られている。弾き手が若くして、自分の望むすべてを演奏するために、ピアノのテクニックを身につけていても、演奏するための円熟さを備えていなければ。ただし、それを実践できる円熟さを備えたときに、かつて若き日に身につけていた、あの指の完璧さを、失っていれば。そして八十歳の老人が同じ柔軟性を駆使して弾ける、と信じることができるのは、批評家たちだけである。(p.30)

演奏家にとって《作品》はどのような存在なのかを考えたとき、一様でないことは想像される。作曲者とその《作品》との関係が深く関与するからだ。この小説の主人公「私」(ミケランジェリ)とショパンについて考えてみよう。「私」は幼少のころから難曲を弾きこなせる技術を獲得している。彼の人生経験は、大人たちが《作品》に喚起される人生を完璧に弾きこなすことで擬似体験される。右に引用した「演奏するための円熟」さは、楽譜を読み解くことと実人生を送ることの複雑な様相のもとで養われるだろう。あらゆる現代批評がそうであるように、《作品》は作者を超越するものとして解釈される。音楽に人生を擬えるのは彼にとって冒瀆であった。

  二

ショパンの音楽には、創作の契機となった現実の体験を超えて踏み出そうとする音の世界がある。とはいえ、リストのように技巧を凝らしたピア二ズムに走らない。それは現実と隔離した別の世界だ。ショパンには、イデア世界に羽ばたこうとする高揚感と、現実に楔を打ち込むような激情が湧出し、それまでの美的な世界に亀裂をもたらそうとする欲求が生まれる。それゆえ現実との接触は絶えずあり、たんなる夢に終わることはない。少年の無垢な空にとつぜんに襲ってくる深い哀しみを表現するモーツアルトとも、厳格な理想主義の、恐ろしいまでの至福を垣間見せるベートーベンとも相違するショパンは、ある意味で「青春」の原型を表現したといえるのではないだろうか。
二十代半ば、偶然にもミケランジェリの『フレデリック・ショパン』というレコードに私は出逢った。一九七一年にミュンヘンで録音されたとライナーに記されている。A面には十のマズルカが第四十三番から始まり次が第三十四番というように置かれ、おそらく曲想の配慮からミケランジェリ自身が順番を構成し直したと思われる。B面には《前奏曲嬰ハ短調作品45》、《バラード第一番ト短調作品23》、《スケルツォ第二番変ロ短調作品31》の三曲が収録されている。私はこれらを「青春三部作」と勝手に名づけた。私は熱心なクラシック・フアンではなかったが、それまで聴いた演奏とはどこか違うものを感じた。ミケランジェリの奏でる音楽を聴いているとき、私はピアノの鍵盤や演奏者を連想することがない。鍵盤から遠いところで音楽そのものが自らを奏でているといった印象であった。私の固定観念では、ピアノの華やかさはどこか貴族性を匂わせるゆえの虚飾に結ばれ、真の人間性から遠い存在に思われていたのであった。だが、ミケランジェリのショパンは質素な暖炉の燃える、あるいは窓からアルプスの見える山小屋から聴こえてくるような響きであった。それでいて崇高な音の響きを耳に残した。それ以来、彼の弾くベートーベンやラベルやシューマンを録音したレコードを立てつづけに聴き、ミケランジェリ以外の演奏にも耳を傾けたが、最初に受けた印象は消えることがない。さらに三十歳にならんとするころ、私は無謀にも自らピアノを弾くようになったのであったが、演奏することで作曲者の内面に深く分け入りたかったという一念からであった。

