ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

小林稔詩作品「はしばみの繁みで」詩誌「ヒーメロス」掲載より

2015年11月23日 | ヒーメロス作品

榛(はしばみ)の繁みで

小林 稔

 

   一、死

 

榛(はしばみ)の繁みで身を隠しているものたち! 真昼時、通り抜けるたびにどこかで

子供たちの真鍮(しんちゅう)を打ち叩く音、火事を報せる消防車の遠くから響く警報に似た

それを耳にしているような思いがしてならなかったが、繁みに見出すのは淀ん

だ闇だけであったし、ずいぶん長く会っていない人たちの気配がそこから立ち

昇ってくるのであった。いやそれはぼくの思い違いでぼくのどこか頭の片隅か

らやってくるのかもしれない。それにしてもそこから立ち現われてくるのは、

不慮の事故や病気で亡くなったと知らされている友だちだ。もっともぼくが知

らないだけで、遠くで近くでもう死んでしまっている友だちがもっといるのか

もしれないのだ。

 

裸足で庭を駆けてきて縁側で西瓜を頬張(ほおば)っているのは誰? 

 

満水の川岸に辿りきれず溺れ死んだのは誰? 

 

別れて何十年も経ち、ぼくの記憶に居場所を落ち着けてしまった人たちには時

間が止められていて、ぼくだけが老いてしまっているから会うことが億劫(おっくう)にな

る。ある時ある場所を共有していたことは事実だから記憶は永遠に生きつづけ

ることになる。永遠だって? どんなに長く生きてもぼく自身があと三十年あ

るいは二十年しか生きられないというのに。それならむしろ書きとめるべきで

はないのか。しかし記述は再現でなく記述する時間を言葉で生きることになる

ので、新しい生が始まるともいえるのだ。

 

そうであるならば、ぼくの命あるかぎり亡者たちを(そのなかには生存者も

いるかもしれない!)登場させようではないか? 書物に永遠に(とりあえず

は)記されることになる。ぼくのこれまでの時間の鍵が解き明かされるかもし

れない。ぼくの経験から、犇(ひし)めき合っているたくさんの他者たちの声を救い出

し、新しい命の出産に立ち会おうじゃないか。

 

 

 

 

 

 

   二、空

 

ぼくたちの日常を、そこでは人に好意を抱いたり憎しみに身を引き裂かれたりし

ているのだが、すべて包み込んでいる空があった。十歳にならないころ、ぼくは

麦をいちめんに刈り取った畑の真ん中で、雲雀(ひばり)の鳴き声を遠くに聞きながら眠り

についてしまった。気がついたときは辺りが薄暗くなり始めていた。畑の向こう

に民家が孤島のように点在する風景がまどろむ瞼にも見えたし、その先は黒い帯、

(おそらく庭木や森の樹木)が地平にコンパスをひろげて張りめぐらされていた。

 

帰ろうと立ち上がり歩くと、あのうろこ雲がぼくを追ってきた。空は地平の果て

にもつづいている。夕日に映えた空は血を滲(にじ)ませ、おまえを襲うぞという脅迫を

与えたし、空が落ちてきてのみ込まれてしまうというぼく自身の恐怖でもあった

のだ。誰も助けてくれる人がいない(その後、何度そう感じたことか!)、そう

した孤独をぼくがはじめて身をもって知ったときだった。

 

十四歳になったころ、庭から見上げる夜の空は静まりかえっていた。以前の、恐

怖を圧しつけた夕暮れの空ではなかった。この世の事象をすべて闇で蔽(おお)っている

空であった。昼と夜の世界があって二つの領域をぼくはこれから生きていかなけ

ればならないのだ。この空で煌(きら)めく星たちにも孤独というものがあると知ったの

であったが、そのとき空は孤独のもつ峻厳(しゅんげん)と勇気をぼくに教えてくれた。

 

現象の世界と永遠の世界を所有するぼくたち! じつは同じ一つの世界に過ぎな

いのではないか。というのも、現象は永遠のただなかにしか存在しないからだ。

昼の孤独を嘗(な)めつくすさなかにあの金色の光を煌めかせる強靭(きょうじん)さは、無数の傷口

(そう、騙(だま)しあい裏切られ、時に他者や自分を打ちのめしたいほど嫌悪するぼく

たち)が、それぞれの角度に光を放つ鉱石のそれではないのか。その光は、ぼく

たちの胸の深海の波が空を、鏡にして写す海面から超え出ようとする言葉たちだ。

 

copyright2015以心社・無断転載禁じます。

 

 

 

 

 

 

 

 



コメントを投稿