日記

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第27回 仏教ミニ法話「浄土真宗における往生と成仏の根拠について」 浄土真宗 往生論 成仏論 菩薩 一生補処 瑜伽 加持 念仏 信心 獲信 菩提心 大菩提心

2024年09月03日 | ブログ
往生と成仏の根拠についてだけではなく、結局のところ、密教にせよ、浄土門にせよ、真宗にせよ、如来のお力を賜るための、その根拠についても考えなければいけないのであります。

そもそも成仏の根本因とは何かなのであります。

当然に菩提心です。

そして、往生、成仏のための如来のお力を賜る、その根拠も菩提心、それも、それだけを賜るための大菩提心でないといけないということであります。

菩提心を因となし、大悲を根となし、方便を究竟となす、が基本であるのであります。

現門主の勧めるように慈悲行の奨励のあり方も実は菩提心の育みのためにも本質的には大事なのであります。

菩提心を因となし、慈悲心を根として、方便(宿善・善知識邂逅・聴聞)を進みて、信心獲得、大菩提心に至るということでなければならないのであります。

第27回 仏教ミニ法話「浄土真宗における往生と成仏の根拠について」 浄土真宗 往生論 成仏論 菩薩 一生補処 瑜伽 加持 念仏 信心 獲信 菩提心 大菩提心
https://youtu.be/ZxY6LhkUOvk?feature=shared

一連の研究の結論付近

2024年09月03日 | ブログ
メモ

浄土門において自力は方便の扱いでありますが、18願に入れば捨て去るべき筏ということにはなります。しかし、筏がなければ彼岸には到達はできません。自力(特に宿善)は必要であり、また、方便→勝義にベクトルとなり、勝義→方便、勝義=方便ではないのであります。いずれにしても仏陀の身体を得るには必ずその根拠となるものがなければなりません。三阿僧祇劫の膨大なニ資糧の代替を信心一つに修めるということは、彌陀によりその代替となる資糧の代わりとなる力を頂くというものでなければならないのでもあります。そこが本来の他力であって、つまり、加持力を賜るということになります。要は密教です。18願の三心の狙いは、まさに身口意の三業を大清浄とし、一気に一生補処へと押し上げるというものであると言えるわけであり、しかし、往生まで凡夫のままに留まらせてあるのは、大慈悲を起こさせるためであって、輪廻、地獄の境涯にあった身を忘れさせないためでもあります。救うべき者は己から他へと完全に変換させるためであり、本当の意味での自利、自力を捨てるのが、まさにこの時になるのであります。機の信心を大菩提心へと転換させるのであります。このあたりは密教の真骨頂でもあり、先のコメントでも述べてあるように浄土門は密教と会通して考えるのがやはり正解となるのでしょう。お花畑的に彌陀本願に救われる、ありがたや、おまかせや、などとは全く違うものであり、また、絶対他力、全分他力も間違いであるのであります。どこまでも自利である立場からその立場を利他へと大転換させる、その他力、つまり、加持を賜るための信心であると考えると良いでしょう。まさにご慧眼の通りです。大菩提心への転換、そこが他力であるのであります。流石であります。合掌


まあ、一連の研究の結論付近でもあります。

真宗はシンプルな密教と考えると色々と分かりやすくなります。いずれにしても顕教成仏における足りない資糧を如来により代替して頂ける根拠を示さないといけません。密教においては、大欲、性欲を悟りへの大楽に転換させていくためのありようが示されてあります。理趣経等。もちろん、疾速な成仏に向けての三業の清浄には、如来のお力に依らないといけないところがあります。同様に阿弥陀如来の他力により成仏を成すわけですから、真言行者と念仏行者には、同レベルの機を必要とするのでもあります。それが大菩提心(衆生をいち早く救わんがための悟り)であるのです。一連の研究の結論付近、信心は大菩提心の生起とあるべきということです。機の否定のありようから肯定へのありようへの転換になるわけです。獲信者は大菩提心を得た者ということになるのであります。自力や他力やとこだわらずとも慈悲の実践に取り組む者となるのは言うまでもありません。真なる善知識がどのような者かもわかるものとなります。まさに一生補処の菩薩というわけです。叡尊や忍性、自力、他力とこだわらず、慈悲行への真摯なる取り組みにそのあり様も見えてくるものでもあるでしょう。そのような者へと導く者こそ本来、宗祖として尊崇されることになるわけでもあります。親鸞聖人の教えも菩薩を生む教えであってこその仏教であるわけです。菩薩を生まずに、異安心、無帰命安心、堕落者を生むようになっている現状は宗祖への冒涜と言えるわけです。現門主もこのように憂いているならば、さっさと新しい領解文などは廃棄させて、菩薩を生むように教学を転換させればと思うわけであります。宿善も信心、大菩提心に向けては大いに必要なのは言うまでもありません。