程度の差はあれ、すべての芸術家は実人生と芸術から知りえた他者の人生と《作品》を受容し、創造の糧にしていくのだが、ショパンという作曲者と「私」という演奏者の、芸術への志向が交差する場をもちえたということがわかる。芸術は人生の模倣ではなく、人生からすべてを分析できるものではなく、その領域からの「超出」こそが芸術の真髄であるということである。それは後期ロマン主義と称されるショパンのいくつかの《作品》を特徴づけるものであると思われる。例えば《エチュード作品10、25》。練習曲という枠を超えて全体を一つの紆余曲折のある流れとして捉えている。あるいは《プレリュード作品28》の構成を考えてみれば納得されるであろう。それぞれの最終曲の劇的な終わりは、音楽に終止符を打とうとするかのようだ。ショパンの人生に降りかかった破局、それが愛や疾病であろうと、危機を梃子に「流れ逝く時間」を直視ようとしている。《バラード第四番作品52》。この楽曲のフィナーレの激しさもその一つに過ぎないのである。主人公の「私」は、ショパンの楽譜からショパンの見つめた「時間の真髄」を音で追っていくのだ。それは一つ一つが原子のような音の流動である。それは演奏者とピアノとの対決を通してのみなされることであった。
ところが「私」に転機が訪れる。ショパンが「死の直前に書き遺したという《バラード第四番》の手稿譜」の予期せぬ出逢い、それはいかにしてなされたか。それがこの小説の主題であるが、「私」の音楽に陰翳の足跡を刻むことになった。

  三

あたかも芸術論らしき様相を呈していた第一章が終わり、第二章から第十一章までがこの長編小説の本領である。しかし、帯文に記された「未発表楽譜をめぐる音楽歴史ミステリー」であると期待して読むならば落胆するに違いない。すべて一人の音楽家の内省的告白以上のものではないからだ。
死の年、つまり一九九五年の追憶は十七年前に始まる数年間に遡ることになる。当時ミラノに居を構えていた彼に自動小銃が突きつけられる。一九七八年四月のことだ。アルド・モーロ前首相がテロリスト集団の手に落ち、ミラーノは厳戒体制下にあった。四名の官憲はドイツ・グラマフォンとの契約書簡の入ったカバンを奪い、その内容を理解できない彼らは「私」を反政府の危険分子として連行し彼は留置所で一晩過ごした。翌日彼は釈放されたが、身辺を整理しイタリアを離れた。
彼が亡命の地に選んだのはパリであった。セーヌ川のオルレアン河岸に面したアパルトマンに、スタインウエイ社、一九三八年製のCD三一八型のピアノといっしょに身を落ち着かせた。そのアパルトマンはサン・ルイ島にあるミツキェヴィッチ記念館とポーランド図書館のごく近くに位置していた。ミツキェヴィッチは生涯を亡命のうちに過ごしたポーランドの詩人で、その詩に触発されたショパンは四曲のバラードを書いたと伝えられる。ポーランド図書館にはショパンの遺品や自筆譜、デスマスクまで展示されている。
ピアノという楽器は室内の環境や空気の湿度によって微妙に音色を変える。ましたそこに弾く者の心理状況が加われば鍵盤の深さがいつもと違っているように感じられもする。彼はミラーの滞在時から《ノクターン作品48‐1》の録音を考えていた。このピアノは完全であると主張する技術者に抗議するため、しばらく指を置くことなく、サン・ジェルマン界隈のカフェを梯子してはそこに座る女性を眺めていたが、いく日か後に再び情熱が湧き上がりピアノに向かうことが多くなる。
ある晩、ラスパイユ大通りとレンヌ通りの交差点を少し過ぎたところにあるカフェで、一人の若い女性に出逢うことになった。「彼女の顔立ちは、ドラクロアの絵に描かれた、大きな帽子の娘のことを、思い出させた」。以後、彼は帽子をかぶった娘と名づけるようになる。娘を連れて(彼女がそれを要求したのだ)帰宅したのであったが、翌日、音楽について語ることをあれほど嫌っていた彼が、あのノクターンについて息つくひまなく話しつづける。なぜか?

