ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

夏の径庭/小林稔・詩誌「ヒーメロス」34号より

2016年09月24日 | ヒーメロス作品

夏の径庭

小林稔

 

 

室内を通過した一陣の風が

食器棚の古傷を嘗めつつ旋回し

両開きの窓を押し遁走した

 

けだるい夏の午後

ここではないどこか

連打するピアノはカンパネラの音を偽装し

遠くさらに遠くへと想いを風に転がす

天幕をなびかせ、捉えられ

さらに駆け抜け、もがき

うしろに視線を向けて

記憶の堆積を確かめるよう

風が傍らをすばやく通り抜け

昔吸い込んだ覚えのある香りが私を呼び止めた

石畳に屹立する建物を一直線に敷衍する街角

水に揺れる尖塔とファサードの縁飾り

奔走する足裏がこころを路上に残し

褪色する遠景を呼び寄せる〈時〉の軋轢

 

セイレーンの歌声に狂わんばかり

身を帆柱に縛り絶え通過したオデュッセウスのように

長くも短い人生の径庭に足をすくわれ

記憶の綱渡りを果敢にもやり過ごす

ためらい、こころもつれ

決然と、そして足踏み、思考停止……

 

今こそ言葉に新しい命を吹き込もう

海水が私の歩くコンクリートの道の足許に寄せていた 

榛(はしばみ)の繁みで記憶から解かれる瞬間を待っている物象たち

あなたに夢見られた生を私が生きようとし

私が夢見る生をあなたが生きようとしていたことだってあるだろう

人生という一場の影の幕引きが明日どこでとも知れずに

 

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