ヒーメロス通信


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ディオニソスの系譜 小林稔個人誌「ヒーメロス」11号2009年9月発行

2012年02月13日 | バタイユ研究

書評
ディオニソスの系譜(400字詰め25枚)酒井健『バタイユ』(青土社)二〇〇九年四月刊
小林 稔



射程

 バタイユという大いなる矛盾体を、この書物は、第一章、夜(夜のなかの生)、第二章、グノーシス(異端のグノーシス)、第三章、非‐知(「逆説的な哲学」への旅)、第四章、死(死への意識、第二の死のために)第五章、中世(生の連続体への欲求)の五つの視点から考察し、現代の生とエクリチュールの将来を解明しようとしている。
バタイユは非常に名を馳せた作家であり、七〇年前後には多くの著作が翻訳され、詩人たちにも読まれて、悪の作家、異端の作家というイメージが定着し、すでに論じつくされた感がある。いま改めてバタイユを問題にする意味は何かと考えたとき、この書物の、二〇〇〇年以上に亘る西洋文化史からのバタイユ論の意義は大きいと言わざるをえない。まえがきで述べているように、バタイユの「近代性批判と根源の生への激しい欲求」は、現代思想が凌駕できずにいる領野に「覚醒の契機」になりえるであろう。酒井健氏の視点の根底には、思想的背景を軽視し科学や政治の問題を摂取してきた日本の近代化と、温存された前近代的意識のアマルガムが享受しなければならない「報復」を見据える視点がある。現代の混迷はそのまま現代詩の混迷でもあり、この書物が、打破すべき一歩にとっての指標になると私は信じている。

バタイユにとっての中世

 西洋史という地盤の暗部に、二つの大きな力の継続した流れが脈々と息づいていることは、これまで多くの論者が指摘してきた。古代ギリシアで形象化され名づけられたアポロンとディオニソスの像である。この二神は元来、人間に備わる一つのものが分岐したものであり、ニーチェが『悲劇の誕生』で「ディオニソス的なもの」を言語以前の生の根源として
論じたことで知られる。ニーチェの思想に共振したバタイユが、近代性批判の軸としたものだ。ミシェル・フーコーが『言葉と物』で詳細に分析したように、西洋の十七世紀以降、それまでの生の動きと言葉の一致が破られたのである。
 酒井氏の言葉を借りれば、「西欧の近代は、言葉の精神世界で眠り続けることを選んだのであり、科学革命、産業革命、政治革命を通して、徐々に人間の理性の力能を信じていった。神に依存しなくても、理性だけで文明を至福に導けると確信していった。神の位置を人間が占めるようになり、言葉はもはや神の持ち物ではなく、人間の持ち物とされた」(要点概略)のである。西洋の言語観は聖書のそれがもとになっている。中世のキリスト教世界は、新プラトン主義をとりこみ、光を神の言葉とし、闇を「神から見棄てられたもの」とする考えに、物質と精神のつながりを見る考えが加えられていったものである。ゴシックの大聖堂のステンドグラスからこぼれる光には「創世記」に描かれた光と、自然崇拝から起こる光の両方への想いが感じとられるという。ロマネスク教会の内部の装飾には「この地上の物質的なものすべてが様々に表出させている霊的な気配、神秘的な生命感のようなもの」があり、バタイユは若いときからランスのノートルダム寺院(ジャンヌ・ダルクの栄光の場として有名)の荘厳さなどに魅了され、カトリックに帰依したが、一九二〇年、ベルグソンとの出会いをきっかけに棄教する。しかし一九三〇年代後半の講演では、祭壇の十字架上のイエス像、そして葬儀と埋葬の場という死の気配を漂わせる教会堂がいかに中世の共同体に強い結集力をもたらしていたかを彼は熱心に語ったという。
 中世という時代の捉え方にはさまざまな変遷がある。「劣悪な退行的時代」という見方から、「中世においてもルネサンス、つまり古典古代の理性の復興はあった」とする見方へと移行するが、バタイユの見方はこれらと異なる。酒井氏によると、理性を相対化していたのだという。中世の人々も理性を備えていたが、理性を超える力を自然界や人間に見出し、強く心を動かされていたし、その力の体験を聖なる事態として高く評価付与していたという。それに較べて近代人は理性によって自然界の力を抑止し、個人の延命」を重視し、「理性的な個人主義、人間中心主義の時代であった。中世の人間は非理性的な力を神聖視し尊重していた。しかし、バタイユは、中世に回帰することを唱えたのではなく、中世から近代を捉え直し、理性信仰の眠りを貪る近代人を目覚めさせ、別な感性、別な価値観、別な道徳観に目を見開かせたかったのだと論じている。つまり近代の相対化という目論見なのであり、現代思想の傾向に沿った主張であるという。
 