ショパンのあの曲と、あの女に私が触れて服を脱がせることのあいだには、類似したものがあったからだ。(p..46)

そう記してすぐに否定する。音楽には他の動きに類似しているものはなく、明晰なものであると。「ひとりの男の性的衝動と音楽感覚との危ういバランス」を保とうとする。「私にとってダンテ風の地獄」とまで記される。この二つの相反する思いを断ち切ろうと、彼女にもう逢うことなく、ノクターンからも離れようと彼は心に決めたのであった。
「私が九歳か十歳のころ」であったと記す。ベートーベンの《熱情》を求められた演奏会で、多くの演奏者に賞賛を浴びせかけるために作られたに過ぎない速度に反抗し、最終楽章をテンポを速めずに弾いたのであった。そのとき彼は「自分が弾く作曲家の主人になった」ことを知った。それ以来、「自分の完璧主義との闘い」を始めるようになった。「世界と生き方に対する私の確信とヴィジョンとを明確に反映させようと」する「微細な部分への妄執」が、いっそう孤独への道を突き進ませることになった。このような彼だけが感じ取る「差異」について聴き手としての他者がいなくなり、「同じ感性を共有」してくれる者がいなくなることが問題である。それゆえの孤独である。それはあらゆる芸術上の問題を喚起する。耐えなければならない孤独であるが、それはどのような有意義をもたらすのであろうか。

私はピアノを弾くことによって人生を過ごしてきた。いままでに誰かと何かの取引をしたこともない。(p.56)

 三メートルはある二階のアパルトマンの窓の下で、五時間も私のピアノに聴き入る男がいた。「私」が何者であるかを明らかに知っている。「私」はドビュッシーの《ベルガマスク組曲》をしきりに弾いていた。髯を生やした虚ろな眼差しのその男は、「悶え苦しみ」「金縛りにあったように身動きができなくなっていた」。
「金銭の必要に迫られているのだろうと想像してみる。とにかく事情を知るためにカフェに誘い話を聞くことになった。ロシアで三度「私」のコンサート聞いたことがあるといった。エフゲニーという名のパリに亡命してきたロシア人であることを自ら明らかにするが「私」は強い疑いを持つ。しかし男がバラード第四番の自筆譜について語り始めると関心を持たざるをえなくなった。この楽曲が終結すると誰もが思っていると、第二一二小節以降コーダの始まり、「鏡の内に映し出されたかのように」「感情の爆発のごときものへと収斂し「作品の終わりを告げる決然とした怒り」が繰り広げられる。「抑制されて、ひそかに持続していた愛が、知性の戯れのように、最後にこらえきれずに爆発して、火花の感覚のように、周囲を驚かすのにも似ている」と「私」は考えるが、その終結部(コーダ)について明確にすべき言葉をもたないでいた。別れぎわにエフゲニーはショパンの自筆譜を後日持参することを告げる。「あなただけが、完全に弾きこなせることができるでしょう」と言い残して。男は何かしらの金額で「私」と取引をしようとしていることを暗に知らしめたのである。

   四

敢えて待ちつづけようとする好奇心の形態もあるのだ。(p.60)

