ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「ヒーメロス」33号6月1日発刊なる!

2016年06月02日 | お知らせ

詩誌「ヒーメロス」33号6月1日発行

 轍(わだち)――記憶から滑り降りた三つの断片  小林稔

            インド、ネパール紀行

 見舞い   朝倉宏哉

 靴下もはかずに階段を降りて   原 葵

 窓際   高橋紀子

 トイという使者   河江伊久

 長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』   

      日本現代詩の源流  萩原朔太郎における詩人像(二)  小林稔

 編集後記


「ヒーメロス32号」発刊なる!

2016年01月28日 | お知らせ

季刊詩誌『ヒーメロス32号』が近く発刊します。(2月1日予定)

詩作品

  青の思想 小林稔

  蹲る   高橋紀子

  夜の植樹 朝倉宏哉

  やがて新月の夜  原 葵

  トイという影   河江伊久

評論

  長期連載エセー『自己への配慮と詩人像』(二十四)

     48 日本現代詩の源流を求めて

        萩原朔太郎における詩人像(一)

          現代詩の定義 なぜ萩原朔太郎なのか 短歌から詩作への転向

          哀憐詩篇からの変貌 「人魚詩社」での前衛的な詩作

          イマジスチック・ヴィジョンとは何か

          錯乱の詩法 詩語の純度 光の渇仰 『月に吠える』と浄罪詩篇

          光ある芸術の真髄 宗教の始まりと抒情詩の隆盛

                          全40ページ 頒価600円

          (今回はブログでの掲載は予定ありません。)

  

 

 


ジャズと詩作

2016年01月19日 | お知らせ

  最近、あることがきっかけで私にジャズへの関心が戻ってきた。とはいえ以前と同様にアトランダムに聞いているだけなので、ジャズファンにありがちな詳しい知識はない。音楽の接点は高校時代から始まりまずはビートルズだった。
 その後、まもなく反戦のフョークソング、ジョンバエズやボブディラン、キングストントリオ、PPMなどの興隆があったが、ビートルズが「アビーロード」や「レットイットビー」のアルバムを出し解散が囁かれたころ(彼らにとって最高のアルバム制作であったと思う)、ニューミュージックのシンガー、キャロルキング、ジェイムステーラー、シカゴ、ドノバン、イアンマシューズなどたくさんのシンガーがアメリカで誕生した。
 当時(七十年前後)、渋谷の百軒店にある「ブラックフォーク」という店に、毎日のように通っていた。夕方六時までジャズを流し、それ以後はロックをかけていた。時たま、「ブラックフォーク」の二階にある「音楽館」でジャズを聴きにいっていたのである。そこで耳にしたのはマイルスの「ビッチェズ・ブリュウ」や同じマイルスの「フィルモアのライブ」であった。ジャズにロックのリズムを取り入れたものである。同じ渋谷の「ジェネウス」でもティックコーリアなども知ったのだが、五十年代、六十年代のジャズを知らずに、いきなり六十年代終りから七十年代のフリージャズと接近しているジャズに接したといえよう。
 七十年前後には日本中にジャズ喫茶があり、絶えず旅をしていた私は、地方の店を見つけるのが楽しみだった。当時下北沢に住んでいたのであったが、近くのジャズ喫茶「マサコ」(現在は廃業した)には毎日入り浸れていたものである。ただ単にジャズを聴いていたのではなく、詩の世界、言語が拓く未知なる世界を胸を熱くして思考していた。
 ロックからジャズ、ジャズからクラッシックと興味は流動していった。
 そうした四十年以上の私の音楽遍歴とともに私の詩作はある。そうして近ごろジャズを再び聴きはじめたのである。音が啓示する言葉以前のものが、私の全経験の基底から意識に言葉となって浮上するような到来を待っている。しかし、かつて聞くことのなかったマイルスの名盤も今ではとても感激的であるが、言語空間との接点では、七十年代以降のアフリカの熱狂を示唆する作品がいまでも興味を誘ってやまない。そういう意味で、マッコイタイナーの「アトランティス」というアルバムはレコードで聞いていた二十代のころより、今聞くほうが多くを感じさせてくれるようだ。
 