 ソシュール言語学への批判

 酒井氏は、ソシュールは「物」に対する「言葉」の先行性と独立性を強調した人だ、と述べ、丸山圭三郎氏の『ソシュールの思想』を引用しながら、言葉以前の言語主体の経験の重要性を指摘し、まず第一に問題にすべきは、「風土の条件」なのではないかという。
「混沌たるカオスの如き連続体」の一部を言語は切り取り、非連続化して概念化するというのがソシュールの考えであるが、酒井氏は、先行するのは言葉の存在ではなく、「カオスの如き連続体」の感性的体験なのではないかという。十六世紀までは、言語主体が連続体とつながっていながら差異を感性で体験し、「差異の対立化活動」を発動する欲求をもち言語が生まれ社会で認知され、その言葉によって非連続化されていったのではないかと述べる。重要なのは、風土に生の連続体がどのように存在しているのかということである。連続体との生のつながりを望んでいた背景には自然崇拝の念が影響していたと考える。自然界のなかに聖なる現象を見出し交わることを強く欲求していたという。その後、十七世紀からデカルトが現れ、ソシュールが説くような、記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)の結合体に変化しいった。自然と人間が主体と客体となって分離したのだという。以後、言葉は知的な道具として発展し、活版印刷術、プロテスタンティズムの聖書重視の傾向などにより、話し言葉から書き言葉に移り、文化の周辺部にいた知識人たちが中心的存在になっていったという。十九世紀末頃から、近代物質文明に抗う芸術家たちが現れる。抽象主義のカンディンスキー、象徴主義のメーテルリンクを列挙して論じている。バタイユは前述したような中世に共感し、「カオスの如き連続体」に入っていこうとしたのである。プロティノスから影響を与えられた中世キリスト教神秘家たち、例えばイタリアのアンジェラ・ダ・フォリーニョ、中世末期の、功利主義的な風潮からの極端な逸脱者、ジャンヌ・ダルクやジル・ド・レへの関心の理由であると説いている。バタイユが中世の人々に見た情動は、自分中心の快感や嘆きではなく、逆に自分を否定しさる喜びであり涙であったという。