 ミケランジェリは高名なピアニストの中でも最も録音する曲が少ないピアニストの一人だ。録音だけでなく、まれに開催されるコンサートを突然キャンセルすることでも有名である。この『炎のバラード』という小説において著者コトロネーオは、「私」の思念としてさまざまな想いを書き込んでいる。ミケランジェリ自身の自伝がなく真実は闇に包まれてしまった以上、他者の詮索に委ねるしかない。第三章はピアニストになり変わった「私」の告白である。ドビュシーの前奏曲の第二巻の収録のためパリに来ていた。十二の小品で全三十八分のために十年の歳月を費やしてしまったことを嘆いている。ルービンシュタインなら、第一巻、第二巻の合計二十四曲を録音するのに二日間で終えてしまうというのに。収録に時間をかけるピアニストにグレン・グールドがいる。「私」よりもっと時間をかけ、バッハの《インベンション》に二十年弱を費やした。ひとつの曲のある部分を納得できるまで何十回となく繰り返し、最良の部分をモンタージュする。聴き手にとっては何の相違も感じられないというのにである。しかし「私」はそうはしない。「私」と「私のピアノ」は一体であり、作品は演奏されるその瞬間における「私」である。その瞬間において「私の未来は、すでに、再構築されるべき過去と、似ているはずだ」と確信している。あのロシア人が金銭を巻き上げようと、よく分からない品物を(自筆譜)売ろうとすることなど「私」にとって何ほどの価値もないことだ。あのとき「私」はなんと動揺していたことだろう。「一時的な虚脱状態」にあったと語られる。これらはピアニストが晩年にスイスの山荘でパリにいたころを回顧する場面である。さらに遡って「私」は幼いころの自分を回想している。
 夕暮れ時、三階の自室で本を読んでいた。「夏の光に輝いていたあの一日が、ゆっくりと翳って、険しい様相を帯び、一瞬のうちに、夏から冬へとあたりが変わった。」家の周囲に闇が訪れ、人工の雪が舞っていた。そのとき白い服の母が現われ、何か言い出そうとする「私」を制止するように視線で示し、ピアノを弾くように命じているのが、母の表情から読み取れた。譜面台に広げられた音符は読み取ることができない。鍵盤の上に両手を凭れかけるだけで体を震わせるだけであった。母は不思議な笑みを浮かべるとピアノの前に座り、「不意に家を襲った雷鳴のように、激しい響き」を奏でた。《練習曲(エテュード)作品一〇の第十二番ハ短調(革命)》であった。「母の左手が鍵盤の上に降りて圧倒的な速さで低い音調を生み出していった」ので「私の心臓は激しく高鳴った。」アルフレッド・コルトーが弾いていたときよりいっそう速く正確であった。これほど速く弾かれた「エテュード」を聴いたことがないと思った。「私の正気を失わせた」ほどである。おそらく「私」のピアノとの、ほんとうの出逢いであった。当時、パリで失意の「私」に訪れた夢のような過去が甦る。世間ではなぜ私が「作品一〇」を演奏しないのかと言う。あの幼いとき聴いた母の「エテュード」が、夢の中で何度も弾かれ、「私」はそのときから、この曲は「生涯にわたって演奏するまい」と決めたのである。いかなる評論家も「私」の心の苦しみは理解できないのだ。
 
私のスタインウェイが独りでに鳴りだすのではないか、あの忌まわしいエテュードの録音を上に乗せた機械が、自動装置のように弾きだすのではないか、と私の不安はつのった。(p.65)

 「私」は願っていた、「過去の数世紀を復活させる力が、沈黙の譜面が白と黒の鍵盤のうちに響きわたりながら、人生の神秘に合致していくことを。」神秘を追い払いながらも追い求めていることになる。「物悲しげな始まり」へと向かうが、それは「無であった」。「無」であるがゆえすべてを可能にする音の神秘、それはどのような場所へも、魅惑的な肉体のまで入り込む。レンヌ通りのカフェで知ったあの娘にも。しかしそれ以上考えようとすると恐ろしさに襲われるのであった。「類似によって音楽を考えようとしたからだ。」

音楽は《意志》だ、《表出》ではない。音楽は世界との関連をもたない。音楽はそれを説明しない。ましてや世界を創出したりしない。その形態を変え、その気質を修正する。私は自分の惑乱や自分の感情に意味を与えるために、楽曲をあれこれと探しに戻ったりしてはならなかった。(p.68)

