ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「板金工場」米川征、『タルタ』21号2012年5月30日発行より

2012年06月02日 | 同人雑誌評

「板金工場」米川征、『タルタ』21号2012年5月30日発行より

「板金工場」米川征
小林稔

入院している病院の六階の窓から
斜下の地上に
板金工場の敷地が見おろせる

敷地の中央には
古いスレートの工場が建ち
その建て物を囲んで十数台が駐車している
板金工場での塗装の修繕待ちらしい
           「板金工場」第一、第二連

 私たちが詩を読むとき、現実にあったことなのか、虚構なのかを問うことなく、詩のリアリティーについ目がいってしまうのではないだろうか。ほんとうにあったことか否かは読み手には判断できないからである。私は今日(6月2日)、同じ同人のT氏から、この詩の作者が昨日亡くなったことを知らされたのである。米川征氏のご冥福をお祈りするばかりである。以前、米川氏と同じ同人誌でご一緒したことがあり、合評会では旺盛に批評する姿を目にしていた。もちろんこの詩の設定がほんとうでないことはありうるだろう。しかし、「入院している病院」という冒頭は後で知らされたのでほんとうであったことがわかる。詩の真髄は、描かれた事柄が事実であるか否かになく、物事を見つめる眼差しにある。

六人のメンバーが それぞれ
自分の担当する仕事を行なっている
白地にブルーの文字が印刷された作業着である
彼らのしている仕事はくりかえしで
変化がないようだ
でも
少しずつズレているのだろう
そのズレを保ちつづけて仕事を破綻させないようにしているのだ
気がつくとこみあげてくる なみだ・・・
            「同」第三連の部分

 板金工場の様子が描かれている。自分に割り当てられた仕事を作業員たちが行なっている。それを見おろしている筆者が、目の前でなされる繰り返しと思われた仕事を見て、変化のない作業と見えていたものが、ほんとうはそうではなく少しずつ時間的にズレていることに気がつく。しかしそのズレは大きな破綻をさせないように彼らは気を配っているのだろうと、筆者は考える。突然にそのことが筆者になみだをこみ上げらせたのだ。入院している「私」という設定との関連で考えてみなければならない。一般的に言って、「なみだ」という言葉を使えば否定的に批評されるであろう。「感傷的過ぎるのではないか」と。私も一読したときそう思った。最後の四行を深く読み取っていなかったからである。この四行がなければこの詩は生きてこないのだ。たんに筆者の死があったから感動したのではなく、もちろん結果的にはそれがきっかけとなって深く読むことになったが、最後の四行があることによって私は感動したのである。その四行を含む最終連を紹介してみよう。

  明日―あるいは明日ではない日
  今日と同じようにその車は病室の窓から見おろされるだろう。
  見おろされるのがその車であっておかしくない
  見おろしているのがいっぽうボクでないとも限らない
  見おろす暗がりに
  一台の車から出ているふた筋に分かれた明かりが
  しばらくの間 動いた
                  「同」最終第五連

 工場に隣接した駐車場からライトを灯した一台の車が出て行くのを筆者は目撃している。その後につづく場面である。明日もまた「その車は病室の窓から見おろされるだろう」。なぜ「私は見おろすだろう」と書くことをしないのか。「見おろされるのがその車であっておかしくない」というのは一種の強調である。それは、明日見おろす「ボク」は今日見おろす「ボク」ではないことを暗示している。同じように繰り返される日常が病人である「ボク」には適用されないのだ。明日は病状が悪化しているかもしれない。あるいはその逆もあるだろう。私たちは同じ日常がつづくと思っているが実はありえないのである。病気や事故が起こらなくても、私たち自身の肉体の細胞が絶えず生まれ死ぬように、精神の部分も日々変化していくのである。一度限りの人生が逆戻りできないということから、瞬間ごとに死に向かって私たちは生成しているのだといえよう。普段は意識することなく生きているが、死を身近に感じるとき、例えば重い病気を患っている人の視線には、それまでの何げない日常が特別な意味をもって映るのであろう。「詩の始原性は、詩が発生する場所すなわち人間の行為のレベルで獲得されるものである」(西一知氏)ならば、「できるだけ早く老いること」(セネカ)、つまり世界を踏破(知の獲得)することにより、残された時間内で世界に生きることの価値を見い出し、詩作をつづけ、ほんとうの自己の道を歩むことが、詩人に求められているのではないだろうか。死を身近に感じながら現在を生きることである。


