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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

京都 瑞泉寺

2015-06-06 07:55:07 | 史跡を歩く
 京都三条大橋を西へ向かって渡り、少し行くと森鴎外の小説「高瀬舟」で知られる高瀬川が南北に流れている。三条小橋が架かっている。そのたもとに「前関白従一位豊臣秀次公之墓所」と書かれた石柱が建っており、瑞泉寺の山門がある。昔から、瑞泉寺の存在は知っていたのだが、なかなか足を踏み入れる機会がなく、今回、初めて中に入ってみた。お寺自体は、そう大きくはなく、本堂と地蔵堂、豊臣秀次やその一族のお墓などがある。入ってすぐの所に休憩所があり、豊臣秀次関係の新聞の切り抜きなどが飾られていた。
 瑞泉寺の創建は、江戸時代の初め、慶長16年(1611年)角倉了以が高瀬川を開削しているときに、秀次悪逆塚と書かれた石塔を発見し、その菩提を供養するために秀次の戒名から寺号を瑞泉寺としてその地に建てたのだという。

 

 発見された石塔は、その上に六角形の無縁塔を建てた姿で現在も残っており、その周りを、豊臣秀次の切腹の後、処刑された側室や子女などの一族や家臣の墓がずらりと並んでいる。豊臣秀次の一族の処刑の様子は、凄惨なものであったらしく、秀次の首を石塔に入れて飾り、そのもとで次々に処刑されていったのだという。その数は全部で49人に及ぶ。その名前が、墓所の横に名簿として掲げられているのだが、その名前や年齢を見ていると何とも痛ましい気持ちになる。子ども達と一緒にその母たちも処刑されているのだが、そこまでする必要はあったのだろうかと言う疑念が心の中に沸き起こってくる。この時の凄惨な様子は、大田牛一が書き残した「大かうさまぐんきのうち」に詳しい。豊臣秀吉の晩年の陰惨さを物語るエピソードの一つである。

 豊臣秀次は、1568年、豊臣秀吉の姉と弥助との間に生まれている。豊臣秀吉が関白になったころに、羽柴秀次となり、1591年豊臣秀吉と淀殿との間に生まれた鶴松の死後、秀吉の後継者として内大臣関白となる。翌年、1592年文禄元年左大臣関白と昇任する。この文禄への改元は、秀次の代替わりを世に示すために行われたと言われている。この前後が、豊臣秀次の絶頂の時だったのだろう。よく年には秀吉と淀殿の間に秀頼が誕生した。この時から、秀次の栄光は坂道を転がり始める。1695年謀反の疑いをかけられ、高野山へ追放の後、切腹となった。
 豊臣秀次の切腹については、殺生関白と言われ、豊臣秀次の所業に問題があったのだとか謀反を企てていたからだなどの理由が語られており、秀次の方に問題があったという見方が一般的であったように思う。そういえば、小学校の時林間学校で高野山に行って、豊臣秀次が切腹をした場所(金剛峰寺柳の間)を見学した時に、案内のお坊さんがそう説明していたような気がする。
 近年は、秀次に同情的と言うか、被害者的な見方が多いような気がする。結局、秀頼に家督を譲るために秀次が邪魔になったのだという見方に収斂するのかな。考えてみると、太閤となった秀吉が実権を握ったままとはいうものの、実際の最高権力者の地位に新たに秀次という人物がつけば、自ずと二重権力状態にはなっていく。両者の間が良好な間はいいが、それが破たんした場合、どちらかに悲劇が訪れるのは自明なことのように思われる。

 

 実際、蒲生氏郷の死後の相続問題では、こういった二重政権の弊害が明らかになっている。秀吉発給の朱印状と秀次発給の朱印状が喰いちがうという事態が起こっている。秀次の切腹後も幾人かの大名も処罰されかかっている細川忠興や浅野幸長、毛利輝元などである。秀次のもとにも一定、大名たちが集まってきていることが想像される。ちなみに、細川忠興、浅野幸長といえば、関ヶ原の戦いの東軍の主力となった大名である。この後の歴史を通観すると何か示唆するものがある。

 この3年後、1598年8月に豊臣秀吉が没する。晩年の秀吉は、非常に暗い出来事が多い。秀次の切腹とその一族の処刑もその一つである。一族が処刑されて、死体が埋められた場所を、当時の人は「殺生塚」、「悪逆塚」と呼んだという。始め、秀次の悪行に対してこう呼ばれたのだろうと思っていたのだが、むしろ、秀吉の所業に対してこう呼んだのではないだろうか。罪もなく若くして命を絶たれた一族の子女の哀れを留めるためにも。
 そして、その殺生塚があった場所に瑞泉寺の本堂が建っているのだという。

 

 豊臣秀次という人の一生と言うのは、たまたま豊臣秀吉と言う不世出の英雄の身内に生まれたというだけで、本人の意志とは関係なく秀吉の意向によって左右されたものであった。唯一、自分の力でなしえたのが、切腹と言う自らの命を絶つ行為であったと言えそうである。
 そう考えると人の運命の儚さを感じてしまう。秀次の墓石を前に珍しく、手をあわせ、線香に火をともし、瑞泉寺を後にした。

 

 境内にある宝篋印塔も秀次とその一族を供養するために江戸時代に建てられたものだという。合掌。

 

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