 宇宙は「音楽的周波から成り、不連続で」あり、不調和であり、不規則であるが、ピアノによって再調整され聴覚によって最後は調整されると考えたいのだが、それでは「私」は「事物を調整する術」を心得た男であるか。しかし当時の私は論理的に調整が困難であった。背反二律において「自分を鍛えてきた」ということができる。「私の肉体と聴覚の幻影」の関係性を断言できずにいるのだ。「私」は古本屋の立ち並ぶセーヌ河岸を歩く。ショパンの《前奏曲(プレリュード)作品二八》の二十四曲がつぎつぎに心に甦ってくる。そうしているうちに足取りは速められエッフェル塔への橋を過ぎ、ジェラール・ド・ネルヴァルが一八五三年に運び込まれた精神病の診療所があったことを思い出した。かつて『シルヴィ』を何度も読んでいた少年時代の自分を顧みた。「私」は読書の好きな若者で、読むことを禁じられた本の書棚もあったが、父の書斎からホラティウス、マルティアリスはおろか、ジョルダーノ・ブルーノ、ジローラモ・カルダーノ、ジャーコモ・カサノーヴァ、プローティノースまで見つけたのである。「最後の作家の、少年に宛てた危険な手紙」までも父は所有していて、大人になってから「私」に説明したのであった。スクリャービンの《ピアノソナタ第十番》の悪魔的で異教的な悩みを、ひどく掻き立てる音楽であったが、言葉を必要としないから許されていた。ネルヴァルの『シルヴィ』は、音楽的物語の破片であるショパンの前奏曲と同様に「私」を魅了していた。ネルヴァルがリストと会ったことは記録されているが、リストと同時代のショパンがネルヴァルと会ったことはないだろう。しかしお互いに名前は知っていた可能性が高い。『シルヴィ』にショパンは熱狂したのではないのか。なぜなら「未解決の部分を含んでいたから」。数日前訪ねてきた友人の言うように、「私」は、ネルヴァルが病んでいた同じ病に冒されているのだろうかと思う。シテ島が眼前に姿を現してきたとき、日が暮れていて深い疲労を感じた。家に帰り、自由に楽譜を選び取れる書棚を見て不安も疲労も消えた。

   五
 
一九七八年六月二十四日早朝、差出人の記載されない一通の手紙を受け取ることになる。「いっさいの世俗的な触れあいを絶っていたが、まだ研究に没頭できずにいく日も当てもなく歩き回っていた。しかし苦しみや不安は消えかけていた。差出人の不明な手紙は恐怖を覚えたが、読むうちに謎は消えていき至福の感覚さえ味わえるようになっていた。手紙は例の謎のロシア人であった。丁寧な裏側には威嚇が張りついてゆすりに手馴れた男であることが読み取れた。カフェで知り合いになった娘が次の朝「私」の家を出るところまで目撃している。「私」を尾行していることまで知らせている。この手紙から与えられた傷は今でも痛む。

 低俗な人間のために自分が窮地に立たされ、自分の創造力を阻まれ、自分が生み出そうとしていた完璧な世界を、すなわち演奏されるべき姿のように演奏されたショパンの練習曲を、混乱に落とし入れられたことには、我慢がならなかった。(p.90)

