日記

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瓜生崇のカルト問題の考え方と親鸞理解・感想2・無分別智について

2024年07月12日 | ブログ
無分別智について浄土真宗の教義の中で議論する違和感の原因が、この動画を拝聴して何となくわかってきた。

浄土真宗は、往生や悟りへと向けた智慧のありようを扱うわけではなく、如来の慈悲の側面を重視した往生論、成仏論を扱うわけだから、本来、凡夫が悟りへと至るための智慧や空性理解を前提とした無分別智に関しての議論については、色々と誤解、誤謬がつきまとうのも当然なことなのである。

やたらと、空だの、縁起だの、無分別だのと言い始めたのも、如来の慈悲の面だけでなく、智慧の面についても、やっぱり仏教であるならば、当然に考えていかねばということであったとも言えるが、いかんせん、そんな智慧を不必要であることを前提とする、むしろ否定する教義であるのだから、そもそも矛盾的あり方に陥るのもやむを得ないわけなのである。

瓜生さんが、単純に分別には、悪い分別と良い分別があるが、一概に私たちの分別は全て良くないとして、良い分別までも否定するのは良くないと言っているのだとしたら、それは別に悪くはないと考えるのである。

また、仏教の智慧を無分別智であるとする場合の無分別とは、つまり、「一切空」と言う意味であり、その一切空を真に現量にて領解するための智としての正しい空性理解へと向けた分別までを否定してしまえば、如来の無分別智、仏智には至れないとするのが、基本的な智慧の修道のあり方となるのである。

その正しい空性理解へと向けた分別により、空性理解の段階的なあり方の中で、煩悩障の断絶、業の浄化、所知障の断絶と進んで、無分別智、仏智へと至ることになると考えるのである。

このため、智慧の修道を否定する浄土真宗においては、そもそも空、縁起、無分別の議論を教義、宗門の中で扱えば、おかしくなってしまうのは当然なことになるのである。

単に瓜生氏が、安易な無分別を否定して、正しい浄土真宗理解へ向けた分別を重視するようにと言っているのであれば、それはそれで理屈は正しいとは思うのである。

もちろん、正しい浄土真宗理解へと向けた分別が、独善の恣意的なものであれば問題となるわけです。

その正しい分別の基準は、浄土真宗の場合、親鸞聖人の聖教にはなるわけです。

岡林さんが問題としたいのは、聖教に書いてないことを、まるで聖教にそう書いてあるかのように仮託して、自分の主張が正しいかのように聴聞者や門徒へと押し付けていないかどうかということなのだとは思うのであるが、「疑心も信心決定へ向けてはあって当然なものだ」とするぐらいであれば、全くの問題ではない。「疑心あっても往生できるから大丈夫」とかなら完全にアウトだが、、

とにかく、もう1回、じっくり視聴してみる、、


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