ヒーメロス通信


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雑記、「生成する音楽、ビートルズ」 小林稔評論集『来るべき詩学のために(二)』に収録より

2016年01月17日 | お知らせ

生成する音楽、ビートルズ

小林稔

 吉祥寺にあったビー・バップというロックのレコードを聞かせる店の薄暗い部屋の窓から、朝の通りを行き交う人々を見ているのが私には快かった。発売されたばかりのビートルズのアルバム『アビーロード』が大音量で流れていた。一九七〇年のことである。
 六十年代後半は世界が変わろうとする気配を感じさせる時期であった。アメリカからヒッピー文化が日本にも紹介され、新宿の地下通路を若者たちが寝転んで占拠していた。六十八年には世界の大学生が旧体制を破壊しようと学生運動が起こった。私は地下鉄駅の出口を出て高校の正門に向かう途中、機動隊に追われて逃げる大学生の集団を眼にしたことがあった。このような世界状況の中で、ビートルズはアイドルを脱皮し変貌していった。コンサートは止め音の追求をスタジオで始めるようになり、アルバム単位で発表するようになっていた。今、ドキュメントビデオを見ると、スタジオが実験室になっていたことがわかる。即興のギター演奏で語り合い、それぞれの音楽の断片がスパークし、ひらめき、つまりその場で破壊と創造をくり返し、構成されていく。レコーディングを何度もやり直し終了するまで続くのだ。『サージャント・ロンリーハート・クラブバンド』のアルバムからアーティストの道を歩み始め、実際世界中の芸術家から、それまで否定的な評価を下していた芸術家からさえ絶賛されたのであった。
 やがてビートルズの解散という時期が訪れ、次の段階に入っていく。それはアーティストへと歩き始めた彼らにとっては必然的な、すべての芸術家の宿命として与えられる孤独の道程であった。解散後、ポールは彼の本来の持ち味であるポップ調のアルバムをいち早く発表したし、ジョンはギンズバーグ調の自己の叫びを激しいリズムで表現していた。ジョンはロック界の詩人であった。彼の中で音楽は生成し続けていた。つまり、人生と音楽を一体化させ、自分の人生を生き抜くことで真実を見つけ出そうとしていたのだ。アルバム『マザー』は傑作である。『イマジン』で社会的なテーマで世界に訴えたが、その後はアーティストとしての困難な道を歩んでいる。四十歳にならんとするまで、日本人の妻、ヨーコとの間に授かった子どもの養育に当たり、音楽から遠ざかっていた。四十歳になったとき、家族をテーマにした『ダブルファンタジー』というアルバムを発表した。喜びを持ってスターティングオーバー(再出発)しようと世界に向かっていくジョンがいた。経験からインスパイアされるほんものの芸術家がいた。しかし、発売されてまもなく一人の熱狂的なファンの銃弾を浴び命をなくした。
 七十年前後の時代の風潮の中で私は詩を書き始めた。私は、アーティストになってからのビートルズには大きく影響されたが、ビートルズから何を学んだのだろう。四十年たった今、私は、それは生成する芸術の力だと言うことができる。生き様が芸術を生み、その芸術が芸術家を変貌させていく。つまり生の変革なのだ。それは奇抜な生活をすることではなく、あらゆる固定観念を棄て自由を得てひたすら信じるように生きることだ。自由に生きられる環境を選び人生を歩くことで世間の多くの人たちと乖離することでもある。
 その後、様々なポピュラーミュージックに出会ったが、そのとき限りの消費物に成りさがっている。今や音楽も文学も売ろうとする商業主義が露骨に表わされ、買い手も喜んで乗せられているように見える。ビートルズのような存在は二度と現れないだろう。



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