ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

テーレマコスの航海・小林稔詩集『遠い岬』2011年以心社

2016年05月05日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

テーレマコスの航海

小林稔

 

波頭の見えない静かな海が三日つづくと、決まって四日目に強風が

吹き荒れ、転覆の危機が訪れる。船の真ん中にある帆を降ろしたマ

ストによじ登っているので、大きな揺れで嘔吐をこらえなければな

らなくなる。

 

操舵室に入る男の背中をいく度となく見たのだが、円型の覗き窓に

は船長の姿がなく、私ひとりを乗せて船はひたすら進んでいる。

 

穏やかな海の日は船底に身を横たえて本を読む。一冊の哲学書『テ

―レマコスの航海』を三十七回読んだ。読むたびに知らなかったこ

とを発見し狂喜する。私に航海の解釈を示唆してくれるのだが、例

えば七百七十一頁には「真理、すなわち神の到来を待つ主体の聖性」

について記述されている。霊性が自己をこの上もない高みに引き上

げるには、宇宙の孤独を耐えなければならぬとある。

 

私をおいてあらゆる事象を崩壊させることが必要である。連続性を

否定することとは瞬間の実在のみを信じること。記憶は何ほどでも

なく、死すべき私たちに未来は不確かである。現在は砂山が崩れる

ように未来を巻き込んでいる。

 

世界の陸地を一巡りした思い出は、得体の知れない一匹の生き物の

ように変貌を終えることがない。郷愁のような想念に捉えられる一

夜、脳裡には若年の私が抱いた瞑想がよみがえり不思議な交感(コミュニケーション)

が始まる。例えば、不思議な砂漠の王の館、十七歳の王を襲った厭

世の想いが色濃く映し出された内庭に私は佇み、大理石の柱と柱の

隙間から見遣る泉を越えて、鏡に嵌められたシンメトリー空間に、

自己が呼び止められた。

 

土地を離れ、想いを遊ばせた建築物を棄て、やがて死が記憶さえ携

えることを許さないならば、一刻も早くそれらから身を遠ざけるべ

きではないだろうか。波に洗われていた断崖が小さくなり、ついに

視界から消えていく。私は記述する、精神のスクリーンに流れる一

片の雲また雲を。それが神に由来するのか、あるいは血筋にか、そ

れとも神学と哲学から剥がれ落ちた、詩(ポエジー)と呼び得るものに由来す

るのかは定かでないとしても。

 

私はどこにいるのか。夜の大海原では一片の塵に等しい私は、すべ

てから逃れるため、老いを加速させ、事物から遠ざけた。事物の価

値を正しく見定めるため、世界との負債から勝ち得なければならな

かった。ゆえに、流れ行く想念を記述し定義していった。唯一残さ

れたのは、自己からの自由ではなかったか。鏡に写る等身大の自分

に視線を注ぎ込むこと。こうしたすべての努力は、知において自己

に回帰することであった。神の(もし存在するならば)理性に授か

ることであり、世界の構造を探り出すことである。

 

もしも神が存在するとするならば! 神は退却したが、理性は消滅

したわけではあるまい。無限に遠くから、詩(ポエジー)が私たちに訪れると

き、神の気配を嗅ぎとることができる。理性によって私たちの変貌

が可能であるからである。

 

アレクサンドリアの港を出港してから数ヶ月が経った。この危険に

満ちた航海を私が難なく終えたらのことであるが、気象現象と健康

に委ねられた航海は、どこに向かって曳かれているのであろうか。

私の思考が船の操舵を導いていることは推測された。真理というも

のこそは、航海が辿るべき最後の港であろう。


「火」小林稔詩集『遠い岬』2011年以心社

2016年03月21日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

小林稔

         万物は火から生成し、またそれへ解体する。

                              ヘラクレイトス

 

 

 

鯉がアルミ箱の浅い水に尾をばたつかせる。

火粉を上げる炎が狭いお堂の真ん中で勢いづき

経文が女祈祷の口から怒声のように吐き出され、

炉のまわりにいくつもの赤い顔が数珠のようにつらなり

忍従している――隅々に視線をめぐらす幼い私がいる。

 