 逆説的な哲学

 酒井氏はヘーゲルの『法の哲学』序文を引用しながら、ゲーテの『ファースト』にあるように、哲学者の理論構築が、世界を若返らせるものではないことをヘーゲルは知っていたという。哲学者は生き生きとした世界を生きながら、「世界の思想」を作り上げることはできないということをヘーゲルは熟知していた。そうであるなら、ヘーゲルは自らの著作、『精神現象学』や『論理学』のような知的構築物をどのようなものと考えていたのだろうかと問う。バタイユは、ヘーゲルは若い頃世界の根底に降りていき、極限的な生に触れたが、そこから逃避したという。緑の世界から遠ざかった理論など絶対的と形容できるのか、絶対的と標榜しながら、自分の哲学が絶対的でないことを、ヘーゲルは自覚していたのであろうと酒井氏はいう。バタイユがいうように、体系とその外部の悪、絶対知とその彼方の非‐知、歴史の完了と未完了は、ヘーゲル自身がすでに意識していたであろう、がそうであっても、彼はバタイユのいう「恍惚の道」を歩むことはしなかったのだと酒井氏はいう。
 恍惚とは自分の外に出る、つまり脱自(エクスターズ)の状態を表わす。この自分の外の世界をバタイユは非‐知の夜とした。人々を高揚させ、生命に満ち溢れた輝く世界である。バタイユはそのような夜の世界に降りていく。非‐知は知に反省を促し、「積極的に知の働きに迫る」のである。
バタイユ自身の回想によれば、十七歳の頃にはすでに哲学的野心を持っていたことになる。哲学といっても一般的なものではなく、逆説的な哲学であった。哲学とはフィロソフィア、つまり知を愛することであるが、逆説的な哲学とは、知を愛さない哲学というと解することができると酒井氏はいう。「知る行為とその成果の知識を大切に尊重した」バタイユは、「知の彼方をめざした」のである。つまり、不可知のものに知を差し向けたのである。しかし、言葉で伝えることは不可能な領域であるがゆえに、不可知のものがあることを伝えようとしたのだ、と酒井氏はいう。したがって、バタイユの無秩序なテクストは、彼が体験した無秩序なものの表現になるであろう。しかし無秩序な知の彼方を感じ取ることはできる。バタイユは論理的な表現を推論的言語と呼び、知の彼方の内奥性は推論的言語ではとうてい表現できず、「個人であることが消え去る熱狂や、大河の捉えがたい響きや、大空の空しい透明さを持ったもの」であり、「内奥性」は、非推論的言語で切り抜けるしかないと述べた。非推論的言語は詩的な表現であり、我々の内部に秘められたいながら表出してくるものを何らか感覚させると酒井氏はいう。しかし、バタイユは執筆する著作によって、この二つの言語を使い分けるようになる。『無神学大全』三部作は非推論的言語で、『呪われた部分』、『エロティシズム』、『宗教の理論』、『至高性』というふうに。それらの理由を、第二次世界大戦中に露呈した人間の内奥性の未曾有の暴力、すなわちアウシュビッツ等の強制収容所でのユダヤ人の大量虐殺、広島、長崎への原爆投下といった殺戮行為と、『無神学大全』に対する読者の無理解にあったと酒井氏はいう。不可知な内奥性に対する一般読者との距離が増したためである。
 
非‐知とは意味づけに逆行する内奥からの根源的暴露作用である

「認識するとは、何かを既知のものに関係づけることだ」とバタイユはいう。しかしどうしても関係づけられない不可知のものは「意味不明」という意味づけをするしかない。バタイユは逆に、不可知のものそれ自体を露呈させ、見たり、感性的な反応を起こさせ、交わることを欲していると、酒井氏は説いている。デカルトの主体と客体の二元論を乗り越えるため、主体と客体の融合をバタイユは主張する。さらにバタイユの理論はラディカルである。「意識が何ものかの物への意識であることをやめてしまう瞬間へ私たちが到達すること」が大切であり、それは「消費へ解消する一瞬間の決定的な意味を私たちが意識すること」であり「対象として何ものも持たない意識」であるとバタイユはいうのだ。
 バタイユを理解しようとするとき、私たちに決定的に欠落しているキリスト教体験を考えなければならない。今日、「書く」という行為を宿命づけられた者にとって、バタイユがいかにキリスト教から乖離し、しかもなお聖なる概念を持ちつづけ、エクリチュールの構造において、いかに近代を凌駕しようとしたかを考えることは、西洋の人たちの問題にとどまらないことである。ヨーロッパ近代を取り込みながら、なおかつ風土との葛藤に苦悩するわれわれ日本人の問題でもある。書く者の現実から離脱した観念にあるのではなく、日常生活に浸透している。それゆえ、そこまで辿りえたバタイユの思考の根源を考えなければならないのである。
 酒井氏は「一九一四年という年は、第一次世界大戦が始まった年なので西欧人にとって特別の意味がある」と指摘する。バタイユ十七歳の頃である。ランスのノートルダム大聖堂でカトリックに帰依した年であった。しかし、バタイユのキリスト教信仰は瞑想体験が重要な意味を持っていたという。二十歳のころ、オーヴェルニュの村のロマネスク教会に閉じ込められ、一晩過ごしたことが述べられている。扉が閉められことも忘れるほどの深い瞑想体験であったのだ。この啓示を得るためになされる瞑想は、「非‐知と同様に、蔽いを取り除いて、隠されたものを露に示すという開示体験」であると酒井氏はいう。隠されたものとは、キリスト教では「窮極の意味」であり、主体は純粋に知の存在になる。つまり、「窮極の意味を開示する英知の神と、その意味を知ろうとする信者の理性的自我との間の知的な交わりにほかならない」と酒井氏はいう。窮極の意味とは「人間を救済する神の意志」である。一九一四年、戦火の迫るランスに長く梅毒を患っていた父親を残し、母親の故郷、リオン・エス・モンターニュに母親と逃亡する。翌年、残された父親は死別した。

