ヒーメロス通信


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連載エセー②「井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を索めて)」解読

2012年06月28日 | 井筒俊彦研究
井筒俊彦研究 井筒俊彦著『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読
連載/第二回
小林稔



詩は言葉で書かれる。言葉で始まり言葉に終わる。しかし言葉は物が存在するようにあるのではなく、物あるいは事を表出する媒体と考えられている。一詩人が言葉を用いて詩を書くとき、それらの言葉は長い歳月の過程で、多くの人たちの手垢にまみれたものであり、彼らの物事への思いによって少しずつ変遷をしてきたものであるから、言葉の背後には広大な時間が広がり、彼方から引き寄せられた祖先の魂が現出する。しかも詩は一詩人の生の場における経験、日常的経験世界に亀裂のように訪れるものであろう。

 「世界」は始めから、一定の形で分節された存在秩序として、我々の前に現れている。
               「文化と言語アラヤ識」『井筒俊彦著作集9東洋哲学』

 ここでいう「文節」とは「区別」と同じような意味と考えてよい。さまざまな事物や性質、出来事などすべてのものは、「名」によって指示され、それぞれのものは区別され相互的な関係のなかで世界の秩序を構成していると考えられている。しかし東洋哲学はこのような常識的な解釈に激しく対立すると井筒氏はいう。

 荘子によれば、存在の存在リアリティーの究極的、本源的な様態は「渾沌」、すなわち、物と物とを分つ境界線がどこにも引かれていない全くの無文節である。
                                   「同」
 私たちの日常世界では、目にするもの(物や事柄)にはすべて名が与えられ独立して存在し、相互に伝達するためにはなんの不自由も感じない。しかしごく一部を除いて、東洋哲学では、それは虚妄であり、言葉の意味文節的働きが虚妄の原因であると考えられていると井筒氏は指摘する。

 存在の本源的真相は、コトバの意味分割機能の働きによって産み出された事物・事象の、幾重にも重なるベールに覆い隠されて、不可視、不可知である。
                                   「同」

 上記の文は、イスラームの聖言(ハディース)にある「神は、光と闇の七万の帳のかげに隠れている」という預言者の言葉を、井筒氏が記号学的存在論に翻訳したものである。井筒氏の使う、コトバというカタカナ表記は、ソシュールのいうlangage(ランガージュ)を意味する。私たちの生きる現象的世界の虚妄を打破し、絶対無文節者の立場に立ち、文節的世界(この現実世界)を捉えなおそうとする人たちが東洋哲学には顕著であると井筒氏は指摘する。これから読み進めようとする『意識と本質』には詳細な分析が見られるのでここでは省くが、「言語アラヤ識」につなげるためには必要なので最小限の説明にとどめよう。 私たちのいる現象世界はコトバによって名づけられた秩序のある世界であり、「一定数の意味文節単位の有機的連合体系であって、それらの意味単位は、それぞれ、本質的に固定されて動きのとれない事物、事象からなる既成的世界像を生み出す」(『文化と言語アラヤ識』)。井筒氏はロラン・バルトの「すべて言語なるものは一つの分類様式である。およそ秩序なるものは、区分けであると同時に、威嚇をも意味する」という、言語のもつファシスト的な機能を指摘する見解に、何をどう言うかだけでなく、何をどう見るべきか、つまり言語は一定の世界像を強制するものであると井筒氏は付け加える。しかしコトバを「社会制度的表層レベル」だけで考えるのではなく、言語つまり文化が表層次元の下に深層構造を持っていると考えることができると井筒氏はいう。深層構造における言語的意味は流動的であり、表層次元のように固定されていなくて、その「意味可能体」は絶え間なく生産され、「名」のせかいに出現しようとしているのであるという。これらを論理的に追求した人たちが東洋哲学の伝統のなかにいる。大乗仏教、唯識派の思想家たちであると井筒氏は指摘している。
そこで問題になっているのは「客観的実在世界の言語的虚構性」である。唯識哲学のテクストには「瞑想の修習に専念して、ついに形而上的照明の境に達したこれらの菩薩たちは、『内心の呟き』を離れては、いかなるものの存在を見ない。全存在世界は、ただ、内心の呟きのまま、現出するだけである」と記されている。
 分節性を持たないコトバは意味形象もあいまいである。「現勢化を待つ意味的エネルギー群として存在する潜勢態のコトバと考えられると井筒氏はいう。シンプルにいうと、やがて意味として現出しようとしているが、まだ可能性として秘めている意味エネルギーとしてのコトバである。意味エネルギーの実体的形象化したものを、唯識派では「種子(しゅうじ)」と名づけている。この「種子」のたまり場にあたるのが「阿頼耶(あらや)識」である。唯識派では、アーラヤとは貯蔵所の意味であり、意識下の場所を意識構造モデル的に借定すると井筒氏は説明する。唯識哲学では、意識構造を三層に分ける。一、感覚知覚と思惟・想像・感情・意欲などの場所としての表層。二、経験の実存的中心点としての自我意識の中間層。三、深層意識の領域。最後の第三層を、井筒氏は言語理論的に拡大して、「言語アラヤ識」と名づける。
 
 およそ人間の経験は、いかなるものであれ―言語的行為であろうと、非言語的行為であろうと、すなわち、自分が発した言葉、耳で聞いた他人の言葉、身体的動作、心の動き、などの別なく―必ず意識の深みに影を落として消えていく。たとえ、それ自体としては、どんなに些細で、取るに足りないようなものであっても、痕跡だけは必ず残す。内的、外的に人が経験したことがあとに残していくすべての痕跡が、アラヤ識を、いわゆるカルマの集積の場所となす。そしてカルマ痕跡は、その場で直ちに、あるいは時をかけて次第に、意味の「種子」に変わる。この段階におけるアラヤ識を、特に「言語アラヤ識」と、私は呼びたいのである。
                            同「文化と言語アラヤ識」

 意味「種子」が実現するのは私たち個人個人の意識内であるが、個人の経験を超えこれまで願い年月をかけて経験してきた人々の生体験の総体、ユングのいう集合的無意識に相当する「集団的共同下意識領域」において表象されるべきものであるので、「すべての人々のすべてのカルマ痕跡がそこに内蔵されている」と井筒氏は考える。「カルマが意味「種子」に変成する過程を、唯識哲学では「薫習」という術語によって、すこぶる特徴ある形で説明する」。「行為が人の心の無意識の深みにそっと残していく印象を、そこはかとない移り香に譬えるのだ」と井筒氏はいう。「種子」は条件がととのえば顕在的意味形象となって意識表層に浮かび上がってくるというのだ。つまりアラヤ識は「内部言語」であり、「意味可能体」がアラヤ識の闇に浮遊しているのである。社会制度としての言語の深層構造には、「創造的エネルギーにみちた意味マンダラの溌溂たる動きのあるアラヤ識]がその基底にあるが、井筒氏が主張するように、ここで注意しなければならないのは、主体の意識の「空化」(存在解体)が前提であるということである。

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