 《バラード第四番》の完全な手稿譜は誰も所有していない。世間に流布している印刷された楽譜と違っているなら大変な事態である。コーダの部分が始まる第二一一小節から二三九小節は誰もが当惑させられるのだ。「それらに音楽の原子や微細な部分を理解できればと願ってきた。このページにまつわる秘密をどう物語ればよいのか。このコーダを書いていたときショパンはノアンにいた。ジョルジュ・サンドとともに。ショパンはコンサートが開けないほど肉体は病んでいた。親友のウジューヌ・ドラクロアも数日間過ごしたことのある家であった。《バラード第四番》とドラクロアの絵画の大作の間に色彩に関してある種の対話があると「私」は絶えず考えていた。サンドは凡庸な作家でショパンの音楽をほんとうには理解していなかったと「私」は考えている。ドラクロアはショパンを理解していた。おそらくノアンに出入りしていた人物はこのバラードを何度も聴いていたに違いない。ショパンは自ら弾いているうちに何度も書き換えようとしたであろう。ショパンとドラクロアはお互いを真の友人と見なしていたが、相手の芸術の細部を理解していたかどうかを「私」は疑う。「私」はドラクロアの絵が好きである。「あの豊饒な色彩の海に溺れる感覚」が。ルーブル美術館には「二つに引き裂かれた、ショパンの肖像画」が展示されている。「私」の祖父は一八七四年の競売でこの絵を落札しようとして入手しそこねたことがあった。(祖父は素人のピアニストでリストの前でピアノを弾いたこともあり、ドビュシーとも親しかったと聞いている。「私」が生まれる四年前に他界していた。)ドラクロアはサンドの欠点を、ショパンの方は天賦の才と偉大さを見抜き描いたのではないかと考える。「私」があのバラードを愛するのは私自身に似ているからだと告白する。「自制心と熱情、理性と狂気、そして最後に到達する神秘。それらの総体といってもよい。」いく年か前にショパンは《前奏曲作品二八》を完成していた。マヨルカ島での辛い経験をショパンに思い起こさせる。サンドの語るショパンは、「幻覚に囲まれ」た「忌まわしい病人」である。若手ピアニストの練習曲集を聴いても、「彼らの演奏が練習以外の何ものでもない、と感じてきた。」前奏曲集も聴いたが、「冷ややかに弾かれる」だけで、「日々、苦しみ、咳き込んでいたショパンの、あの絶望の気配は、とうてい感じ取れなかった。」そのような演奏になってしまうのは、彼らが技法の妄執の虜になっているからである。グレン・グールドがそうであるように。彼はショパンを弾かなかった。トロントの風景はバッハの風景にふさわしいだろう。もはやそこには修道士も亡霊もいないから。
 「私」の妄執はモスクワに、ロシアの風景にある。ロシア人はショパンを真に理解したためしはなくてもである。ショパンはバラードをホーランドの国民詩人、ミツキェヴィッチの詩行に想を借りた。ロシア人は侵略者である。「侵略者には、バラードが孕むポーランドの精神を理解できない。」ロシアの圧政下にあったホーランドはショパンの苦しみの種であった。にもかかわらず、ロシア人のひとりが《バラード第四番》の手稿譜を保有しているとは奇怪なことである。「だが、なぜ、一度は失われた手稿譜が発見されたのか。「私」はそれを熱情で繫ぎ合わせ再構成したようと「当惑するばかりの熱狂とともに、神秘を暴きたい、と思い立った。」それにはあのロシア人と会わなければならなかった。彼にあって手稿譜を見せてもらい、本物かどうかを確認しなければならなかった。本物であるかどうかを調べるには、ショパンのことなら何でも知っている、ロンドンにいる古い友人と会わなければならなかった。

   六
 
小説『ショパン 炎のバラード』の第五章は、翻訳本の帯の裏面に「未発表楽譜をめぐる音楽歴史ミステリー」と記されるにふさわしい部分である。一般の読者はそういった展開こそ興味をそそられるものであろう。登場人物によって明かされる話においてであり、全体的に多くを占めていないとしても。しかし、この小説はミステリーではない。ひとりのピアニストの心の葛藤を主題にしているのだ。つまりミケランジェリというピアニストに関心をもったことのある人であれば、奇人とさえ噂された演奏上の完全主義とはどのようなものであったのか、なぜ彼が私たちの心を打つのかを考えさせる小説ではないかと私は考えるのだ。とはいえこの小説は芸術論や音楽批評ではない。ピアニスト本人が告白する自伝でもなく、綿密な調査を尽くして書かれたものであっても虚構を駆使した小説である。主人公のピアニストが作品の異稿にこだわらなければならない以上は、その行方はストリーを要求することになる。
ロシア人が所有すると語るショパンの手稿譜の真偽を確かめるため、「私」はロンドンに住む友人を訪ねる。ボストンで生まれたアメリカ人であるが外交官の父に連れられてロンドンに住み始め、その後イギリス国籍を得た男である。「私」がそのジェイムズと名のる人物(仮名で語ることを「私」はつけ加える)と知り合いになったいきさつは、ロンドンで美雲か担当官をする、母方の叔父がジェイムズの父と親しかったことによる。「私」より四歳年上である。若いころ将来を期待されるピアニストであったが、叔父から伝え聞くところによると、「二十歳を過ぎたころ、彼は強烈な精神の枯渇に襲われて、音楽から、一挙に、遠ざかった」という。別の人が語るところによると、登山中の事故で障害を及ぼす後遺症によりピアニストを断念したということであった。今は二年前(およそ十五年前)に亡くなってしまったが、そのころの彼は音響再生装置に関心をもち世界中から機械を蒐集していた。それらの中には精巧を極めた機械があり、リヒャルト・シュトラウス、グリーク、サン・サーンス、スクリャービン、マーラー、ブゾーニ、ドビュシーなどの演奏を再現することができた。ドビュシーを聴かせてもらったときは、彼が自作を弾く作曲家となったのではないかと怯えさせるほどであった。

