一昔前の空華派の宿善他力説は、やはり、如来の照育や調熟の光明のはたらき(他力のはたらき)によるものとして、自力的な行いをある程度、意義のあるものとして是認していたということがあり、そのため、諸善万行も信心獲得の因縁になるものとして、完全に否定されるものではなかったと言えるのであるのでしょう。
しかし、桐渓順忍和上は、空華派の宿善他力説は、絶対他力に反するものであるとして、宿善における一切の自力的な行い、諸善万行を完全に否定する立場へと宿善説を変容させたと考えられるわけであります。つまり、宿善は否定されるべき自力として、宿善自力説を取ったとも言えることになるわけです。
以後、宗門は一切の自力的な行い排除の徹底(絶対他力)へと向かうことになったわけですが、しかし、その反動によるものが、つまり、空華派の本来の宿善他力説への先祖返りが、現在の「新しい領解文」へと繋がっていくことになっているとも考えられるわけであります。
しかし、空華学派ではなくて、絶対他力への反動として、石泉学派の学説が強い影響を与えて、今の「新しい領解文」へと繋がっている面があるのではないかと考えている拙見解とは、やはり少し異なっているということになるのではあります。
次回がまとめとなるようですので、改めて注目したいと思います。
しかし、桐渓順忍和上は、空華派の宿善他力説は、絶対他力に反するものであるとして、宿善における一切の自力的な行い、諸善万行を完全に否定する立場へと宿善説を変容させたと考えられるわけであります。つまり、宿善は否定されるべき自力として、宿善自力説を取ったとも言えることになるわけです。
以後、宗門は一切の自力的な行い排除の徹底(絶対他力)へと向かうことになったわけですが、しかし、その反動によるものが、つまり、空華派の本来の宿善他力説への先祖返りが、現在の「新しい領解文」へと繋がっていくことになっているとも考えられるわけであります。
しかし、空華学派ではなくて、絶対他力への反動として、石泉学派の学説が強い影響を与えて、今の「新しい領解文」へと繋がっている面があるのではないかと考えている拙見解とは、やはり少し異なっているということになるのではあります。
次回がまとめとなるようですので、改めて注目したいと思います。