  死の非現実はすばらしかった。だがまもなく夜は明けた。私はホテルの一室に一人で住んでいた。母は隣の部屋に住んでいた。冬の早朝、私は窓からみすぼらしい駅の界隈を見ていた。父が別の都市で突然死んだばかりのことだった。(バタイユ『聖なる神』)

 十字架上のイエスの死は人類を救済する供儀である。「バタイユは一人の敬虔な信者としてイエスのこの行為を深く感謝していたはずだ。しかし同時に、死につつあるイエスを想像しているうちに知らず神学上の聖なる力に、この世界と人間の深奥から湧出してくる破壊的な生の力に、襲われもしていたはずなのだ」と酒井氏はいう。教会における救済と脱自のバタイユの体験は、「逆説的な哲学」や「内的体験」にとって重要な意味を持つ。入信の十年後には棄教し、人間の精神の救済を第一義的に考えなくなり、理性によって隠されていたものを見るようになったと酒井氏は指摘する。

 ニーチェとバタイユ

 神とは人間を神格化したものであるという、キリスト教における神の概念を人間に見たフォイエルバッハの認識を、バタイユは継承したと酒井氏はいう。神とは、自我に与えられた保証にすぎないとバタイユは言った。あれほどまでに神の救いへの意志を語ったバタイユが、それを逆に笑い飛ばしてしまう。「客体の得体の知れない生の力と、主体の側のこれもまた得体の知れない生の力とが交わって、主客が渾然と溶融しだす非‐知の体験」(酒井氏)のほうに歩みを進めるのであった。その契機がベルグソンとの出会いである。

  いっさいを忘却し、実存の夜へ深く降りていく。無知であることをいつまでも深く懇願し、不安に溺れる。深遠の上に滑り出て、寒い孤独のなかで、人間の永遠の沈黙のなかで、震えて絶望する(いかなる文章も愚劣であり、文章という文章が空しい答となり、ただ夜の気違いじみた沈黙だけが答えてくる)。〝神〟という言葉を用いて、この孤独の底へ達したのだ。だがもう神の声は知らないし、耳にも入ってこない。神を無視すること。神という窮極の言葉は、もう少し先へ行けばすべての言葉がなくなるということを意味している。神自身の雄弁さに気づいて(神の雄弁さは避けがたいのだ)、それを笑い飛ばす。無知の茫然自失状態に到るまで笑い飛ばすのだ。笑いはもはや笑いを必要にしない。むせび泣きも同じだ。さらに進めば頭が炸裂する。人間は瞑想ではない(人間は逃げることによってはじめて安らぎを得る)。人間は懇願、戦争、不安、狂気なのだ。(バタイユ『内的体験』第二部「刑苦」)

