あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

野次馬根性と社会性と個というもの。

2018-06-09 | 日記
こちらではよくあることで、公園なり緑地なりに遊歩道などがあるのだが、その遊歩道に面している家が外から丸見えというケース。
これはまず犯罪の少ない安全な場所だということでもある。
そしてそこを通る人が不躾に他人のプライバシーを覗き込まないという条件が付く。
こちらの人というのは、その辺がとても上手いと思う。
だがそうでない人達もいる。
オークランドに住む知人から聞いた話。
その家はそういう遊歩道に面しているのだが、最近は中国人が多く、彼らが家の中を覗き込むのでいやだと。
あまりにひどいので天気がよくてもカーテンを開けられないと。
ううむ、分かるなあ、その悩み。
誰だって知らない人に家の中を覗き込まれたりしたら嫌だろう。
ひょっとすると動物園の中の動物はそういう気持ちなのかもしれない。
特に中国人というのはそのへんのデリカシーに欠ける。
レストランなんかでも人の皿を覗き込むような事を平気でする。
なんというか野次馬根性丸出しなのだ。
こういうことを書くとすぐに「そんなに悪い人達じゃない」とか「中国人の全てがそうじゃない」とか過剰に反応する人がいる。
そりゃ悪い人じゃないさ、無知とか無教養とかは悪ではない。
それに中国人の全てがそうじゃないのなんか百も承知だ。
だが中国人にそういう人が多いのも事実だ。
偏見を承知で言うならアメリカ人だってイスラエル人だって、善い人はいる。
ニュージーランド人だって、ひょっとしたら人の家の中をジロジロ除き込むヤツはいるかもしれない。
仮に、そういう人が多かったらどうなるか。
たぶん誰もが外から完全に見えないように塀を高くして、味気ない町になるのではないか。
ここでは公園に面している家も景色の一部として認識して、もし庭に家人がいて目が合えば軽く挨拶か会釈をするだろう。
ジロジロ除き込むような人は挨拶もしないし、人と目も合わさない。
そりゃ嫌われてもしょうがないだろう。
そこに人が住んでいることを知っていて、かと言って無視や無関心ではなく、なおかつ他人のプライバシーに踏み込まない。
そういう人の心のバランスがその町を造っていくのだろう。

これは中国人を例に挙げたが、日本人だって人のことは言えない。
それは有名人に対する態度をみれば分かる。
テレビに出る有名人というだけで、相手のプライバシーなんかそっちのけ。
ミーハーな野次馬根性丸出しで勝手に写真を取りまくる。
「写真を撮ってもいいですか?」と事前に聞く人がどれぐらいの割合でいるだろうか。
まあ有名人というのはそういう事に慣れているだろうから、腹も立たないのだろう。
でも考えて欲しい、もしあなたが町を歩いていて、知らない人にいきなり写真を撮られたらどう思うだろう?
撮られる方だって「写真お願いします」と聞かれれば「あいよ」と笑い顔になるだろうし、いきなり撮られたら「ナンダナンダ、こいつは!」となるかもしれない。
それがコミュニケーションというものだろう。
以前、仕事の途中でリッチー・マッコーに会った。
彼はとあるカフェでコーヒーを飲んでいた。
知らない人のために書くが、リッチー・マッコーはラグビーの国民的英雄、誰もが知ってるスーパースターである。
たぶん日本だったら周りがうるさいだろうが、ここでは静かな物だった。
そこのカフェにいる人全員が彼が何者か知っていて、適度な距離で放っておいてくれる。
たまにサインや写真を頼まれるが、それが済んだら必要以上に干渉しない。
その人のプライバシーに踏み込まない、というのが暗黙の了解みたいにできあがっていて、とても好感が持てた。
ここの人達はそういう人付き合い、コミュニケーションが上手いと思う。