私は、作曲した者の権威や、その正当性を確立する者の権威に、怯えやすかった…(略)他人によって書かれたもの、与えられたページを、無限に解釈し、説明することならばできる。ベヒシュタイン(自動ピアノ)は、要するにジェイムズの裏返しだった。(p.107)

ジェームスの書棚にはさまざまな作曲家の手稿譜の写真版や複製版が収納され、それらの資料集をまとめ仕事をしていたのである。彼は「私」にショパンの《バラード第一番》の古い話を話し始める。資料を棚の最上部に梯子を使って取り出し示し、「私」に読ませる。たった二ページに過ぎない、このト短調の楽譜の手稿譜がとんでもない高値で売りに出され、彼の友人のコレクターが買い取ろうとしていたが、それを見せてもらった彼はそれが贋物であると見抜いたというのである。真贋を見分けるには内容を理解していなければならないという。「音符の配列のされ方」、印刷された楽譜をまるで写し取ったかのような書き方から贋物であると判断される。ジェームズは別の、《マズルカ作品五九の三》の自筆稿の写真を示し、インクの染み具合や紙の汚れや歪みなどを指摘し、本物であることを指摘する。そして話が「私」にロシア人がもちかけている手稿譜にまで及ぶのであった。ショパンの楽譜を知りぬいている「私」に売りつけようとする危険を侵すものは一体誰なのかと彼は疑問視する。さらに一ロシア人がなぜ親しい友人でさえ、いやヨーロッパ中に秘密にされている「私」の住所を知り訪ねてきたのか、《バラード第四番》の完全な手稿譜がなぜ存在しないのか謎だと「私」に語った。不完全な手稿譜は二つ存在している。一つはニューヨーク、もう一つはロンドンのボドレアン・ライブラリーにある。後者はメンデルスゾーンの妻が所持していたものである。偉大な音楽家がその一部を受け取るなどということがあるだろうか。それに対して「私」は異議を唱える。ショパンは初め四分の六拍子で書き始めたが、その後八分の六に変更して書きつづけた。初めに書いた楽譜はそのまま残り、友人が見つけ大切に保有していたにであろう。ニューヨークにある手稿譜はそれで説明がつくが、ボドレアン・ライブラリーの手稿譜は第一三六小節までしか残されていないことの説明ができないし、それ以降の手稿譜はどこにあるか知られていないのだから。
 ジェイムズは一人の人物の名を口にした。フランツ・ヴェルトというピアニストで、ナチスの犯罪人であり、一九四五年、ポーランドの人の恋人と、チリのサンティアゴに身を隠したという男を。彼は「美青年で、魅力的」であり、ベルリンで多くの人々にもてはやされていた。彼は「特権的な階級を通じてのみ、近づきうる文化に弱かった」。サンティアゴではバウアーと名のった。ベルリン時代、ヴェルトは宮廷のピアニストになり、ナチスの重要人物たちと交友を結んだ。ジェイムスの友人は彼のコンサートを聴いて当惑したという。「なぜならピアノによる霊媒術は彼の(ヴェルト)の諧謔精神を刺激し、興味深いものに思われたから」。ヴェルトは秘密の手稿譜を知る機会をもっていたであろうと「私」に語った。その手稿譜の中にはモーツァルト、リスト、メンデルスゾーン、バッハ、ヘンデルなどの未発表作品があったし、ショパンのものもあったであろう。しかしなぜベルリンに辿り着いていたのかは解明できない。ナチスがパリを占領した後にベルリンに移された可能性はあると語った。
 現在の「私」は、当時ジェイムスが知りえなかった、ヴェルトに関することを知りえている。先述したポーランド人の恋人はクリスティナといい、ともにベルリンを発ち、デンマークに行き身を落ち着かせ、それからオスロに移り、ロンドンに移り数日間滞在しダブリンに行き、そこから大西洋を渡った。後にクリスティナは別の男と駆け落ちした。そのとき彼女はヴェルトがもっていた手稿譜を持ち出してしまった。彼女は(一九七六年にブエノスアイレスで死んだ。ジェイムスはその手稿譜を探そうとしたが徒労であった。ロンドン滞在時にヴェルトは手稿譜を売らなかったのであるから。「私」にわかったことは、バラード四番の手稿譜はどこにでもありうるということであった。実際、手稿譜の多くはベルリンから持ち出されモスクワに渡ったのである。あのロシア人が言ったのは嘘ではなかった。バラード四番の手稿譜は、「パリから盗み出され、ナチスによってベルリンに運ばれ、ベルリンから赤軍によってモスクワに移された」のである。あおのロシア人はそこから手稿譜をもう一度パリに持ち込んだのである。
 ジェイムスの部屋には一九二〇年代のものであろう、スタインウェイのグランドピアノが置かれていた。