燃えている! 斜向かいの家から飛び出した老爺が

手術跡の喉穴から木枯らしのような音を発し、

かろうじて聴き取れた声。大通り百メートルつきあたりに火があふれ、

人だかりを影絵のように現出させた。

小学生の私は魅せらた、事の終末の美しさに。

家の台所で真っ赤になった窓ガラスが熱に耐えている。

 

―――職をなくした男が借金に追われガソリンを浴びて火をつけました。

 

液晶テレビの画面にニュースが流れ、私の耳と眼を引き寄せる。

「黒くこげて倒れる直前にあの人は口から煙を吐いたのです。」

インタビュアーの差し出すマイクに妻は朴訥(ぼくとつ)と語る。

男の焔の影像がふたたび脳裡をよぎり中空に立ち上げる、

引き裂かれた己の存在をかろうじて持ちこたえて。

 

十三階バルコニーの向こうに弧を描く海がひろがり

垂直に昇りつめる太陽。命あるものを廻る水。

その真昼の渇望に水はどこまで耐えられるか。

赤い太陽が忘れられた岬の先端に沈んでいく。

記憶の果てにさらなる闇。絶えざる夜戦がある。

沃土、すなわち経験の地層に撒種(さんしゅ)された未生のロゴスが千のコード

に群がり絡まる。私を呼びとめた言葉を紐解く者よ。あなたを求め、

死後も、ロゴスである〈私〉はさすらうだろう。

 

眼の一撃で世界は燃えつき凍りつく。生まれるまえに捥(も)がれた翼が

ゆるやかに痙攣する。あなたの後ろ姿に叫びつづける。

エクスタシーの波動に導かれ、私はすでにあなただ。


「自画像」小林稔詩集『遠い岬』2011年以心社

2016年03月20日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

自画像

小林稔

                   

 

 私には十四歳で死んだ兄がいると信じている。生前、母はそのこ

とを洩らすことなく逝った。兄が十二年を生きて私が生まれたから、

容姿は私の記憶になく、もうろうとした意識で兄を捉えていたに過

ぎない。だが今もって兄の気配に包まれて私の生は持続している。

 

あるとき、下腹部にザリガニの鋏で突かれたような痛みが走った。

その後もたびたび痛みは私を襲ったが、考えられる限りに遠い世界

から、何者かに呼ばれているような気がしてならなかった。

中学生になったとき、身体の奥に蜜のようなものが溶け出し流れ

ていくのがわかった。不安と陶酔の入り交じった日々を過していた

が、程なく私は確信した。兄は私の身体に寄生して、私の命を生き

ようとしていることを。私が十四歳の誕生日を迎えたときから、兄

は弟としての存在を主張し始めたのである。兄は私が生まれるまで

の十二年の歳月をしきりに責め立てる。私とは何者なのかという疑

惑にかられると、私はいつも自己喪失に陥るのであった。空の高み

に軀が浮いたと思った瞬時、車の騒音や周辺の人々の声で身体は重

力を取り戻し地上に叩きつけられた。さらに妙なことに、眠ろうと

寝台に身を横たえたとき、死んだはずの兄が私の身体から抜け出し

私にぴたりと軀をつけ、向かい合わせに抱擁して眠りに落ちる。

――一人で生きることに耐えてきたんだ。もうぼくは兄さんから

離れたくない。十四歳の弟になりはてた兄は、私の耳朶に唇をつけ

前歯に力を入れた。暗闇に溶け入るように、私と兄は互いに身体を

共有し始めるのだった。

日々に老いていく自分を鏡に写して、私は絶望に打ちのめされる。

加齢を知らない死者との就寝に訪れる交合。その度に私は死にはぐ

れる。弟である兄は、私の命がつき果てるまで生き永らえるに違い

ない。明けない朝を迎える日まで、私は真昼の雑踏に押し寄せる通

りすがりの仮面(イマージュ)の一つを、日ごと寝台に持ちこたえて、

私は弟をいつくしむ。

 

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「黙祷、海へ」小林稔詩集『遠い岬』2011年以心社

2016年03月19日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

 

黙祷、海へ。

小林稔

 

 

海原に突き出している桟橋から、還らない月日の闇に手首を入れて

記憶のかけらを絡めとる一個の起立した白い彫像のために。

 

逝くひとは忘却の淵のひろがりに沈む

此方の事象から放たれ船出していく

死者のかそけき頭髪のために。

 