知り合いから面白い話を聞いた。
ある動物園で七面鳥を孔雀のオリに入れた。
次の日、七面鳥は首を伸ばした姿で死んでいて、そこになおも孔雀が攻撃をしていた。
奇妙に思い別の七面鳥を再び孔雀のオリに入れてみた。
七面鳥は他人様の縄張りに入ったことでオドオドしてる、孔雀は侵入者が自分の縄張りに入ってきたので攻撃する。
七面鳥は「スマンスマン」と降参の意思を表す、首を伸ばす姿勢を取る。
ところが孔雀の社会ではその姿勢は「この野郎、ぶっとばしてやるぜ」という挑戦的な態度なのだ。
七面鳥の社会ならばその姿勢は「まいった」なので強い方もそれ以上の攻撃をしない。
そうやって「オレが上で、お前が下ね」という順位は決められるが殺し合いにはならない。
ところが孔雀の社会ではそういう理屈は通用しない。
哀れ七面鳥は「イテテ、イテテ。まいった、してるじゃん。」と言いながら殺されてしまう。
それって死んだ七面鳥には悪いけど面白いな。
僕はニワトリを飼い始めて何年にもなるが、鳥の世界でもいじめはある。
毎年、古い鳥は食っちまって若鶏を買ってくるのだが、必ず最初はいじめがある。
いじめられた方は降参のポーズを取り順位が決まり、弱い方も上手く逃げるので人間界のような陰湿ないじめはない。
それは同じ社会で生きていくためのコミュニケーションである。
極端な例え話で言えば、僕がいきなりヤクザの事務所へ何か大いなる力で連れてこられたとしよう。
僕の社会では降参のしるしがボクシングで言うファイティングポーズだったとしよう。
どうなるか?まあボコボコにされるわな。
そこで人間ならば話すというコミュニケーションの仕方があるので、話し合いで解決できる。
「スンマセン、あっしの生きてきた社会ではこのポーズでずっとやってきたので、攻撃しませんから。これが降参のポーズなんです、分かって下さい。なんであっしもこんな場所に連れてこられたのか訳がわからねえんです。どうぞお一つ、その事務所の隅の方に置いてくれませんか。なんにもご迷惑はかけませんから、お願いします。」
ということになるかもしれんし、ならないのかもしれん。

僕は若い頃に南米を旅したことがある。
アルゼンチンに行った時に往来で二人の髭もじゃの男が頬にキスをしあっていた。
その時はギョッとしたが、すぐにそれが向こうでは普通の挨拶だと知った。
まあ日本では考えられないことであり、NZでもそういう光景は見ない。
それは文化の違いであり、それをどう捕らえるかが問題だと思う。
「まあそういう風習だからいいんじゃね。」と捕らえるか「男同士でキスするなんて変!」と捕らえるか。
こっちだったら仲の良い男達ならハグぐらいならするか。僕も時々する。
「まあそういう風習だからいいんじゃね。」か「男同士で抱き合うなんて変!」どっちだろう。
韓国や中国では犬を食べる風習がある。
それを野蛮と言い張る人は、鯨を食べることをヒステリックにバッシングする白人と同じだ。
こういった『常識』というものは時代背景なんかによっても変わる。
要は自分と違う風習や文化やその他云々を受け入れられるかどうかである。
ただ自分もそれをやる必要は無い。
誰も僕に男にキスしろとは強制しない。
僕がここで犬や鯨を食べなくてもよい。
でも他人の文化を認める心は必要だ。
戦争なんて物は結局他人の文化を認めないところでは七面鳥と孔雀の話と同じだ。

自分と違う物を認める必要性、これが分かっているようでなかなかそうでない。
教科書では「みんな違ってみんな良い」などときれいごとを書かれてはいるが、それができないのも現実。
以前車椅子のお客さんを案内した時のことである。
その人はオールブラックスの試合を見に来て、時間があったので公園へ行った。
「こんな芝生の上でゴロって寝転がりたいなあ」
「やりましょ、やりましょ」と言って、旦那さんと僕で奥さんを芝生に乗せた。
奥さんは芝生を手で触って「こんな感覚、何年ぶりかしら」と言った。
「なんで?日本ではやらないの?」
「日本でこんな事したら、みんなジロジロ見るから嫌だ」と彼女は言った。
その話を聞いて僕は日本の今の社会が、身体障害者をどう見てるか見えてしまった。
自分と違う者を結局ジロジロ見るんだ。
違いと言う物を受け入れられない心の貧しい社会なんだ。
NZの公園では割と多くの往来があったもの、誰もジロジロ見なかった。
それが無視をするというわけではない、目を背けるわけでもない、たぶん健常者が芝生でゴロゴロしているのを見るのと同じ目つきで誰もが通り過ぎて行った。
僕が感ずるに、ここでは障害という物をその人の個性の一部ぐらいの感じで見る。
可愛そうにという感情が感じられない。
そして障害者も、自分は可愛そうな人です、という態度を取らない。
自分で出来ることは自分でやる。
それは健常者だろうが障害者だろうが関係ない。
けれどどうしてもできないことがあるのも双方承知だ。
そんな時はすごく自然に手を伸ばす。
それが愛である。
この国の社会はそういうところがあるので好きなのだ。