雑記、「生成する音楽、ビートルズ」 小林稔評論集『来るべき詩学のために(二)』に収録より

2016年01月17日 | お知らせ

生成する音楽、ビートルズ

小林稔

 吉祥寺にあったビー・バップというロックのレコードを聞かせる店の薄暗い部屋の窓から、朝の通りを行き交う人々を見ているのが私には快かった。発売されたばかりのビートルズのアルバム『アビーロード』が大音量で流れていた。一九七〇年のことである。
 六十年代後半は世界が変わろうとする気配を感じさせる時期であった。アメリカからヒッピー文化が日本にも紹介され、新宿の地下通路を若者たちが寝転んで占拠していた。六十八年には世界の大学生が旧体制を破壊しようと学生運動が起こった。私は地下鉄駅の出口を出て高校の正門に向かう途中、機動隊に追われて逃げる大学生の集団を眼にしたことがあった。このような世界状況の中で、ビートルズはアイドルを脱皮し変貌していった。コンサートは止め音の追求をスタジオで始めるようになり、アルバム単位で発表するようになっていた。今、ドキュメントビデオを見ると、スタジオが実験室になっていたことがわかる。即興のギター演奏で語り合い、それぞれの音楽の断片がスパークし、ひらめき、つまりその場で破壊と創造をくり返し、構成されていく。レコーディングを何度もやり直し終了するまで続くのだ。『サージャント・ロンリーハート・クラブバンド』のアルバムからアーティストの道を歩み始め、実際世界中の芸術家から、それまで否定的な評価を下していた芸術家からさえ絶賛されたのであった。
 やがてビートルズの解散という時期が訪れ、次の段階に入っていく。それはアーティストへと歩き始めた彼らにとっては必然的な、すべての芸術家の宿命として与えられる孤独の道程であった。解散後、ポールは彼の本来の持ち味であるポップ調のアルバムをいち早く発表したし、ジョンはギンズバーグ調の自己の叫びを激しいリズムで表現していた。ジョンはロック界の詩人であった。彼の中で音楽は生成し続けていた。つまり、人生と音楽を一体化させ、自分の人生を生き抜くことで真実を見つけ出そうとしていたのだ。アルバム『マザー』は傑作である。『イマジン』で社会的なテーマで世界に訴えたが、その後はアーティストとしての困難な道を歩んでいる。四十歳にならんとするまで、日本人の妻、ヨーコとの間に授かった子どもの養育に当たり、音楽から遠ざかっていた。四十歳になったとき、家族をテーマにした『ダブルファンタジー』というアルバムを発表した。喜びを持ってスターティングオーバー(再出発)しようと世界に向かっていくジョンがいた。経験からインスパイアされるほんものの芸術家がいた。しかし、発売されてまもなく一人の熱狂的なファンの銃弾を浴び命をなくした。
 七十年前後の時代の風潮の中で私は詩を書き始めた。私は、アーティストになってからのビートルズには大きく影響されたが、ビートルズから何を学んだのだろう。四十年たった今、私は、それは生成する芸術の力だと言うことができる。生き様が芸術を生み、その芸術が芸術家を変貌させていく。つまり生の変革なのだ。それは奇抜な生活をすることではなく、あらゆる固定観念を棄て自由を得てひたすら信じるように生きることだ。自由に生きられる環境を選び人生を歩くことで世間の多くの人たちと乖離することでもある。
 その後、様々なポピュラーミュージックに出会ったが、そのとき限りの消費物に成りさがっている。今や音楽も文学も売ろうとする商業主義が露骨に表わされ、買い手も喜んで乗せられているように見える。ビートルズのような存在は二度と現れないだろう。


「来るべき詩学のために(二)」のあとがき 小林稔評論集

2015年12月31日 | お知らせ

新刊・評論集「来るべき詩学のために(二)のあとがき

小林稔

 

後記

 

本書は昨年刊行した『来るべき詩学のために(一)』に続く書物として出版されるものであり、今後シリーズとして次々と刊行する予定である。内容的には、やがて書かれるべき私の「詩学」の準備であるが、芸術全般はもとより、哲学、政治、宗教と詩の領野は広範囲に及び、なおかつそれらとの独立を明らかにしていこうと目論んでいる。

 評論は、私にとって詩作と相携えて進むべき「生の営み」の両輪であるといえる。自由に精神を羽搏かせるポエジーに理論は枷となるものであるという考えも一方で存在するであろうが、束縛のないところにほんとうの自由もない。かつて井筒俊彦が『意識と本質』の後記で言ったように、「共時的構造化」を創り出すために「全体的統一もなければ、有機的構造性もない」東洋哲学を、「西洋哲学の場合には必要のない、人為的、理論的思惟の創造的原点となり得るような形に展開させ」たのであったが、私たちの詩の領野においても、かつての先人たちの詩作や哲学の思索を自らの詩作行為に継続させることは少なく、むしろ探求するより早くそれらから解き放たれるべく詩作する場合が多い。しかも、立ち去った場所が、西洋思想に示されるような伝統的基盤のない、つまり統一性のない基底であるならば、反抗も自由もない。まして西洋の思想界から自らの思想の限界の提示が私たちに知らされ、東洋思想の智慧が待たれているのである。

 今回の『来るべき詩学のために(二)』は、前回とフィールドが異なり、同時代の詩人たちの詩を論じ、現代詩の源流をさぐろうとするものである。時期的には二〇一一年の東日本大震災を跨ぐことになり、それぞれの論考に爪跡を残している。詩人は文明のもたらす必然から逃亡することなく、精神の自由であるポエジーの獲得(勝利)を目指していかなければならない。錨を解いたばかりのこの舟旅に、未熟な部分も多々あるであろうが、読者のご教示を待つばかりである。

      

       二〇一五年八月二十日