日記

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葬儀・葬式、弔いのあり方について

2024年02月12日 | ブログ
最近、お葬儀を新興の葬儀社さんのところにてお勤めすることが多くなってきているが、やはり、老舗の方が、細かい配慮が行き届いていると感じることが多々である。

特に、公益社さんは、老舗の中でもそのように感じることがある。

もちろん、それぞれの会館でのスタッフさんの器量、質次第ということにもなるが・・個々人の経験、意識の差で、かなりの開きがあると感じる・・新興のところは、都度都度での(寄せ集め)チームみたいなカタチとなり、ギリギリで人を回しているようなところもあるから、常に何だか余裕がないように感じる・・

「弔い」が確りとできるかどうかは、亡くなった方自身にとってはもちろんのこと、遺族にとっても大切なものとなる。取り返しの付かないことであるため、「悔い」の残るようなものとなってはいけない。

今や、葬儀は、簡素化、省略化の流れにあるが、「弔い」の質を落とすのはやはり問題である。

もちろん、亡くなった本人が、確りとした「弔い」、「追善」をしてもらえるかどうかは、今世と過去世も含めての本人のそれまでの業の因縁、仏縁も大きくかかわるところではある。

一切悪趣清浄タントラにあるように、帝釈天の友達であった天子無垢宝光が、死後、天界から地獄へと堕ちてしまったものの、過去世の功徳や仏縁により、帝釈天ら友達からの追善供養を受けて、浄土へと至れるようになった例が示すところである。

自分自身の葬送は、自分自身のそれまでの行い次第による面もあるが、昔に比べれば、それぞれが、はるかに「弔ってもらえる環境」にあることは確かながら、それを有り難いこと、幸せなこととは考えずに、迷惑をかけるから、小さくていいから、誰も呼ばなくていいから、僧侶(導師)は誰でもいいから、または、僧侶は呼ばなくていいから、戒名・お経はいらないから・・と、「弔い」を軽視していく傾向にあるのは、誠に残念であると思うのである。

「弔ってもらえる」、「弔える」とは、本来、有り難いこと、幸せなことなのである。もちろん、僧侶にとっても「弔わせて頂ける」のは、仏法を扱わせて頂ける有り難く、尊いことなのであります。

それを簡素化、省略化して、などとは、どれほどにもったいないことをしているのか、もったいないお化けが出るような罰当たりな話なのである。


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