性の差別だって同じことだ。
その人達の世界での当たり前がこの世界では違う。
ニュージーランドは男同士や女同士の結婚が認められている。
昔は違法だったが数年前に憲法が変わった。
「いーじゃん、別に。誰に迷惑をかけるわけでもないし、本人達がそれで幸せならば」
そういうノリである。
最近では性同一障害(ってこの言葉自体、障害って決めつけちゃっているんだけど、他に言葉を知らないのでこのまま使う)の児童のためにユニセックスのトイレが学校にできた。
ここで各それぞれの個性というものが尊重される社会がある。
世間一般では男と女がくっつくのが常識だが、それに当てはまらない人も実際に存在する。
そういう人に逢った時に、自分の常識と違うからと言って化け物を見るような目で見るか、そういう人もいるんだなと受け入れるか。
日本の社会では前者が大多数だろう。
日本という国は島国なので単一民族で構成され(実際にはいろいろとあるようだが)個性というものが殺される。
周りの目を気にし、周りと同じ道を歩くことが無難、そういう社会だ。
長い歴史の中でそうやってできた社会性なのだろう。
自分達と違うものを排除する排他的なところが年齢性別に関係なく存在する。
自分達の常識に当てはまらない場合は、昔ならば村八分、今ならいじめである。
いじめというのは子供だけではなく、大人の社会にもある。
出る杭は打たれ、出すぎりゃ抜かれる。
僕は出すぎた杭なんだろう、日本の社会(会社)から追い出されてしまった。
単一民族による社会というものは良い面もあれば悪い面もある。
皆が同じ方向を向いているのだから、その方向性が正しければ健全な社会ができる。
だが悪い言い方をすれば烏合の衆なので、洗脳されやすい。
簡単に言えば、みのもんたがテレビであれが良いと言えば皆が買う。
権力者にとっては大衆を操作しやすい。
そうやって戦争も経験してきた。

ここで大切なのは個性というものを履き違えてはならない。
先ずは他人に迷惑をかけない、という事が大前提だ。
人を傷つけることや迷惑をかけることや公衆の前での無作法な振る舞い、その他諸々を個性と言って正当化してはいけない。
以前、日本で友達に誘われ、オカマの人の家で飲んだことがある。
その人は「あたしの好みは痩せている優男だから」と言っていたので安心して飲んでいたらトイレに立った隙に迫られてしまった。
これには困った。痩せている優男が好みだって言ってたじゃんか。
何とかその場を収めて帰ったが、こういうのも困るものだ。
僕としては迫られなきゃ、相手がゲイだろうがレズだろうがオカマだろうがオナベだろうがフライパンだろうが気にしない。
そちらで仲良くやっている分には全く問題は無い。
それは無関心という訳ではない。
ちなみに無視と無関心は、愛の境地から最もかけ離れた所に位置する。
愛の反対は憎しみや怒りではない。
自分と違うからと言って無関心になるのでなく、相手の個性を尊重して人付き合いをしたい。
でもお願いだから迫らないでね。

最近読んだ本で、男と女の間の人が書いたものがあった。
その人はその日の体調やホルモンの具合で、男っぽくなったり女っぽくなったりするそうな。
それはそれで色々と大変なことや面倒くさいことがあるのだろう、今の社会では。
そうやって自分の事をネタのできる人もいるが、ほとんどの人はそうではないだろう。
他にも体は女なんだが心は男の人が書いた本を読んだこともある、また逆もいることだろう。
性だけではなく、ビリーミリガンのように多重人格者という人も存在する。
そういう自分と違う、普通と違う人と出会った時に、人はどういう態度を取るのか。
それまでの付き合いと同じようにいられるか、それともそれを知ることにより態度を変えるか。
日本人は他人に干渉することが好きで、特に人のゴシップなんかが大好きだ。
噂話にすぐに食いつくのは、他人を見ていれば自分自身を見なくて済む現われだろうか。
他人の個性を尊重して無関心を装うのでなく必要以上に干渉せず、そして自分自身をみつめて生きていく。

サウイフモノニ ワタシハナリタイ。






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4 コメント

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雨ニモマケズ (おおや)
2018-06-09 07:52:38
ご無沙汰しております。
聖さんのブログの更新頻度が上がって楽しく読ませています。
今回の内容も、「うんうん」と読ませていただきました。

「いーじゃん、別に。誰に迷惑をかけるわけでもないし、本人達がそれで幸せならば」

このフレーズ、いいですねぇ。

これからそちらは寒さが厳しくなりますね。御身体ご自愛ください。
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Unknown (山小屋)
2018-06-09 09:41:17
ひさしぶりに聖らしい。文章が踊っているな。
返信する
ども ()
2018-06-10 03:41:26
おおやさん
コメントありがとう。
最近は仕事が少ないのでブログを書く時間があるのです。
お子さんも大きくなられたことでしょう。
次回はご家族でこちらへいらしてください。
返信する
踊る文章。 ()
2018-06-10 03:43:14
踊りすぎると毒がきつくなるので注意です。
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