時どき、何かを弾いてみたりする。だが、ある日、不意に魂を奪われて、わたしにはその影だけが残っているようなものだ。それゆえ、すでに知っている音色の、あとだけを、たどっている。回転する円盤に刻まれた物音を。あるいは、どれだけ優秀なピアニストであっても、そこまでは決して解けなかった謎を。いわば、不意に、その意味を自分に明らかにしてくれるような、沈黙のページを。(p.127)

ジェイムスの独り言のような語りに「私」は一言も返さずピアノのまえに腰を降ろす。譜面台には《ノクターン作品九第一番変ロ単調》が開かれてあった。ノクターン集の最初におかれる曲である。「技術的には非常に単純であるがゆえに、危険なものであった」と主人公の「私」は考える。私自身もかつて弾いたことがあるノクターンである。遥かなものに寄せる思いが静かに始まり、それが記憶をこちらに現出させる奥行きをもたせて、旅をするときの想念に満ちあふれた曲という印象をもつ。「私」はジェイムズの前で弾き終えると、しばらく沈黙が二人のあいだに訪れたが、それを破るようにジェイムズは楽譜の十五小節目が始まる四小節を指でたどった。フォルテ・アパッシオナート(強く熱情的に)から始まりクレッシェンドがきて、コン・フォウツァ(力をこめて)の部分である。
「魂を両手から失うとは、どういうことか、ご存知ですか?」とジェイムズは言った。右記した小節に正しい解釈を与えられないことであるという。そういう状態は憂鬱(スプリーン)である。「憂鬱が、いわば不意に襲ってきた炎のように、精神と肉体とを一挙に包みこむこと」であるとジェイムズは語る。彼の蒐集した「魂がない機械仕掛けの怪物」を「私」は眺め、「ある日、わたしは魂を奪い取られしまったらしい。その影だけが、わたしには残されている。まさにそれと同じ音を、たてているのです。ロールに刻まれた音を、わたしは……」と口にはしなかったが、「私」は彼の言おうとすることを理解したように思ったのであった。



     後編(七~十三)につづく。『ヒーメロス』20号に、全編一挙掲載されています。


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