ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

天省湖にて、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月

2012年07月09日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』1998年11月刊(旧天使舎)以心社より

天省湖にて

    
      眠りから覚めた。明けやらぬ空の高みから呼ぶ声がした。

     少年はキャンプから抜け出て、かすかに輪郭を見せる連峰に

     視線を馳(は)せる。水面に漂う靄(もや)を映す湖を 山

     々が屏風(びょうぶ)のように重なり合い囲んでいる。

      どのくらいの時が流れたであろうか。東の空が明るみ始め

     た。湖水から立ち昇る靄がいっせいに消え、一条の光が水面

     を走る。

      もう一度、少年を呼ぶ声がしたように思った。低い朝の光

     を背に受けて 妙林山から馬の背まで稜線(りょうせん)が

     くっきりと浮かび上がった。

      少年は立ちすくむしかなかった。青い山影に陽が射し始め、

     ふと見れば、何やら動くものがある。金属板のうねりのよう

     な音を聞いたのであった。耳の奥から発する音のようにも聞

     こえたが、右に左に尾根を辿りながら降りてくる。

      怖れからか 少年の心臓は早鐘のように打った。うしろか

     ら少年を覆うようにして立つ地蔵岳が、静まり返った鏡の湖

     面を覗いていた。

      
      きんいろの日輪が妙林山の山頂にかかった。左手に視線を

     移すと、一頭仕立ての馬車が山腹を走っているのが見えた。

     蹄の音が 馬車の動きに遅れて軽やかに追っている。

      闇が光に変わるように、怖れが懐かしさに打ち消され喉元

     まで込み上げた。

      馬車は湖の対岸に来た。湖が波立ち、空と山と少年の立つ

     小砂利の道をかき乱した。鈴の音が湖の淵を辿りながら、一

     段と高まった。葉叢(はむら)が湖水に いっせいになびい

     ている樹木を縫って、馬車は駆けてくるのであった。

      
      少年は身動きならない。馬車が砂利を踏みしだく音。馭者

     のかけ声はするが、姿はない。
 
      少年の立つ遊歩道を 馬車は疾駆し眼前に飛び込んで来た。

     少年の目にしたものは 幌に凭(もた)れ、瞼をふせたまま

     の父の姿であった。

    「おとうさん!ぼくを連れていって」
 
      かろうじてこぼれた少年の言葉を崩すように 馬は躍りか

    かり、激しく軋む車輪の音を耳に残して馬車は遠ざかった。


コメントを投稿