 信仰を棄てたバタイユを襲ったのは非‐知の力である。「神の正体が人間の理想的自我だとすれば、神を笑うとは人間が自分自身を笑うということだろう。死の危機を感じて救いを求める自分自身を笑うということだ」と酒井氏はいう。バタイユが非‐知のほうに向かったのはベルグソンが契機であったが、それは「笑いは、他者を善導していく教育的な効果を持つというベルグソンの笑いの主張に対する激しい批判であった。一方では「笑いに悪意が潜んでいることもベルグソンは認めているが、笑う人と笑われる人の間に介在する深い共犯関係」にまで思考が及んでいない。「緊張緩和や伝播の動きは笑いの序曲にすぎない」とベルグソンは記したが、そうした笑いこそ、バタイユにとっては本質であった。『眼球譚』の「回想」でバタイユが書いた梅毒を患っていた父親の笑いを引用して、「笑いによって危機に瀕する道徳自我の恐怖心も、それを乗り超えさせる笑いの強い力も、ベルグソンからは積極的に論じられていない」と酒井氏は指摘する。とにかくベルグソンによって提出された笑いをバタイユは本質にまで深めたのであった。
 哲学と笑いでは何といってもニーチェが思い出される。棄教後のバタイユはニーチェの著作を読み心酔していくのである。はじめてニーチェに接したバタイユは、「私の思想、私の全思想がこれほど完全に、これほどみごとに、表現されてしまっている以上、いったいどうして省察を続ける必要があろうか」(一九五二年頃の草稿)と書いている。その二十年後にそれ以上のことを見出し、『内的体験』にまとめ出版した。それ以上のこととは何か。それはニーチェの思想を乗り超え、「別の思想を作り上げることではなく、ニーチェの深部と重なること、ニーチェ自身によっては明瞭に意識されていないが望んでいたであろうこと、すなわち彼の思想の核心をなす部分と共振することだった」と、酒井氏は指摘する。
 ニーチェの自伝「この人を見よ」で表明されているように、バタイユは、ニーチェは体系を志向していなかったと考えていた。「目的を経験的に知らない」「遊びとは別のやり方を知らない」というニーチェの告白は彼の過去を十分考慮しなければならないが、それを書いた一八八八年のトリノにおいてニーチェをそう語らせたのは、そのときの気分的なものであったこと、自伝を書く自分が軽くなっていく体験であったろうことを考慮しなければならないと酒井氏はいう。しかし、とにかくバタイユの共振したニーチェは、「童子のように無心に、無益に、ただ流れるだけの世界の生」と遊ぶニーチェであった。
   