「叫ぶ母」柏木勇一、『へにあすま』42号2012年4月15日発行より

2012年06月02日 | 同人雑誌評

「叫ぶ母」柏木勇一、『へにあすま』42号2912年4月15日発行より

「叫ぶ母」柏木勇一
 小林稔

 プラトンによって提出された「自己への配慮」という主題が帝政ローマ期
のセネカによって人生全般における生き方を問われるようになった。フーコ
ーによると、「自己への配慮」とは自己や他人、世界に対する態度をもつこ
とであり、世界から「自己」へ視線を向け変えることであり、自己を浄化し、
変容させることであるという。具体的には「移動と回帰」に要約される。ま
ず「自己への立ち返り」を機に、現在の主体を引き離し上昇させ、俯瞰的な
視線を獲得し、私たちの世界(自分がいた世界)を見つめ、自己を俯瞰する
ことで世界における主体の自由を得ようとするのものである。(詳しくは私
の「自己への配慮と詩人像(三)」を参照。ブログのカテゴリーから引き出
すことができます。)
私が柏木勇一氏の「叫ぶ母」を批評するにあたって「自己への配慮」という
概念を引き合いに出したのは、この作品に見られる筆者の、俯瞰的と近視眼
的の両方からの視点が感じられたからである。作品の紹介を始めよう。

  母を施設に連れて行った
  吹雪の朝
  フロントガラスに吹きつける雪
  ワイパーで消され
  流れ落ちないで塊になる
  扇型にせばまる視界
           「叫ぶ母」第一連

 ある日の一時期を捉えた描写である。悪天候の中で母の介護をする筆者
が浮かび上がる。

   木立の間を過ぎた瞬間
   横殴りに襲う雪 先がかすむ 先が見えない
   後部座席の窓を雪の結晶が覆う
   まだらな光と冷気 身をよじる母の気配
   はあー ほおー はあー ほおー へー
   叫ぶ母
             「同」第二連

 筆者を取り囲む厳しい状況。運転する筆者自身にさえ迫る厳しい自然
と生命を危うくする母親の叫び声。その声を言葉で伝えることによって、
読み手の脳裡に深く刻まれていく。

   最後は
   と言って施設長はパソコン画面から目を離し
   個と個の闘いです
   視線を完全に合わせないで語る
   プロに任せなさい
   視線は画面に戻る
             「同」第三連

 「個」と「個」の闘いとは何か。一つの生命体がもう一つの生命体と
向き合うこと、例えば、かろうじて命を保っている生命体(母親)と、
いつかは死ぬが当分は生きる可能性のある生命体(筆者)との関わりの
ことを言っているのだろうか。「闘い」というのは平穏時での絆の結い
目が、いままさに断ち切られようとするからなのだろうか。

   身体から身がはがれ
   肉体から肉がそがれ
   体が物に化す
   物体になる母
   母という
   個
             「同」第四連

 
肉体と精神を持たされた私たちの身体は、死を目前としたとき、かた
一方の肉体が滅ぶときを死のときと呼んでいる。「身体から身がはがれ」
とは文字通り「体」が残ること。体つまり「肉体」から肉がそがれたと
き、やはり「体」が残る。しかしこのときの「体」は「物」である。私
たちは物質である体と、精神である心を持っている。生前において「配
慮すべき自己とは何か」を考えるため、想像裡に自分の肉体を解剖学的
に解体して考え、この世での生の価値を判断し行動する、セネカと同時
代の後期ストア派のマルクス・アウレリウスがいた。死に近づくことは
物になることである。先に俯瞰的視線と近視眼的視線といったが、この
詩では俯瞰的=普遍的といったほうがよいかもしれない。母親と自分と
いう個別の問題から、世の摂理を冷静に見ようとする筆者の視点が第四
連からうかがえるのである。

   おだやかな冬の日もあった
   雪の結晶がいつまでも手のひらに残り
   滴となって消えていくまで見つめた日があった
   雪が融けると
   この静かな森の道では
   土の塊が 砂粒の個になって崖を転がり落ちて
             「同」最終第五連

 最終部では平穏な日々を回想している。行く手を阻んでいた雪は、か
つては親しい存在であった。雪が消えその下の土くれが崖をころがって
いく。「砂粒の個になって」という表現に、筆者は私たち人間の滅びの
瞬間を見ている。だれにでもやがて訪れる介護と死の問題を読み手に強
烈に突きつけてくる作品である。ひるがえって、詩人は、この世の生を
いかに生きるべきかを、詩作という過程を通して考え、実践し、言語化
しなければならないだろう。