ヒーメロス通信


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アンドロギュヌス、小林稔第三詩集『白蛇(旧天使舎)以心社1998年11月刊

2012年07月10日 | 小林稔第3詩集『白蛇』


小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より
アンドロギュヌス

          梨の果実を想わせる色と窪み。薄く皮を剥いだら 血が滲

         み出るだろう。十四歳の誕生日を迎えたころから 啓之は自

         分の軀の変調に気づき始めた。サッカーのボールを蹴り上げ

         ていると不安は消える。このまま雨に打たれ、泥だらけにな

         って校庭を転げ回りたい。彼の飼っている犬のシロのように。
        
         
          深夜、快い痺れが 脳天から足の指先に走った。啓之は

         毛穴を刺す針の痛みに目を覚ました。軀を突き抜けた痙攣を、

         もう一度、記憶の中で甦らせた。隣の部屋で空缶を床に落と

         した音がした。机上に開かれたままの数学の教科書。スタン

         ドの豆電球が 彼の脱いだ学生服を 闇の中に浮かび上がら

         せていた。

          午前四時。啓之は 魚のように身をくねらせて射精した。

         初めて襲った言い知れぬ虚脱感に怯えた。彼を囲むガラスの

         容器に 無数の罅(ひび)が走った。母親は息子が見えなく

         なり、息子は旅仕度を始めるだろう。だが、時間はゆっくり

         としか回らない。CDデッキ、ビデオ、ビデオテープ、ずら

         っと並んだ参考書。天井を凝視した。弟と遊ばなくなって、

         ずいぶん時が経つ。わけもなく心が昂(たか)ぶる。壁を叩

         いた。すぐあとで少女のように うなだれ首を落とした。う

         しろからそっと抱かれたら 崩れてしまいそうだ、と啓之は

         思った。そんな自分の弱さに腹が立つ。窓を開けると、冷気

         が頬の皮膚をかすめて部屋の闇を顫(ふる)わせて消えた。

         月が射し込んでいた。アンドメダ星雲から〈使い〉がやって

         くるような気がする。一輪の白い百合が少女の姿を纏(まと)

         い、啓之の胸に降りてくるのだろう。指のすきまから零(こ

         ぼ)れて失ったものを救い上げるように。


          真昼、啓之の脚からボールが空高く舞い上がり、空に吸い

         込まれたか、に思われた。彼は走った。ただひたすら走った。


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