 風土と生への覚醒

 第四章、「死」と題された章に、日本の現代詩から入澤康夫の詩「泡尻鷗斎といふ男」についての言及がある。一九七九年に絵画館の一室で行なわれた、現代詩の動向についての吉本隆明の講演会のことが書かれている。そこで吉本が朗読をし紹介したのが、この入澤の一篇の詩であった。吉本は表現での上手さを褒め称えながらも、内容面での危険な兆候を展開し始めたという。「近代日本人が陥りがちな兆候」として、明治以来、日本の近代化が進む中で、近代西欧の文化を積極的に摂取し、西欧人と互角の表現物を生み出すほどの表現者を生み出したが、「自分の死を意識するようになると、きまってそれまでの独自の表現の仕方、考え方、生き方に言い知れぬ孤独と淋しさを覚えはじめ、「アジア的な」風土への郷愁に駆られるがまま、まるで逆風を向けた凧のようにあっというまにこの風土へ転落してきてしまう。そして何も語らなくなるか、あるいはたとえ息の長い連載を続けても、内容的には自我も思想も希薄な表現物を書くだけになってしまう」というのが、吉本の講演の主旨であったと酒井氏は述べる。
「アジア的な風土」とは何か。「人間と人間、人間と自然が曖昧に溶けあっている湿潤な環境世界」であり、「個人の思想は育まれにくく、また必要にもされていない」風土であると吉本は語ったという。つまり、日本の知識人が独自の思想を表現するには、このアジア的な風土から離脱しなければ、「世界的で普遍的な」表現を形成できない。入澤のこの詩にはアジア的な風土への回帰が見られ、入澤自身も近代日本の知識人たちが陥った転落を余儀なくされているという考えを語ったという。
 酒井氏の主張はここから始まる。この詩に描かれている、泡尻鷗斎(一号、二号と名づけられている)なる人物は、右に述べた日本近代の知識人を寓意した表現であり、そのような生き方のむなしさ、無意味さを語った詩である。その生き方が詩の中で笑われているのだ。吉本は泡尻鷗斎の死に作者の死を見出して笑っているという解釈である。しかし酒井氏はそのように解釈しなかった。笑っているのは誰か。それは、「風土という場を軽蔑まじりに離別していこうとするその姿を逆に嘲笑まじりに眺めている、アジア的風土に密着して生きている人々であるという。この笑いは入澤の共感するところであり、自嘲ではないという。この詩に描かれている自然の存在に酒井氏は注目する。「瓢の中の天地」「羊の足跡」「一滴の水中に宿る幾千万の異形の者ども」などである。「このような風土の存在たちの自由な在り方こそが、滑稽な死をもたらした元凶」であるという。「風土の根底にまで、つまり死をもって迫る風土の自由な生にまで目を見開かない思想家は、風土と風土に生きる人々にただ愚弄されて、訳の分からないまま死んでいくだけだ」というところにこの詩の主題を読み取ったのである。
 吉本の視線の先には、アジア的風土に生きる無名の人々がいたが、個々の人間の死、個々の物々の消滅を、彼らの感性の深さが十分に取り込まれていないと酒井氏は主張する。「アジア的な自我の希薄さは外部の自然に反応しやすいということはあるが、洋の東西を問わず、生への感性は存在している。風土の底に感性を開けば、東洋と西洋、知識人と大衆、独自性云々といった識別は崩れ去るということを入澤は知っていたという。
 入澤は死の意識をどのようにとらえていたかを酒井氏は考察する。「死の意識は大きな生への開けであり、死者たちへの思いは生者たちとの深い糸口になっていた」という。風土とはこの大きな生が見えるところを指す。「風土の風景には、固有性、独自性を問う思想とは別の広大で普遍的な思想が開かれていることを入澤は知っていたという。合理的な近代西欧人がこのことを感じ取ることはまれなことであったろうという。入澤が研究に携わったネルヴァルはその少数の一人であった。「シュルレアリストたちが彼の「オーレリア」を先駆的な存在として称えたが、シュルレアリストが詩の表現の刷新に熱心であったのに対し、バタイユは狂的な幻想を生みだす生そのものに強く引かれていた」と酒井氏はいう。
 入澤は詩人としてネルヴァルやバタイユのような、書きながら存在の道を選ぶことはしなかった。ここで酒井氏はバタイユに論をつなげていく。「異端の思想家としてバタイユは二〇世紀西洋の近代文化のなかに、深層の生への覚醒の道を切り拓こうとした」という。バタイユは「ドキュマン」の論文で、「低い唯物論」の立場から、近代人が嫌悪する変形したもの、腐敗したものといった異形のものたちに存する豊穣な生を示し、西洋の観念的な説明原理、例えば神やイデアなどが笑われ、滅ぼされていくことを欲していたという。
 上昇志向の近代人にさえ、奥深い生に取りつかれているとバタイユは誘惑という言葉で指摘し、西洋の風土の古層ではおおらかに肯定されているという。バタイユはこの奥深い生に全身をあずけ自我を危機に陥れる。自我や主体は消滅する、それでこそ奥深い生の流れに接することができる。「この巨大で圧倒的な生の流れのなかで自分の書いたものがいかにむなしいか、書くそばから意識していたという意味で」、ネルヴァルも、ニーチェも、バタイユも、泡尻鷗斎の一人であったと酒井氏はいう。

 バタイユの思想はポストモダン社会のはるか彼方にある

 二〇〇七年『クリティク』誌(バタイユが創刊し現在も刊行)にペロニカ・ナジ女史の、「中世の情動」という特集号での巻頭言を引用し、「現代西欧の中世史家たちの何人かは、ようやくそのような(実証的な裏付けが得られないまま)感性と勇気をもって、中世人の情動という目には見えないものに眼差しをむけるようになった」と酒井氏はいう。「このような試みは、ポスト・モダンと言われる我々の社会に固有の、情緒への傾倒を反映しているのだろう。…これらの変化は、啓蒙の時代の合理主義を継承する者たちには必ずしも芳しく評価されないが、我々の社会の大変動を意味するものなのだ」とナジ女史は論じた。
 だが、酒井氏は彼女のような情動の中世史家たちに批判を加える。なによりポスト・モダン社会の「情動への傾倒」に批判的なのである。それは「個人の快意」の追求を本質にしているからだという。電子媒体の発達を享受する近代人の姿勢、つまり「メディアを使った個人の欲求の」充足をポスト・モダン社会の人間はもちつづけているからだと考える。「個人は望むまま他者から安らかに隔離され、単体として快適に生き、非理性的なものを自分の体制が壊れない限りで取り入れる、あるいは完全に排除する」姿勢であると言い、「個人の枠組みを超えていく力を支持しているのではない」という。このような見方では、バタイユを、さらに彼が論じたジル・ド・レを単なる悪の肯定論者と誤解されかねないと警告する。ポスト・モダンは消費文化の近代の質的な転換に十分にならなかった、「よりしたたかに理性的な個人主義を実践している」にすぎないというポスト・モダン批判を酒井氏は述べている。