寄せる波と微風にひたされて、午睡のとぎれかけた空隙に

赤いベルトを締めつけうしろ向きに立つ弟のために。

 

岩盤に敷物をひろげたように小さな花々が咲く

海に命を亡くした猟師たちの追悼碑の礎のために。

 

青春を奪還するため、アンダルシアの岸辺からソレントの断崖

オールドデリーの要塞からパドカオンの王宮と庭の仏塔へ。

捨て置かれた私たちの足跡のために。

 

きみの震える軀が私の横腹にしがみつく。眼下には薄水色の海上に

浮かぶ群島。ごらん、岩陰を裸で歩いているのは私だ。

降下するにつれ海は群青に染まり、未生のきみと滅後の私の

その約束された邂逅のために。

 

抽斗に眠る少年の銃。忘れられた銃口の夜にテロリストの声を聞く。

海の破片はてのひらから舞い散れ、悔恨と永訣するために。

 

水が流れている。脊髄を伝って落ちる。踝からあふれ河に注いで海

と交わるところ、たましひの鍵盤をうつ、喪われたピアニストの燃

える十指のために。

 

〈峡湾をガラガラ蛇のように這いながら疾走する列車に横殴る瀑布。〉

 

なんだ、こんなことだったのか。

帰路は異邦、行先は切り岸とこころえよ。

しずくを滴(したた)らし昇る太陽と別れいく海、その友愛のために。

 

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「ルートヴィヒの耳」小林稔詩集『遠い岬』2011年以心社

2016年03月19日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

ルートヴィヒの耳

小林稔

 

 

 

深夜、部屋でひとりピアノソナタを聴く。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの、

記憶から放たれた無垢な音の跳躍が始まり

歳月を紡いでいく旋律がページを繰るように

つぎつぎと変奏され、螺旋をつくりながら

翳の深みへと墜ちていくのであった。

だが一小節目を耳にした瞬間から、

今日は何かが違うのだ。

いつも支えていた足場が引き抜かれたように

意識がその先へ先へと墜ちていく。

 

ピアニストになぞらえ、身体が動く。

音の高低の距離を指先と腕の所作で計り、

想像裡の鍵盤の左右に十指を落とす。

突然の沈黙にそのまま指を宙に浮かせ、

軀の動きを同時に停止させ間を取る。

腹部に重心を据えペダルを踏んで、

左手の人差し指を白鍵に深く沈める。

稲妻のようなアレグロからアンダンテに移ると、

一音一音が右手の指から静かに浮き立ち留まる。

 

外套を脱ぎ捨てるように

自己から退却したベートーヴェンが、

最高峰の頂から地上の己に視線を向け、再び地上に還ると

創造者である己の運命を受け入れた。

芸術家とは詩人とは、群衆にあって孤立した存在。

不可逆なこの世の生を修練しつづける。

一日を一生の喩えに日々を迎え送る

芸術家像に詩人像に、己を近づける。

 

もうひとつのピアノソナタが流れている。

三連符がしづしづと闇にひろがりつづけ、

夜の静かな海に月の光がこぼれ落ち

波に運ばれ腕の入り江に寄せてくる。

次の楽章の凡庸さが何事もなく通過し終え、

いつのまにか第三楽章に転移する、

プレスト・アジタート、きわめて速く激情的に。

悔恨と焦燥の馬が地上の果てから果てを駆け抜け、

残された命を燃えつくそうと力走する音たち。

これはルートヴィヒの耳だ。

世界の事象を流動する音に変えた、ルートヴィヒの耳だ。

 

  すべての生きるものが死を遁れえないならば

  街々を越え、群衆を越え、山々を越え森を越え、

  国境を越え、河川を越え大陸を越え、海原を越え、

  突然に失速し、踵を返して振り向くと

  遠方に塵のように矮小な己の姿が見えるだろう。

  すべての生きるものが老いを迎えるならば、

  老いを加速させ疾走した時間を遡行せよ。

  生まれたばかりの嬰児の視線で世界を見つめよ。

 

今夜、いつも聴いていたベートーヴェンの音が、

初めて耳に触れたように意識の深みへと墜ちていく。

古井戸のつるべに石を降ろしていくと、

もう一方のつるべから花々が立ち上がるように

この一瞬が永遠の輝きに満ちあふれて。

 

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