 酒井健著『バタイユ』から導き出される多くの事項を、急ぎ足で取り上げてみた。グノーシスや供儀の問題は割愛せざるをえなかった。書評という制約から命題の閾を跨いだところで終えたが、私自身はさらに追及していくことになろう。
 近代文明の崩壊をニーチェもバタイユも身をもって明かした。近代的理性によって隠蔽されていたディオニソス的な力が噴出したと私は考える。混沌とした生命力は暴力的な力を露出するが、バタイユにおいてはニーチェと同様に、他者に向けられる暴力行為とはならず友愛であった。バタイユの精神的な風土とは、第二次世界大戦に突入しようとする西欧のそれである。近代科学文明の終焉に政治の世界に現れた戦争の暴力は、同じディオニソス的な力の全く違った方向、つまりバタイユのいう夜の世界に対する、ヒトラーの昼の世界での異なった現れではないだろうか。前者は近代を否定、超越しようと目論み、後者は崩壊する近代に固執し、復権を願ったのであった。
古代ギリシアの単子論をルーツとする物と心の二元論が、近代科学に継承され加速されたが、環境破壊や倫理の問題から、自然科学的思考そのものを深く考え、それを取り込むかたちで新しい哲学が提示されることが緊急事になっている。プラトンの著作の翻訳と研究で知られる藤沢令夫氏は、『ギリシア哲学と現代』(岩波新書、一九八〇年刊)において、デモクリトスたちの自然科学を取り入れ、しかも二元論を解体したプラトンのイデア論の有効性を論じている。
バタイユは言語以前の生命力にあふれた世界を生きようとしたが、中世や未開の文明に戻ろうとしたのではなく、酒井氏が指摘するように、十七世紀から始まる近代科学の偏向によって人間性や自然を抹殺する社会を相対化しようとしたのである。私たちも少なからず恩恵をこうむっている西欧理性主義は、そのルーツを古代ギリシア・ローマ文明と捉えらている。したがって近代理性批判の元凶であると考えられているが、私たち日本人は古代ギリシア・ローマ文明を西洋人とは別の視点で見ることができるのではないだろうか。プラトンの哲学は異国の神、ディオニソスを上手く取り入れてしまった。現代哲学がプラトンを批判しながらも乗り越えられないでいるのはそのためであろう。ポストモダン社会の思想に影響され詩作をすることは愚行であろう。シニフィアンとシニフィエの言語ゲームを超えた言語以前の体験を重視すべきである。バタイユはその混沌とした非‐知の世界を、混沌とした伝達不可能な言葉で表現したが、彼はそのような世界に沈潜しながらも近代社会に生きる人々と同様の思考を失わずにいたのである。自らを有罪者とすることはそこに起因する。
 非‐知の内的体験をした者がいかに「コトバ」によって詩を開花させることができるかは今後の詩人の課題であろ。この『バタイユ』という書物では、筆者が風土についての考察をさらに探求していくであろうことを予測させる。今後の展開を待ちたい。また、おそらくバタイユが暴露した近代文明の諸問題を継承し発展させるのは東洋的思考であり、特に世界的に高名な井筒俊彦氏の提唱した「言語アラヤ識」は、ソシュールに始まる西洋言語学を超えるであろう。
「生」と「文化史」からの視点で論述されたこのバタイユ論は、ニーチェよって古代ギリシアに戻され、バタイユによって反近代からの脱出を主体的に引き受ける詩人の今後のありように、大きく貢献するに違いない。

                (「ヒーメロス」11号(2009年)に掲載された論考であり、無断転載禁止)


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